逆転




まず縁起の
逆転によって迷いが生じ、
その縁起の再逆転によって、
人は完成します。

けれど縁起の逆転と、
縁起の再逆転は覚醒によってのみ見ることができます。
ただ縁起を思考するだけでは
理解できず、事実として知ることはできません。
しかもここに示されている
縁起の逆転と、縁起の再逆転は、
伝統的な考えとは異なっています。

ススキ

この世界は、
なんでもしてなにもせず…縁起…なにもせずなんでもして、
人を覚醒させます。


 たった一枚のビスケット、
遭難者が、半分に割って友人に渡します。
まったく全体の量は変わりません。でも、
そこに美しさ、友情、善、感謝が生じます。

 とても素敵なエメラルドの指輪、
とある人が盗みます。
そこに醜さ、苦痛、悪、後悔があります。
それでも、その宝石は静かに輝きます。

 ある人を憎しみます。
けれど状況が違えば、きっと好意を持ったのです。
どちらでもなければ、憎しみや好意は、
人の奥で深い眠りについています。

 あるいは正しい人が貧しく短命です。
あるいは悪い人が裕福で長寿です。
あるいは、その逆です。人と状態は、
無関係に、関係します。

 そうして花が咲いて、星が降り、
鳥が鳴きます。この世界は、
なんでもしてなにもせず、なにもせずなんでもして、人を覚醒させます。
それは完全です。

筆丸
 たとえば怠惰、勤勉、善悪などの
行動をするとは、
怠惰、勤勉、善悪などの行動をすることを、するです。
それは完全に行うことではありません。

 そして怠惰、勤勉、善悪などの
行動をしないとは、
怠惰、勤勉、善悪などの行動をしない、をするです。
それは完全に行うことではありません。

 けれどビスケット、エメラルドの指輪、
コスモスの花、
星、鳥、怠惰、勤勉、善悪、関係、無関係、
どんなことも完全です。

 テニスで世界選手権を獲得、
ハリウッドで映画監督になりました。
そして趣味の天文学で大発見、
ノーベル賞をもらいました。それは完全です。

 どこかの孤児院で育てられ、
サーカスに売られました。
ブランコの師匠に騙されて、
路頭に迷いました。それは完全です。

 これは、なんでもしたのだけど
世界のように、
なにもしなかったのです。または自我が、
なにかをしたのです。つまり、なにもしなかったのです。

筆丸

けれど人が、
自分中心に世界を眺めるようになると
縁起の方向が逆転します。

 ところで人は、記憶もないほど幼い頃は、
物質、感覚器官、感覚、感情、意識の、
いわば外から内に向かって、
依存関係、つまり縁起が機能しています。

 たとえば空気の振動(物質)を、
耳(感覚器官)で、聞(感覚)き、
驚(感情)き、
それを知(意識)ります。

 たとえばコスモスの花(物質)を、
目(感覚器官)で、見(感覚)て、
喜(感情)び、
それを知(意識)ります。

 たとえば木綿のシーツ(物質)を、
肌(感覚器官)で、感じ(感覚)て、
楽し(感情)み、それを知(意識)ります。
この縁起の構成要素は単独では機能しません。

 けれど人は、なにか思い通りになったり、
ならなかったりします。
見たり聞いたりする自分と、対象を区別します。
世界を中心から展望するようになります。

 すると依存関係、つまり縁起の方向は逆転します。
意識、感情、感覚、
感覚器官、物質と
いわば内から外に向かって機能します。

筆丸

そんな逆転した、
縁起を成り立たせるために仮定された主体が
自我と呼ばれています。

 そして意識、感情、感覚、感覚器官、物質の、
逆転した依存関係、つまり縁起を
成り立たせるための仮定された
空虚な主体が、自我と呼ばれます。

 つまり人は、自我、意識、感情、感覚、感覚器官、物質の、
あることは関係し、
あることは無関係な、
偏り逆転した依存関係、つまり縁起としても機能します。

 そして自我は、
縁起の構成要素である、意識、感情、感覚、感覚器官、物質を、
対象にできます。
言葉を覚え、計算し、悩み、空想します。

 たとえば人の言動を見(外から内)て、
自分(自我)の意見(意識)にあわないなら、
怒(感情)り、聞こう(感覚)とせず、
また嘲り(感情)ます。

 このように依存関係、つまり縁起の構成要素、
つまり意識、感情、感覚、感覚器官、物質は、
いたるところで外から内、
また内から外の、混乱した衝突点になります。

筆丸
 そんなエメラルドの指輪、熱い寒い、
喜怒哀楽、知識無知など
どんな縁起の構成要素にも人は執着できます。
執着とは欲望、また反欲望に、欲望、また反欲望することです。

 ここで成長を望まない人は、
執着を、夢、希望、信念、主張などと呼びます。
依存関係、つまり縁起が、偏り逆転したまま、
自我を満足させたいからです。

 そして自我を満足させる、
つまり内から外の依存関係、縁起が完成する、
つまり思いが実現される、
その空想された状態を、愛、自由、幸福などと呼びます。

 すると世界は、限りなく求め続けざるを得ない、
欲望の姿として現れ、
人は苦痛と喜びに満ちて、
それに従います。

 そんな夢、希望、信念、主張など、
また愛、自由、幸福などは、
その場その場では、
儚い満足と不満を見いだせると思うことができます。

 このようなことは、自我が自我であるための懸命の努力です。
自我は成長する必要がないほど
完全であると秘かに思うことで、
愚かな遊びをし、縁起の逆転によって生じた自我を守ります。

秋桜

そんな倒錯した人は、
自分の行動、発言、思考を、見ても見ず、聞いても聞かず、
知っても知りません。

 コスモスの種は、地に蒔かれれば発芽するので、
未完成ともいえます。
けれど黄金でできた種は完全だとして、
それは発芽しません。

 そんな意識、無意識に関わらず、不完全なのに自分を完全だと見なす人は、欲望から学ぶ人ではなく、
欲望の信者です。反欲望に学ぶ人ではなく、
反欲望の信者です。信仰に学ぶ人ではなく、
信仰の信者です。

 それは不信仰から学ぶ人ではなく、
不信仰の信者です。知識から学ぶ人ではなく、
知識の信者です。無知から学ぶ人ではなく、
無知の信者です。

 それは自我から学ぶ人ではなく、自我の信者です。
それは愛、自由、幸福を学ぶ人ではなく、
愛、自由、幸福の信者です。
つまり執着する者です。

 そんな人は、自分の行動、発言、思考を、
見ても見ず、聞いても聞かず、
知っても知りません。その愚かさを誇ります。
そんな自分にする救難信号、つまり投影を見落とします。

 なにかに満足するとして、それは対象です。
どうして満足でしょう。
たとえ世界の総てを得たとしても、
自己を得なければ、それが何になるでしょう。

筆丸

しかし成長を、
望む人は、自分の行動、発言、思考を観察し、
真理を追求します。

 ここで成長を望む人は、執着を、
煩悩、誘惑などと呼び
自我に不満を感じて努力します。ほんとうの自己や、
ほんとうの愛、自由、幸福、涅槃、聖などを求めるためです。

 わたしの父は警官、母はスーパー店員です。
平凡な少女時代を過ごしました。
それでも振り返れば、
いつも喜びと悲しみがありました。

 けれど思います。わたしが悲しんでも、
その悲しみは、
私が創ったのではありません。
わたしが泣いても、その涙は、わたしが創ったのではありません。

 そして思います。わたしは私を創ったのではありません。
わたしが何であるかも、
愛、自由、幸福が何であるかも知らないのに、
満たされようとしました。

 たしかに思うことも、それが何であるか、
知らないのです。
知るといっても、それが何か知らないのです。知らないことも、
それが何か知らないです。

筆丸
 このように意識、感情、感覚、感覚器官、
物質が何か知らないことも知らず
それにしてもらってるのに、していると思い違う、
その仮の自己が、自我ともいえます。

 そんな仮の自己である
無知な自我を仮定するために、
偏って逆転した依存関係、つまり縁起の働き、
それは罪と呼ばれています。

 ああ、家族に優しく、貧しい隣人に親切でした。
6月に結婚する娘です。
ああ、知りませんでした、
それは罪でした。善も悪も罪でした。信仰も不信仰も罪でした。

 ええ、戦争も平和もありました。
新聞記者です。ええ、知りませんでした。
それは罪でした。戦争も平和も罪でした。
沈黙も饒舌も罪でした。

のぐみ
 どんな信念、主張も、偏り誤っています。
それを自我は破棄できません。
それは成長するために
保護される必要があるからです。

 そんな自己保存を打ち壊しながら、
ほんとうの愛、自由、幸福、涅槃、聖などを
求めるとしても、
求めるということは、それを得てないのです。

 そして得てないなら、
愛、自由、幸福、涅槃、聖などを求めないことは、
それを得ていることではありません。
知らないなら知らないことを知らなくても知りません。

 つまり愛、自由、幸福、涅槃、聖などを得てないのなら、
人は求める求めないに関わらず、
執着、不自由、不幸、煩悩、誘惑などです。
それゆえ覚醒は必然です。

 どんな自我も、また自我の、嘲りも屈辱も、偽善も嫉妬も、
怠惰も勤勉も、
善も悪も、喜びも悲しみも、
どんなことも覚醒の途上にあります。

筆丸

けれど真理を求めることで、
真理を得ることができるなら、それは不真理を隠し持つことになり
真理を得ることはできません。


 それでも自我の求める愛、自由、
幸福、涅槃、聖などは空想だから、
実際の愛、自由、幸福、
涅槃、聖などとは異なっています。

 そこで執着、不自由、不幸、煩悩、誘惑などを
抑圧することが、
愛、自由、幸福、
涅槃、聖などではありません。

 おなじように自我の抑圧が無我ではありません。
欲望の抑圧が無欲ではありません。
また無我、無欲を標榜することが、
無我、無欲ではありません。

 もしそれで得られるなら、
とある何かが誘惑で、とある何かが聖になります。
とある何かが煩悩で、
とある何かが涅槃になります。それは理不尽です。

 もしそれで得られるなら、とあることが自我で、
とあることが無我になります。
とあることが欲望で、とあることが無欲になります。
それは不条理です。

 もしそれで得られるなら、
この世界に何か真理があることになります。
それを見つけることができます。
すると不真理もあります。それは覚醒ではありません。

それでも人は、できるとして、
愛、自由、幸福、涅槃、聖などを、
どこから得るのでしょう。執着、不自由、不幸、
煩悩、誘惑などを、どこに失うのでしょう。

 しだいに夜の闇が訪れると
またたく星が空に見えます。けれど星は、
どこから来たのではありません。
また朝、どこかに行くのではありません。

 そして愛、執着、自由、不自由、幸福、
不幸、涅槃、煩悩、聖、誘惑などは空想です。
得るとか、
失うということも疑問があります。

 しだいに太陽が昇ると
それまで見えていた星が見えなくなります。
つまり明るい朝の光が満ちると
またたく暗い光を失います。

夕焼け小焼

このように人は、
理解することによって失い、失うことによって得ることを、
経験していきます。

 このように執着、不自由、不幸、煩悩、誘惑などを
理解することは失うことです。
けれど、
なくなるわけではありません。

 たとえば建築家が家を建てます。
完成すると仕事を失います。
けれど、なくなるわけではありません。
技術を得ます。そしてガラスや砂や水だったものに人が暮らすのです。

 たとえば卵は青虫になると失われます。
青虫はサナギになると失われます。
サナギは蝶になると失われます。
そして完全に機能するのです。

 そのように人が覚醒すると
執着、不自由、不幸、煩悩、誘惑などは失われます。
その空想の愛、自由、幸福、涅槃、聖こそ
執着、不自由、不幸、煩悩、誘惑です。

 つまり誘惑の完成が聖です。煩悩の完成が涅槃です。
自我の完成が無我です。
欲望の完成が無欲です。無知の完成が知恵です。
その否定、また肯定が完成ではありません。

筆丸
 たとえば悪の否定ではなく、
また善の肯定ではなく、善悪の完成が覚醒です。
そうでないなら善は、悪を根拠にしてある、
つまり善ではありません。

 たしかに兄は残虐な暴君でした。
でも悪だけを行うことは不可能でした。
たしかに弟は慈悲の賢君でした。
でも善だけを行うことは不可能でした。

 もし意識が無理に善だけをできるとしても、
無意識にはできません。
たとえば犯さなかった悪事は、
どう償えばいいのでしょう。

 ほんとうに善いことをする偽善者は、
どう反省したらいいのでしょう。
ほんとうに正しいことをしている誤った人は、
また誤った誤った人はどう知ればいいのでしょう。

 そして人に機会がなく、しなかった親切は、
どう行えるでしょう。
理解できることを理解しても
理解ではありません。

 たとえば人が嘲られて怒るなら、
いつもは感じてない自尊心が
隠れていたことを知ることができます。
その無意識さえ傲慢な自分を見ることができます。

どこまでも人は、
注意深く丁寧に、また容赦なく自分の奥深くを
追求する必要があります。

 こうして人は意識だけではなく、
無意識を知らなくては、
その自分の行動、発言、思考さえ知ることはありません。
けれど人が覚醒するなら無意識は意識です。

 たとえば昼と夜で一日です。
あるいは晴れ、あるいは曇り、
あるいは雨で、天気です。
春夏秋冬で一年です。裏と表があって木の葉です。

 これは言葉です。もし人が、言葉を信じられない、
正確でないなどと思うなら
なにか自分は言葉を知っている、
言葉には意味がある、という誤りがあります。

 はい、わたしは漁師です。
たくさんの魚を捕ります。
でも、わたしは魚が何であるか、
ほんとうに知りません。

 このように人は、言葉を知らないから、
言葉を話すことができます。
言葉が表現するものと、されるものは関係ないからです。
それゆえ言葉は正確に働きます。

 もちろん人には、誤ることができる
機能があります。
事実と異なる働きをすることができます。
思い違いしたり、嘘を言ったりできます。

 では誤りとはなんでしょう。
それは依存関係、つまり縁起の構成要素、
つまり自我、意識、感情、感覚、感覚器官、物質を、
確固な存在とみなすことです。

 けれど銀河があります。海は深くて魚が泳ぎます。
森は繁って小鳥が鳴きます。
ここに私がいます。あなたもいます。
これは存在ではないのでしょうか。

自然
 もし世界は存在するなら、
私は存在します。誘惑も聖も、
自由も不自由も、意見も反意見も、
信仰も不信仰も存在します、と誤ることができます。

 おなじように、また逆に世界は存在しないに
偏るなら、私は存在しません。
誘惑も聖も、自我も無我も存在しません
と誤ることができます。

 つまり人が存在または無に偏るから執着できます。
また執着するためには、
世界の確固な存在と無が前提にされます。
それは事実無根です。

 けれど人が覚醒するなら、実在は、見ることも、聞くことも、
知ることもできないことを了解します。
それで人は、実在を、無と呼びます。あなたは
あなたに会うことはありません。

筆丸
 つまり依存関係、つまり縁起の構成要素、
意識、感情、感覚、感覚器官、物質は
あるでもないし、ないでもないです。
この依存関係、縁起で生じる総てのことは空と呼ばれます。

 なのに見、聞き、考える、
そうする主体があると
人は予め前提にして見、聞き、考えます。
その主体は空想の自己、つまり自我です。

 これまで怒り、嘲り、泣き、叫んできました。
映画俳優です。
俺がそうしたのだと感じていました。
けれど逆です。そうしたから、俺があると空想したのです。

どんなことも自己を求めることではありません。
求めることは自我の働きであり、
求められることは対象です。
けれど望まなくては絶対に得られません。

日食1

そして至高体験による覚醒が起こり、
縁起が再逆転します。人生において、何ひとつ欠けても
それは起こらなかったと断言できます。


 それは起こります。
依存関係、縁起が再逆転し両方向が通じ、
偏りなく活性化します。
すると自我が役目を果して死にます。悟り、覚醒と呼ばれます。

 たとえばエメラルドの指輪があるから、
コスモスの花があるのではありません。
感覚器官によります。
目があるから、耳があるのではありません。感覚によります。

 そして熱いがあるから、寒いがあるのではありません。
感情によります。
嬉しいがあるから、悲しいがあるのではありません。
意識によります。

 そして思考があるから、
ほかの思考があるのではありません。
そして、この先は知ることができません。
知るとは、誤ることができる自我の働きです。
日食2
 まとめると、物質があるから、感覚器官があります。
感覚器官があるから、
感覚があります。
感覚があるから、感情があります。
感情があるから、意識があります。

 そして意識があるから、自己があります。
自己があるから
愛、自由、幸福があります。
そして命があります。
実在があります。

 ここで自我ではなく自己、
執着ではなく愛、不自由ではなく自由、
不幸ではなく幸福、寿命ではなく命、
対象ではなく実在を見ます。いや、それから見られます。

日食3
 その覚醒によって与えられる自己、
愛、自由、幸福、命、実在は、
意識の対象ではありません。
それが意識されるなら常に空想です。

 そんな依存関係、縁起の構成要素、
つまり物質、感覚器官、感覚、感情、意識は、
増減しないことを見て、
執着から解放されます。

 どんなことも人のためにあります。
人がそのためにあるのではありません。
そして自己は意識できません。
たとえば善悪を支配しても、君臨する人はいません。

 そして物質、感覚器官、感覚、感情、
意識を知らないことを知ります。
それらを自己より重視する、
倒錯から解放されます。

 もし振り返るなら人生において、何ひとつ欠けても
それは起こらなかったと断言できます。
何ひとつ代えることがあっても
それは起こらなかったと断言できます。

日食4
 そして、どんな罪も、
ただ偏り逆転した依存関係、つまり縁起であることを知り、
つまり中道を覚り、どんな罪からも
解放されます。

 ウパニシャドの馬車と手綱と御者の譬えがそうです。
仏陀の順逆十二縁起がそうです。
イエス・キリストの葡萄園の日雇い労働者の譬えがそうです。
それは完全です。



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