断章



仏陀に会ったら
仏陀を殺し、覚りに会ったら、
覚りを殺すのです。




どうしようもなく、
全否定は、
全肯定になります。


 とても簡単な方法があります。もし人が身体を鍛えようとしたら、格闘技をしたり、野球をしたりするでしょう。けれど対戦相手がいなくても、道具を使わないでも可能です。とりあえず腕で試してみましょう。それを伸ばしているなら伸ばしたままで、曲げているなら曲げたままで、力をいれて筋肉を緊張させてみましょう。

 これだけです。すると筋肉の名前なんか知らなくても、それが、どう動くのかが明確に感じられます。それを脚とか、腹とか、背中とかでも行えばいいのです。つまり身体を、道具ではなく、思いで鍛えるのです。ずいぶん昔、アメリカの誰かが開発した方法だといいます。もしボールを蹴ったり、ラケットを振り回したりすると、自分の筋肉の動きは、これほど明確には感じられないでしょう。

 ここで対戦相手を見つけたり、道具を使うというのは、伝統的な宗教や、なにかの哲学などを譬えたものです。それは、きっと役に立つでしょう。けれど人が自分の日常を学ぶなら、なにか誰かの言葉を信じたり、信じなかったり、どちらでもあり、どちらでもないといった、そんな面倒がなくてすみます。そのほうが簡単だし、よく自分のことを観察できます。ふつうに学校に行ったり、会社に勤めたりしながら、人は学ぶことができます。生活の総てがそのために役に立ちます。

 もちろん、伝統的な宗教や哲学を研究しても問題はないでしょう。古代の難しい言葉を憶えるのもいいでしょう。それを訳した理解困難な、意味不明な言葉を研究するのもいいでしょう。けれど、ほんとうの問題は、そういうことを研究している、その自分です。また、そういうことを研究することもない、その自分です。それを探究するなら、それは誰かに何かを教えてもらうわけにもいかないので、細部まで見なくてはなりません。でも、そうであれば嫌でも徹底します。

 どうであれ問題は、伝統的宗教を学んでいる、哲学を学んでいる、日常の自分を学んでいる、その自分です。そんなことを学ぶことのない、その自分です。けれど、そうしている自分があると、そう感じるなら、または、ないと、そう感じるなら、それは空想であり、偏りであり、倒錯です。

 そして人は、きっと誰もが覚醒し、そのことを見ます。そうしたら、その覚醒さえ失わなくてはなりません。それを細部まで理解し失うことによって、その人の体験の特異性を、ごく当たり前にしなくてはならないからです。それが計らずも覚醒を徹底することになります。

 なぜなら意識は(もちろん物質、身体、感覚、感情も)、覚醒を理解できないからです。よく言われるようには、意識は、その人そのものではありません。ただ人の構成要素です。もし人が意識に自分の中心を置くならば、物質、身体、感覚、感情に自分の中心を置くことと同じように、偏りであり、倒錯です。それは空想の自己を発生させます。

 たとえば人が自分は覚った人だと意識するなら、それだけで、すでに覚っていない人を空想してしまっています。それは偏りです。誤りです。(覚醒において人は、そんなことは思いもしません)。空想の自己、つまり(残響のような)自我が発生しています。それは苦痛です。意識は、そんなことに、なかなか気がつきません。そして、それが事実であろうとなかろうと、人が覚ることは凄く稀なことだとか、自分の他には覚った人はいないとか考えて、自分の誤りを守ろうとします。それは人が道から外れていることの投影です。

 そうであるなら人は意識によらず、無意識によらず、覚醒を失わねば、それを了解したとはいえません。それはできます。それができる準備ができてない人には、覚醒は起こりません。ほかの人さえ、その人自身さえ騙すことのできる意識、無意識に依拠してはいけません。愚かな賢者になってはいけません。

 ついに海を渡ったら、もう筏(いかだ)は不要です。そのように仏陀は言ったといいます。その筏は確かに、何ものにも代えがたいものです。とても愛しいものです。でも、もう、それを背負って歩く必要はありません。もともと筏は、そういうものです。

 これは世界の特性のように思われます。幻のように現れて世界は、人に真実(変な言い方)を告げます。

 そして幻だから、それは失われて、いわば真実だけ(変な言い方)が残るようにするのです。たとえば、ある人が、あるいは赤い表紙の、あるいは緑の表紙の、あるいは青い表紙の、本を借りて読みました。そして返却しました。そうすると本は手元にありません。でも、それまで知らなかったことを知りました。その本よりも、それが大切です。それでも、その知ることにも依存する必要はありません。

 この世界は人を覚醒させるための触媒です。それは人にとって、意味があるとか、ないとか、理解できるとか、できないとか、真理とが、不真理とかいうものではありません。そうでなければ不完全であり、人を覚醒させることはできません。事実を事実として見なくてはなりません。

 なにか真理があるとします。すると、そうでないこと、たとえば不真理があります。そんな不真理がある世界は不完全です。けれど不完全さえない世界は、不完全です。この世界は真理があるから完全なのでも、真理がないから不完全なのでもありません。どちらもあるから完全でも不完全でもありません。どちらもないから完全でも不完全でもありません。これらは総て空想です。たとえ真理と思われることにも、真理と思われないことにも(それに反対することによって)、依拠してはいけません。

 あるとき仏陀は、犀の角のように独り歩めと言ったといいます。それは仏陀の言うことさえ信じてはいけないということでもあります。自分の意識の言うことさえ信じてはいけないということでもあります。臨済は親切にも、親に会ったら親を殺せ、仏陀に会ったら仏陀を殺せ、と言ったと伝えられています。もし人が、自分に会ったら、それは自我です。自我に会ったら、自我を殺すのです。

 もちろん覚りに会ったら、覚りを殺すのです。もし覚醒した人が無我を殺したら、自我(の残響)も死にます。無欲を殺したら、欲望(の残響)も死にます。もし智慧を殺したら、無知(の残響)も死にます。どうしようもなく、全否定は、全肯定になります。これは自然に起こるのだけれど、とくに意識は注目されたい性質があり、けっこう抵抗してみせます。それはそれで貴重な日常です。(そこに衆生は現前し、それを救いたい気持ちが強調されます)。でもそれを、よく見ることも大切です。あるとき徳山は、道い得る(覚って)も三十棒(めった打ち)、道い得ざる(迷って)も三十棒(めった打ち)、と言ったと伝えられています。

 ところで覚りに会うためには、書など読む必要はありません。誰かに師事する必要はありません。いや書を読んだほうがいい、師事したほうがよい、いろいろ意見はあるでしょう。そんなことよりも、ただ自分は成長したいという、その決意が大切です。仏陀が覚ったなら、自分もできる、そう思う必要はないほどの、根拠がないほどの決意が必要です。

 たとえば不誠実な人は、自分が不誠実だと知らなくても、不誠実です。そんな不誠実な人が、自分を不誠実と知ったら、その件については、まあ誠実です。けれどそれも、やはり邪魔です。そんなことにも関わらないほどの、根拠のない誠実さがあれば大丈夫です。たとえば誠実な人は、自分が誠実だと知らなくても、誠実です。

 なにか物質(たとえば所有とか非所有)に誠実である、なにか身体(たとえば健康とか病気とか)に誠実である、なにか感覚(たとえば見るとか聞くとか、見るでもなく聞くでもない)に誠実である、なにか感情(たとえば好きとか嫌いとか、好きでも嫌いでもある、好きでも嫌いでもない)に誠実である、なにか意識(たとえば正しいとか誤りとか、また正しくもあり誤りでもある、また正しくもなく誤りでもない)に誠実である、そういうことは、ここでいう誠実ではありません。それらは根拠のある誠実であり、倒錯です。






ホーム