この世界には思うだけで実現することが一つあります。それは永遠の平和です。みんなが思うだけで、この瞬間から、完全な平和が実現します。これは簡単です。どうしてできないのでしょう。人種、主義、宗教、文化、経済、歴史、暴力、ありとあらゆる障害が考えられます。けれど人が世界を充分に活用していないことが、ほんとうの原因です。 ある人が、激しく罵倒(ばとう)するとします。すると罵倒された、一見は穏(おだ)やかな人でも、不快でしょう。怒るでしょう。それまでは潜在していた不快、怒る、が顕在したのです。観察できるようになったのです。よくある出来事です。一見は穏やかな人が、偽善者であるかもしれないことも示されたのです。 つまり罵倒されてないときにも、その不快や怒りは、感じられていなくても、ないわけではありません。それは解決しなくてはならないのではないでしょうか。とても仲の良い人と人が一緒に楽しく暮していても、不快や怒りは潜在しているからです。そして自分で気がついていなくても、それを自分で隠しているのかもしれないのです。 そしてこの意味を理解し、成長しようとするなら、罵倒されるという悪いことさえ、良いこと、すくなくても役に立つことになります。 たとえ傷ついても、その罵倒を自分に引き受けることになります。そうすると争うことはできなくなります。自分が正しいと思うから人は争うのです。傷つきたくないから人は争うのです。しかし正しさが争うなら、その正しさは正しくないと、誰でも理解できるでしょう。争って傷つかないこともないでしょう。 けれど一見は穏やかな人が、学ぼうとしないなら(自分を正しくないのに正しいと、完全でないのに完全だと、意識、無意識に関わらず前提にしているなら)それを罵倒した人の責任にして恨むでしょう。(また、そんな愚かなままでいたいから、恨んだり怒ったりするともいえます)。その問題を理解するまでは、それを世界に投影し、定着、保存することになります。激しく罵倒した人を、いつまでも恨み、嫌い、避けるということが、そのようなことです。 それを学べばいいのです。そうすると、それが潜在したままであるよりも、理解しやすいはずです。そして理解したなら、世界に投影する必要はなくなります。いつまでも恨み、嫌い、避ける必要がなくなります。まったく気まずいということさえなくなります。 なにかの理由があって、怒りを抑えようとすることがあるかもしれません。そうであるなら、そんなことに捕われている自分の状態が分かりやすくなります。その段階でも人は学ぶことができます。世界も大変です。そんな働きを人にしてあげます。 これで充分です。これ以上、人が愚かになる努力をするなら復讐や暴力を望む気持ちが発現するでしょう。そのようにして人は自分の悪い状態を知ろうとします。いや世界は人に人の状態を知らせようとします。それを学べばいいのです。 このようなことに使われるのが、嘘、損得、執着、嫉妬、偽善、などです。それを野放しにするなら、人よりも、物質、感覚器官、感覚、感情、思考が優位にあります。なぜなら人は、それを理由にして、それに依拠して争うからです。たとえば少し考えが違う、それだけで争いの原因にしてしまいます。これは、どの段階でも倒錯です。つまり倒錯には、争いが潜在しています。 そして人が覚醒しているのでないなら、嘘、損得、執着、嫉妬、偽善、などの反対も同じ働きをします。(戦争の反対の平和は、常に戦争が潜在しているので、永遠の平和ではありません)。そうであれば、あまりに人が愚かでなければ、ふだんの生活が倒錯していることを理解しやすくなるでしょう。 また、そのように人が偏るなら、空想の自己が生じます。自我と呼ばれています。(そうであれば、なにをしても誤っていることが理解しやすくなるでしょう)。それは人が自分だけでしているのではありません。世界が人にしてあげているのです。この世界の滅私奉公を、あるべき姿にするのが依存関係、つまり縁起の理解です。 それを理解するなら、どんなことも人のためにあることを知ります。人が、どんなことのためにもあるのではありません。快も不快も、平穏も怒りも、苦も楽も人のためにあります。そのために人があるのではありません。 つまり人が、それに依存する、捕われる、縛られる、支配される、奉仕する、必要はありません。理不尽も、不条理も、不可解も人のためにあります。罵倒も、罵倒されることも人のためにあります。人がそれらのためにあるのではありません。 けれど依存関係、つまり縁起は、覚醒によらずに理解することはできません。この理解と不理解の間には、たとえるなら人には飛び越えることができない深い淵があります。もし飛び越えたら、後戻りは不可能になるためです。世界の平和、ただそれだけのためにも、人は覚醒することが望ましいのです。 たとえば人は、怒りに依存する必要はありません。悲しみを感じても、それに執着する必要はありません。もし人が怒るなら、考えてみましょう。この怒りが、何であるか、自分は知っているのか?なぜ知らないことに依存するのか、と。また、そんな自分を知っているのか、と。 |