ちょっと痛いよ

ちょっと痛いよ。

でも、僕の鋏は
よく切れるから
大丈夫。

庭師が
樹を見上げながら
言いました。

君はね、
葉っぱが
茂り過ぎているんだ。
だから少し剪定(せんてい)しないとね。

そうしたら
風がよく通って
光がよく通って
君は、
もっと元気に
なれるんだ。

そうしたら
おっきな
赤い実も
たくさんできるんだ。

ちょっと痛いよ。

と言って
庭師は
全身全霊で
樹を
根っこから
ひっこ抜きました。

樹
そーだ

けっ。

あんな
葡萄なんて
酸っぱいに
決まってる。

キツネくんは
振り返り、
振り返り、
見上げました。

そこに
カケスくんが
飛んできて
その葡萄を
食べて言いました。

なーんだ。

これなら
僕の巣の
すぐ裏の
葡萄の実の
ほうが
美味しいね。

ほんとーに。

キツネくんが
言いました。
カケスくんって
やっぱり
嘘つきだね、
嫌われるよ。

そんな季節

ふーん。

君はね
ほかの
樹に遠慮して
あんまり根から
栄養を
吸い上げてないんだ。

優しいいんだね。

ほんとうは
友だちが
欲しいんだね。

とても元気な
樹の芽を
切ってきて
君に
繋げて
あげるよ。

そうしたら
たくさんの
小鳥くんが
遊びにくるからね。

ちょっと痛いよ。

と言って
庭師は
全身全霊で
樹を
根っこから
ひっこ抜きました。

樹2
よかった

たとえばAさんがBさんに意地悪して、苦痛を与えたとします。けれどBさんは、そのことが原因でもなく原因
でないこともなく覚醒して、そんなことを恨みに思わないとします。するとAさんの意地悪は、悪いことだと
断言できるでしょうか。                                      

さらにBさんが優しくすることで、Aさんが我が儘になり、優しさを求めるだけなら、その優しさは、良いこと
だと断言できるでしょうか。                                    

もちろん優しくされることと、我が儘になることには、必然的な結びつきはありません。優しくされて、怒る
ことも、心配することも、感謝することも、無視することもあるでしょう。               

そうであるなら、その人には、怒りたい、心配したい、感謝したい、無視したいという気持ちが、優しくされ
ることより先立ってあるといえます。                                
 
そうであるなら、たとえば怒りたい人は、とくに怒りの対象ではない出来事を、怒りの対象として認識して、
そうであることを主張するために、事実を歪めて判断する必要があります。               

たとえば信念、思想を持つ人は、とくに信念、思想を持つ対象ではない出来事を、信念、思想を持つための対
象として認識して、そうであることを主張するために、事実を歪めて判断する必要があります。      

あるいは逆に、ありとあらゆる感覚、感情、思考の対象である出来事を、ほんとうに僅かな断片の対象として
認識して、そうであることを主張するために、事実を歪めて判断する必要があるともいえます。      

花
なんにしても感覚であろうと、感情であろうと、思考であろうと、なにか先立つことを基準にして、なにか出
来事を判断する人の判断は正確ではありません。正確な現実認識、自己認識ができません。これを愚か者と呼
びます。そして愚か者は、愚かであることを誇りにするのが普通です。それを強調して、自覚し、理解し、解
消できるようにするためです。                                   

花

ところで良い人が、誰かに奉仕することを喜び、そうできることに感謝するとします。けれど悪い人が、誰か
から盗むことを喜び、そうできることに感謝するとします。                      

つまり喜ぶこと、感謝することは、ただそれだけであり、とくに優れたこととはいえません。ただ人の構成要
素です。                                             

それだから覚醒した人は、傲慢な人に、謙虚であれと、言わないでしょう。強欲な人に、無欲であれと、言わ
ないでしょう。自我を張る人に、無我であれと、言わないでしょう。それを誰かから聞くだけでは、そういう
ことは単に人の構成要素の断片であり、それを選択することでしかないと思われるからです。そんなことをす
ると事実を歪めて判断する、愚か者になります。                           

そこで覚醒した人は、それほど自分を重視するなら、その行うこと考えること話すことではなく、そうしてい
るその自己を重視しなさい、と言うでしょう。その自己を知りなさい、と言うでしょう。なぜなら愚か者であ
るためには自己を知らない必要があるからです。                           

花
それでも覚醒した人が誰かに、謙虚であれ、無欲であれ、無我であれと、言うなら、それは不可能で無意味な
ことを推奨しています。けれどそのことによって、その不可能が可能であり意味があることを示しています。

なぜなら覚醒は、人の準備ができたなら、なにかが原因でもなく原因でないこともなく起こるからです。いわ
ゆる真理、不真理に、関係するでもなく、関係しないでもなく、人は覚醒するからです。         

いわゆる傲慢、謙虚、強欲、無欲、自我、無我に関係するでもなく、関係しないでもなく、人は覚醒するから
です。                                              

いわゆる善悪に関係するでもなく関係しないでもなく、聖俗に関係するでもなく関係しないでもなく、人は覚
醒するからです。                                         
花
そうでなければ覚醒は、単なる選択にしか過ぎません。もし選択であれば、選択されないことがあります。た
とえば真理を選択したら、そこでは選択されていない、不真理を裏に隠し持つことになります。また謙虚を選
択したら、そこでは選択されていない、傲慢を裏に隠し持つことになります。もし善を選択したら、そこでは
選択されていない、悪を裏に隠し持つことになります。それは覚醒ではありません。迷いです。      

それは感覚や感情や思考への執着であり、事実を歪めて判断することになります。それは、それが覚醒でない
ことを、自覚しやすくするための働きです。                             

そのように覚醒は、なにを選択しても不可能です。困難といえば困難です。そうでなく、覚醒は人の準備がで
きたら、ただ起こります。簡単といえば簡単です。それは選択ではなく、総ての人の構成要素の活性化です。

そのように覚醒するなら人は、なにかに謙虚、なにかに無欲、なにかに無我ではありません。つまり断片では
ありません。ただ総てであり、傲慢、強欲、自我、を隠し持たない、謙虚、無欲、無我であるからです。  

花
そうであるなら意地悪することもされることも、親切することもされることも、感情、信念、思想を持つこと
も、善も悪も、聖も俗も、どんなことも人のためにあると知ることができます。人がそのためにあるのではあ
りません。                                            

それは倒錯、逆立ちからの解放です。そんな人は、それに支配される者ではなく、支配する者になります。け
れどそれは、誰でもありません。                                  
                                          
花
たとえば我々はどこから来たのか、我々とは何者か、我々はどこに行くのか、などと言う人がいます。それは
我々が何かで、ある、ということを前提にしています。それは、ある、に偏った倒錯した質問です。それは、
ない、を隠し持っています。そうでないなら人は、いま、ここに、いるのでないのです。         

いつかにも、どこかにも、いるのでないのです。どこから来たのではなく、どこに行くのでもありません。 

たとえば人の目にとって、鏡がなければ、自分の瞳を見ることができないように、意識にとっては、それを支
配する者は、見ることができません。知ることができません。                     

花
このような自己を知ることは、逆説的に、また事実として、知らないと呼ばれています。なぜなら誤ることの
できる、意識の働き、それを知る、と人は呼ぶからです。なにかを知る、なにかを知らないの、その知るでは
ないために、知らないと呼ばれます。たとえば、それ自身に原因がある完全な存在は、見えないために、無と
も呼ばれます。                                          

そんな支配する者は、たとえば善も悪も、聖も俗も、支配しません。もし何かを支配するなら、それを対象に
します。すると、それは選択することであり、そのことは選択されることでもあります。それは倒錯であり、
つまり逆立ちであり、支配されることと、ほとんど同等です。世界は、人は、そのようにできています。  

では、なぜ、そうなっているのでしょう。それは、ただ知ることができない、のです。この知らないに至るに
は、この世界がこの世界であることに、意味があったり、理由があったり、根拠があったりしてはいけないか
らです。そうでなければ、知らない、に至るのは困難でしょう。                    

もし人が知ることができる世界があれば、人は世界を知るだけです。そうであれば人は、自己であることは困
難でしょう。もちろん、そんな知ることのできる世界を知っても、なぜそうなっているのかは、知らない、で
しょう。たとえば喜怒哀楽を知っていても、それがなぜ、そうなのか、人は知らないでしょう。たとえば地獄
や天国を見て、知っていても、それがなぜ、そうなのか、人は知らないでしょう。            

花
そんな覚醒した人は、他の人に対して、その人の覚醒のためになれと願いつつ言動します。願いつつ罵倒し、
願いつつ話し、願いつつ黙ります。けれどおおくの人は倒錯して、ある、に傾いています。おなじように、な
い、に傾いています。それが傲慢、強欲、自我として現れるため、必ず出来事を歪めて判断します。    

それゆえ明らかな真実は、明確に表現されているために、秘密として隠されています。それはヒマラヤ山麓の
降り積もる雪の洞窟にも、静かな森の奥の古代の寺院にも、星空の果てにも、そしてなにより、ただ世間の喧
騒に隠されています。                                       

ちーちゃん

枯葉
そんな
季節に
なったので
リスくんが
ドングリを
集めて
せっせと
枯れ葉の
下に
隠していました。

なんて
欲張りなんだ。

カケスくんが
見下ろしながら
言いました。

それで
99個だよ。

そーなんだけど。

リスくんは
素早く足で耳を掻きながら
言いました。

いくら
集めても
ドングリの
どこにも
欲が
見つからないんだ。
それが楽しくって、
集めてるんだ。




ホーム