愛、自由、幸福



それは実現不可能。
愛、自由、幸福は、空想として
この世界に現れます。



けれど空想の愛(つまり執着)、
空想の自由(つまり我が儘)、空想の幸福(つまり欲望)などは、
いわば真理の呼び水として働きます。




わたしが
歩いていたとき
躓いた、その石は、
なんと、自然に
愛という文字が、
刻まれていました。

わっ、わたしは愛に躓いたのです。

これは大切に
しなくてはなりません。
ギルバート先生は
その朝、生徒たちに、どこか自慢げに
見せました。

ちらほら雪が舞う深い秋のことです。

さて、
神という文字が書かれた石も
まあ誰かを
躓かせようと、百億年も
そのへんに転がっていました。

もうすぐ桜が咲く早春のことです。

学校帰りの
アルバート少年が
通りかかり
その石を河に蹴り込み、
走り去りました。


線

 ある人が自分なりの辞書をつくろうと思いました。いそいそ机に向かって、いきなり困りました。最初の言葉は、愛、なのです。なにも書けません。考えることもできません。それで鉛筆を握りしめたまま諦めてしまいました。でも考えられないことに気がついたなら、まあまあの成果です。

 人は生まれただけで、物質、感覚器官つまり身体、感覚、感情、意識があります。それらを誰も、自分で創った覚えはないでしょう。

 きっと与えられているのでしょう。この創った者、与える者を素直に神と呼びます。それは認めない、生命は自然現象だという意見もあります。これら異なる意見は対立する必要はありません。どちらも自分の知らないこと、勝手な空想を根拠に主張していることは同じだからです。また、どちらにしても違う働きをするのではありません。人に、自己、愛、自由、幸福を与えようとしています。

 というのも生まれただけの人には、まだ愛、自由、幸福などは与えられていないからです。自己も与えられていません。これは観察できます。

 たとえば真実の自己を、至上の愛を、完全な自由を、不滅の幸福を、真理と呼ばれることを人は求めます。ということは、まだ得てないのです。(もちろん求めない人も得ているわけではありません)。それらは永遠に求め続けても得られないのに、条件さえ整えば、いつかどこかで実現できると思ってしまいます。そんな空想として人に現れます。

 たとえば人が何かに満足することによって幸福であると思うとしても、いつも、もっとおおくを求め続けるのではないでしょうか。つまり、それは永遠に実現不可能です。そして人は、そんな幸福が、空想であることに気がつかないように、(たとえば不幸であることに依拠して、いつか幸福は実現できると考えて)努力をしています。

 けれど空想の自己(つまり自我)、空想の愛(つまり執着)、空想の自由(つまり我が儘)、空想の幸福(つまり欲望)などは、いわば真理の呼び水として働きます。それらは影であり、影は、影だけではあることはないからです。そして人には誰も、そんなことには満足せず、真理を求める強い意志があります。

 そんなものでは満足しない強い欲求があります。もし影で我慢しようとするなら、その影で我慢しようとする、が観察されます。たとえば人は、あまりに貧しくなければ、そこそこ満足しようとすることもできます。けれど現実はどうであっても、つまり豊かでも貧しくても、どちらでなくても人は絶対を求めることができます。そして、空想の自己、愛、自由、幸福は永遠に実現不可能だけれど、ほんとうの自己、愛、自由、幸福、つまり真理と呼ばれていることは、この今にも実現可能です。

 ほんとうに真理を得るために、この世界に人は生きます。人は学び、そのことに世界は協力しています。もし世界の仕組みとして、あのように、このように、人があることができるようになっていなければ、どのようなこともできないでしょう。

 それでも人が自己を、愛を、自由を、幸福を求めようとするなら、なにが何でも、絶対に絶対に絶対に、求める必要があります。どんなことかも知らないことを求め続けることができる強い気持ちが必要です。たしかに物質の、感覚器官の、感覚の、感情の、意識の矛盾を、度外視しても求め続けるほどの、最高の素直さが必要です。


線

もし、あなたが神だったら、
人を聖なる者にするために
昼も夜も、休みなく働き続けるでしょう。
そして、それゆえ、
なにも恵まないと責められるでしょう。

もし、あなたが神だったら、
晴れさせ、曇らせ、雨ふらせ
善人にも悪人にも、等しく恵みをもたらすでしょう。
そして、それゆえ、
不公平だと言われるでしょう。

もし、あなたが神だったら、
楽しいことも、悲しいことも、
信仰も、不信仰も、人に公平に与えるでしょう。
そして、それゆえ、
尊重されないでしょう。

もし、あなたが神だったら、
人が健康でも、病気でも
善でも、悪でも、尊重するでしょう。
そして、それゆえ、
愛されないでしょう。

もし、あなたが神だったら、
植物も、動物も、
子供も老人も、愛して生かし、殺すでしょう。
そして、それゆえ、
不条理だと訴えられるでしょう。


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イエス・キリストは言います。
「あなた自身を愛すように、あなたの隣人を愛しなさい」。
これは奇跡の命令です。

 とあるキリスト教会の人が布教活動で訪ねてきました。すこし話をしたあと、愛とはなんでしょう。と聞いてみました。すると、「神が私を愛してくれるから、私は私を愛せます。そのように私は隣人を愛さねばなりません」。と言いました。うん、なかなかいい答えです。でもそれは数年前に、わたしが彼らに言った、そのままの言葉でした。

 なんとなく愛は一種の感情、誰かを好きなこと、だと思われているようです。そうなら愛という名前をつける必要はありません。そんなものなら、犬とか猫とか鉱物とか、物質と同類です。それは愛ではありません。また暖かいものとか、厳しいものとか、なんとなく分からない何かとして想定されているようです。たしかに愛は人が考えたり、扱ったりできる対象ではありません。人の対象は、物質(森羅万象と、感覚器官つまり身体)、感覚、感情、思考です。これで総てです。このどこかに愛はあるわけではありません。

 それで人は家族愛、恋愛、友情、親切、執着などを愛と呼んで代用します。それを愛の影として取り扱います。それでは不満なはずですが、気がつかないようです。たとえば家族愛さえ実現は難しく、さらに永続、絶対を求め続けるからです。これは、どんなに真摯でも欲望です。けれどなお求め、ほんとうに愛を求め続ける人に、聖書の神は言います。イエス・キリストも繰り返します。

「あなた自身を愛すように、あなたの隣人を愛しなさい」。これは奇跡の命令です。

 あるところに岩がありました。太陽が昇り、沈みます。百万年もそうでした。あるときふと、その太陽を暖かい、と感じました。奇跡が起きたのです。感覚が生じたのです。もう岩は岩であることができなくなりました。あるところに植物が小さな花を咲かせていました。百万年もそうでした。植物は感覚の世界に生きています。あるとき花粉を運んでくれる風に、嬉しい、という感情が生じました。奇跡が起きたのです。もう植物は植物であることができなくなりました。あるところに動物がいました。百万年もそうでした。動物は感情の世界に生きています。あるとき思考が電光のように走りました。奇跡が起きたのです。もう動物は動物であることができなくなりました。そして人が百万年も嫁(とつ)いだり娶(めと)ったりしています。

 たとえば大きな家に住み、豪華な食事をして、美しい恋人がいて、たくさんの趣味があって、悪を行わず、豊かに暮らすことが、自分を愛すことでしょうか。そうだ、というのなら反論はしません。さらに人はみな自分が好きです。快適に暮らすのが好きです。そして隣人も、本人にとっては自分です。だから自分のように隣人を好きになり、隣人に施すことが、隣人を愛すことでしょうか。そうだ、というなら反論はしません。

 けれど、けれど、けれど、人が愛を探すのではありません。愛が人を探すのです。もし愛が意識の対象になるなら、それは空想です。こんなことが愛だ、あんなことが愛だと言うなら、それは空想です。


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そんなもの見ちゃだめよ。
とママがテレビの
ラブシーンを消そうとしたら、
男優が、
こんなに俺は
お前を愛してるのに。と最後の抵抗を試みた。

ちょっと待って、
と女優も叫んだけど。もう電源は
切られた後だったので、アルバート少年がママに言う
声だけが部屋に大きく響いた。
違うんだってば。

みんなは自分が愛したり、
笑ったり、怒鳴ったり
泣いたり、悲しんだりしていると
思っているんだろ。
でも逆なんだってば。

見たり、聞いたり、歌ったりしてるから人は
そういう中心があると、
あらかじめ前提にしてしまって
自分があると空想してしまうだけなんだ。

それで空想の自分が、愛してるだの
愛してないだの、神さまを信じてるだの、信じてないだの
言ってるけど、それもまた空想なのさ。

いったい誰かが神さまの存在を信じても、信じなくても、
それが神さまの存在に
なんの影響があるというんだい。人が神さまを
愛するのではなく、神さまが人を愛するんだ。

うん。ほんとうは俺もそう思う。私も思う。
と男優と女優は声を揃えて言ったけど、
テレビの電源は切られたままであった。

それを聞いたのは、何も知らないギルバート先生だった。


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 ある少女がバスで席に座っていました。そこに、お婆さんが乗ってきて、その少女の前に立ちました。なぜ席を譲ってあげないのだろうか?満員の乗客は、一斉に少女を見つめます。そのままバスは走り続けて、いくつか先の停留所に着きました。すると少女は立ち上がり、びっこで、出口に向かって歩き始めたのです。総ての乗客は、とても恥ずかしい思いをしました。ほんとうに、あった話です。そのバスから降りた少女は、笑顔で振り向いて、スキップで去っていったそうです。

 この世界が、夢、また幻だとしても、問題がありません。少女として、乗客として、お婆さんとして、人生に乗り合わせても、どうでもいいのです。健康、病気、裕福、貧乏、どうでもいいのです。人が自己を得るためなら、なにも不公平はありません。しかも方法は世界そのものです。特別な技法も不要です。なにが何でも、たとえ夜中だとしても、必要があって人の家の戸を叩き続けるように、求め続けるのです。すると突然、戸が開きます。世界は言います。

 わたしよりも、人は優れた者になりました。これからは、人に仕えることができます。ただ人が成長するためだけに、世界は存在したのです。ほんとうに山が動いて、海にはいるように働いたのです。それなのに、世界は感謝も求めません。どのようにして、それを行ったか自慢話もしません。また人がそれを知ることさえ不要です。知られないものとして、よく配慮され創られているのでしょう。人は知ってると思うことに、依存するからです。なにかを知っているなら空の鳥、野の百合より劣った人です。太陽を拝む倒錯した人です。

 イエス・キリストは教えます。「天の国は、ある人が地に種を蒔くようなものである。それは夜昼、人が寝起きしている間に成長する、しかし、それがどうして、そうなるのか誰も知らない。地はおのずと実を結ばせるもので、初めに芽、つぎに穂、つぎに穂の中に豊かな実ができる。すると、すぐに収穫する」。

 まず人は必ず種を蒔かねばなりません。収穫するためです。それは豊かな生活、楽しい家庭など、どんなことでもありません。それなら人は方法を知っています。どうして成長するのかさえ知らない、それは、どんなものでもない自己です。人が自己を得ることが天の国です。もし自己を得ないで、どこかにある遊園地のような天の国に行ったとして、それが何になるか疑問です。

 そして人は自己が、いつ収穫できるのかを知りません。途中の段階を見ることはできません。たとえば半分熟した状態は、もしかしたら無意識は別かも知れないけれど、意識は知ることはできません。あることは自我であり、あることは無我であることは不可能だからでもあります。あることは不自由であり、あることは自由であることは不可能だからでもあります。あることは不幸であり、あることは幸福であることは不可能だからでもあります。それは一挙の収穫であらざるを得ないのです。あることは愛でなく、あることは愛であるという、そんな人は、ほんとうの愛を拒否しています。そしてそのことを自分に隠しています。なにかが真理、なにかが不真理であるというのも理論破綻です。

 とあるキリスト教会の人が布教活動で訪ねてきました。そこで、神は悪魔を愛している(なぜなら、あなたの敵を愛しなさい、と聖書は言っています)と言ってみました。彼らは、長い間、姿を見せませんでした。


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わたしは星空です。

あるときは淑女になって
美しい森の中のガラスの豪邸に住みましょう。
そして言うのです。

わたしは100億円持っています。
1円を落としたら拾います。
それは100億倍すると全財産なので貴重です。

あるときは浮浪者になって
街で死ねば犬に食われ、野で死ねば鳥に食われましょう。
そして言うのです。
わたしには1000円しかありません。
それは僅かな金です。そのまた僅か1000分の1である
1円は落としても拾う価値がありません。

あるときは月光仮面になって言うのです。
それは「風は知ってる原理」の限界だね。
では「風は知らない原理」を適応してごらん。

そんな遊びにも飽きてしまったら、
とても美しい500羽の蜂鳥に生まれ変わって
花から花へと蜜を吸いましょう。

なんて素晴らしい不思議な世界。
けれど総ては、いずれ名前も告げずに人のために
喜んで去っていくのです。

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イエス・キリストは教えます。
「よくよくあなたに言っておく、だれでも新しく生まれなければ、
神の国を見ることはできない」。

 ある人がパンを盗まれました。飢えて死にました。最後の審判の日に訴えます。あの男です。有罪です。わたしを殺したのです。すると神は言います。いや、あの男は悔い改めた。わたしは彼を許した。いつまでも怒り、憎んでいる、あなたは何だ。

 なんと被害者である、あなたが、有罪になってしまいました。よくあることです。たとえば人から侮られた劣等感をバネに、出世を望む人がいます。あるいは成功、あるいは失敗します。その結果、侮った人を許せるでしょうか。いいえ。もし許すとしたら、そんなこととは関係なく、関係ないこともなく許すのです。

 イエス・キリストは教えます。「よくよくあなたに言っておく、だれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」。

 そのためには、まず死なねばなりません。そのことに気がついて、恐れた人が、慎重に核心を避けながら、「人は年をとってから生まれることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか」と答えました。

 これは、もしかして人は輪廻しますか、という質問かもしれません。けれど、なんど肉体が新しく生まれても無意味です。新しく生まれるとは、自我の死を意味します。いつまでも、怒り、憎むことは、自我の働きです。それは人に奉仕するはずの、感情などを人よりも上位に置いて、倒錯し、崇めることです。(逆に言えば、自分より、ほかを大切にすることを学んでいる状態です)。その根本には損得があります。そのために闘争があります。悪の偶像崇拝です。新しく生まれることは、たとえば魂を交換するほどのことで、人には無理でも、精霊にはできます。育って死ぬために自我はあります。

 イエス・キリストは、恐れる人に、肉体の死ではなく、完全な変化であると教えます。「肉から生まれる者は肉であり、霊から生まれる者は霊である。あなたがたは新しく生まれなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うにはおよばない」。

 この地上では、どこからどこまでも憎しみ、怒り、恨み、が渦巻いて消えることはありません。そのように何か、誰かを嫌悪するなら、それを愛しむ気持ちも自然に現れてくるでしょう。人とは、そのようなものです。その両方とも自我です。新しく生まれるには、それが完全に成長し、自我が死に、霊から生まれるしかありません。自我は捨てやすいために悪いのです。

 さらにイエス・キリストは、自我が死んだ状態を親切に教えます。「風は、どこからきて、どこにいくのか知らない。霊から生まれる者も、どこからきて、どこにいくか知らない」。

 けれど、どのような方法で新しく生まれるのか、誰も知りません。もし原因や理由を知っていたら、それは自我でしかないのです。それは、ただ瞬間に完全に起こります。それに神の国を見るのは、知る、より優れた者です。そうすれば、どこから、どこに行くのではなく、そのように霊はある、と言えます。また、それ自身が何であるかも知らないのです。


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戦士

イエス・キリストは教えます。
「…あなたたちに言うが、不正の富を用いても、
自分のために友だちをつくるがよい…」。

 とても汚い方法で、ある人が大金を稼ぎました。その能力を悪い友人たちに自慢しました。それでも多額の税金を収めました。もしかして彼は善いことをしたのでしょうか。ある人が清く正しく貧しく生きました。わずかな税金も収められない年がありました。彼は悪なのでしょうか。これは善、これは悪、と誰が決められるでしょう。

 ほんとうに良い結果を得るには、どうしたらいいでしょう。イエス・キリストは教えます。「この世の子らは、その時代に対しては、光の子らよりも利口である。あなたたちに言うが、不正の富を用いても、自分のために友だちをつくるがよい。そうすれば富がなくなったときに、あなたがたを永遠の住まいに迎えてくれるであろう」。

 これを実際に行うと、永遠が得られるかもしれません。たしかに友人のために努力する人さえ少ないのです。たぶん友人も神の前で弁護してくれるでしょう。でも不正を働くとき、ほかの人を苦しめたのです。これを知ると、恥じて、弁護できないかもしれません。また総ての富は不正だという意見もあります。そうだとするなら金で天の国の分譲地を買うようなものです。それでは駱駝が針の穴を通ります。イエス・キリストの譬え話は、その物語としての是非を問題にしているのではありません。

 この不正の富は、悔い改めのことです。覚醒のことです。どんな人にも悪の可能性があります。けれど、その悔悟、理解、を初めから人は知りません。それは悪を実行して、それを反省した結果である、つまり不正の富です。すると次の機会には、友人に対して不正をしない、という成果を得ます。これを人は、善によって得ることができませんでした。悪が役に立ったのです。逆に言えば、どんなささいな悪をしたとしても、人は、悔い改めねばならないということです。覚醒せねばならないということです。

 これは人にはできないけど、火と精霊が、罪を焼き尽くす捧げ物にしてくれて知ることができます。意識された悪だけではなく、無意識、可能性の、罪が燃え尽きると人は永遠を見ます。定義することもできない、実体もない、その境界もない、善悪から、人は学ぶことができます。


線


 よい麦の種を蒔いた畑に、敵が夜に忍び込み、毒麦の種を蒔きました。それに気がついた召使が主人に、毒麦の苗を抜きましょうか、と聞きます。すると主人は、よい麦の苗も一緒に抜くかもしれない。両方とも育つままにしておこう。収穫のとき、毒麦を集めて焼き、麦のほうは集めて蔵にいれよう。と答えます。「毒麦のたとえ」の大略です。

 これにはイエス・キリスト自身の解説があります。敵とは悪魔、毒麦とは悪人、収穫とは世の終わりのことです。「耳のある者は聞くがよい」と言われています。悪人は善をしても無駄でしょうか。それなら、善人は悪をしてもいいのでしょうか。

 もともとの悪人は、隠しても、いずれ本性をだします。そうしたら滅ぼそう、という意味ではありません。人は悪をします。潜在していた悪が顕在します。それを理解します。その結果、意識でできるなら無意識でも、つまり全体で焼き尽くされます。

 とあるキリスト教会の人が布教活動で訪ねてきました。たしかに、あなたたちは教会の信者かもしれません。と言うと、はっきり頷きます。けれど、もしかして、あなたたちはイエス・キリストの信者ではないのではありませんか、と聞いてみました。彼らは、二度と現れませんでした。


線


点数をつけます。

ええ、恋人を裏切ったなら、765点です。

盗みは、321点です。

はい、交通事故で123点です。

嘘をついた、876点です。

殺人ですか、1億点です。

えっ、お婆さんにバスの席を譲ってあげた?なら、1点、引けます。

これで総てでしょうか?では
お会計ありがとうございます。
それでは恐れいりますが左の道を、
ずーと、ずーと、ずーと、お行きください。
そういたしますと灼熱の炎が、永遠に燃えさかっております。
そこで、じゅっと、お燃えになってください。はい、
次っ。

やったー。
すでに燃えているようです。
ほんとうに頑張りました。
でも、ちょっと燃え残りがあります。
しかたありません。わたしが、
ふーふーしてあげましょう。
わたしの喜びです。右の道です。うんっ、
次っ。


線

イエス・キリストは教えます。
「…誰でも持っている人は、さらに与えられるが、持っていない人は、
持っているものまでも取り上げられる」。

 ある夫婦がいました。あるとき妻が、夫に、素敵な贈物をしました。すると夫は言います。でもね、これって僕の給料から買ったんだよね。結局、自分で自分に買ったようなものなんだよね。妻は唖然として、声を失いました。ほんとうに、あった話です。

 そこで神は夫に言います。どうだい。人生を楽しんでいるだろうか。でも太陽も、地球も、妻も、子供も、犬も、あなたが昨日の夜に飲んだ水も、わたしが創ったのだよ。あなた自身もね。ここはひとつ、返却してくれないか。

 イエス・キリストは、天の国を教えます。ある人が旅行に行くとき、3人の僕の能力に応じて、それぞれ5タラント、2タラント、1タラントを預けました。5タラント預かった僕は、それを元手に商売して5タラント、また2タラント預かった僕は2タラント儲けました。1タラント預かった僕は地に埋めておきました。

 かなり後、主人が帰って、儲けた2人の僕に「よくやった。すこしのものに忠実だったから、おおくのものを管理させよう」と言いました。1タラント預かった僕は、「ご主人様は、蒔かないところから刈り取り、散らさないところから集められる厳しい方です。1タラントを地に隠しておきました。お返しします」と答えます。

 すると主人は「銀行にでも預ければ、利子を得たはずだ。この1タラントを取り上げて、10タラント持っている者に与えよ、誰でも持っている人は、さらに与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる」。これは、「タラントのたとえ」の大略です。タレントの語源とも言われます。

 この主人が旅行に行って、帰るまでが、人の一生です。その間、人は課題を与えられます。それで利益を得る、つまり成長する必要があります。でも成長することを拒否して、頑固に閉じこもる人がいます。つまり地に課題を埋める人がいます。けれど拒否ということには、拒否の拒否、つまり可能性ということが、含まれることに気づく必要があります。もし人が固執せず、泣いたり笑ったり悩みながらも生きるなら、そうと知らなくても、あるていどの成長はするでしょう。

 たとえば腹黒い気持ちを隠して、良い人のふりをすることが、損得のために有利と感じて、それを実行したら、偽善者になります。すると、それが課題です。その人は、偽善を燃焼して、みせかけだけでなく、真実に良い人にならねばなりません。この世界に損得があるなら、そうでないこともあることを知らねばなりません。

 たとえば人に権力欲が発現したら、それが課題です。ほかの人に完全を求めるのではなく、自分が完全に行う人にならなければなりません。罪とは、悪を知りながら、それを解決していないことです。愛を求めようとしたら、ほんとうに得なければなりません。自由を求めようとしたら、ほんとうに得なければなりません。幸福を求めようとしたら、ほんとうに得なければなりません。

 そんな愛、自由、幸福は、空想として(相対として)この世界に現れます。そして、それは実現不可能です。けれど、それにも関わらず求め続ける人に、(絶対として)一挙に与えられます。

 その人にとって課題が、すくなければ収穫も、すくなくあります。課題が、おおければ、収穫も、おおくあります。けれど、どうであれ、どんな道からでも山に登れば、見える限りの約束の地を得ます。




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