否定の研究







否定されたと言えることは、その否定であり続けていることである。










 その者が否定つづけるのは、その者がどの様でもなくありたいのであるから、その者は規定性を否定せねばならない。その者はあの者の様に規定されていたり規定したり何としてもしたくない。この様であれば、どおして否定するものを対象としているだけで拒否していると言えよう。

 その者は否定の根拠がないのであるが、それはどの様にでもなくありたいからである。○○・・規定性を否定してそおでありたいのである。というのもそれが否定されたあかつきには、それが否定でなければならないのだから。

 否定の根拠がないというのは、そおすることに依って否定が否定でなくなるからであり、否定のあかつきには規定性は否定されていなければならない、だから規定されてあるあの者の様にも規定しようとするあの者の様にもありたくないのであり、そのために根拠を持たないのであり、それは規定性の拒否である。

 否定されたとしたら、その規定性は否定されねばならない。そのことを否定つづけることをやめて否定が完成されたとしたら2度とその規定性は舞い戻って来てはならないし、そのことは完全に否定されたということであるが、規定性は否定つづけられているのでなくてはならない。自己○○しくそのことの否定であるのでなければならない。そのことの為に規定性は否定されねばならないし、否定されねば・・



(序)



 この否定の研究という恐ろしく論理的な問題を、それにも拘わらず、理論的に取り扱うといったことは不可能である、というより今の所はといった方がいいだろうが、その様に思える。

 というのもこの研究は多くのことが、そおである様にそのことの内で行われるか、そおでないかであり、前者の場合そのことが正に混乱である混乱であり、それが理論的であるとしたら、全然別のものの研究となり、後者の場合は、理論的にしようとするためには混乱を生じてしまうことになり、結局はどおしようもないということである。

 あるいはこの研究は、研究の始まりのためのものであり、どおしてもそおしておかないことには、後に混乱が激しくなるばかりのものになると予想されるものに対して、多少の確実性を現させる様にしておきたいためである。



情緒的否定性



 他人からの規定性に、対立している時自己は無として意識され得るが、そのことは、その者がそれ程いじらしいということである。ハイディガーにあっては、無とは可能性である。但しそれはその無を無のまま確立させようと、あるいはそれが対立したものに依ってそれを見るなら、その通りである。



第一標語

全ては物を隠そうとする
全ては私を失おうとする
全てはやかんに
色をぬろうとする
全てのものはカンづめであるか
全てのものは空色であるか
音を出すか
光を出すか
見るか聞くか話すか歌うか
するかしないか
忘れるか
忘れるか
忘れるか
歌うかビニール
万年筆よ かけめぐれ






時計のねじを
まくのは
だれだ
そこの白い○か
おまえか
おれか
時計のデンキを
かえるのは
彼か彼女か
牛か馬か
妥か信か






時計のネジをまくのか
いつまくのか
今のいつまくのか
お早うというのは誰ぞ
コカコーラ飲むのは誰ぞ
顔を洗うのは何だ
かんだ
う〜ん
だれだ何だかんだそれだ






恋愛について


 否定的な者28号の思う所に依れば、恋する者が、相手に向かって、あなたを愛しているといったことを打ち明けられて・・というのは、それは勇気の問題だけではないのだ。

 恋する者はその者の愛していることが真実のために、それを表現するということが他のものごとに依ってのみ可能であると知っているのであり、そのことはその者に勇気がないからそういうこととして言い出せない理由にするのではない、ということである。

 但し、といっても誰も彼も冗談とか嘘とか、性分、自分のためにそんなことを言えないものではないのだから、そこに問題がある、とこう考えてしまえば愛しているとかいないとかいうことか言わないとか問題にならない・・・・・・・・・・。

 但しそれではどおして恋する者が知り合うということになるだろうか、それは知り合いかつ恋し合う様になった時のことであり、なをそうなったとしてやはり問題である。

 それから愛しているということを言える程の、ぴたあと決まってる相手がないからだとも考え得るという。このことを運命に対してどこで手を打つか決めようとしていまだ決まってないといった様なことばかりのためではないのだ。

 それは性交と深く関係があって、家庭を持つことは子供をつくるということで、それで現実がそんな風なものとなってそこで正当性を見出し得るかということである。それ程彼が彼たらしめている時を、彼たらしめ得る程の相手の存在が問題なのである。

 さて2人はめぐり合った、物語というのはここから始まるのだが、28号に依れば、ここからあの生活である現実が始まらねばならないとされている。但し私の考えに依れば、いや、おそらくこれを否定しようとすることは実に私がその様でないということからであろうし、私としてもそれが真であることを内心認めているのだから、私も又、人間でありたい。

1971年10月20日 K




 自分と他人を何かちがったものとして意識すること、及び自分と他人を区別出来ないと意識することは共に否定である。

 否定とは、その自己が元々そおでないからそれを拒否するからであり、
そおするというのは、そのものがそおなってしまいたくなくなるからであることから、
これを否定つづけということである。

 否定つづけとは、その者の生活に於てそおである。というのもその者が否定つづけていないとしたらどの様にしてそれが否定されたと分かるだろう。
そのために、否定つづけである。

 この否定つづけが神の前で失われると意識されたら、そうさせるできごととかは罪である。



『信仰者は神を思う必要はない』



 若し誰かが信仰者だとして、そのものがいつもつねづねあるいは時に依って、神を意識する必要はないし、そおであるからといって、彼が信仰者でないとはいえないし、そおでないかといって彼もしくは彼女が信仰者であるとは限らない。

 若し彼が罪でもって神の前にいる時、そのものは非信仰者である。

 若しその者がごりやくでもって神の前にいるのなら、よほど馬鹿の標本でなければ、信仰者ではない。

 罪深いと意識する程その者は神の前にいる、但しその者は信仰者ではない。

 信仰がないから神と対立しているのである。

 若し彼が神の前にいることなく而も罪をその様なものとしてでなく決意をかためるか、そおであらざるをよぎなくされているならば、彼は信仰者でないとはいえない。

 彼は正にその内で生きているのであるから。



『信仰者は神を思う必要はないか』



 但し、神を信仰する者は神を見ているのでなければならない。神を見ているのでなければ彼は神を信仰しているのではない。

 但し、神は源を規定するものだろうか、善と規定することがあるだろうか、なお彼が善であって彼であることが可能であろうか。



『信仰者は神を思うことなく信仰者であることからして信仰者である』



人間は何ものにも、自己に依って規定されるものでなければ、規定され得ない。






また朝が来る
明日の農業は
全面的かつ統合的、なお総合的に
純粋サイバイとなります

本日の千代田区立運動会は予定通り開サイされます
シチズンは時計の6時です

バッハ バッ
ハは ハープシコードとフルートで
チュー車中の車に放火を始め
次々と牛乳ビンをくばってまいりました

どこかで自転車のブレーキが聞こえ
テンカンもちの娘が開ける
ドアの音がしてまいります

すずめの一日は
どんなに多彩なことでしょう

空は晴れてまいりました
昼間の音がやがて聞こえます

その前に少し眠って
おきましょう 

さっきコーヒーは飲み終わりましたから
いろんなことを考え
いろんな夢を見ましょう






お早おございます
農業の未来は明るい
家の光を読みましょう

明日の農業は 若者の
世界です

朝は畑の露の草
今日も一日
働きましょう

ねぎの即成栽培は
トマトのそれより もうかります
メロンはもう 手ごろです

マスカットの出荷は終わりましたが
くみあいひりょうを使いましょう

私達は
キリストの内で生まれたのです

雲の朝は
天気がすずしい
散歩しながら歩みましょう

次の曲は サンダースプリングスです
今日も一日 働きましょう
人間対人間が一番大切です。






コンプレックスさへ
 それから癒されたいということなしには
 有り得ない
 恥ずかしさよ







無とは何か。
つまり無はどんな時意識され得るか。
私は現実存在であり、現実存在である限り私は私の対立者を
他に持っていない。
あのようなものであるとかあのようなものでなくて、
こう在ると云えば云えるというものである。
私とは如く在るものだ、
とこのことこれは、
私は何かをしているとかしていないとかして現されないというあの無としての私ではない。
無というのは。






世界はみな、ものを隠して行く
見よ






あなた
 私  の自覚せる長所は明確なことです

     1971.11.16

     私の長所は頭脳明晰






10.26
 
       
『 運命という同一性 』



 昨日2時頃、小宮山が酔って私の部屋に入ってきた。というのも部屋をまちがえて入って来たのだった。それに依ると、私と彼とは同じ年の生まれだといい、芸術学部に同郷の友人山本がいるという。

 私は山本は名前も知らないが向こうは知っているという。ここにもう3年以上もいて話をしたのはそれが始めてであった。彼が明日であるつまり今日どこかに行こうとさそってくれたりしたためか、いつもの習慣のためか、私は夜の白むのを待って眠ることになった。

 そして2時間後の8時、家ぞくの者が小宮山・・・まだ名を知らないのだが・・・を起こしに来た声で目を覚ました。私は何かいつもと感じのちがう私にとまどいを感じていたが、多分、と私は考えた、私は彼に愛情を感じていたのだ。これは不思議なことだったので、私はこのことをじっと考えてみていた。

 私は近頃、私が友人もなく・・・実はそおでもないのだが私が友人とかいう言葉さへ嫌いなためであるが・・・以前はひとりでいることを恥じていたが、今はそれをほこりにさへ思っていることについて歌をつくろうしていた程であった。私はむなしさを心から愛していたし、私が私であるところの淋しさを私自身として愛していたのである。

 私がこのあまり馴じみ無い感情について思い返しをめぐらしている時、突然このことがかねがね恐れていたものがそのものであり、そこで思考が失われている状態だと分かったのだった。

 私はラジオをつける、彼がとなりの部屋から出て行ったからだ。あの感じはヨダンを許すことのない例えば恋愛について私が書いた様な当のそのもの、・・・今私は歯を洗って来た、朝だからだ・・・思考がそのつど反抗して来た当のもの。キリスト教のものの言い方・・・
それ以外のそのものはないということ・・・そのものであった。

 それは運命である。
 それは例えば、否定は極のない制約である。






    そおだからといって、
    否定の否定が、その対象を得ることに依っては完成されない






 否定とは根拠のないことである。根拠のないものであるとは、その者がそおでないということしかないし、そこで否定されようとするものは根拠ということである。

 依って否定とは根拠のない否定であり、否定つづけであることである。

 自己がそおでないか、そおであるか分からないという意識での否定ーーーー充分自己はそおであるーーーーは、規定性の否定である。規定性の否定とは規定されることの否定と規定することの否定である。とは言っても規定する者はその規定性に規定されるのであり、自己がその様なものであることの否定を望むことである。

 否定に於いて自己の規定性は他人から見られるものだし、他人の規定性は自己が見ているのだと言えば言えるが、自己が意識され得るどの様なものでもありたくないということである。但しどの様でもありたくないというのは規定性に関してのみである。






     コンプレックスは、それをなお、そうとすることが正にそおであるが、
    実になお、そうとしない限りそれがあるというものではない。
    実にそれは、なお、そうとされて当然なことである。






『 意識とその者の規定 性 』

 ある者とその意識との関係。その様に意識され得たものとは。例えば、この私には何の理由も根拠も原因も見い出せないという意識は、私がそれを意識したことであり、実サイにその通りそのままであることとの差異について、あるいは結果的に、あるいは実ケン的に知ることは出来ても、判断することへの嫌悪がある。





 10月27日

 例えば無関心という
 ことがある何かについて
 そおであるということを
 それ自身が認めるか。
 認めない仕方で
 無関心でありつづける
 だけの認め方である。



 その意識が、例えば私には何の根拠も見い出されないではないか、といった様な意識なら、それはどの様な意識ならそれはどの様な、意識されたこととすることとの関係なのであろうか、とこう考えることが解決を見ないまでもある状態なのであり、そおいうことをいうのは、すでにそれが全く根拠のないということではなくて、何だかの意味か何かですでにあるわけで、このものを知ろうとする。

 あるものとなぜ意識され得るか?ということが求めるのは、先ずどの様な規定性も否定せねばならない○いのものであろうか、おそらくそおであるとして、私に根拠がないといった様な意識がそこで意識され得ていること、そこから否定が始まっていると言うことは、このあるものとなぜ意識され得るか?と知ることとどんな関係にあるのか。






                     10月30日
                 ねえ、
                 僕のこと 憶えているかい
                 世界には人間がいっぱいだ
                 僕は目覚めてテレビを見て
                 散歩に行った
                 何のために何かをするのか
                 歩いていると
                 人間達に出会うのだ
                 君は憶えているか
                 みんなこんな人と
                 目が合い意識し
                 意識され合い
                 すれちがい
                 うしろをふりむき
                 行きちがい
                 君がそこにいるのを
                 そおじゃなかったかい
                 気になる人間のひとりひとりを
                 思い出さないかい
                 彼らがどこに生きどおなるかを
                 君は忘れるのかい
                 君はそれだから
                 憶えてないかい
                 タバコ屋の角出会ったひとを
                 その人の行く末を
                 思ってみないかい
                 もう会うこともないまま
                 去って行ったひとのことを
                 君は思っているんだろう
                 君がそんな君である様にさ。






 朝起きて眠るまで、眠ってから私は、いくたの感情にさいなまれている。いい気分とか不愉快とか、空しさとか、ひきもきらづない時は退屈とか、私は私の感情がないことを思う。

 何もかも面倒なことだ、多分死ぬことも死ぬ時もあああああ面倒だやりきれないくだらなさだと思う程の退屈さかげん。のべつまくなし私は在りつづけ私である私である。私である感情は持続する。

 それにしても同じあることをするにつけしないにつけて、さまざまの感情が移ろいつつ暮らしているので、私としても、例えば理由もなく、理由もないない。

 だから私に何か理由をみつけることや何かすることに理由があると思わせるのは無理なことだ、でもよければ天皇ヘーカバンザイと叫んでもいいし、他人のために何かいってやることも出来るだろう。

 といえば何かあれみたいだけれど、あれじゃあなくて、それ、それなんだけど、これといってもいいわけで、全くケッコーなことだ。

 こんなんも私は世界に根拠を持った人間なのだ。若しある他人達が、見えた通りの様であり、人生を楽しむこと以外に目を向けることなく生きている様だとしたら、彼らは世界の人ではないから勝手気まま大テンランカイというわけなんだ。

 それでもまあそげん人はあんまりいないだろうから世界はイダイなコンプレックスなんだと思う。といってみただけのことでございますんでございますが、めんどーにめんどーでございますねえ。






11月6日

 今日、学校に日本天然色映画○に出すリレキ書を持って行った。職歴に、日本天然色映画入社予定と書いていたのを見つけた事に○はゲタゲタ笑い出した。どおでもいいけど清水がゼミの点のつけ方をいって僕に聞いたので僕は80点でいいといった。白いコーヒーカップ3つ買った。
 人に愛を感じる。



・・・01・・・






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