人間とは世界です。






6.4

23.



 仏が六年間苦行して得たものは
 一杯のミルク粥でした。

 お元気ですか。あなたが僕を愛していることを嬉しく思います。僕に世界を与えてくれ、それが幻であることを示してくれました。

 人間の自己とは、現実のことです。人間とは、自分自身と、まわりの現実、そのものです。ある人間とは、その人間そのものであるという意味に於いて、現実そのものです。これが幻でなくてなんなんでしょう。このことは、人間の自己が対象性を持っているときには理解できません。なぜなら対象化は限られた現実なのですから。その自己もまた限られたものであるからです。

(1)だれも時間の流れを止めたりできません。
 ということは、時間は自己ではありません。

(2)だれも運命は自分で変えられます。
 ということは、それは自己ではありません。

 そのどちらからも自己は幻であることが示されます。しかしこのどちらからも、というこの有り方は実に概念的です。つまりこの世界そのものが何だかの概念として在る、ということです。

 あるいは(1),(2)とも逆に考えてみると、自己とは時間です。
 自己とは世界です。ということになります。



24.



 人間とは世界です。



6.6

25.



 人間は世界です。そうでなかったら誰がものを対象し、それに捕らわれ世界の内で自己自身を発見することができるでしょう。人間そのものがアートマンです。なぜなら、世界とは、純粋な抽象性そのものだからです。

 ごらんなさい。世界は美しく、とあるものとしての対象性を受け入れません。とあるものの対象性は常に、とあるもの以外のすべてのとあるものに根拠を得ていますが、それは想定された根拠、つまり、ここにないものとしてどこかにあるだろうものとしてあるだけです。

 この対象性を理解し、それに捕らわれることなく世界を見るなら、人間そのものは抽象性そのものであると、どうしていえないでしょうか。ごらんなさい。

 世界はそれだけで美しく在ります。あっ、そのように感じている時の人間、て何なんだろうと、思ったことはないでしょうか。

 お元気ですか。あなたは僕により多くのものを与えてくれています。そのために僕の前から姿を消しました。今ではなつかしく思います。僕自身の根拠をあなたに、ではなく、僕自身に置かれました。あまりに全てのものが僕のものになりましたので、まだ、それについて話すことが上手にできません。僕の存在の根拠が僕自身にある、なんと恐ろしく不安なことでしょう。



6.7

26.



 どんなに美しい恋も、それがモラル的にも、かくあるべきものとしてある恋、理想的には1人の男が1人の女と一生恋し続けたという恋も、隣人愛の足元にも及びません。恋はそれが美しいものであるためには、ただ1人を恋すのです。

 しかし隣人愛は、すべて、です。あー、人間は、自己自身を愛すようにつくられています。恋はいかに激しく美しくとも、自己愛でしかありません。しかし、隣人愛が自己愛に勝るとき、隣人を愛してやまないとき、自己への愛を常に彼自身が呼び起こさないとしたら・・・。すべての人に対して、自己を捧げるのです。

 あー、恋の、君のために死ねる、なんて、なんて、こっけいなんでしょう。愛と呼べるものは、隣人愛しかありません。そして、それを行った人、それはイエスキリストです。



6.10

27.



 あなたがあなたの隣人を愛すように、あなた自身を愛せ。これが必要な という人はイエスだけです。恋する人に言ってみましょう。あなたが恋すように、あなた自身を恋せ。むろんそうです。恋をしている。相手を得ている自身を恋してなかったら、どうして、人を恋すことなどできるでしょう。



6,15

28.



 イエスは僕に無限に近づく。仏は僕に無限に遠ざかる。

 つまんない。僕が僕そのものであることは、ただそれだけのものであり、ただそれだけのものであることはこれだけのものであり、これだけのものであることは。世界がただこれだけのものとしてある、ただこれだけ、とは、その根拠を自己に持つ、ということだ。つまり、これは、これ。そのものである。

 そしてそのような有り方としては、世界と僕を区別できない。世界がかくあるからという認識によって、僕はそういうものではない、という暗黙の、がない。世界は、それ自体が世界の根拠である、としたら、それは、それだけのものであり、根拠などというのは、ないも同じだ。僕は、僕自身に根拠があるとしたら、それはそれだけのものであり、根拠などというのは、ないも同じだ。僕は、僕自身に根拠がある、としたら、それは、それだけのものであり、根拠がないと同じだ。

 普通、世界は幻のように現れ、と考えるとき、その根拠たる別のものが見える、それは実在である。普通、自己は幻である、と考えるとき、その根拠たる別のものが現れる、それは実存である。

 たとえば因果関係によっては生起も消メツもない、と言うとき、やはり根拠が否定されてはいるものの、ないものとして想定されている。自分自身も幻であるというとき、それを感じている自分がある。

 むろんそうだ 世界が幻であれば、それは無限であり、命は永遠である。けれど、すべてが実在であれば、世界は有限であり、それだけのものでしかないというとき後者である、ということだ。

 世界が変化しないとしたら、それは在ることができない。

 つまり木はその果実で知られる。果実を見る時人はそれが木から成ったものであることを知る。しかし、果実そのものを、そのものが成ったと思うとき、つまり、の果実の根拠を果実に置くとき、それは、それだけのものとなる。それはそれだけのものとなるとき、それはもう生成しない。つまり世界が在るためには、それは幻でなければならぬ。



29.



 世界が在るためには
それは幻でなくてはならない。



 人間があるためには運命がなくてはならぬ。つまり幻でなくてはならない。くだらない人間でもよくやるじゃないか、自分の行為の根拠が他のどこかにあるように人に思わせることを。

 Aの根拠はBであり、Bの根拠はCであり、Cの・・・と永遠にあらねば在ることができない。僕としてはこれが嫌であった。でも現実がそうであってもそれを人間が真似することは少しもない。



6.18

30.



 世界が在るためには、それは幻でなくてはならぬ。幻であるとは生成、変化するものであることである。生成変化するからこそ世界は幻である。なぜなら、存在の根拠が常にそれ自体でなく他のものに措定しているからであり、それは永遠にたどっていっても常にそうである。

 そのようなものとして存在の根拠は措定された。ものとしてある。(むろんナーガールジュナの言うことは、ここから、因果関係によっては生成も消滅もないということがいえる)しかしこれは世界の、とあるものを見て、つまり対象を持って考えた抽象である。そう見ないとしたら。「世界」は、そのものを根拠として存在する、としたら。それはそれ自体で存在する。

 つまり存在がそれ自体にその根拠であるとしたら、それはそれだけのものである。それだけのものであるとは、全く、有限なものである、ということである。なぜなら、幻である世界は永遠であり、無限であり、それは、存在の根拠が永遠に無限に措定されるからである。世界がそれだけで存在するとすれば、それは有限なものである。世界が幻である人間は、また、幻である。それは根拠なく無限であり永遠である。

 それが、どうして幸福でないことはないだろう。しかし、しかし。事実は、世界は、それ自体存在である。生成も変化もない、つまり、有限なのである。世界は幻のように現れているのではない。幻のような世界は虹に例えられる。それは美しく見える。それを追いかけてそれが在った所に行っても、また虹はあそこで輝くばかりである。しかし世界は有限である。これが苦痛ではなくてなんだろう。僕自身も有限であるということだから。




6.6

31.



 人間は自分の根拠を自分に見るとき、有限である。これは僕にとって苦痛である。自分自身を救わねばならぬ。

 しかし世の中は永遠である。世界も人も。根拠を他のものに持つ限り。あー、人は永遠でありたいために、自分自身を限定したものとして考える。そうすればとにかく他のものに自分の根拠をまかせておける。

 それが他人であれ運命であれ性格であれ、前提であれ。そうしてさえいれば命は永遠である。これらはただ、とあるものを対象にしている。世界の内に自己を発見する限り、そのようにしてある。僕は自分が永遠でないことを知っている。

 幻である、永遠なもの、根拠を自らにもたないものは、逆に自らも他のものの根拠になり得る。だから実体は空である。在るのでも、無いのでもない。

(有限なもの、その根拠を自らにもつものは、他のものの根拠にならない。)

 自己主張なんてものも存在のこの有り様から来ている。決して、とある人が、その人自身がそのようにしようとして、その意味を知って、そうしようとしているものではない。自己主張さえ、個人としての存在から生まれるのではないし、それが返って個性のなさを示してしまう理由もここにある。



6.18

32.



 もし神が、その根拠を自己に持つなら、それは有限なものである。神はむろん存在の根拠を自己に持つものである。とするとそれは限られたものである。なぜなら、それは他のものと並存しないからだ。並存するものは実体が空である。自ら存在するものは有限なものである。神はともかく人間はそのようなものだ。

 これが苦痛だ。人間が神にその根拠を見い出すなら、人間の命は永遠である。しかし自分自身にその根拠を置くなら、人間は限られたものでしかない。

 依存関係の認識によって世界は幻であると知るとき明らかに自我も幻であると知る。しかし深いところでは人間の永遠の命を感じる。自分自身が幻であると知るとき、人は永遠の命を知る。世界が幻であると知るとき人間はそれに依存しないものとして明らかに、世界があらぬものなら人の命は永遠なものとして知る。次に、自己自身が幻であると知るときには明らかに自己の命は永遠であることを知る。それは自己そのものが依存関係そのものと知るからであり、依存関係そのものは永遠なるものだからである。

 しかし疑問が生じる。なぜ、そうであるのかと。なぜ、現実はそのようであるのかと。なぜ世界は幻であり自己も幻であるのか。

 実体が空であると認識するとき人間は、空である自己を見て喜びに満ちる。なぜなら空である自己は消滅も生起もないから。そしてなおかつ自己は消滅も生起もないものとして、つまり幻として在り、そうであることは永遠に在ることだから。

 幻としてでなければ世界は在ることができない。世界は幻のように現れる、というよりも正確にいえば、依存関係でなしに世界は在ることはできない。なぜなら、それによらぬものは有限なものだからである。実体として生起したものは有限なものである。それはそれ自体に根拠を持ち生成変化しない。実体としてあるものは依存関係によらない。



  33.



 さて少し、考えてみよう。依存関係を見るとき人はどうしても時間を観ている。ということは幻である、とは時間の特質を示しているのではないか。なぜなら依存関係によって生じるものは、のものは、限定されてないから。というより、それは木や石やそんなもの、そのものとして考えられているものではない。



6.19

34.



 そこで問題が生じる。なぜなら時間関係を見ることによって永遠を知るからである。依存関係は時間の解釈である、もし、そうでなければ。時間による変化、つまり依存関係を見ることによって永遠を知る、のはむずかしい。

 時によって変化しないものは、実体として生起したものであり、それゆえ限られたものである。



6.24

35.



 人間は時間的存在だ、としたら、それは永遠であり、幸福である。

 愛について。それは他人を受け入れることである、他人に働きかけるものだ。そしてなお、その感情そのものは自分勝手なものだ。だから、むくわれぬ恋においてその対象を憎しんだり忘れようとしてはいけない。ただ愛する人なら愛すべきである。なぜなら、その感情は自分勝手なものだから。自己自身が愛すことの方が正しい。自己自身がにくしみや忘却であるよりは絶対に優れている。

 そして愛が、どうして幸福でないことがあるだろう。もし感情が自分勝手なものでないとしたら、どうして疑いや嫉妬から自分自身を許すことができるだろう。では僕は、こう考えていることか。愛にしても、感情は、いわば対象に付着したものではないと。運命として○×△という名を持つ異性にくっついたものでないと。いや。愛することは他人を受け入れることであり、他人に働きかけることなのだ。そうだ。自分自身が愛するその存在になる、ということだ。

 おお、不幸な恋は、愛の対象と愛の感情を区別せずにはいられない。そしてその愛の感情が自己を神の友人たらしめないと、どうしていえるだろう。



6.25

36.



 そう思うなら、僕は明日会社を休むことも行くことも、いや今書くことをやめて散歩に行くこともできる。

 だから結局人間は自我があり、自由である、と考えられる。だろうか?いいえ。少し意識のレベルで考えてみよう。「僕が考えることも感じることも僕がそうしようとしてするのではない」と言うとき疑問が生じるのは、いろんなことを考えて、そのなかから選ぶ自我があり、選ぶことができるではないか、ということである。(ここはも少し分析する必要があるけど)ならば選ぶとは。選ぶとは数多くの内からその1を取ることだ。

 そこには、1つのことしかできない、ということが示されている。だから結局これは、人間が不自由であることを示している。しかし、僕にとって会社に行くことは休むことであり、書くことであり散歩することなのだ。(ということは別にして)しかし、選ぶそのときは、現在=過去=未来 時間の幅が生じている。むろんそうで何か比べることができるということは、そういうことだ。さて、「依存関係によっては生起も消滅もない」というとき、この時間の幅が永遠になるのではなかろうか。

だから問題A.

 依存関係による認識は、時間の幅がないときには意味を持たないのではないか。そのときとは、現在そのもの、つまり「永遠の今」なる現在に於いては適応されない。ただ時間(の幅)的なものとしての人間を想定するときにのに在る。これを解決せねばならない。

そして問題B.

 時間の幅の生じているときには、なぜ両極端が排されるか。たとえば人間の運命が定まったものであるとすれば、それは変化がなく結局それは運命と呼べない-人間が自由に自己の運命をつくれるのなら、人間はないも同じだ。つまり、このどちらでもないということ。あるいは、人間は自分の髪の毛1本の色さえ変えられないけど、床屋に行くも行かぬも自由であること。またあるいは愛の感情は、対自分勝手なものであるが全くその対象からはなれてはあり得ないこと。



6.29

37.



 行為によって愛そう。なぜなら感情による愛は自分勝手なものであるから。何故なら隣人愛は感情によるものでないのだから。

 隣人愛とは、自己を開け放すことなのです。神がつくったこの世界の友人と親しくなろう。世界のまんなかの道を歩もう。




7.1

38.


 感情による愛はもう僕を捉えることはない。感情による愛はその対象と本質的に通じることができない。ナーガルジュナの「両極端を排し」ということから類推すれば、通じることができないこともない、ということになる。むろん。運命として知り会えない場合、恋の場合、失恋の場合など、そして神を知ることなどの場合などでこのことは考えられる。

 感情は自己自身でそうしようとして始まり、持続するのではない、そしてその感情が愛であるとき、上のようないろんな場合に於いて、それは不幸である。どうして感情がそのようなものであるとき相手に通じるだろう。感情を変化させることさえできないのに、その感情が愛だからといって。どうしてその感情に自己をまかせ責任をとらせ、相手の愛と出会うことが期待できるだろう。

 たとえ出会ったとしても、それは自己のどうにもならない感情がそうしているだけだ。そこでは感情というどうにもならないもの、に自己はよりかかって存在している。これでは、相手に働きかけ、相手を認めることはできない。

 そうすることは感情による愛ではない。行為による愛である。行為による愛は、対象を決めない。愛の感情はそこでは存在しない。とすると、限定された特定の対象を愛することは感情によるものであり、そうであることは、結局、特定の対象以外がすべてギセイになっているし、感情もそのように在るということだ。(しかしそれがなぜ感情による愛=恋、であるのかは分からない。なぜ恋は恋であるのか)。その場合は恋する人自身も世界から排除されている。そしてその在り方が恋の感覚な人だ。恋は人の自我を措定する。

 しかし、行為による愛とは。それは愛によって生きるということである。簡単にいって、人とつき合うということだ。これではしかし、あの、依存関係とかの中に入っていくことである、結局、自己自身に根拠がない人と人とが仲良く・・・ということにすぎない。という問題が生じる。しかし思い出していただきたい。永遠の今、たる現在に於いては依存関係は正当性を持たない。今であるためには、むろん、自己の根拠を自己に於くのでなければならない。つまり自分自身の責任において、自分であることによって、世界の他人と知り合うのである。

 つまり、かく在ったからかく在り、かく在るのは、かく在ったからであるとのようなことがらを決して根拠にするのではない。むろん、これ、は自由のことである。では、完全な自由であろうか。人間は依存関係に依存しない。ほとんど、である。なぜなら世界には花がある。

 自我はない、という方が楽であろう。自我は在る。



7.3



 自我は存在する。では、何のために。この世界の在り方を知るためではないようだ。それよりもこの世界の在り方にのっとって、他人を知ることであろう。つまり、行為によって知るのである。それはつまり感情や観察によってでなく。この感情などは、全く自我にとってつけられたものであり、それによって知ることはできない。知ることはできないものとしてある感情があって、不思議なことにそれは神に通じている。

 そしてまた1方には現実という動かしがたいものがあって。その現実とはむろん自我が存在することで、むろん他人が存在することだ。こちらの方には神が見えない。で、何のためにこの世界に人間が・・・と考えてみれば、モラルだとかイエスだとか仏陀だとか、どうでもいいように思える。他人を知るためなら。

 しかしまた、感情によってはそれは不可能であることも事実なので。この行為によるものこそ神に望まれたものであろうか。しかし、ここでは神の姿は見えない。しかし感情によって生きる者は全くの幻である。それならば、それはもうすでに救われてもいよう、どうとでもなれだ。行為と感情は相反するものであるが、そうでないことがあるだろうか。

 世界、と僕が考えるときそれは、とあるひとつひとつの何かのことでなく、ばく然とした全体像を考えている。感情的人間は、その世界と自己が対になっている。それは自己しかないのと変わりない。感情によって他人を愛すなら、その世界の替わりにあたかも恋人がいる。このことは何を示すか。おそらくこれは、それが自己愛であるということだろう。そしてそれは世界からそがいされている。



7.9



 感情に依存して生きる人は、それ自ら幻である。それは自我がないということだからである。それは確かにネハンである。しかし、それではいけない。

 感情によって生きる人は、結局、自己のなかで生きているのであり、いくら自我の存在を確信していようと、それは、対象がかえって自我を在らしているのである。しかし感情によって生きる人も物理法則や運命やら他人やら、感情に支配されないものが見えている。

 世尊はある時村の衆に向かって言った。池の中にひょうたんを投げて・・・1面的には感情は無意味であることを示している。しかし、物理法則が、その迷いを正す、ということを示しているのではない。物理法則こそその迷いを現わにする、ということを言っているのではない。

 もし物理法則さえ感情の支配を受けるとしたら、自己は幻であり、世界は存在しない。では、物理法則のみであったら、また、人間は存在しないのと同じである。物理法則もまた感情を支配しない。沈まないひょうたんはまた、沈めと念じることは防げはしない。



7.10



 沈まないひょうたんは、沈まずにいろ、と願うことによって沈まないでいるわけではない。感情によって愛すなら、それは、恋人をどの異性とも比べていること以上に、自己をどの同性とも比べている。でなければどうして恋が幸福であり、失恋が不幸であるだろう。

 ところで、そうすることは他のすべてを拒むことで、拒むことは拒まれていることに等しい。そのようなものは、その願いに反して、自我と自我の結びつきにはならない。感情によって生きるとは自己のつくっている世界で生きているだけであり、それは、それ以外のすべての世界の犠牲のうえにしか成り立たない。だからこそ感情による愛は犠牲なのだ。

 感情によって生きる人は、世界と対等である。つまり世界と自我が相対、2元論的である。それは自我がなくなれば世界はなくなる。しかし、世界がなくなれば自我はなくなることなのである。

 感情によって生きる人は、ただ、与えられた生の、その条件のなかで生きているだけであり、その実体は空であり、依存関係により生き生起も消滅もない。これは自己という見知らぬものに依存して生きていることであり、生きているとも呼べないものである。

 あるとき世尊はいった。「蜘蛛が自分で出した糸を伝って歩くように、欲に溺れるものは」。と。感情とは自分で出した糸なのである。感情によって生きる人はまだ生きているわけではない。だから死ぬこともない。不生不死である。すべてのこの世のものはその自己を汚すことはない。なぜなら、感情によって生きる人は自我がないからである。

 感情によって生きるとは、対象を捉える、ということである。対象に捉われることによって、仮に自我がなし、そのことは、自体的に欠如であり、それが世界と仮に対等する。というのも対象するとは、その意味を対象されなかったすべてのものから得ており、(とすると対象されたものとしての自我は本来的に無意味なのであるが、)その自我が、(その自我に一応意味を与えているところの、気持ち的には無意味な)対象をさしひいた世界と対立する。

 この対象がさしひかれた(つまり対象に意味を与えるもの)は、無意味であり、対象することによって生じた自己も(つまり意味を与えられているから)無意味である。互いに互いの根拠を得ているのだが、それは迷いであり、搾取である。対立する無と無が屈折しているというだけで存在しているかのように思われる。光がプリズムによって虹になるようなもので、いくら美しくとも虹である。

 何かを対象すれば世界はその対象をさしひいたすべてで、その対象に意味を与えてくれるが、しかしそのような者を拒むのであり、拒むこと(つまり対立する、自己(世界))を示す。対象するとは世界から欠如することだ。これでは他人とつながりを持てない。いくらつながりを持ちたい当の他人でも、それを対象することによっては不可能だ。それは全くコミカルなことだ。世尊のことはまた、世界の友と呼ばれている。



7.12



 感情によって生きる者は、自己という見知らぬものに依存している。ところで、なぜ見知らぬものであるのかといえば、かく人は創られていて、そのままであるということ。生きていながらも、ただ、どこまでも自己たるしかないし、その自己も在るのではない。ためしに人に聞いてみるがよい。自我は在るか、と。ま、感情に依存する、とは、創造主に依存する、ということである。

 しかし神自ら、人間に神より優れたものであれと願っている。隣人を愛せ、とは、創られた自己を超えて他人と出会え、ということであり、それは決して、創られたままの自己に依存していては可能ではない。感情という見知らぬ自己に依存する人を恋すことはできない。なぜ、対象自らも知らぬ対象自らを、いとしむことができるだろう。それは幻だからである。

 しかもなぜ、真に自我である人を、そのようなものとして、恋すことができるだろう。

 神は人に5タラントを与え、そのままにしておいた者からは取り上げ、利殖したものには、多くを与えた。




7.15



 自我は存在する。これはむろん感情などに依存し、依存関係に依って生きることを無我としてのことだ。そのことは本質的に自己を知らない、ということだ。それは世界と対立していることである。世界と対立する者には、自我はない。というより、そのことは仮の自我を有らしめる。

 人間が自己自身にその根拠を置くとき、自我は存在する。しかしこれは苦痛だ。なぜなら、自己に根拠を持たないで有るものは無限であり、自己に持つものは有限であるから。

 しかしこの自己自身に根拠を置くというのも、また、依存関係という時間性から外れるのではなく、現在つまり今ということに自己を見い出すこと、によって時間性を考慮の外におくのである。それはまた世界という空間のなかで引き起こされる、あの屈折のようなものが起こる。

 むろん今、とは永遠の現在であるから、それは全く不動である。ただ、やはり、今も、時間制のまっただなかに在り、いやおう変化を強いられるとわずかでも考えるとき、自己はまた、依存関係のなかに在ることを認めるのである。

 しかしこれはまた問題がちがう。今であるとき人は、(つまりある程度自己の根拠を自己に置くとき)永遠のなかで人生という時間を、つまり死すべき身である自己を見つける。今に生きることによって、いわば無限時間が出現し、それは(あの空間と同じように)人生がさしひかれた分の無限時間が人生に意味を与えるかのようだ。

 人が自己自身に根拠を置き、従って有限であるとき、人を死すべきものとして自己を見るが、それは同じく無限時間を認めることである。時のただなかたるいまに在ることは、自己が有限であることを示すが、しかしそう知ることは、〈客観的に〉また時間制、つまり変化、現在=過去=未来の変化を受けていくものとして感じられる。それ、つまり人生は有限であり、それと知らしめるのは、そこで認められる無限時間である。

 また、有限である人生が人生をさしひいた無限時間を在らしめる。この場合は、時間と自己が対立している。どうすることによって?自分自身を自分自身によって在るものとすることによって。

 先に空間の場合では、とあるものを対象にすることによって。時間の場合では、時的なことを対象にしないことによって。仮の自我が立てられるのである。ならば、空間の場合、とあるものを対象にしないことによって、時的永遠が。時間の場合、時間なものを対象にすることによって永遠が。そして自我が立てられる。

 しかし、空間のとあるものを対象にすることによってのみ、時間のとあるものを対象にすることができる。

 しかし、今であることを、無限性と見ることもできる。そのとき人は依存関係を自己自身のこととして受け取らない。というより、依存関係は幻であり、自己は依存関係に依存しない。実在であると知る。依存関係を時間的なものとして、関わらない。ここで自己を無時間なものとして、関わらない。ここで自己を、無時間なものではなく、時のただなかにあって、それを考慮の外におく、と考えるとき、自己は、自己自身との時差。

 空間の場合、人は、やはり無空間的にある。つまり自己との距離は○である。つまり世界のどこかにいようと、自己との距離はない。ただ何かを対象するとき、はじめて距離が現れ、というより、距離が対象させる。この離れていることが、離れているものに執着するとき人は、その離れを近づけようとする。しかしその対象が他人、異性だったとして、その異性自ら自身と無限に離れているとしたら。

 この距離は1mとか1kmということではない。そうでなくては、どうして、お互いが恋しているだけ、通じ合っていると思われているだけと思われることができるだろう。けど全く距離が関係しないことはない。というより、関係しもする。

 それがこの件に対して、より本質的なことだから。



7.16



 距離。とあるものを対象にし、それに捉われるとき世界は、その対象をさしひいたものとして、その対象に意味を与える。あるいは、対象に世界の意味が宿る。

 けれどそれは、世界と自己は対象している。対象にし、捉われることは、求めること、である。求めていることは、求められていないことを示している。求められていないとは、自己と対象が離れていることである。これを距離という。

 これはまた自己自身でないものを自我とすることである。何かにとらわれ対象するとき、それは自己と対象との距離でもあるが、実に自己自身との離れでもある。具体的にいうと、自己は感情と離れ、依存関係と離れる。むろん、自己は感情やらを根拠にするとき、自己自身と離れる、ということだ。あるいは離れをうめようとするものが感情として現れる。

 では、離れが感情を起こさせるか、逆か。離れは感情を起こさせる。しかし感情は自己から離れている。依存関係とは、まったく時=空的に自己と離れているということだ。

 他人のうちに依存関係を見るとき、自己は無時性なものとして見なされる。このことが、自己は存在する、ということだ。この自己はしかし自己を無時性なものとして、一応見ていることを知っている。無時性とは、ただ今のなかにあって、それを度外視すること。つまり現在=過去=未来といういやおうなしの時性のまっただなかにあって、それを無視すること。けれど、このことを考慮するなら、自己はやはり死すべきものとして人生である。このとき無限時間のなかでの人生が感じられる。

 距離と対象。いかにして人は対象に捉えられることができるだろう。対象○と、その対象がさしひかれた世界がその対象に意味を与える、このことと、距離の関係は。







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