何をやったって、結局、僕は僕なんだ。これは苦しい。






7.17

 距離の概念。



 僕、依存関係を見るとき、自己自身も時的なものとして、幻として、見ることもできる。けれど、僕を時のまっただなかにあってそれを度外視し、無時性とするとき、依存関係は他人のうちに見られている。そのとき依存関係とは、自己のなさである。自己のなさとは、自己の根拠を自己の知らぬものに置いていることだ。自己の根拠が自己にないことだ。

 自己の根拠が自己にないことが依存関係である。それは例えば感情などに根拠を置くことだ。この感情はなぜ起こる。それは距離によって。

 距離とは、なにかを対象することである。対象することによって、仮の自己が与えられる。つまり世界と対立その他である。

 ここで空間、時間、感情、などはまったく複雑だ。

 隣人を愛せ。

 これは命令形である。ということは他に理由があることだ。つまり誰かを誰かがそうさせることは、そうさせること自体が他の意味を持つからであり、その意味をなしとげるためだ。で、僕は愛せ、ということを、神から与えられているもの以上のことをなしとげよ、というように理解する。人間はつくられて在る。しかし感情によっての愛は、自分自身の内にいることだ。つまり人は感情そのものが何であるか知らない。知らないものに依存しているなら、それはまだ愛とはいえない。

 しかし、逆に感情とは、ちぢまらぬ距離をちぢめようとすることではないか。

 しかし自己愛は感情であろうか。

 僕は僕自身に無距離的にある。



7.19



 僕は僕に無距離である。そして僕は僕について何も知らない。ただ何かについて考えること、考えたことを考えることがあるのみ。



7.20



 僕は僕に無距離である。すると、誰か他人自らもそうであろう。と、どうなるのか。それにはまず、無距離ということを分析せねばならぬ。世界のなかで僕は何かが僕から離れて何メートル、というように自己を基準に見聞きする。とはいえ、僕は僕自身に無距離だ。自己が自己に距離があるとは、とあるものを対象にし、それに捉われ、それとの距離を縮めようとすることである。



7.23



 しかし、どのようにして自己は対象に捉えられるだろう。これは不思議なことだ。



7.27



 僕はこの世界に根拠なく在る。むろんもし何だか根拠があるとしたら、それはかえって自己の根拠を他のものに持つのであり、自己のなさを証明していることになる。この根拠とすることは、自己が対象に捉えられていることに近い。

 この根拠とすることにも、時の幅が前提される。そうであってはじめて自己は、根拠を得る。くらべて見るために時の幅が必要とされる。時が考慮にはいるとき、人ははじめて・・・時はかえって自己の根拠を得るための方便として使われるような働きをする。・・・・だから・・・・・・である。とか・・・・・・であるのは・・・・・・だからである、と。

 この場合、・・・・であることが、その人の行為の考えの根拠であるとして、そのことによってその人はいかにも存在しているかのように思われても、それは・・・・・・によっての反応であるにすぎず、・・・・・自体もまた自体的存在であることはない。まさに根拠を持つそのことに於いて、それがいかにもゆるぎないものであればあるほど、その人は存在しない。なぜなら、その根拠は、また別のものを根拠とせずには、あり得ないからだ。

 時間のまっただ中で、空間のまっただなかで僕はしかし、何のためにかく在るのか。むろん、何のために、の何があるようでは、こう考えることもできない。

 朝になったら目を覚まし、歯をみがいて会社にいって、仕事して帰って、これはなんなんだろうか。

 人は解脱したり聖者になったりすることが本当にあるのだろうか。

 キリスト教の、あの天の国に生まれたとして、それが何なのだろう。



7.29



 僕はもう永遠に生きているような気がする。



8.6



 この世界で、「ただ在るものだけが存在する。つまり無根拠であるものだけが存在する。そして、無根拠とは、他のものに依存しないことだ。依存しようのないものである。だから、人が、あなたは何ゆえに在るか、と問われたとして。自己自身に根拠がない故に、と答えることは正しい。そしてもし存在するものが存在するものである限り、かくあらねばならない。

 しかし人間がかくあることを知ったからといって何になろう。
苦しみから離れ感情に支配されないことが何だというのだろう。
ただ僕にとって、そうであることは疲れ、タイダを起こさせる。

 この無根拠は、無距離をこえているか。

 つまり無距離は時空的に在ることを度外視したものだ。
 つまり無距離であるから無根拠であるなら、まず、無距離を知らねばならない。

 いや、そーいうことではない。僕は僕に対して無距離だ。
 けど他人は?


8.7



 人にはこの世に定められた異性はありません。なぜなら、有るとしたら、自己もまた定められたものであり、かくかくしあじかであるだけのものでありますから。



8.22



 さて。感情は、その対象あってのことだ。にもかかわらず、それは対象自らには何の関係もない。この件について、僕は自分の感情さえ、自分に関係のないことだといえる。(なぜなら感情は、はっきりとその感情を感じることはできても、それが何であるか人は知らない)。けれどまた人にとって人それ自身さえも自分にとって見知らぬものだ。ところがさて、このようなことによって人は感情に支配されなくなるとしたら、それはこのような状況がそうさせたものではないだろうか。

 つまり感情に支配されぬことが、それをもたらした状況より、より本質的なことだ、とどうしていえよう。

 また、その状況が、まったく不幸であるときに。むろん人が不幸をコクフクすることがあるなら、まったくの不幸のなかでしかない。ならばなぜ人は幸福を求めるのだろう。

 ではまたこう考えてみよう。感情は、その対象あってのことだ。このことはつまり、対象という根拠を持つが、感情をするその人自身においてはない。つまり感情はまったく正当性を持つのは、それを感じるその人自身に於いてである。つまり対象自らは関係ない。

 やはりこうなる。自己にとっては、自己が何かを知らぬゆえに自己があるように、感情についてもそれが何であるか知らぬゆえに正当性がある。自己にとっては。

 人は、自己や感情や感覚や行為や、まったく自ら見知らぬものに依存している。いや生きているこの生きているという見知らぬものに依存している。



8.23



 ならば、人は環境しだい。不幸を超えることは、不幸のなかでしがみつかない。不幸を超えることは、幸福のなかではみつからない。けれどそれは不幸という機会があってのことだ。自己は自己が生きているというまったく見知らぬものに依存している。

 ならば問う。感情だとか、この世の幸せもまったくそれ自身において見知らぬものであるなら、なぜ、それに捉われてはいけないか。この世の幸はしかし、程度の問題である、と答えるだろうか。

 たとえば金、百億円だろうと、千円であろうと、満足できるならば。むろん求め得るもので幸になると信じられるものは、すべて、この程度が関する。

 金があればなんでもできる。なぜなら金があってできないことは、金がなくてもできない。ということを別にしても。

 それがどうしても必要なときの、電車に乗るときの130円、ランチの500円など、わずかでもこの程度問題が度外視されるのは、ある状況に於いて、つまり金がある特定のものとしてではあるが、それ自体ぎりぎりの対象になる。そこで電車に乗る130円がないなら。そのことをいくら思考してもムダだ。




8.24



(1) 対人関係においての感情。
(2) 状況に対する人間の無意味さ。
(3) 神の無関心

 これらはみなひとつのことに原因を持つ。それは現時ということ。つまり今。

 「今」の特徴は、「意味」が失われることだ。昨日みたように現実的な幸、不幸にしても、ぎりぎりせっぱつまった今となれば、それは程度問題であることを一応やめる。そしてそのように程度問題がはじめから度外視されてしまうのが、感情である。感情は対象から得られるものだけど、それは自己をその限りにおいて支配する。

 つまり対象がなければ感情はない。ということは、なにも感情そのものを僕はそのものとしてしか知らないし、それが何でそうなのかを知らないから、ということで、自己は感情に支配されない、ということさえ、とある状況において得られるものである。

 そのとある状況というのは、不幸の状況だ。もし不幸でなければ、また別の有り方をしているだろう。(ここで、対人関係においての感情が分析される。)なら、幸福であろうが不幸であろうが人はどのようにかで有り、どちらにしたって、その思考することも、感情も自己でなることも、いや、幸福であるとかないとかさえも、なぜそうであるのかを知らない。そうだ、まったく無意味ではないか。これが「今」の性格だ。「今」はものごとから意味を消去する。

 では逆に意味らしいものが現れるところを見てみよう。男がいて女を対象にして、恋という感情を持ったとする。そしてその対象と感情を区別せざるを得ないことになった、つまり失恋したとする。ここで、彼女を得ないことは不幸であり、得ることは幸福だ。(ま、なぜそうなのかは知らないけど、とにかくそうなる。)この不幸のなかで、はじめて人は、感情は対象に関わりのないことであることを知る。

 では、関わることは感情によっては行われないのだ。これが不幸の原因のように思える。ならば、どうするか。もし真に関わりたいと願うなら、これはどうすればいいのか。

 しかしなぜ、不幸でなければ、このように考えようともしないのだろう。この不幸によって依存関係を知り、無我を知ったって、なんになろう。なぜってこれは不幸によって知ったのであり、幸福とそれは、さほど差がないものである。(つまりどちらとも自己の知らぬものであるから)そうなんだ、不幸がもし機会であるだけなら、それは世界のしくみとして考えてもいい。けれど問題はそうじゃない。機会ということが考えられるのは、人がまず始めからそうであるのを、発見するためのものなんだけど。

 これはそれをこえてそれが無意味なものであることの認識が僕を悩ませる。しかしなぜ不幸か。これは僕を不快にさせる。

 たとえば人にはそれぞれ運命があって。なにかであったからその人がどうなった、と考えられる。しかしそのなにかであったから、の、そのものは無意味ではないか。ならば人は、運命に左右されることはない。なぜなら、そのなにかと人とが対立するときのみそのなにかは意味を持つし、その何か自体、その人自身はまったく。

 さて、まとめると。依存関係は、時や空間の幅なしには考えられない。つまり現在そのときにはそれが認識されない。正当性をもたない。しかし、現在そのものに於いて、すべての感情意識いや生命ということさえ、それ自体において、それがあるのみ、つまり見知らぬものとして無意味、つまり他のものによりどころを持たずにある。で、依存関係は時のまっただなかにおいても証明された。

 と、こうなるだろうか。それ自体はそうだ。



9.2



 体より心の方が優れているなどということはない。なぜなら、その理由がないからだ。



9.3



 行為においてそれらは統一される。つまり心と体の統一こそ行為であり、意味のあることである。

 体のない心、心のない体。

 心と体の統一が行為である。




9.5



 しかし行為もまた、すべてに先んじて優れているとはいえない。心が求め体が求め決意しても、それを試みることさえできないことがある。

 事態は非常に悪い。

 もし神が在り、神が罪と定めたことを人は行えるだろうか。言葉通りに。もし神が罪と定めたことを人は、そもそも行う可能性さえ考えつくことができるだろうか。ならばなぜ、人が行い得るような罪があるのか。人がこれは罪だと考えられるようなことがあるのか。てんで変じゃないか。

 もし罪を犯さない人が救われるとしたら、僕は、そういう具合になってる世界そのものが嫌だよ。なぜ、そんな具合に世界をつくらねばならなかったか、それが嫌だよ。

 神の存在は証明されている。それは人間がかくあることそのものが神の証明である。かくあるとは、さまざまな有り方で人は、感じ考え行動する、そのことである。かくあるしかなくあることは神がつくったことであり、それは神を証明する。

 人間的にいえば、罪は他の人のケンリを防げることだと思う。人を殺した人、ぬすんだ人。しかしそれらは、その罪を感じていないときは、まったく本来の彼であろう。カンインしたもの、人を計った者もまったく、そうしようがしまいがやはり同一の彼である。どんな経験をしようとしないと、本来的に彼であるものは彼である。

 経験はその人を変えない。ならばこうも言える。自分にして欲しいことを人にしてあげた人、自分にしてほしくないことを人にしなかった人、それもまた同じだ。経験を自己を変えない。そうだとすると、生きてるそのことが無意味だ。もし、わずかでも自己を変えることができたら、それは全く素晴らしい。



9.6



 経験は人を変えない。これは以前は、他人を理解するための、他人から自己を守るためのスローガンであった。人は見かけによらない、と。しかし、今。経験は人を変えない、というのは、人の生の無意味さをいう。なぜなら、行為が現実に働きかけることを経験といい、行為とは心と体の統一であるときに、それが自己を変えないとは。むろん、もし、あるならばそれは自我の永遠性純粋性を言うことになるのだが。

 しかし。

 では君は、君が永遠であることを知るためにこの世界に生きて来たのかね。こんな馬鹿なことはない。こんなこっけいな。経験は自己を変えない。
 
 これは、物ごとが自体的に空虚であることをいう。人は



9.8



 自分は自分であれば良いのです。人はみな自己のものさしで他の人をはかります。が、それは、かりて来たものであることを知るべきです。それがまた自己から一歩もでないことであるというのに、自己のことを人に知ってもらおうとするのです。

 ほんとうに、見ても見えないのです。自分は自分であればよいのです。何故人は、自己を人に知ってもらおうとするのでしょう。その実がないのにかかわらず、どこからそんな勇気がでてくるのでしょう。ものさして計る人がなぜ人に自己を知らせたがるのでしょう。

 それはすべて、人が自己であることを定着させたいからです。しかしそのことには神も力をかしません。他人も他人を知りません。自己のことは、自己が一番よく知っているものであり、それだけであることでいいのです。

 自己がかくあることを他の人に知らせることによっては、かくあることを確立できません。ただ、かくあることを自己が引き受けることによってのみ、かくあることが正しいとされるのです。



9.14



 A. 求めるものが得られない。このとき、感情は決して忘れないと決心するし、意識は全く忘れよう、と決心する。これが問題。つまり感情は、意識は全く忘れても、自分は決して忘れないと決意し。意識は全く忘れても、自分は決して忘れないと決意し。意識は、感情は全く忘れないでも自分は全く忘れると決意する。これは平安を欠いている。もしここで人が幸せになるとすれば、この感情と意識の意見の一致があるときである。まったくそれはともかく忘れるにしても忘れないにしても。

  B. しかしこれとは逆、意識は忘れないようにしても感情は忘れるということもある。つまり意識は、感情は全く忘れても自分は決して忘れないと決意する。と、これは求めることが得られた場合のことです。ここでも意見の不一致があって、これもまた不幸ですね。

そしてまた、現実にはAでありなが心的にはBであるようなこともある。これは一般的には「いまにみておれ」ということに思われがちだ。



9.15



 ともかく人は、このどのようにでしかあるしかなくて。それはまったくそうなのだから。どのようにあってもよいことになります。たとえ話はもう嫌だけど

 それでも僕はどのようにでしかないことが嫌いです。



9.17



 何をやったって、結局、僕は僕なんだ。これは苦しい。

 まず目を閉じてみよう。それであなたがあなた自身である感じは何か変わるだろうか。耳をふさいでみよう。以下同様。いや、何かを見ているときでさえ、あなたはあなたであるのだから、何も見ないでいるときはなお、あなたはあなた自身である感じを失うことはないだろう。

 ですから、ヒフ感覚や重力感覚について、意識的に無視してみるのがむつかしいものについても同様だろう。では、さて、あなたが味覚によって食事をしているとき、ヒフ感覚や、重力感覚を感じているだろうか。いないはずです。いなくっても、しかし感覚器も対象も在ることは明らかです。では、結局、感覚器による自己の有無はナンセンスということになります。目を閉じても聞いていても、目はそこに有り、対象はあれにあるのが事実だからです。

 ところが実にあなたは、感覚以外のもので自己や世界を知ることができるでしょうか。そして話の筋道は少しそれるけれど。感覚はやはり経験の条件であり、経験もまた同様であったとしたら。この場合、自我は無いと考えるほうが楽になります。もし、そうでないとしたら、なにを考えても感覚しても行為しても自我は普遍でありますから。

 この普遍であることは、どんなに苦しいことでしょう。世界も自我もそれは意味がないということですから。そうです。自我が変化するものでないとしたら、世界も自己の生存も無意味です。しかし、自我はいかにして変化するでしょう。変化させ得るでしょう。そうでないなら普遍であり、無意味ということになります。しかし、思考によっても。感覚によっても、おそらくは行為によっても、自我は変わらないでしょう。しかし思い出してください。あなたは変化は恐くはありませんか。その怖さは、むろん、この事態を知らないためです。



9.18



 だから死も、それがたとえ有から無への移行だとしても、それは変化であり、喜ばしいものである。



10.1



 男と女について。たとえば男が女を恋したとして。至上の恋をしたとしても、女から好かれないことがある。この件について僕はやはり、いくら嫌いな相手からも好かれることがあるということだ、と考える。つまり、いくら恋されても自分は相手のものにならない、と、こうなる。

 では、互いが互いにそうであるなら恋は、何になろう。互いが互いのものになるなんて不可能にみえる。そうだ、人は自分から相手に倒れることなくしては、相手を知ることはできない。ヘルダーリン「並んで立つ2本の樹は、互いに倒れることなくして互いを知ることはない。」ということになる。

 けれど、恋はまた優越感をかくしている。どんな恋する男も女も、それなしでは恋もない。何の優越感かって?いままで優越感に理由のあったことなんてないじゃないか。まったくそうなんだ。恋された女はどれほど自信に満ち美しく輝くとも。それは倒れてきた男を受けとめ得るかも知れないという優越感であり、ああ、そうである限りに於いて、女は、決して倒れることはない。自分の美しさについて、性格の良さについて、育ちのよさについて、そうなんだ。決して、自ら倒れることを誇りとすることが、かく、自己の知らないものによりかかって立つ人に可能だろうか。

 さてところで、しかし恋する男は、このような女をも恋する。かついくら嫌われても恋する。



10.2



 キルケゴールが言ったんだ。「嫌われたから、おまえを憎しむ、というのと、嫌われてもなを愛す、というのとは、どちらが強いといえるだろう」と。実に僕は彼を信じる。けれど、どーにもならんものは、どーにもならんのではないでしょーか。決定的にどーにもならん。具体的にどーにもならん。でも愛を信じることはできる。でもどーにもならん。




10.10



 その前に少し思考するということについて書いておく。思考するとは、自己がかくあるときそのかくあることを知る、ということであり、かくあることを前提なしに知ることである。それは、不可能じゃないかって。

 いや、かくあることは、ある前提が必要なら、かくあっての前提がかくあるものとして知られる。その場合、自己は前提によって規定されていたのであり、その前提が得られるところは、世間の習慣によることが多い。ここには困難な問題が多い。ここは苦痛にみちている。

 なぜって、その理由のひとつには、そこで思考することは得るためでなく解消することに向かうから。自己が何かにとらわれたないでいるために、思考し、思考するためには、前提を見つけておかねばならず、前提があることが自己を規定するのだから。だから自己は自己が理解したものを自己のものとして所有することもできない。けれどそういう自己のおもわくとは別に思考の事態は解消に向かい、なぜ解消なのかも問題にされるのだから。



10.18



 僕は生きている感じが嫌いではない。たとえ不幸のなかにあっても、天気が悪くても 体が健康な感じ、時間が流れる感じ、これが、問題。

 なぜって、そうであるからこそ僕は僕であるという感じがあるわけで、どんな思考もこれに追いつかない。この意味でこれは基本的なことなんだ。でもこれは当たり前のことで、自然に考えれば、どーということはないんだけれど。

 死にたくはない、まだ生きていたいとうこの気持ちがあるために、まだ生の意味がはっきりと理解しているわけではない、ということが分かる。そうだろ。

 恋人を失った人があれこれ考えて、あきらめようとして、その恋の有り方やらを考えぬいて忘れようとして忘れないなら、その人は恋の本質をまだ知っているわけではないということになる、というような意味あいに於いて。そうだろ。



10.31



 人は何がなんだか分からずに生きている。わけが分からんうちに結婚し、子供を生み死んでいる。このことは何なのか。

 たとえば罪ということでも、それがはっきりしたものだとしたら、何か手がかりもあろうが。妻子ある男が女をつくったとする。その男はだらしがないということではある。女は、そのだらしなさをがまんするほど汚いということだ。それは確かに罪であろう。事実としてどうだこうだというのではない。事実としてだけなら、それ自体としては何も引き出せない。やはりするとキリストの、「たとえどんな罪を犯したものも救われます、たとえ神を汚したものさえ。しかし精霊を汚したものはそうではありません」ということか。精霊とは、自分自身の精神以外のなにものでもない。

 ここで、だらしなさは罪の一種とする。すると、そういう自己が罪なのであって、そういう行為はただ現れたものにすぎない。つまり行為は偶然であり、行為なくても、罪は罪だ。とすると、人は、これからどうやってのがれられるか。かえって行為として現れた方が認識がはやいであろうか。もし人が充分に自分自身であるならそうかもしれない。しかし、しかし。だらしなさは、太りすぎもそうだし、自己主張もそうだし相対的に考えることも、そうだ。そこでそのような人が自己のだらしなさに気付いても、それを直すことは現実にはむつかしい。

 なぜならそこでは自己がそのだらしなさによってまぎらわされ限界になっているから。そのうえどうして太った人がやせ、自己主張する人が反省し、相対主義者が自己の目でものを見るようになっても、再び太り、自己主張をし、相対的にものを見ないといえるだろう。だからこそ人は経験として現れなくても、それから解放されることもあるわけだ。

 僕たちはこの世界について何も知っちゃいないじゃないか。この世界がどういうわけでこのようなのか、分かりゃしないじゃないか。だからといって、どうだというのじゃない。まさに、どうだというのではない。そうなんだ。だから、どうだというのではないじゃないか。なぜ僕が僕なのか僕は知らん。まして他の事象が考え方か他人を基準にすることなどしようたってできない。



12.8



 自我(の存在を)信じる者は、神を信じる者だ。

 もし、自我がなければ神はなく、神なければ自我はない。

 ここで自我があるのに神はない、あるいは、神がないのに自我がある、という人間も考えられよう。前者はまったく人間であり、後者は神そのものであることと差がない。これらはどちらも自我が個として他者の存在を見てもいない。

 ところでこれを分かりやすくするために、延長自我というのを考えてみることができる。延長自我とは、本来自我でないものを自我とすること、一種の幼児症である。具体的には、偶然だとか必然だとかこの世界のもろもろの現実を、過剰に自我の作用と思い込むことである。

 むろん、このような自己には分裂が生じる。その自己自身が、そうであることを正にそうであるために意識そのものがそのパターンになっており、それを理解できないものとして、延長自我 VS 我 という対立が生じる。その我と一応呼んでおくものがあるために、それがそこでは大切なものであるゆえに、その自己は、コッケイにも悲しくも、延長自我の強度をも高め、我を守り。意識しておかずにはいられないために延長自我を認めねばならぬ。

 ただしこの延長自我を野放しに近くすることはできるけれど、その自己はますます、そのパターンにおちこんでしまうだけだ。このことに気付けば人は、自己が熱すぎる風呂に入っていることに、熱すぎる風呂のなかにいて気付くのである。とはいっても認識するとは、いつもこうなのだが。

 とはいっても、これは、はなはだ意識的だ。意識的で有れば人は、延長自我によって対立させられ、かいま見られる真の自我を大切にするあまり、誤って延長自我の強度を高めてしまい、そこに分裂を意識する。

 けれど世の中には、みじんもそれを意識してないで、そうであるという自己も確かに存在する。それは事実、この延長自我 VS 自我の関係の中にあるのか、外にあるのか。つまりそれを理解し、それを解決していないのか、いるのかの区別がつかないと見える自己がまぎれもなく存在する。

 思考的には、これは・・・であるもの、と・・・でないもの、として考えられることのまぎらわしさ、というか、その両者の区別がむつかしい、ということがある。

 現実的にはおそらくここではイエスの、人は、その果実をみて、ということになる。

 ところで、このようであってなお、無意識である。つまり、延長自我と自我の分裂が起こらないものを考えてみよう、この分裂が起こらない2つの有り方として、それを理解し、解決した者と、それにどっぷりとつかってなおそうであることに無意識である者とがあるのだが、その後者について。

 ただこの両者を区別できるものは、この延長自我と自我の関係を知った者でなければならない。そして、これを知ることは、この無意識の方向を押し進めることも可能なのではないか。

 なぜなら、延長自我 VS 自我の関係は、それだけのなかでの対立そのものであるけれど、個人の傾向としては、そうでありながら意識的であろうとすることと、変ないい方だけど無意識的であろうとすることの2つのタイプがあるからである。

 ただこの方向があるうちは、どうして、その関係から自由であるといえるだろう。真に自由なのは、この両方に対して自由である者のみである。つまり意識的でも無意識的でもなくある(あるいはでもある)者だけが自由である。

 ただこの延長自我 VS 自我の関係は、意識的であれ、無意識的であれ、微妙な、危ういものであるはずだ。そうでなくては、自己であること、あるいはないことが、とあるもの事柄に定着してしまって、そうであることをやめてしまうからである。だから延長自我VS自我は、その中間だとかどこかの点に定まらない、はずである。

 ところが、世の中には、そうでない人がまぎれもなく存在しているように見える。

 その前にもうひとつの逆の傾向がある。それは普通、我と思われているものについても、それを今まで見てきた延長自我と見る傾向である。つまり我 VS 無我の対立。ここで人は、どうしようもなく自己であることを感じるのみ。



12.18



 美しい女は、その美しさによって、自己が自己以外のものと出会う。それは確かにどんな自己も自己を超えて外には出られないということからいえば、ひとつの優れた特性だ。詰まり美しさはコミュニケーションの手段であり、端である。(けれどそれがつながっている先は?)

 しかも、その美しさは、自己の努力によって可能になったのではなく(美しくない女は、その努力によって美しくなるのではないからさらに)誤解ではあるが強調される。女は美しさに酔う。そうでなければ、どうして美しさを自己であると思うほどにそれを延長自我とするのだろう。延長自我は、微妙なバランスの上に自我が立っていることを示すものだけれど、それさえ度外視することができるほど女は自己の美しさに酔うことができる。

 まず心理的に、つまりやっかみ半分にカンサツ対象をヒゲする見方でいってみると、美しい女は、その根拠を、美しくない女に置く。だから美しいと自分を思う女は、逆に美しくない女をたよりにしている。しかし、こんな見方で分析者自身を満足させられるなら、そこにはそれで良しとする心理的働きかけがあるにちがいないとしか、考えられない。

 むろん、対象事態がそのようであることもあるけれど、それは、美しい女といわない。みにくい女である。同じようなことだが、次に美しい女な、美しい女を根拠にすることとちがっている点というのは、(男は、美しい女を相手にするとき、実は、自分以外の男を相手にしている)ということのなかで、個人の格というか、そんなものをたよりにしている、ということだ。さて、美しい女は、このようなものにも毒されていないから、美しい女なのである。

 あなたの上下、左右にあるものに執着してはいけません。と世尊は言った。
 どのようにすれば、と学生がたずねた。つねに心を清らかに持て、と世尊は答えた。

 美しい女がいて、それにおとこが執着した。さて、それから逃れようと思い立った。そこで考えた。もし対象である女を見てそのたびにそれから離れるとしても、どうして、完全にそれから離れたといえるだろう。執着する心を理解し、完全に離れたと確心するまでは、いつまた執着しないとは限らない。これはむろん内攻性の男である。つまり内攻性とは、身体は自己ではない、心は自己ではない・・・と、延長自我の否定の方向性を持っている人である。失したいものがあるのだけど、いつ得てしまうか分からないといって悩んでいる。

 外攻性の人は、まったくこのようなことにはとらわれない。というより執着することができない。いつも自我と対象はずれており、対象の方が失行する。延長自我の拡大を考える方向である。ザセツすると常にあきらめるために、本質的に執着できない。これは執着を離れている、というのではなくて、執着する可能性のなかにいる。

 執着していなくても、いつ執着するか分からないーーーーー内攻性
 執着していても、いつ執着しなくなるか分からないーーーー外攻性

 という言い方をしてもこれは不正確だ。つまり内攻性が「執着をしていなくても、いつ執着するか分からない」と自分で考えても、実は、執着しているのが現状だから。外攻性が「    」と自分で考えても、実は、執着してないのが現状だから。

 さて、世界の一部の見方がここにある。ある人は、あることがらについては、内攻性だろうし、外のことがらについては、外攻性だろう。



12.19



 とにかく世界はこのように、内攻と外攻とを僕はみることができる。それは事実であり、もはや、そのどちらかにとどまっていることはできない。延長自我はコミュニケーションである。ただし、コミュニケーションの手段を自我と思いこむほどに、それは個人にとって、経験と強く結びついているのが普通。自己のしてきたこと、してこなかったこと、したかったこと、したくなかったことが、自己の人格を形成する、と、人はよく言うけれど、そうであることは個人的レベルでは、おうおうにしてかくされており、ベールにかくして、他人とつきあうという方法がよく見られる。勝手にしやがれ。そこには本来の自己はないのだから他に方法がないのだから。

 ところが正に、そうであることの、そのことに於いて、そうであることを認識することが、哲学することではないか。

 人々は、ある面では、内攻的であるけれど、それだけでは、どうにもならない。なぜなら外攻である人々もまた在り、彼らが、その方向性によってより完成されないとは言えない。とはいっても、それはそれだけの方向にとどまるだけではどうにもならん。とにかく人は、ともかく何か方向がある、というそのことに於いて公平に、平等ではある。つまり、現実として両方向があると、知ることによって、それは、やっとそうあることが正当なものであると認められるという有り方で、それらはある。







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