世界は舞台。けれど僕は役者じゃない。



1.20

 はく息の白く見える
 真冬日を
 恥かしと思いし少年の頃。

 顔やスタイルが美しいことは、他人にとって素晴らしいことです。けれど、心が美しいことは、本人にとって素晴らしいことです。とはいえ、心の美しさそのものも、また、それほど重要なことではありません。なぜなら、私たちには心というものはないからです。というより、それを持つということなどないからです。全て人は、何かを持つというのは幻想でしかありません。



3.23

 この世のしくみ。

 僕はなぜこの世がこのようであるかを知らない。この知らないとういことは意味があるか。



3.27



 伝わっていくもの、永遠なものはそれ自体においてはそうではないかも知れない。つまり、伝わっていくものは客観されるときにそう見えるだけかも知れない。依存関係ももしそうであれば、むろんそれは始まりも終わりもないというこの世界のひとつの見方であるけれど、実際にはそうでなくて



4.3



 世界は舞台。けれど僕は役者じゃない。

 おもしろいことに人間は、自分の体を生かしておくために現実的には衣食住のためには、何をしてもいい、ということだ。



4.27



 人が苦しめられ、しいたげられ、それによく耐えたとしても。それは決して神の前にあって優れたことではない。逆に人を苦しめしいたげることも神の前に悪ではない。なぜか。それはただ人の前にあって徳であり、悪であるだけであり、ただ単に、右のほほを打って打ち返さない者は、その打ち返さないという事実に於いて、しいたげられてあり、それは単にそれだけのことだから。

 ほほを打ち返さないことは、それだけそのことに於いてしいたげられている。それはしかし、ただ、それだけのことであり、何の意味もない。ここではしかし、打ち返すことのみによってその人に悪が生じてしまうように普通考えられている。それはしいたげられたことに対する悪徳だから。しかし、確実に、しいたげられ、それによく耐えることは美徳でも美でも優れたことでもない。というより人間にとっては美徳であり善であり優れたことであるだけだ。このどこにも神を認めることはできない。

 けれど僕はしかし、この、この世のこんなしくみについて驚感する。右のほほが打たれるものであることに、手でもって打たれるものであるのに、その物理的成立に僕は美しさを感じざるを得ない。現実のひとつひとつのものについては、素晴らしいものはなにもない。けれど、その関係だけは、ほとんどどんな関係も美しく、神の言葉に満ちている。



5.3



 生存感について。この呼吸をしている感じ、5月の風を。光をあびてる感じ。それは何なのか。ひとは天気がよいと気分も大体よくて快く歩いたり、あーよい天気だと呼んだりする。それは何なのか。天気のよい日には現実のベールをはぐと、この世界がこの世界であるしくみが分かるような気がする。けれど人は、健康な感じ、快い気分で、それをすぐに忘れてしまう。

 あるいはまた物そのものを見るということはあるか。ひとは常に関係を見ているのではないか。物そのものには意味がないのではないか。意味は関係から生じる。

例;コップで水を飲む。

 この場合、飲む、が関係である。コップも水もただそれだけは意味があるものではない。人工物であろうとなかろうと物そのものは単なるそれであるだけ。人がはじめて、飲む、という動作によって、自己が中心に立ちつつコップと水という物そのものを関係のなかにおく。

 では、この関係、は、あの依存関係であるか。

 依存関係とは。それに依るものは始まりも終わりもない、ということであり、それは伝わっていくものを示している。この世界に在るものは、すべて終わりなくはじまりがなく伝わるものである、ということをいう。とはいえそれはそのはじめから、人間の有り方、人間の関係において考えられている。

 つまり、いまだ物理的物そのものの存在については見逃している。

 つまり、この世界に、物そのものが在ること無いことは、まだ明らかにされてはない。それは人間の生存において見られたことであり、従って、人間の生と死を明らかにしていない。

  コップで水を飲む

 物そのものがあろうとなかろうとひとは関係のなかでしか意味を見つけることができない。

 右手でひとの左ほほを打つ

 物そのものとここでいわれていることは、物理的物でなくても(というより、すべての物は物理的であるが、)かまわない。

 動作と動作の関係においても同じである。

 ただ、泣く。ただ、笑う。これははじめから何だかの関係にあるようにみえる。けれど、それはそれだけで何の意味もなくありえる。ただ笑う者も、ただ泣く者も在る。そしてそれを知らぬかぎり何も意味も生じない。つまり、ただ泣く者を見る。ただ笑う自己に気付く。

 と、そこからさらに新しい関係がみつかる。

 では、水と笑うことは同じことなのだ。宇宙とこしょう粒はおなじことなのだ。ビールとスーパーマンはおなじことなのだ。

 全ては関係がなければ意味とならないことにおいて同一である。そして、とある関係でさえ、それ自体としては、いやそれ自体として意味があるだけである。

 とすると関係そのものも無意味である。

 コップで水を飲む。

 地球が太陽を回る。

 水そのものは無意味である。

 けれど水そのものは意味がある。

 この両者は同一である。つまり意味も無意味もおなじである。
 さらには、関係も無関係もおなじである。



5.8



 依存関係の実際。

 それはたとえば、百姓がまいた種が芽を出し葉をつけ花が咲き結実すること、は、そうはいはない。それと同じでたとえば人が生まれ育ち死んでいくこと、それだけでは、そうはいはない。

 どんなに時間に深く関わっていることがらでも、ただ必然当然の成り行きと考えられていることには。

 それは時の流れにあって、なにかがあり、それにひき続いてなにかがあるときに認められるのだけれども、それより深く自我の存在に関わる。

 だから、返って依存関係の内容は、ばくぜんとして考えられている。

 だから返って、依存関係とは、抽象されたものである。しかし、依存関係もしくは因果関係は事実として普通は考えられている。だとしたらその許容範囲は?具体的には思いつかないけれど例えば、Aが起こって次にBが起こるのを依存関係としよう。すると、おけ屋がもうかったとして、もちろんそれは依存関係ということになる。だから、まったく関係のないことがら、夜中に5寸釘を打つとうらみが晴らせるとか、うさぎの片足は幸福を招く、などということも依存関係といえなくもない。

 まったくこの世界には関係なくあるものはないかも知れない。しかしそれは普通ひとが明確に依存関係として見る関係もあやしげな魔術としてみる関係も、もしそれが関係だとしても、依存関係ではない。

 知識、は依存関係である。(世界のしくみは依存関係である。)知識は人から人へと伝えることができる。このことにおいて依存関係であり、知識は、その内容としては世界のしくみである。

 さて、依存関係は時間に関わる、なぜなら依存関係によるものは始まりもなく終わりもなく不生不死であるといわれるから、であるけれども実に深く関わるのは自我の存在である。自我の存在が依存関係をあらしめるのである。というより、自我は、依存関係を認知するつまり有らしめることによって自我の存在を有らしめる。

 さて、依存関係も「関係の特殊形である。」つまり物そのものには意味がなく、ただ関係のあることにおいて意味がある、そのことにおいて。・・・・だから・・・である。・・・・だ。は単に自我の存在を強調せしめるためにあるにすぎない。というおり、それそのものが自我であるしかない、ということである。

 では、自我とは、その認めるところの関係である、ということになる。なぜなら、依存関係そのものは存在しない。そして物そのものは、そのものとして在っても無くても(たぶん依存関係を含めるところの)関係なくては無意味だから。



5.9



 復習。すると依存関係は時間より空間よりも、自我に深く関わる。というよりひとが自我と思うものは依存関係そのものである。少なくとも、自我として表明するところのものはそれである。ということは時空そのものは自我という依存関係に関わらなければ、有っても無くても同じだから。

 それ以上に自我そのものも依存関係に関わらねば有っても無くても同じだから。しかも依存関係そのものも具体的条件であるわけでなく抽象された関係である。

 では、時なく、空間なく、物なくとも依存関係は在るか。

 かえって、依存関係にとって、つまり自我にとって、時なく、空間なく、物がないのか。たしかにひとは、時そのもの空間そのもの物そのものを知ることはむずかしい。たしかにひとは時そのもの、空間そのもの、物そのものを在ると想定して、つまりはここになくあるものとして、日常生活にあまんじてる。

 しかし実際に時なく、空間なく、物なくとも、依存関係はあるか。

 むろん、時なく、空間なく、物ないからこそ依存関係はあるということなのだけれど。
 たしかに時そのもの、空間そのもの、物そのものがあれば、依存関係は成立しない。



7.12



 なにか1つのこと、例えば、世の人が素晴らしいと認めること、ノーベル賞を受けること、同じく世界的な発明や発見をすることは。自分がこの世界に生まれて来た意味をその人自身に与えるものであり、なんだかのそこはかとない不安を一そうしてくれる箒のように考えられている。それはそうだ。歌手になって多くの人に知られること、政治家になって、会社の上層部員になって、他の人を自分が神であるごとくその運命をあやつること。

 それら人間の欲望は、ひたすら自己の生きている意味を知りたいことに存す。けれどなんてコッケイなことなんだ。そのどれもが得られても、それは単に現世的なことがらでしかないのだから。つまりそれは自己の生きてることの意味を求める概念でしかない。それらの行為は生きている意味を求めることが明白な前提になっている。よってそれは、その前提を知ることはない。

 考えてごらん、ほんとうにこの世界のしくみだとかイエスのこと、仏陀のこと、神のこと、真実のことを知って人は安らかである。人はなぜ自分が生きているか死なねばならぬか知らない。知らないことを知らないなんて誰もいわせやしないぞ。



7.15



 なにか価値あることをしようとすることは、自己の生きている意味を立てようとすることであり、そうであることを知らずにそうしていることである。つまり、お金持ちになったり有名になったりしたいということの本質は自己の確立であり、その現実的なことによっては得られない、ということだ。

 いや誰でも世紀の発明をしたり小説家にでもなったりしたりのあかつきには、自己は確かな自己として確実されるだろうとして努力している。しかしそのあかつきには、それは得られない。

 自己の確立は目的であり、現実的な希望はその手段であるにしても、それは得られないというしかたでしかないものだ。ならば、人々がザセツすることもいいことだし、毎日毎日自分の小さな自我を満足せしめる代償作用もいいことだ。この世界には確かなものは何もない。これはいいことだ。

 イエスか?世尊か?

 イエスは神であります。その代弁者であります。主なる神が世界をつくったといいはしませんでしたが、世界のしくみが造られたものであるとして、主がそれに絶対の力を持つとして、人間は



8.7



 ここのとこ何も考えることなくすぎ去ってしまう。で、前回の日記などを読み返してみると、なるほど、なるほど。でもこれを理解するのはむつかしかろうと思う。

 人の世界における出世欲、自己ケンジ欲などすべてのことは、すでに、代償行為なのだ。だからそれを追求することによっては、満足を得られない。何の代償かといえば、自己の確立の、である。

 ここで大切なのは、具体的なそのような事がらではない。このようであるという認識の方である。この認識があってはじめて、絶対にそのなかでは、自ら知ることのないあのような、このような事がらに捉われた自己から離れることができる。あのような、このようなことに捉われていると、絶対に、そのことによってはそれから離れることはできないそのこと、から離れることができる。「絶対に離れることができない」とは、人は自を知るために当然自がそうであるそのことが、あのようなことのような事がらであるしかなく、そのために、このことから離れることができない。

 あのようなこのようなことがらのなかで自己は、自己であろうとして、自己にいつでも無限に近づこうとする故に、あのようなこのような事からというより、その事態に捉われる。それが事がらでなく事態であることを知ることさえ困難である。

 人が自己に誠実であろうとすればするほど、自己は自己がそうであるそのことに於いて自己を知ろうとするのであるから、なおさらに。

 人はこの困難に魅了されてしまう。

 長距離ランナーのように、体操選手のように、音楽家のように人は、自ら行うその苦痛に魅了されてしまう。

 普通、ひとは、事態でなく事がらにたずさわっているだけのようにみえる他の人を、「普通の人は・・・」とか「世間の人」とか呼ぶ。そこには明らかに事態に少しでも関わることの優越感を認めているからである。このことは実は、人それぞれどの事がらによって事態に関わるかちがうということを示しているにすぎない。

 まったく純粋に事態に関わらない人、あるいは事がらだけに関わる人、ほとんどそんな幸福な人はほとんど聖人といえるだろうに。

 さて、事態そのものを考えるのはむつかしい。なぜ自己を、事がら、つまり有名になりたいとか、なんだかんだの欲望などによって知りたいことが自己を知ることにならないか・・・・・。

 ちょっとひと休み。相対論、二元論は、ムジュンである。単純に考えてみても、苦しみがあって楽がある、幸があって不幸がある、というのは、たとえば自分は今幸福であると感じるためには、不幸がその認識のためには必要というか前提というか、対立して考えられているものという考え、それが正しければ正しいほど、ムジュンである。どこかに不幸がなくてはならぬ幸福なんて、なんだっちゅうんじゃ。

 どこかに汚いものがあって清いものなんて、それがなんだ。と考えるのもま、抽象だから。そして具体的なもの、健康、病気、貧乏、金持ちなどは互いに対立しない。ていどの問題でしかない。あるていどのお金持ち、などというように、あるていどの幸福というものを考えるなら、抽象概念もありと具体的なものの名称になって、互いに対立しない。

 いや、ここのところには、様々な有り方がある。

 自分が幸福であるためには事項がどこかになくてはならない、というのは正しくない。自分が幸福であると認識するためには、どこかに不幸であると思っている人がいなくてはならない、ということだ。互いに相対してはじめて二元になる。これはあまり切実ではない。けれどこの逆、つまり自己の立場が不幸とか病気とか貧乏とか、であるなら、それがどーした、というのはむずかしい。

 でも、いってみようじゃないか、自分が不幸であると認識できるのは、あそこに幸福な人がいるからである。自分が不具者であると認識できるのは、あそこに五体満足な人がいるからである。それがどーした。

 「どこかに幸福な人がいてだから俺は不幸だ」という人に対立してある幸福な人に、僕は対立する。つまり幸福な人は自己に対立してある不幸な人に依存してある。依存されてたまるか。



8.19



 基準点。



 いかにして人は、相対を感じ得るか。ごく単純な例として、熱い寒い高い低いなど、相対せずして、それらの認識は、ない、としておく。とすると、それは返って基準点がない、ということである。世界のすべてがそうであるとは多分、まだいえないけれど、そうだとしたら。あの、人の、有名になりたいとか(これは心理的にいえば、ただ、他の人の信用を得たいことに帰着する)も、なんとか基準をつくりたいこととなる。

 それはまことに、相対(論)の有様どおり、基準は、ない。本質的に仮のものである。本質が幻であるものだ。

 なぜなら、熱い寒い高い低いは、相対せずには有り得ないに関わらず、その根底には絶対の、つねにここにないものとして基準を黙認している。これが僕は、相対主義の嫌われる理由と思う。相対は、熱い寒いをはっきりとさせる。けれど、その根拠は、結局、ない、としてある。

 相対は熱い寒いをはっきりさせる。けれど同時に、基準となるべきものは何もないことを明らかに示している。とにかくグリニッジを0度としよう。とにかく東京のどこそこを0メートルとしよう。このとにかくまあ、適当に基準を定めねば何もかも決められない。

 さて、人の生についてこの件を考えてみる。いや人の欲望だとか、心理とか精神とかそんなことではなく。僕は歩く聞く歌う水を飲む、ただその事実について。つまりそのほとんど意識せずにできることども。それもまた相対的であろうか。時は。もしすべてが相対だとしたら。

 人間は基準点なく存在する。あるいは言葉を変えれば、人は基準そのもの、他によって与えられたものではなくあるもの、そのものである。

 もし世界が相対であるなら、命は、それにというより、それ自身が基準なく存在するものである=ほとんど絶対であることとなる。この証拠は、次の考え方である。

 人は、その経験によって、その精神が決まる。つまり、この世界の中での運命は、本来の人間の魂の全てを知るほどのしくみにはなってない、徹頭徹尾に、ということである。この件についても、考えられたことは、全て誤り、ということは通用するだろうか。考えられたことは全て誤り。がどこに根拠を持つかによるが。この考えられたことは全て誤り、はまた、世界が相対であることを示している。世界が相対であれば、それは、それ自身基準なく存在していることであり、絶対ということだ。

 ところが世界には、残念ながら絶対がある。人が死ぬこと。これは絶対なんか絶対にないといっても、絶対だ。生と死は相対するのでは?否。比べることのできないもの、それが生と死である。好みによろうが人は素粒子と山口百恵を比べたり、ま、できる。

 まことに世界に生と死という絶対がある限り、世界は絶対でなくなっている。

 しかし生と死が、相対と考えてみることもできる。
すると逆に、僕は聞く食べる歩く呼吸するも絶対であると考えざるを得なく心がある。

 この世界は半相対、あるいは、半絶対。




9.25



 気がかりなこと、生と死、神と。もう僕は日常的に、一般サラリーマンとして平和に暮らしているわけで。それはそれでけっこうなことで、何でもない。それはそれでいいのだけど、解決せねばならぬことがあって、それが、これ。死と神と道徳のこと。

 僕はイエスが好きだ。けど神は、そのなすとされていることについて嫌いだ。

 もし僕が、あの30万人だとかのなかに選ばれたとしよう。お断りするしか他にない。もし僕がそうでなく千年王国の2度目の復活の後、善と認められたとしよう。ごじたいさせてもらうしかない。僕はたとえどんな悪にしてもそれに相対しての善であろうとは思わない。

 天国にある人が、地獄にある人があるからそうであると知って、はたして、そうであるだろうか。冗談じゃない。

 しかしこの冗談ではない、といっているけど、それは自我があると思いこんでいることではないか。

 反面、世界は神の造ったものであることはまちがいのないことなのに。そして我も神の造ったものであるなら。

 でもこれは、放っておこう。

 僕にとって、ここでは、神があろうがなかろうがどーでもいい。で、こんな僕が道徳について考える。それは、他の人が神から判断されることを望むことだ。これは全くムジュンする。この人の善悪を判断する神の働きを認めることは完全にムジュンする。

 そんな意味での神は存在してはならない。ならば、どんなことでも勝手にやっていいことになる。で、思うがままでかまわんことになる。この思うがままが僕にとっても嫌なことだ。

 神をアテにしてのフクシュウは嫌だ。

 キリスト教を広めようとすることは、逆に、フクシュウ心を捨てよということ、他の人を幸福にしたいということ。

 と、人の出来不出来を判断する神を想定することは、フクシュウの正当性を勝手に与えることなのだけど、そのことがキリスト教にとっては、放すことであり、フクシュウを忘れることである。いや、人を幸福にするためにこそ、キリスト教は人を判定する神を想定する。

 ほらほら、そんなことをするとバチが当たりますよ。
 清く正しく美しく生きて死ぬと天国に入れますよ。

 使徒は天国に入ることを望み得るか?否、ただ他人が入ることを願い得る。



9.27



 神と道徳。

   殺人、カンイン、盗み、などの割と具体的なことがらについて、その結果、神の審判がふりかかると考えられてあるときに、人は道徳という抽象的なことを想起する。この場合、他人を見てそう思っていることが多い。そこでなぜ、殺人、カンイン、盗みが悪なのか?それは、そう考える者にとって、それを行うことが神から罪とされると思われているからだ。つまり悪事は神から罪とされると考えられるから悪事である。人は悪事を見て神を思い出し、バチが当たりますようにと考えるけれど、悪事と神とのこのような関係で考えられることが、それらを不可分なものとして思い込ませる。

 というより、この両者の関係によって、両者が考えられている。つまりこの関係によって両者は考えられるので、それらが別のものだとかは、そこでは考えられない在り方である。それがこのことから抜けることができない主な理由。このことは主に他の人の悪事と考えられることについて考えられている。つまりあの人は、あの悪事によって神にばっせられますように、ということ。

 で、この悪事と神は不可分な関係と見られているけれど、まったくそのようであるから不可分で、人は自己をそのようなループのなかに置いているからだ。

 悪と神のバチ、これら両者は共鳴し合っていて、そうであって、人にこの関係が聞こえる、という訳。

 これはぜひとも脱せねばならない状況なのだ。ヒントは、もちろん、それが他人のなかにみられていることにある。

 しかし、今僕が考えようとしているのは、このことではなくて、このループから抜けることは、仕方なくそうなったのか、世界のしくみによって、そうなったのか、ということだ。



10.10



 環の研究。

 環というよりワナと言ったほうがいいかも知れない。人の

 ほとんど意識の背景というより意識そのものが、なぜそんな意識であるかを示すものである

 自己がどこまでも自己に与えてしまう正当性が問題になる。




11.27



 それはあなたの生命ですか?TVタレントに似た病気がちの男が僕に聞いた。僕はテレながらそうです、と答えた。なら教えましょう。あそこの道を左、そしたらフェリーがある、そこから東京まで5分!と力をこめて男は言った。

 そこで僕は、いつか来た時には逆の方向を回って随分苦労してたどりついたのを思い出した。船のドックや石でできた小さな橋を渡ると、小学校のような建物が見えた。その玄関に○○○資料館というような看板。そこにいた女の人にフェリーはどこです、と聞くと、キップはこの2階にあります、という。

 キップではなくてフェリーはどこです?と更に問うと、しかたない、私が案内してあげますと、おばさんと、いつか私たちは海の上を船に乗って走りだしている。僕はおどろくけれど、これでフェリーに行けるのだと安心もする。ほんとはね、かつらはいいのよ、そのままじゃ何か買わなくちゃ(救命具)乗れないね、などとおばさんはいう。

 僕は少し不安。何故(急ぐ)とおばさんが聞く。いえ6時までにとにかく見てなくちゃ(仕事があるしホテルとの約束との時間だ)。でフェリーに着く。それはさんばしみたいな小さなもの。(この時間は)女学生みたいな人がいっぱい乗っていて乗れないかもとおばさんいうので少し不安。でも乗ってみると少しすいている。

 更に先の方にすすみたい、なぜなら、フェリーの後ろは、よりかかるカベもなくて不安である。と一か所中央にかなりすきまがある。そこで何か公演があるらしい。誰かボムビートという。あ、僕その仕事やってるのだよとバッグの中からパンツを出そうとするが、ビニール袋に印さつされた×とか○とかの広告しか出てこない。

 それがあまりにくしゃくしゃなので、恥ずかしくなってなおす。こういうのも?とそこであった友人がいう。ふりむくと、細長い広告がはってある。(いや、こういうのはいろんな所でつくってる)と、サイトウがいる。おい、と僕はキグウを祝いたくなるが、僕はいたずら心から無視したような頬で笑いをこらえてる。僕はそれでもうれしく僕の寝顔が笑っているのを意識し、そして目覚めた。

 ずっと前の夢では男に会わなかったし、フェリーにも乗らなかった、しかし海には行ったし、そこは何となく物がなしくセクシーな海岸であった。あるときはドックにまよいこみそこは恐かった。夢の中の運命。夢もその場かぎりでない、不思議な感じがする、なつかしくきみょうだ。夢の中で現実を思いだすこともある。



12.11



 「黒」ということに意味があるか?否。では、意味ということに意味があるか否。では否ということに意味があるか否。

 「罪」ということに意味があるか?応。では意味ということに意味があるか「応」。では応ということに意味があるか応。

 このように、概念するということは、その何かを考えていることからかなり純化されねばならぬところがある。

 ある人がその人を罪人だと思った。ある人は勝手におもっただけだ。その人が罪人でないならば、ある人はあやまっていたのである。だからある人がその人をどう思おうと、ある人だけの問題である。

 ある人がその人を罪人だと思った。ところがその通り、その人は罪人であった。この場合、そう思うことも、であることも、どーでもいいことになる。と、簡単にはいいきれないところがある、それは何か?



1980.

1.16



 まだカオスもなく、まだ、と呼べるほどの時の流れもない頃。ひとつのという認識もない頃。生命が生まれた。そして消えた。この場合生命は、生命以外の何ものでもなく、対象としての物もなかった。生まれて消えたということがあるなら、時の流れがあったわけだが、そうではなくて、このことによって時が動き始めた。

 さて、それ以前には、純粋無があった。というより、純粋無があったとされることによって、というより、生命が生まれたことにより純粋無がかって存在していたことになり、存在が発生した。その発生した存在は無が欠如した無であり、ただちに消えることはなく、カオスが始まった。

そこに光あれ、という声があった。そしてそうなった。
その者は物と生命のルールを決めた。



1.17



 他人の自己主張を憎しむであろうその人自身は、自分の自己主張をかくし持っている。他人をケイベツしてやまない人は、また他人からケイベツされることを非常に怖がっている。というより、他人からケイベツされることを恐れるゆえに、他人をケイベツしておくということもいえる。このようなことが、ループ、である。

 これが人間の現象学的宿命であって、これは、どうしても、それをそれ事態として認識せねばならない。ただこのループの中にいる時、それは非常にむつかしい。なぜなら、それは個人として。特質と思われているものが内容であって、個人はそれにとらわれているのが普通だから。

 それは一種のワナなのである。しかもその形式といったら、ループ、わな、生存のくさり、から脱せねばならないものとして本来あるに関わらず、それは、やはり個人を特長づけると思われているものであるし、まずそれを概念するということ、それが形式であることを、つまり、現実と原理?との明確な区別を知るほどの知能を自分自身に対して処方せねばならず、またそのもの自体が、個人としての特長であり、それを打ち消す方向に働くものであるために、非常に困難がつきまとう。

 だからやはり、これはこのことのまっただ中でこそ行われねばならない。決してどのような心理の働きも心理学的に解してはならない。また、個人が何か個人について思うときは、まったく個人についてしか思えないことも確かである。まったく、自分自身は気が付かないけれども、ある性格を持っている、というようなことも、カンジョーに入れなくてはならないし、(これに対応するのが、人はその実をもって知られる)

 さて、僕自身のループは、「生きること死ぬこと」である。この問題を解決し解消せねばならぬ。







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