世界とは何か?



3.10



 ざあざあと時が落ちていく。

 その人が嫌らしい性格である、とかいうことは、決してその人を判断する基準にはなりません。と、ある時僕は、飲み屋のおばさんに向かって言った。なぜって、その人が嫌だっていっても、その嫌だってあなたが考えているところを誰か、好いている人もいるでしょう。このことを自分のこととして考えると、自分(の判断)と思っているもの、それによって自我を感じるものが全然無意味なものであるということだ。

 心や体があなたに反応しています。僕に、あなたを好きになっていいですか?とたずねて来ます。勝手にしろ、と僕は答えます。ねえおまえ、心よ体よ。おまえは現実に対して反応しているだけなんだ。どんなにあの娘を気に入ろうがかまわないよ。どんなに夢中になろうがいい。それはしかたないことなのだから。でも、どうしてあの娘が現実に反応しているだけだったら私達の気にいるでしょうか。それは単に

 だけども自我よ、心や体がまず反応して、自我がそれを望むも望まぬも、あなたの自由意志ですよ。あなたがあの娘を好きになるのは。もし、そうなったらそれはあなたが望んだとおりです。私達を通じてあの娘の自我と話しなさい。



3.24



 心や体は単に現実の有り様に反応しているにすぎません。ということは、現実の中におかれた自分の立場が置位、してきたことしなかったことを、あたかも自我とする立場に対しています。

 それはまさに、依存関係を自我と思うことに対しています。それらのことは、まったく人間は不自由であることなのです。自分の真に自由ならざるものに自我を置いているのですから。感情についても同じこと。環境や社会や人々などの関係で、どうしようもなく得られる反応、それに自我を置くことも、単に自我が不自由であることを表明しているにすぎません。それは、はじめから自我でないものであるにすぎません。ただそうでないために不自由であるにすぎません。

 では自由とは、自我がその根拠を自我に置くことです。消極的にはそうなります。依存関係、つまり普通には、経験、感情、物、などに自我を置くこと、認めること、信じることは、自我ならざるものを自我とすることです。そうでない自我は必然的に自由(なににも捉われない)である他ありません。中間的には、そうなります。ただ自我の根拠は自我にあります。では、比べるものなく在るものとして、それがどうして確かめられるでしょう。

 それはイエスを信仰するか否か、です。それはまったく、自由意志です。イエスの名を知る限り、信ずか否かはまったく自由です。それが正しいかどうかは全く心によっても身体によっても。感情によっても経験によっても判断つきません。お金持ちでも死ケイシューでも、神を信じることに何のさまたけはありません。信仰が感情であるわけはありません。単なる自由です。



3.25



 そこでこの神が、抽象概念でなければどんなにいいだろう。そうであるか否か、僕はまだ知らない。つまり自由意志の存在することの根拠は、人がどんなものにも、根拠を持ってはいけないということであるし、それは、ただそういうものとしてなら神しかないわけだ。これが抽象概念、つまり、こういう形式のものとして、こういう内容が考えられるというものでなくて欲しい、そうであれば存在しながら、その存在を感じることも考えることも見ることもない、その存在を証明し得ないものが神であります。が、そうでなければその存在を証明し得ないものということと神は違うということであります。まず具体的に、その存在を証明し得ないものが他にあるかどうか見てみましょう。



3.26



 イエスか世尊か。

 イエスは至上の神を認め、
 世尊は、すべてから解放されることを教える

 神の状況としては、
 イエスは神は絶対の創造主である。
 世尊にとっては神はただ世界を創ったものであり、それも無明によっている。
 ブッダは神よりすぐれている。

 人間にとっての
 
 イエス(は復活などということは言わなかったけれど)
 永遠に生きることは幸福である

 世尊には苦痛である。

 これはループではないか。

 女がいいました。あなたが私を愛したのは、ただ偶然であり、私がここにいたからではありませんか。男がいいました。では偶然とは何です。そうでないものがありますか。そうです、偶然と必然は同じものであると知らない限り、この答えはでてきません。偶然側から必然側からの対立形式にとらわれるだけです。 

 このような形のものではないか。

 どちらも生まれ変わりを認める。仏教によれば、それは業による。キリスト教によれば祝福されたものである。もちろん永遠に生きる、というのは、仏教の苦は半減される。しかし全くそれだけならキリスト教的にいっても何にもならん。



3.31



 なにものにも依らないのが自我である。だから単にそれは自我以外のものを、自我の根拠とするとき、不自由におちいる。

 しかし、実現的にそのようなものの在ることは何を意味するだろう。

 というよりこれは自我と呼んでよいものかどうか分からない。

 それは自我と呼べまい。では自我とは何なのか。

 つねに自我とは不自由なものとしてしかあり得ない。なぜならそれは人間としての経験は感情に依りどころを持つものだから。

 ふつう僕は、何を僕としているか。



4.1



4.6



 世界とは何か?



4.8



 生きていれば世界に対して反応がある。その反応が自我と呼ばれています。それで世界がなくなったり、身体が死んだりすれば、自我はなくなります。それだけのことです。その反応は体の状態やら経験やらによって多少の色づけというか歪みというかを受け、ま、それが、その個の特質になります。ただ雑念をはなれて世界をごらんなさい。それに反応して自我のあることが分かります。そりゃ自然は美しいでしょうとも。なぜなら、わりと勝手な気ままな、自己ケンジ欲などを感じないですむ、十全な、とも思える自我が見出せるのですから。

 でも、と思います。この自然は、ほんとにすばらしいものでしょうか?確かに風景は永遠を感じさせてくれることもあります。美しい日々もあります。しかしこの世界がこのようであるというこのことだけでも、イギをとなえられることができます。僕のあまり得意じゃないルールでゲームが行われているなーて。

 ま、それはよろしい。しかしかく考えることも、自我が反応であることを示すのではない。とも考えられます。世界の反応ではなく、もとから個であるものとしての自我の存在です。ただこれが在り得るためには自由でなくてはなりません。そして見て来たように自由とは、自我の依りどころを何ものにも置かないということに、つまり、反応にはとらわれないことに他なりません。

 そのもの、を認識することは確かにむずかしい。それは本来的に他の関わらず在るということですから。しかし我そのもの、世界そのもの、があるそのことでムジュンが起こります。いや、それはそれらの関係のなかから知ることができる、ということを言っているのではなく、関係があることも、不思議。では、そのもの概念、関係概念が存在に優位するものかも知れません。

 「そのもの概念」
誰しも、物そのもの、自我そのもの、という言い方はあると認めると思います。では、これは何を意味するでしょう。物、自我、さえ明らかでないのに。

 では、りんごそのもの、万年筆そのもの、ヒステリーそのもの、という言い方に出会ったら。それは、その個別的特質のプロトタイプを誰しも考えます。それ以外はナンセンスでしょう。だから正確には、りんごそのもののようだ、万年筆そのもののようだ、ヒステリーそのもののようだ。もっとくわしくいえば、りんごそのもののような形と色と味だ、万年筆そのもののような握り心地と書き味だ、ヒステリーそのもののような症状だ、ということになります。しかしこれとて、そのものは存在してないことを裏に証明しているにすぎません。



4.9



 自我とは何でしょう。「もし舌が無味でなければ、どうして食物の味が分かるだろう」では、もし自我が無でなければ、どうして現実が感覚できるだろう、ということになるでしょうか。

 たしかに1人で生きる限りは、世界に対する反応が自我であるといってかまいません。しかし世界には、数多くの人々が生きています。では、反応に対しての働きかけが、個性だとしてみましょう。この働きかけは、非常に自由意志に似ています。

 ある反応に対して、どう働きかけるかは、万差億別でありますから。その働きかける仕方といいますか様式、スタイルは、何によって決められるのでしょう。それは普通、性格と呼ばれていますが、性格とは、人が、持たざるを得ないものであります。それは人の世界に対するかたよりであり、それよりも何より、世界を認識するためのものであります。

 さて、性格とは何でしょう。ある人が、どんな性格か、ということでなくて、性格があるということは?ということです。人は世界から反応を受けます。その反応に対する反応の有り様が性格だとしてみましょう。これはしようことなく条件づけられたものとしても、個人の(この世界の限界内での)自由意志としてもあり得ます。

 性格(自由意志によらないもの)は、何ら個別的なものを持ちません。というより、それは持たされたというか動物的なものです。自由意志により性格は、まったく個別的性格ですが、それ自身、それだけでは無性格なもの(つまり1人で生きる場合は)であると知っていてそうなのです。しかし明らかに自由意識は世界に向かって働きかけます。生きている限り、人は世界に反応します。

 そのレベルを考えてみると、世界、他人に僕は今のことを分けて考えることができます。つまり、世界に対する反応に感じる者、他人に対する(他人からの)反応に感じる者や・・・。自由意志は世界に向かって働きかけます。他人に向かって働きかけます。というより対世界であるとき人は1人で生きており、自分にとっては無性格です。ただ他人に向かって働きかけるとき、自己の性格を見いだします。元気でやりましょう。



4.10



 今日仕事でシブヤに行った。歩きながら人々の顔を見て楽しかった。僕は世界を愛せると思った。世界を愛そう。世界には自我がいっぱいあって、過剰なほど幸福を感じてしまった。

 さて、自我は世界に反応して、というより、世界に反応して自ら見出せるところのものを自我と呼びます。では、なぜに反応するのでしょう。世尊は言いました。世界は無明を根として存在す。5感と意、つまり六根は空であると。たしかに世界に反応して自ら見出せるもの、とは、感覚、思考であります。

 そしてその中心にあるべきと思われている自由意志は、無意味なものであります。たいていの所、この無味なる自由意志と世界とは区別がほとんどつきません。自由意志は、ただ、意味もなく存在しているものでなくてはあり得ません。

 そしてそれが感じられるのは、自我という、とらわれです。それは世界の有り方を一部切り取り歪ませて我と思い込むことです。感情やら経験などという道具を見あやまって使用している本体を忘れることであります。

 自由意志と世界とは区別つきがたいものです。自由意志は無味なるものです。世界もまた自我化されなければ決して人を不自由にするものではありません。(自由意志以外の自我は、すべて不自由でしかありません)自由意志は世界を見て喜びに満ちます。世界には味があるからです。

 しかもなぜ世界が在るか、のなぜもない所にしか世界は存しません。なぜもないところに世界は在ります。だからといって、それが無明(迷い)だとも思えません。(無明もないかも知れません)不自由なる自我つまり感覚作用にとらわれた自我もそれによって現される自由意志も空であるとも思えません。いやまったくの空であります。存在している空であります。世界もまた根底なく在ります。存在している無であります。

 ここで空、無と呼ばれるもの、は行きがかり上そう呼ばれているもの、伝統的にそう呼ばれているとも考えられます。なぜなら人は、不自由こそ有と呼んでいるからです。ここで一度不自由を無と呼んでみましょう。自由意志とは有そのものということになります。

 そうです、イエス自身ではなく、キリスト教徒のいうように、世界や人は神が(この言葉はあまりにたやすく人の口からでてしまいます、注意しましょう)

 なぜなら、どうして存在する無を一体何がつくり得るでしょう。そして、どうして十全なる有がつくられたものであるでしょう。

(ここから空想)
 世界そのものが神であれば、話は別。その通でありましょう。



4.13



 世界を愛しましょう。なぜなら世界は神が創ったものであるからです。このことは、次のような決心を要します。神に祈りを捧げないこと、神という言葉を考えないこと、自我を認めないこと、です。なぜなら、その必要がまったくないからです。

 この現実の世界は神が創りました。なら、どうしてこれ以外のもの、以上のものを求めることがありましょう。なぜなら、被造物である自己が被造物である他のものを求めることはおかしいし

 ある愛するものが失われることを悲しむことはありません。それはもともと神の創ったものです。それに対して人が、それを自分のものであると思ったりすることは不要です。神はいつでも望むままに私たちにそれを与えてくれることができます。ですから、この世界をこそ愛すべきです。この現状をこそ。私たちには感覚される世界があり、その有り様を感覚し、(楽しみ)愛すことができます。

●問題点●
 このことは生きている限り、ほとんど現存点というか時の流れを意識してない限りに於いて正当です。つまり、このような考え方ははじめから、物事のひとつひとつの有り方やら運命やらを認めてはいません。それによってこそ在り得る有り方です。



4.21



4.22



 たしかに1人の人間としては、この世界のあちこちを経験するだけだから。経験や思考によって、個性があるならば、個人として見て、性格は雑多であることは分かりはする。

 そりゃ草木は何万と種があろう。それとても有限だし、科でいえばもっと少なくなろう。と、同じように人間の性格も僕はちっとも信じていないけど、3つの気質の分類される。それは、傾向というものだということにしても、それも有限なものです。

 そう考えたらこの世界は、有限なもので(無限のように)満ちている。これがやっぱり苦痛なんです。朝起きて顔を洗って歯を磨いて電車にのって、会社に行って仕事をして・・・・これだけのことも、それが有限なものから選ばれたことでないと知らない限り、誰かおもしろくもないと思えるだろうか。

 あたかも世には無限の可能性があると思われている。したがってその(1)に、可能性が有限であること、(2)に、無限なる可能生から1つをのぞいてすべてすてていること、が世の苦痛として感じられることである。ただ、(2)は、それが苦痛であるという理由はあまりない、(1)を見かけ上、強めるだけだ。

 この世は、有限なもので満ちている。そりゃ、時の中にあって個人としてはどの経験も新鮮ですけど。

 んじゃ、この世界は有限であれば、それに合わない人もいるわけだ。たとえば野球は上手な人も下手な人もいて。下手な人にとっては、合わないわけだ、いくら努力しても無理ということがあるからね。だからといって下手な人は別のことに向いているというものじゃない。ただ野球には向いていないということだけがあるのだ。

 というわけで、この世界は有限に満ちていて、それが嫌だなーと思ったって、その人が、この世界と別の有り方に合っているというわけじゃ全然ないんだ。神の国も有限なもので満ちていれば、やはり嫌だなー苦痛じゃと思う人もいるわけだよ。そんな人は二人でもいいけどね、ということになっとるけど。

 ところで話は戻ります。このように考える始まりは、この世でこそ求めるものを求め、(キリスト教の御国やら仏教の天国)を求めようとしたからです。

 この世のしくみを知りたいものです。



4.23



 自我とは何でしょう。ふつう私たちは何を自我と思っているでしょう。それはこの生存感

 感覚器というのは、世界が、私たちに対して語りかける働きをするために、(世界によって)創られた器官である。としてみましょう。(これは対象性の問題をかなりのところまで解決しそうです)そうでなくても、人間が感覚だけであるとしたら、(それは全く美しいでしょうが)私が普通考えている人間の姿ではありません。入って来た感覚に対して反応するものを普通は自我と呼びます。

 さて、これは何でしょう。ここで感覚はニュートラルな無性格なものと考えられていることに注目してください。そこでもし、自我と呼ぶものが無性格なものであるとしたら、どうして、人間の個性が認められるでしょうか。自我には、本来的な個性があることになります。それが例え感覚に対する反応のあり方というささいなものであるにしても、です。(ここで経験のことを考えても、そうすると時間という要素が入ってくるので、話はまた別です。)

 しかし個性ということは、すでに他の人を、前提としています。ならば感覚機能の単純なバラツキこそ、個性であると見えなくもありません。(こんな感じで美しく清潔に生きることも決して悪いものではないけれど)まったく感覚がクリアーであれば、それ自身透明であれば

 この事実が何を語るかみてみましょう。私が考えるときには、何を見ているでしょう。考えたものを、明らかに自己の内部へと見ています。このことは、感覚が世界との結がりであるとして、自我は、それ以外のものに目を向ける力を持っているもの、であることにはならないでしょうか。感覚器は働いているはずですが、それからの回路を遮断しているようです。



4.24



 世界は感覚を通じて僕に話しかけている、何を?世界を理解してくれと、これは何を示すか。決して人間が感覚を通じて世界を感じてやろうとするのではないことに注目しよう。

 というより、人間側の働きとしては、感覚を通じて世界を理解しようとする働きは、ほとんど、条件づけられている。というより、感覚は世界を見聞するだけで、ほとんどクリアーなもので、あり、僕のつごうにより、世界を理解したいと願うのです。世界を理解したいとは、僕の希望であります。これは何を示すか。

 感覚も希望も自我ではありません。そしてなぜに世界を知りたいかと望むのかは、苦痛によります。人には、考えたこともないような、感じたこともないようなことがあります。世界では絶対に出会えないことがらもあります。ということは、個性が人によってあることは、それゆえであれば、どうしようもないことになります。まったく、自分の知らないことで、自分が定められているのです。

 生きることもまた、なぜに生きるかを知らされないで、そうであります。それは例えば、ある人が誰かから命令を受け、その理由も知らされないで、何かさせられていることです。自覚すればこれは非常な苦痛です。

 命令であれば、絶対に何かさせられている本人にとっては知らされなくとも理由があるはずです。が、全然、そんなもののないものもあります。単にこの構造において苦痛であるという理由のために、命令があることもあります。

 心の貧しい者は幸せである。天の御国は彼らのものであるからです。イエスは言いました。心の貧しい者とは、求める者のことです。求める者は不幸です。なぜなら、それは天の御国は、この世では有り得ないことを示しているのですから。

 なぜなら求めて得られるというのならば、心の貧しいものが幸せであるはずはありません。心の貧しい者が幸せであるためには、心の貧しさが存在し得るためには、天の御国があってはならないからです。

 神は、この世界に徹底的に無干渉です。人に苦しみを受けた者が天国に行くとも、人を苦しめた人が天国に行かないとも定めていません。あまりに人間に、自由を与えるためでしょうか。

 あまりに自由を与えることは、確かに、愛のひとつの形式です。ある人がある人を本当に愛すときにも、そうするでしょう。しかしさらに過度に愛すならば、きっと苦痛を与えるでしょう。苦痛を与えて愛する人を自分のところへと呼ぶでしょう。なぜなら、それはいやされるからです。しかしもっと愛するなら、喜びを与えるかも知れません。

 人の愛が神の愛に似ているものかどうか?そして世界の在りようは絶対条件であるかどうか?これを度外視すると上のようになります。

 ほんとうの人の愛というのを見てみましょう。

 しかし憎しみの場合も相手に過度の自由を与え、さらに苦痛を与えるのではないか?さらにつまんない喜びが相手の個性などをキズつけるならばそれをも与え、大いなる喜びもそれを約束だけすることで相手に苦痛を与えるならば、そうするのではないでしょうか。



4.25



 愛によっても、憎しみによっても(悲しみによっても、たぶん怒りによっても)人は人に自由を与え苦痛を与え喜びを与え、約束をするでしょう。では決して感情を信じてはいけません。とはいえ、感情がはじめからないなら、自由を与え苦痛を与え、喜びを与え、約束をするでしょうか?

 もちろん感情はたとえそれが苦痛ではあっても(自己を)魅了するもの、対象と結びつけようとするものでありますから。しかし、それでなお感情はなぜ、そうであるかを知りません。

 ただ決意のみが、すべてをなし得ます。ただ決意のみが愛を認め、それをぜにんすることができるからです。そして多分決意は、決して憎んだり悲しんだり怒ったりを認めないでしょう。なぜなら、ある人がある人を憎しむことを決意することも悲しむことを決意することも怒りを決意することも、それはまったく愛すことを認めることに他なりませんから。

 私は感情そのものが何であるかを知りません。しかし決意は、それだけで明らかであります。

 感覚は次のように分類されます。目、耳、鼻、肌、舌は世界の受信器であります。そしてまた、発信器であります。ふつうはあまりにこの役割がまじっていますが。



4.26



 感覚器官は受信器でも発信器でもあります。私たちは、私たちは世界から見聞感じますし、他の人間のことを見聞き感じます。そして私たちは他の人間に向かって自己のあり方を発信しています。それでは、「世界」は受信するときには「自然+人間」であり、発信するときには「人間」へではないか。なぜなら世界は私たちを受信しているとは言いがたいでしょうから。

(このアンバランスは確かに私の性格を示します)

 それはまず、自然が私たちに感心があるかどか分からないことに原因しています。自然が私たちの表情を身振り手振りを読みとっているとは思えないところがあるからです。ところが自然は充分に私たちに話しかけているのです。自然から私たちへの一方通行的な関心です。

 ここで思い出してみましょう。感覚器官は確かに他の人への発信器でもあります。しかしそれが信じられるでしょうか?まったく否です。だれだって、嬉しい時に泣き、悲しいときに笑うということあり得ると知っています。もしかしたら他人というのは(自分が創りだしたもので)存在しないものでは、という考えがあり、実際に他人の存在を証明することは困難であることを知ります。(このことが感覚を信じられないことの証明になります)



4.30



 では一体、何を信じることができるでしょう。感覚も感情も私たちが、何だかの根拠にするもの足り得ません。

 あるいは身もフタもありませんが、全く信じる、などということは不用のものかも知れません。

 男と女の、男と男の、つまり人と人との関係が特に求められてない限り、全然必要ありません。信じることは、不信を排すことであるならば、やはり自然な生き方以外のものでありますから。

 大雑パに言って、感情や感覚→決意は他の人との関係を結びたいがためにあるものです。それは、それが表れたということは、すでにそういう働きがあることの結果です。

 それが関係を結びたい(あるいは反関係)の原因であろうとすることは、結局それが実現していないことでありますから。

 つまり、感情は、関係づけの結果でもあり、原因でもあります。 そのバランスがとれていれば自然であり、そうでなければただ、そうでないことにすぎないのです。

 まさに決意さえ、それを信じるに足るものと保証するものはありません。それ自身において明らかなだけです。



5.1


 感覚も感情も(決意も)、それ自身において明らかなものであります。そしてそれらは関係づけの受信、発信として表れ、結果、原因として表れます。

 例. ある男がいつのまにかある女に恋愛感情を持った(結果)そして結婚しようとした(原因)です。それは女を認めるという感覚に依っているし、しようとした決意によっています。そしてそれぞれもまた、関係づけの様態です。

 では、これは全て現実の有り様に左右されているからこそあるのではないでしょうか。関係づけがなければ、感覚も感情も決意もありません。なんてことない、それだけのことです。私たちは、生きていればこの世界に関係づけされているのを見い出します。私たちは現実の有り方に従い、現実の有り様のまま生きています。それだけです。

 また自我も、関係づけによって、生じているものでありましょう。

 それでも人間は、元気に生きていく義務があります。



5.3



 感覚は、(世界 知覚のための)受信器(信号)であり、発信器(信号)であります。

 感情は、行為の結果であり、行為への原因であります。

 そしてそれらは、関係づけというしきたりの中で働いています。それはこの現実に組み込まれていて、それ以外の有り様ではありません。

 感覚も感情もそれ自体において明らかなのは、すでに関係づけに組み込まれているからです。(では自我さえもそうなのでしょうか。多分そうです。)



5.14



 それでは自由意志も有り得ないのではないでしょうか。



5.21



 信仰よりも何よりも愛が優れています。そしてどのような行為も愛によらずしては無価値です。

 しかし愛(そのもの)とは何でしょう。どのような行為も愛によっても愛によらずにもなし得ます。では、愛を証明することは行為によっては、いや、何によってもできません。どのようなことを自分が(勝手に)愛とすることもそれが正しいかどうか判断できません。

 ところが人は愛さねばなりません。しかも信じられるものは現実の有り様しかありません。なぜなら、愛していたのに裏切った、などということは有り得ないからです。現実にどのようなことがなされたか、それがすべてであります。しかし実現が示すものは現実だけであります。

 このように現実が優先するのは、それが愛ゆえにです。しかしこれだからこそ愛そのものが在り得るのか?現実に意味があるのか?という問いが起きます。

 人間は感覚し、感情し、決意します。この決意とは、自由意志であります。自由意志は、確かに個人にあっては最高レベルであります。この自由意志が愛そうと決意するのです。しかし、現実に触れるとそれは釣り上げられた魚の色が変わってしまうように色あせてしまいます。なぜなら自由意志が管理するのは、自分の感覚と感情と(行為)だけです。

 あなた自身を愛すように隣人を愛せ。これによりますと、恋は愛の反対概念です。なぜなら恋は世界のなかから、とにかくさしあたって1人を選び、その他の人々はかえりみられてないのでありますから。愛は、すべての人を愛すということですから。

 この恋と愛のキンチョー関係が人を愛へ決意させます。この理不尽を解消すべく、愛へと決意させます。だから自分との関係とはうらはらに愛も恋なくしては有り得ないのかもしれません。(イエスは恋したでしょうか)

 ここで現実を見てみましょう。

 感覚によって恋した者は、相手の感覚を得たり得なかったりします。感情によって求めた者は、相手の感情を得たり得なかったりします。体を求めた者は、相手の体を得たり得なかったりします。相手に付ずいする社会的なものを求めた者も、相手に付ずいする社会的なものを得たり得なかったりします。そして、自由意志を求めた者も、相手の自由意志を得たり得なかったりします。

 人がもし真剣に求めるのであれば、これは現実が最優先します。得るための努力をおしみません。(しかしこのことがすでに恋の終わりです。なぜなら

 感覚によって恋さない者も、相手の感覚を得たり得なかったりします。感情を求めずとも相手の感情を得たり得なかったりします。体をもとめずとも、相手の体を得たり得なかったり(?)します。そして自由意志を求めずとも、相手の自由意志を得たり得なかったりします。

 つまり現実を優先する限り、それは人の自由意志、愛によらずとも可能ですし、関係ありません。しかし愛は、

 どのような英雄的行為も愛なくして行われるなら無価値である、といいます。

 心の状態と現実とは何の関係もありません。どのような恋も相手を得たり得なかったりします。それは特に、男と女の結びつきは心によらず、両者のつごうによって決められるもので、そのつごうは、感覚感情決意体社会です。

 そのようなものが無意味なら、どうして恋に意味があるといえ、そしてそのキンチョー関係にある愛に意味があるといえるでしょうか?



5.23



 そうであれば結婚は、決して神が2人を結びつけるものではありません。それはつごうのよさの一致によって行われるものです。ただの1例も神に祝福された結婚はあり得ません。そうでない?ならばすべての結婚は神に祝福されたものでなくてはならないのです。(アダムとイブはそのただの1例であり得ました)

 イエスが結婚を祝福したことがあるでしょうか?

 では一夫一妻とか、カンインするなという定めは、なぜあるのでしょうか。それは道徳であり、道徳とはこの世界で人々がうまく生きていくためのつごうであります。もしそれを神が定めたとしても、それが神とのつながりを直接的に示す(可能性はありますが)というわけのものではありません。

 良心が自分にさえ感知できないほど道徳的でありましょう。
v  恋とは体が体を求めることをいいます。そしてそれにつきもののジェラシーは、相手の自律性を信じないためにあります。つまり体と体との結びつきは(結婚は)感覚によってもよらずとも、感情によってもよらずとも、自由意志によってもよらずとも、あり得ると思うその所にあるからです。

 好きな相手に好かれたとき、あなたは自分をジェラシーできますか?

 また自分自身も、そのような1人でないと、どうしていえるでしょう。また自分自身も感覚、感情、自由意志によってもよらずとも相手の体を求め(てい)る人間でないといえるでしょう。

 まさに恋は盲目ですが、それのいう所には自分の行為の根拠をおかないようにしましょう。

 ならば相手を十全に信じましょう。






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