我々はこの現実と交信状態にあります。






白く透明な小鳥が
人間の胸を
脳の旋毛を通って
降りて
心臓を
水晶のくちばしで
突くと、
血は見えない
奔流となって
外に噴き出し
言葉となって
語られる。
それで語る者の胸の
左には
赤い斑点が
認められるであろう。
その白い透明な小鳥は
赤い鳥となって
どこか知らない遠くへ
飛び去っていく朝、
人は夢を見た、と言う。






                 
我々はこの現実と交信状態にあります







心なんか風に吹かれて飛んでけ。


1978.4.4

1.

 僕は思います。人はその考えることも感覚することも感情することも、自分で決めるものではありません。 ただわずかにそうする可能性があるだけです。自分の命だって決められません。むろん人は自ら死ねます。 けど、死ぬ?死ぬ以外のものがありますか。つまり自ら死ねます。が、死ということは、確定事実で変えられません。生、死、そしてAとかBとかCとかないのです。

 それでも人間は生きています。何のために?それは決して自分で決められない自分のことを感じるためではありません。いいえ、そうであってはなりません。心なんて、精神なんて、心理なんて感情なんて、そんなものは確定事実、世界の性質でしかありません。

 しかし、こういうように考えることはできているのです。一応のところこれが可能性です。つまり自我があるのです。つまり、あのような確定事実は自我を決定しません。あのようなものとは世界の全てです。つまり自我は、あれらを自我の根拠にしてはいけません。だから僕は言います。心なんて風にふかれて飛んでけ。

 少し冷静になってみましょう。僕達は、この現実とトランス状態に入っています。どのようにしてこうなっているかを考えてみましょう。あなたは、朝、目覚めるとき、どのようにして、覚醒しますか。僕は、パチッ、つまり、スイッチをひねるように切り換わります。徐々に目覚めることなんてあるのでしょうか。

 むろんあります。体は目覚めて、精神がじんわりと手足にしみ込んでいくあの感覚。あれをまた味わいたいものです。しかし、これとは逆のことが多い。つまり精神は目覚めても体が動かないというあれです。あれは眠っている現実を夢みているのでしょうか。夢判断にこのことはでてるのでしょうか。僕は一夜に、それから覚めては又、覚めては又、まったく苦しいものです。

 あとは、物心がつく、という人生に於てのそれです。ま、これも放っておきましょ。とにかくこういうことになっています。さっき僕は可能性を言いました。いや、それより、本当に、人は自己を決められないかそれを調べてみましょう。むろん絶対に決められません。例えば倒産して自殺する人がいます。倒産したという事実なくして倒産したという知覚はありません。その知覚をしようとして決心したわけでもないし、その知覚が事実を産むわけではありません。しかし、しかし、知覚しているそのこと自体に於て。そのただなかに於て。



2.



 新約聖書を読みながら眠って夢を見た。

 建てかけの、あるいはくずれかけの家、僕は何かてつ夜でやったことがあって、すい眠不足のまま母親たちにせわされながらズボンやシャツ(黒)を着せられる。「おまえの結婚式なんだからね」どうやら見合いらしい。すぐ式が家で始まる。僕はシャツをまだ着せられ終わってない、歩きながら母がネクタイをしめてくれる。初対面の嫁のとなりに立つ僕だけど、まだネクタイが結ばれない。

 僕はその女の子を見る。かわいいと思う。もう一度見る。これならやってけそう。歌が始まる。その時地震。大きい。なにしろほとんど骨ぐみだけの家なのであぶない。みんなキンチョーしながら逃げることにする。玄関に靴がなくスリッパがならんでいる。僕は母と外に出るけど、母は心臓発作を起こす。・・・さんを呼んでくれと母は叫ぶ。ほとんど死にそうである。

 上空を見るとひどい地震のなかでくずれかかった建物の一部がひどく印象的だ。死にそうな母のためにみんなでこの現状みんなを映画のシーンにする。発砲スチロールのまんなかに穴をあけて母がそこから顔を出し、嫁とかその父とかが両肩にのり、音楽が流れ、発砲スチロールにどこかの二流前衛画家が色をぬっていく。

 母はとても満足そう。僕はつらくなって場を離れる。やがて最後の時が来たらしく母がみんなを遠ざけて、ガクッとなる。わー、とみんな泣く。が、まだまだ、と生き返る。みんな喜ぶ。が又静かになる。が、また、を3度繰り返す。僕と、誰か知り合いの1人だけはそれを見て、笑い狂う。ちょっと離れたところにある酒場のおかみだけがもの悲しく無関心である。

 地震を感じたのは、左胸に手が乗っていたからだろうか。

 この夢の前に何度かイメージ夢を見た。それは、何かに僕を捧げ、捧げ、捧げることで、僕自身が自立するような感じにはもっていかないものとしてあったし、それはケッコウなぐさめになってた。





僕が僕であるのが嬉しい

3.



 自由は、それが何であるか知って自由であるべきです。そして愛も、それが何であるか知ってなお、愛するものであります。

 あなたの人生が波瀾に満ちたものでありますように。



4.8



 普通、愛は、その人を愛そうとして愛すものではありません。それは心を支配してしまいます。なら、それはほとんど盲目的というか、その本質を知らないまま、単にそれに振り回されているのと同じではないでしょうか。人はそれを恋と呼びます。しかしそれは相手を求めても得られないことがあります。不幸です。でも考えてみてください失恋しない男や女はいません。このことは、何を示しているでしょう。

 その場合、誰だって苦しいのです。結論から先に言います。愛は、自己愛と他愛です。恋愛はこのことを知りません。他愛は極限的に言えば、対象を、方向性を持ってはいけません。愛から見れば、ある特定の人を愛するのは不条理です。

 さて失恋は、人に愛の本質を理解させます。そしてこんな失恋話は、もう掃いて捨てるほどあります。そして話せば誰だって理解できます。ということは世界が、そういう形になっているということです。このことを知っておきましょう。

 人間の存在は世界の性格です。失恋する者よ、あなたは神から愛されています。人から、相手から愛されるより、よほど誇らしいことです。しかし人の愛は幸福を、神の愛は不幸をもたらします。なんて素晴らしいことでしょう。特に幸福や不幸が見せかけのものであると知っている時に。愛を理解し、なお愛する者よ、あなたは美しい。それは誇りを持ってよいことだ。決して悲しむのものでも苦しむものでもない。

 僕は自分がなんであるか知って自由であり、愛を何であるか知って愛している。僕は美しい。

 しかし愛を理解する者には課題があります。人を愛さねばなりません。嫌悪によってでなく愛によって人を知らねばなりません。



4.21

4.



 人を好きになることは。それは何を意味するか。汝かんいんするな、という教えを僕は分からないけど、それが真実なものであるなら、次の意味に於てしかあり得ない。つまり人には1人だけしかその人に似合いの、ふさわしい人はいないし、それを求める○であるということだ。

 なぜって、存在的にそのような2人がいたとして、現実的には1方が1方に応えられない。他の愛人がいるなど、があってはいけないということだ。1人には1人が、そのようなものとして神が保証しているということだ。真実人を愛すなら、他の人は肉体的に求め得ない。なぜなら他の人にふさわしい他の人が在るからである。だから好きな人の他に体を求めてはいけない。

 なんとなくさ、誰だって、異性とねることは罪を犯すことのように感じるようなことがあるだろ。この教えはまず盲目的に気にかかっているはずだ。現実はこうだけどね。風俗の女だって嫌な客とはねたくない、なんて所がやっぱりあるし。ま。しかし僕は男である。もし女が他の男と肉体関係があったとしても、僕にふさわしい女だったら僕はそれを気にとめることができない。

 女は男が欲しかっただけなら、別に馬鹿だったというだけのことです。これに反して、そのような2人が出会ってなおそのようであれば、これは問題がちがって来ます。そうです。なぜ好きになることが体を求めることなんでしょう。ここの所が僕には分からない。

 結局、男と女の行きつく所は生理的欲求によって、それしかない、というなら、最初から、ねたい、というとの同じだ。ねたい、ということがあって、お近づきになるのと同じで、それは、ふさわしい2人の在り方ではないことになる。つまりふさわしい人が他にある2人が偶然、ということになる。ふさわしい相手に僕は会ったろうか。

 僕は、どんな男でも、その女をこれ以上愛せなく愛した女がいる。もし僕と同じくその女を愛す男は、僕と同じ(兄弟)だ、というくらいに。そこの所で体は、どうでもよくなる。しかし聖書には汝かんいんするなかれ、とあるという。とすると、ふさわしくあるのは定められた、というより個人の上に定められた運命ではないことになる。

 愛を知る以前の異性関係は許せる、知った後のそれも同じだ、ということなら。あー、もし女が僕を求めることがあったら、僕は僕を嫉妬せねばならないだろう。僕はあまりに神のことと、男と女のことを一緒にして考えているように思えるだろうか。普通男でも女でも、相手に他の異性があったとしたら、わりとカンタンにあきらめるものだと思う。しかし、それはなぜなんでしょう。



5.



 つまり、それは人を好きになることは、自分の意志で決めることではないからです。自分では自分のどのようなことも決定できません。それはただ神のみが可能です。冷たくあしらわれたから早々と恋の熱が冷めるというのは、神が人間に与えるなぐさめなんです。それは最初からその恋が、あの、ふさわしいものでなかったことを示します。

 激しい恋は、たとえ相手に無視されようと冷めません。絶望するほど恋します。たとえ相手が異性と現在ねていても変わりません。これのコメディ版が、妻子ある男子に恋す女です。女は男を恋すのに、安心感から始めます。その根本的なものは、それです。なぜって妻子ある男を恋してねても、ああ、女自身の運命を変えなくてもいいからです。

 むろん独身の男女にもこんな考えはあって、それは遊び、と呼ばれています。誰だって遊びと結婚はちがう、と考えているのではありませんか。ところが妻子ある男と女、むろん夫ある女と男でも同じですが、より真剣になってしまったとします。子を捨てねばなりません、相手をその配ぐう者から取らねばなりません。

 が、はたしてそうでしょうか。いいえ。ねることは無意味です。そうでなかったら、この新しい関係も前と同じく、ふさわしい2人の関係というわけにはいかないでしょう。

 愛こそ問題です。ああ、どんな場合、自分がすでに結婚していることを絶望するほど、しかし愛せるでしょうか。いや、絶望せねばなりません。なぜって、そうでなくては、また同じことのくり返しです。絶望せねばなりません。そして、なおかつ愛さねばなりません。そうでなかったら遊びです。

 さて、この絶望とはなんでしょうか。相手が得られないという、それです。(そうでなく、カンタンに相手の体を求める遊びにしてしまえば、そうではありません)これは例え独身の男女の場合でも同じです。真実の愛がない、というのは。おお、汝かんいんするな。おお、体は、道具でしかありません。この真実の愛がない、というのは、自己愛を理解してないということです。おお、なんということだ、しかし愛は、いやふさわしい愛は絶望を抱きません。ふさわしくないものだけが絶望するのです。おお、ふさわしくない愛から絶望を、そして真の愛を人は学ぶのです。

 なぜって、ふさわしい愛は、ただちに真の愛の関係に入ります。絶望は単にそうでないことを示しているにすぎませんから。しかも、真の愛を理解するには、ふさわしくない愛が必要なんです。体は、いや性は、なんてふさわしい道具なんでしょう。絶望のための、そして解放のための。真の愛を理解するためには絶望せねばなりません。




6.



 しかし、それは、ふさわしくない関係において初めて生まれるのです。このことのコメディ版が、いつか2人は深く結ばれ・・というケースです。なんて世界は素晴らしいのでしょう。おお、この世界に定められた男女はただの1組もあり得ません。なぜなら、そうであれば、絶望という機会がそこから失われ、従って真の愛の理解もないからです。(ここからなる男女関係の世の考え方、遊び、とかいうことも許されはしないけれどあり得るというのもはっきり見えます。)

 さて、ただちに真の愛の関係に入る、真のふさわしさとは。その前にもう少し絶望の愛を見ておきましょう。絶望は、自分にふさわしい人を求めることから始まっています。(むろん、それが、すんなり得られるならいいのですが)相応しい相手を求めるのは、自己愛です。しかしそれは自己愛の自覚なしに愛する自己愛です。というより自ら自己愛であることを欠如して愛する自己愛です。しかもそれが絶望である限りに於いてです。

 ここでは真の愛が得られないというのは次のように考えられます。それは愛が自分勝手なものであること、ということ。つまり相思の男女であっても、互いが互いに自分勝手にそうしているにすぎないのでは?ということです。ですからこれは本質的には片思いです。むろん、むくわれぬ愛とか、むくわれても真の愛を知りたいと欲求するときにこれは起こります。

 この片思いは絶望です。激しく、相手を求めて、絶望的に恋すのです。これは不幸な愛です。愛が何かであるかを知らないで恋しているのですから。いや、恋は、そのようにして、つまり真の愛を求めていることとしてあります。しかし求めていることとしてであり、得ていないという内にあるのです。つまり得ていないからこそあるのです。

 これはその恋がどんなに激しくシャイなものであっても同じです。その人自らが、というより、愛が愛自身にトリックをかけ、人を恋の術中におちいらせています。しかし人は、そのように理づめで恋したりはしないと考えますか。むろん。不幸だからこそ自己を考えるのです。しかもこのこと全体は、世界を理解したい、ということの内で動きます。

 ともかく恋。それは本質的に絶望です。片思いです。しかしその根拠は?つまり本人がいくら恋そうと、それは、恋という自己の知らないものに動かされていることにすぎないことに気付いていることです。もし、恋の本質を知らないままの恋なら、恋させられているわけで、恋しているのではありません。これは体験です。恋の本質である愛が人に現れることは。しかもこれは次のイエスの言葉なくして人には現れません。



7.



 汝自身を愛すように、隣人を愛せよ。これによって人間的には絶望が存在的に幸福になります。これによって人は神からつくられているものであることを知ります。

 とまあ、そういうことが絶望の愛です。いくらそれが隣人愛で輝くとも、それは本質的にふさわしくない相手なくしてはこの理解はあり得ません。恋する限りそれは不幸でしかあり得ません。ただそれが互いにふさわしくない相手であるとの認識を得るほど愛の真実を理解していなければ。なんという美しさでしょう。

 不幸な恋は愛の矛じゅんでした。しかし隣人愛は、現実のこのふさわしくないという矛じゅん意外に恋を完全なものではないと言います。神が言うのです。子よ、おまえにはふさわしい相手はない。で、世間では偶然の、つまりエンだとか、成り行きだとかで2人が結ばれるのです。



4.22

8.



 この世に定められた似つかわしい2人というのはありません。だからこそ恋は激しいのです。定められた2人はいません。そのことは次のことを意味します。ふさわしくない恋人こそ、真の愛の関係である、と。ふさわしくない恋人こそ真の愛の関係である、と。

 いや、ふさわしくないからこそ、男はすべての女を愛することができるのです。女は、すべての男を愛せるのです。では、逆に考えてみましょう。この世に定められた2人はいます。しかもそれは男にとってすべての女です、と。この場合は、真の愛が現れるでしょうか。

 はい。ふさわしい相手がいない、というのであれば、探し選ぶのであり、全てがふさわしい相手というのであれば、全て選ぶのです。なぜ。それはひとりの相手を求めるからです。むろんここに言ってることは隣人愛のパロディです。隣人愛とは、存在の同一性です。存在が、かく在るという、そのことです。かく在る、とは、

                あなた自身を愛するように
              あなたの隣人を愛せよ、あるいは
              わたしがあなた方を愛したように
              あなた方も人々を愛しなさい

 という言葉を理解するということです。存在はこのようにつくられていることを知ることです。思考も感覚も感情も自己の根拠たり得ません。それは対象に故来するものです。

 それは自己がそう思おうとして思い、そう感じようとして感じているものではありません。この件について仏教では不生不死がいわれます。この世界にはよりどころがなく幻にすぎない、と。世界は確かに永遠です。

 事象や知識は単に発見され、人から人へと伝えられていくだけのものです。世界は確かに永遠であり幻です。しかし人間そのものは、それを納得ずくでこの世界に生まれたものです。そして死ぬものです。世界は不生不死であっても人間はちがいます。なぜって、世界を人間は根拠にしてないではありませんか。確かに依存関係には生起はありません。消滅もありません。しかしそれは物です。人間は依存関係に依存しません。
 
              
人間の精神は神の住む建築です

 むろんそれが最良のものであるために、住むもの自らが設計したものです。そしてそれは愛そのものです。人には定められた、恋人はいません。なぜ。そう人はつくられているのです。そのことに絶望します。なぜ。そのような自己愛自体が絶望だからです。そして、それだけでは、その愛を人は救えません。

 ただ、あなた自身を愛すように、
   あなたの隣人を愛しなさい。




4.23

9.



 人には、この世に定められた、ふさわしい相手はいません。ただし、一人をのぞいて。その1人とは。自分自身に他なりません。そして、自分自身を愛すように、隣人を愛さねばなりません。

 なぜって恋とは、相手を得ることによって、自己をなくしてもいいということですから。しかもそのことによって世界を得るということですから。

これが行為の極限であります。これは自己愛以外のものではありません。しかし、そういう相手は1人もいないのです。この美しい世界のどこにも。しかし、自己愛といっても相手を愛すことです。相手を愛すためには、自己愛はしかし、それが自己愛でないふりをする他ありません。



4.26

10.



 この世界に、自己にふさわしい異性は、誰にとってもいません。むろんただ1人をのぞいては。その1人とは自分自身です。このことを又書くのは、どーしても自己愛が隣人愛を知るその瞬間を書きたいからだ。それは確かに筆舌にかかりにくい瞬間であり、それは、ただ経験するだけで良し、とすることもできるけど。僕には必要があります。

 まず、それが幸福をもたらすものであり、世界のすべての人に知ってもらいたい。第2に、それ以上のものがあるか。むろんこれはA.このような2人が出会った場合、B.全く別の何かより本質的なこと。第3に、隣人愛さえ、その感じた瞬間、というより幾日かを過ぎると、自ら感じなくなってしまうことはなぜか、という問題があるからです。

 キルケゴールは確かに理解した。彼の言葉ばすべて信じられる。信じていること以外は何も言ってないようだ。しかし、この世界に自分にふさわしい人はいない、ということを知っていたか、と思う。しかし僕はどんなに彼と話したいだろう。そしてキリスト教。人は愛の宗教だとそれを言う。けどそのことが本当に分かってるのだろうか。キリスト教が世に広まってることは、キセキだ。愛を理解しないキリスト教徒など、あー、それはキリスト教そのものがつまづきになっている。

 はじめに恋があります。しかしそれは、どのようなものであれ絶望でしかありません。しかも恋はムジュンがあります。相手を求めているのですが、自分のために求めているのです。誰だってブスは嫌でしょう。恋とは自己愛です。自己愛ではありますが、誤ったそれです。それはまるで相手を理解していません。だからこそそれは絶望です。これはまるで恋すために絶望しているようではありませんか。
 しかし愛は、本質的に理解し合いたいということでしょう。




4.30

11.

 なぜ絶望か。むくわれぬ恋はなぜ苦痛であるか。
それが喜びである理由はなにもないけど、苦しみである理由もない。なぜ求めて得られてないそのことが苦痛である、としよう。しかし、その苦痛そのものとは何か。求めて得られないことを、それが示しているのであることを認めよう。しかし、それは何か。

 求めよ。与えられるであろう。

 現実的などのようなものであれ、とイエスは言う。しかし相手を望んでも得られない。むろん、思い通りになるなら相手の存在はないと同じだ。そんなものを神が与えるはずがない。むろん、どのような恋も絶望である。だから、それを理解し、解放されることを与える、というのだろうか。

 もし、信仰さえあれば、山も動く。

 祈りとは、自分のためでなく、他の人のためにするときかなえられないのでしょう。それとも人の感情は、神の意のままであり、何かを得るのではなく、苦痛をなくすことを祈るべきなのでしょうか。

 あの女が、真実の愛を知りますように。

 しかし、現実的などのようなものであれ、とイエスは言う。

 だから、なぜ苦痛か。僕はなんにも苦痛しようとして苦痛なわけではありません。ただ状況がそうだということです。僕はなぜそうなのか知りません。とゆーことは、僕の心も体も、そう創られているとしか思えません。

   しかし、苦しみによってでなく、喜びによって祈らねばならない。

 ある程度、家畜はイジめるほど、なつくでしょう。しかしかわいがられたらなお、主人を愛すでしょう。まして、人間は神の弟子なのですから。しかし、それがもし必要なことでしたら。



12.



 なぜ苦痛か。それが必要だからです。

 しかし神よ。僕は、あなたが人間の願いを聞き入れないからこそ、神であると信じてきました。しかし神よ、あなたを愛する者として。おおたしかに父は、子に、子が悪いようにはしません。たとえ子が、それ自身に於て良しと判断したことでも。それがまちがっているときには。

 しかし神よ。すべてはあなたのものです。願うことさえ、ああ、決して僕自身が決めたことではありません。あなたが僕をこうつくらなかったら僕もこんなように願えません。

 世界が美しくありますように。そして
 その美しさを僕が感じますように。

 神よ、これ以上求めるものはありませんか。これが例え願いのなかで最高のものであっても。おお祈りとは喜びである、喜びとは、満たされたことであり。ああ、なぜ神が苦痛を受け取るでしょうか。喜びでなく。苦痛を僕が神に感じさせることができるでしょう。喜びが祈りであります。しかし、おお、祈るため喜びを願ってはいけませんか。もちろん、いけません。いけませんが、なぜいけませんか。

 イエスを信じない者をも、救ってください。
 たとえ、イエスが門であっても。その門を通らない者をも。

 しかし、なぜ神は世界を創りました。必要だったからですか。なぜ神は救われねばならないものとして人を創りましたか。なぜ不完全なものとして。自分自身で救われねばならないものをつくりましたか。それが完全あものであれば必要ないからです。完全なものがなぜ生まれねばならないでしょう。神が世界を必要とすることなどありません。僕たちがこそ必要なんです。神は人をつくりました。しかし命はふきこんだにすぎません。そうです。人間は、むろん、この世界に生まれようとして、生まれました。

 キリスト教徒は神に祈ってはいけません。



13.



 人はなぜ、望んで生まれて来たのを忘れるのか。

 おお、世界は苦痛に満ちて
 美しく、極彩色のパノラマであり。
 そのために人は、生まれてきたのを忘れる。

 望んで生まれたのを忘れているうちは

 おお、世界は苦痛に満ちて美しく
 魂をうばってしまう。

 おお、世界は苦痛に満ちて美しく
 人はみな、生まれようとして、生まれたのを忘れてしまう。

 これがキリストの門です。まったく、ガラガラに開けっ放しだ。つまり、こうだ。



5.6



14.

 世界は苦痛に満ちて美しく
 人はみな、望んで生まれて来たのを忘れてしまう。

 ○○○○よ。おまえはすでに望むものを得たのではないかね。おまえの約束の通り、おまえは女を決して感情によってではなく、愛すなら。おまえの存在によって愛すならば。彼女は、すでに、おまえのものだ。他の恋す彼女は、あー、その存在のぬけがらでしかないのに。

 もしそれでおまえが彼女の体を求めたら、恐いことになるだろう。おまえは、自分が私に愛されていることを知っているはずなのに。おまえは、ただ、おお、しかし私がおまえを愛すように彼女を愛せと祈るのか。ならば言う、彼女がおまえを愛さないのは罪であるが、なにがなんでも彼女をそうしむけないのは、おまえの罪であると。おまえは愛されることにベストをつくさねばならない。と。

体は洗えばきれいになり
心は風に吹かれれば飛んでいきます。

 たしかに感情によって恋すことは、真実ではありません。なぜ、そうでなければ2人の恋人は永遠の恋を誓うなどということが必要でしょう。僕は存在によって愛します。存在にとって感情はつまらないものであり、体はなおつまらないものです。しかしそれを確心した今でも彼女の感情が欲しく、体が欲しいのです。ねばならないからです。

 「もしわずかでも信仰があれば山をも動く」と書かれているからです。もし得られないというのはそれがない、ということに他なりません。しかし得られたらカンインを犯すことになるでしょう。ここに問題があります。もし彼女を得られぬままにしておいたら、僕には彼女のその罪を負わねばなりません。なぜなら愛はやはり自己犠牲を要求するからです。その最強度のものを。つまり彼女のために僕の魂は死ねる、ということです。たとえ彼女の魂は永遠に輝くとも、そして、そのことを彼女がつゆ知らずとも、ということです。

 次に、得られた場合も同じです。これは彼女も僕も罪を犯すことになります。地獄に行くなら道づれ、というのでしょうか。意識のレベルでは、この2つは解決されます。山をも動くに対しては、すでに存在を得たのだと。カンインするな、に対しては。体は洗えばきれいになります、と。しかし、人は、その果実によって知られるのです。



15.



 現実レベルで解決せねばなりません。それは彼女を得るべきでしょうか、得ないべきでしょうか。得ない場合、僕は彼女を約束として忘れなければなりません。僕によって彼女が罪に問われるのですから。僕を愛せなかった罪と、愛した場合の姦淫の罪と。しかし、それから解放しないままにしておくのは僕の罪です。なぜなら、キリストは、それを赦してくれる。それを彼女に知らしめないままにしておくのだから。もし、そのようになれば、僕はやはり彼女を得ねばなりません。それはまだ方法も見つかっていないことです。どう彼女に愛の本質を知らしめるか。

 しかし人の感情は決して
自分でそうしようとしてそうするものではありません。

 だから、まず神のみができるのです。いかにも感情はつまらないものです。でも、それは命の在りかを、それを命が根拠にしてないということで示します。いや、それがなくてもできるはずです。彼女が僕を愛さなくても。しかしこれだとまた意識レベルとさっき呼んだものに戻ります。つまり果は味わうものだ、と。見かけより本質だと。しかし僕に1タラントより、10タラントを。



5.7

16.



 わたしは神に祈ったわ。あんたの体が欲しい。あんたの心が欲しい。 で、神はプレゼントしてくれた。アンドロイドをね。だからあんたにわたしは言ってやったの。あんたの体も心もあの女のものだけど、あんたの命はわたしのものだって。ずい分勝手なこというじゃないかって?

そーよ。あんたが自分の命を知っていたらね。知ってるはずよ。体も心も道具よ。それを使ってるあんたの命が欲しい。そーよ、わたしは、あばずれ女よ。そーよ。あんたがあんたの命を知ってたらね。あんたがいつかわたしの体が欲しくなったら、あんたにくれてやるわ。心が欲しいと言ったらくれてやるわ。犬に○でも投げてやるようにね。でも、あんたがわたしの命を欲しいといったら。ほんとうに、ほんとうに、あげることのできるものは、これだけなんだわ。あんたが自分の命を知っていたらね。



5.11

17.

 あの人を得られなくても神を信じます。それではあの人をください。あなたは愛でしょう。僕の愛を許してください。



5.16

18.

 感情も思考も、自己の根拠になりません。なら、どうして生きていけばよいのでしょうか。聖書にはあります。人はその果実を見て知るべし、と。ということは、行為によって、ということのようです。しかし行為は何によって根拠を得たらいいのでしょう。感情でしょうか。理性でしょうか。行為することができません。しかし、できないという根拠もまたありません。空に飛ぶ鳥のように明日のことは思い悩むことあらず。僕は、百合の花のように、それは、美しいということでしょうか。僕は美しいでしょうか。



5.20



19.



 理性によって愛すなら、その理性対象を愛すのであり、感情によって愛すなら、やはりその対象を愛すのです。

 眠ってて分かったこと。もし人が生まれる以前のことを憶えていたら、この世界で生きてる意味がない。

 感情によって愛すなら、相手の感情を求め、体によって愛すなら、相手の体を求めます。そして命によって愛すなら、命を求めます。

 計算による愛は、感情など、どうでもいいといいます。
 感情による愛は、計算など、どうでもいいといいます。

 命による愛は、命以外のものは、どうでもいいといいます。
 では、何によって、それを確かめるでしょう。



5.24

20.



 神は僕を愛しているけど、特別に他と比べて気にしているわけではない。現実的な意味に於いて。もしそうだったら僕は現実的な出来事などを我と思うだろう。考えてみよう。世界には、まだ、物心もたぬ間に死ぬ者がいる。体や心が不自由な者がいる。それら当事者にとっては、正にそのことが現実である。

もしそのような人が神に依り治されたら、その人は、現実的なそのことを我と思うだろう。神は人間の祈りを聞いても、その愛ゆえに叶えることはできない。ここに男がいて、女を欲しているとする。女が欲しいと祈ることによって与えられる女は、アンドロイドでしかない。男は女の心も欲しいのだから。神が与えないそのことに於いて神を信じる。しかし、これは苦の信である。本能的にそう感じるだけだ。

 神は個人を分けへだてて愛さないし、そうであることが許されるような愛し方はしない。



5.26

21.



 なぜなら世界は僕が創造しているのだから、幻にすぎない。僕は僕の運命を変えられる。だから僕は幻にすぎない。説明をする。

 世界が有らぬとすれば
 自己は有り、
 自己が有らぬとすれば
 世界が有る。

 僕は幻である。3年前、僕が彼女を受け入れていたら、僕はこの僕でなく、現在彼女が受け入れている男と同じだろう。心も体も目に見えるものはすべてそのような代用品としてあり得る。なぜなら、もし今、彼女が僕を受け入れたとしたら、僕はあの男の代用でしかない。そして僕は、どうすることもできる。目に見えるものとしては、いや、人間としてその全て、思考 感情 意識 認識 生きているという感覚

 僕が3年前、彼女を受けていたら、僕は生きているという感覚のある1人の人間として、くらしている。つまり、人間として生きているだろう。それを僕は想像できる。眼前に。そしてそれ、僕は、この僕と何だ変わりない。もし、そうなら。世界は思いのまま変わる。現実さえその思いのまま。とったコースにある。
 僕は僕の決心で、現実を変えられる。

 人は子供の頃、世界は思いのままにならないということから、世界の存在を信じるようになる。そう、自分の思いのままになるとしたら、世界は自己は存在しないのに、人は思いのままに世界をすることが自己のあることと思うとは。シーザーやナポレオンが世界を動かすだけ、自身と世界を無にするだろう。



 22.



(1)人間は自己の考えたり感じたりすることさえ、自分で決めることはできない

 あるいは

(2)人間は自己自身を変えることができる

 この(相反する)ことは同じことを示している
(1)は、変えられぬ現実が厳として存在する。そして人間はそれを根拠にしない。
(2)は、世界は変えられる。世界も自己も幻である。

 これは、あるひとつのものの2面性である。つまりそれはあるものの概念である。といっても(1)(2)は現実である。だから現実は、あるものの概念、そしてそのあるものとは、存在の本質である。世界がかく在るその在り方である。

 僕は髪の一筋さえ変えられない
 しかし世界を変えることができる
 といっても、世界そのものをひとまとめに

 僕は髪の色を変えることはできない
 命をのばずことはできない
 人の心を変えることはできない
 物理法則を変えることはできない
 しかし世界を変えることができる
 このどちらともが・・・・・・・を示している。
 ・・・・・・・を示しているということは
 は、このことを概念的有り方として人に知らしめていることである、
 ということは、そのもの自体の存在を知り得るということだ。

なぜ世界はかく在るか
目に見えるように、感覚されるものとして





・・・02・・・






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