あなたがあなたであるところのものは何ですか?



5.26



 因果律。それはあるものと他のあるものとの関係を表す。つまりAが原因になってBが起こった、ということだ。だが考えてみるがよい。具体的にAとは何か?Bとは何か?どんな例を示せるだろうか?では結果論を考えてみても同じだ。つまりBという結果になったのはAが原因(たまたま)であったからだ。これもBとは何か?Aとは何か?このように具体的なものは、そうなった事実をしか示さない。しかし因果関係の「関係」とは何であろう。この世界では関係なくしては何かを考えるということさえ不可能なのに、なぜそれが起きるか。

 たとえばあるものAがあり、Aが永遠にAでありつづければ、そこには何の関係も(因果律も)あり得はしない。それはAもBもCも・・・といくら物があろうと同じである。(もちろんAが時間によって変質してA'となったとしてもAとA'の関に純正な因果関係があるといえるだろうか)

 関係はこの世のしくみの方程式のひとつに違いないのだが

 まず、なぜ関係があり得るか考えてみよう。Aそのものが変化しやすい、(絶対のものではなくある)他から影響をうけやすいものでなくてはならぬ。Bについても同じでなくてはならぬ。そしてなおAはAでありBはBであると認められるほどの自律性がなくてもはならぬ。(だから依存関係の所で研究したように、たしかにこの働きは、人間の自我に深く関わる。それに依存することは自我が不自由であることを示すことであった)それはこの世に関係というものがある限りこの世には絶対(たとえば焼き物が土からできているようにこの世は何からなるかを示せ、のこのもの)はあり得ないことを表す。

 ただこう考えても関係そのものが現わになるわけではない。

もし関係そのものがなくて、それはAとかBとかの性質であるとしても、それが結びつく理由を示せているわけではない。(ふつう人がいう因果関係というのは、時が一方通行であることに負っているけれど、それはどうでもよろしい)

関係の種類

(1) 自我は世界(他人)に反応します。それが受動的な場合。まず感覚し感情します、そしてその感覚を受け入れるのも感情を認めるのも、まったく自由にできます。つまり自由意志がケンザイします。

(2)しかし自由意志といえど、現実のそれまでの有り様から導かれたものであり、従って、現実関係のなか ではそれは解消されます。これは、やや能動的な場合。

(3)愛さえ現実に対しては何の働きもなし得ません。これは積極的な場合。

 他人に対する関係が強まるほど、自由意志も愛も自覚されなくなります。これはまったく正当なことです。理不尽に思えましょうが、これでなくては真実ではありません。なぜなら、まず、自由意志の自覚がある場合、どうしてそれ自身が認めようとも、(我が我がであり)他人を愛すことが勝手でないといえるでしょう。 愛の自覚がある場合、どうしてそれが我の主張でないといえるでしょう。なぜなら愛の証明はどのようなことを行為してもなされないようにできているのは明らかです。現実はそのようにできています。

 どうして愛の自覚なしに愛せるのでしょう?どのようにしても現実の物によって愛を証せることができないのに?

 これは実に大きな問題の解決を含んでいます。愛の自覚なしに愛すこと、しかも行為にもよらないことは。

 愛の自覚なくて愛すこと。哲学的に言えば、それは・・・・・が有る、・・・・・が無いという問題の解決です。人間的にいえば、それはまったくの信頼を意味します。聖書的にいえば、信仰の用意ができたということです。



5.29



 アダムが禁断の実を食べたのは、神より深くその妻、イブを愛したからです。しかしそれは、罪でした。

 わたし達人間のあいだにあっても最高のケイバツは、死です。アダムはこの世の極悪人でありました。神によってすべての人が死ぬと定められたからです。

 しかしそれ故にまた私というものが生まれ、あなたが生まれ、この今の世をつくっていることはなんと美しくもあるのでしょうか。なんと美しく血ぬられていることでしょうか。

 肉と血により被造物であるあなたを愛すことはグーゾースーハイなのに神は、隣人を愛せといいます。

 神は自身に似せてアダムをつくりました。そして彼を深く眠らせ、その肋骨から妻イブをつくりました。私達は、アダムとイブの物語を楽園の2人というロマンチックな雰囲気によって、あるいは、まったくそんなことはウソだとすることで黙認してしまいます。

 アダムにはイブを、そしてイブにはアダムを選ぶ権利があったのでしょうか?

 いつアダムは神に宇宙創造の話をたずねたのでしょうか?彼がまだ無知な時?楽園から追放される少し前?

 あるいは神が自ら話して聞かせたのでしょうか?

 神よ、いかにしてこの世界を創られましたか?この質問は知恵の実を食べずにはなし得ないでしょう。それはそしてかなり悲観した人間の質問でしょう。前途に荒野の広がるのを見た時、愛する者が生みの苦しみを受けることを知った時、自分がチリにかえることを知った時。なぜこの世界をつくられましたか?と聞いたのではないでしょうか?ただひとすじの希望を持って質問したのではなかったでしょうか?

 わたしは始めから在った。まず光を創った。それに1日かかった。



6.3



 たしかにこの世界の風景は美しくても、それは荒野です。神がアダムとイブを楽園から追っていらい、私たちはずっとここに住んでいるからです。

 この荒野に住む私たちに向かって神は、あなたの豊は地上にではなく天に築きなさい、と言い、また隣人を愛しなさい、といいます。

 あなたは荒野にすんでいる。そのことを忘れないようにしなさい、といいます。

 では荒野を荒野たらしめているものは何でしょう。

 それは不自由ということではないでしょうか。そして不自由とは、人が我をこの世の何ものかに根拠をおく(因果関係にとらわれる)ということではないでしょうか。

 ならば、そんなところに追放し、そんなところの有り様にとらわれるな、とは?どういう意味じゃ。

 そしてもし天の御国が現れて、まったく、そのような有り様でないとしたら、

 どうして人がいきどおりを感ぜずにいられるでしょう。

 なー、おまえ、すまなかったな、つらい目に合わせて、と神はラザロに赦しをこうべきです。そしてラザロは、いえ、それほどのことは、というほど素直でありましょう。

 ところがラザロが乞食であったのは神がそう定めたものであったのでしょうか。この世の有り方が彼をそうさせたのでしょうか。

 神から愛されることの多い者ほど、この世では不幸です。なぜならここは荒野であり、真に私たちがここで幸福になるべきものは何もないからです。



6.6



 私はTVで聞いたことがあります。「わたしは歌手として成功しました。わたしは神に愛されています。だから重要人物です。いつも神を信じ、そしてそうすることができた日のことをいまも忘れません。」(レックスハンバードの番組)

 すると何ですか?神から愛されるということは、この世の幸せを意味しますか?いや明らかにそうではありません。

 神が(地質的な)富を与えたらヨブは神をより愛したでしょうか。

 そのようなこの世の幸せをあたえるものは、エホバでなくて、おいなりさんとか、ま、そんなものです。つまりこの世のものに対しては神は全く何の働きもしません。

 しかしなぜ



6.19



 自分はどのようにも他人を愛しても現実的なものしかなし得ない。そして他人も自分にそのようにしかなし得ないのです。



6.21



 だからといって、絶望するには全然あたりません。



6.24

 その友のために魂を投げる事が最高の愛である、といいます。

 では、神をも恐れぬ極悪人がいたとして、それに友があったとして、その友のために(どんな聖なる人よりも)自分の魂を投げたとしたら、その人は、やはり最も優れた愛を行ったということになりますか。

 どのような極悪人も神の存在を願わないということがあるでしょうか。




 名称と形態

 僕はビールを飲むのが好きです。で、考えます。食べたり飲んだりすることは自分の中の楽しみである。他人には関係なくあります)

 つまり自分を超えて、せめて他人と出会うというようなことにはならないか、と考えます。多くの場合、ほとんどの場合、どのようなことも、ただ自分の見知らぬ自分の感情や感覚やらで世界や他人を感じているだけであり、そうであるなら自我とは何の関わりもなくあるのであり、そんなものは(たとえ自分がどー思おうと)どーでもいいものであるということを誤りだとすることがみつかるでしょうか。

 例えば、他人のために何かいいことをしてあげることの方が、他人からされるより楽しいということがあったとします。ま、これは大体そうでしょう。それでもその相手からそれが受け取られないことがあります。とすると、他人のためになることをすることが楽しいという感情は、単に、他人に向かう向かい方が正しいものでなくてはならない、ということを示すもので(その感情が正当なものだということではないのですし)単にこのように問題を見るようになるまでそれを忘れないようにしておかせるための快さ、ということになります。

 そしてなおそれ以上に私たちは、私たちの感情や感覚が私たちだけのものであるだけでないようにしなくては、ということを指示します。

 他人のために何かよいことをしてあげたとして、それが受け取られたとすると、そこでその件については終わりです。そうなると、それは幸せでしょうが、受け取られない場合の不幸ほど多くのものを人に与えません。人に物によらず体によらず何かしてあげることができるか?という問題を起こさせません。

 もちろん世間でも受け取られた場合の幸せも決して満足いくものでないことを表しています。ギフトはより数多くしたいでしょうし、愛しているといく度も訴えたいでしょうから。

 たとえば誰でもお金めあてに結婚した男や女を(しっとしているのでしょうが)ケイベツします。それはもちろん相手の心や体の美しさや、自分の感情や感覚を根拠にして結婚することも同じです。前者はただ意味も知らず、何だ重要なことでないものにとらわれて、と人をケイベツしているのです。そして後者の場合も同じです。

 人は名称と形態を超えてなお個別者でありましょうか。

 感情や感覚は体に根ざしたものであり、体に根ざしたものは自我のあずかり知らぬものです。この体と自我(心)を区別できることは、ま、大したものです。けれど、このようにして体と心の対立として体と心が意識されますけれど、決してまだ心とは何か、の答えがここにあるわけではありません。この心と体との対立はただ、何か依存関係の側面を定着するための主題として現れているのです。

 感情や感覚は体に根ざすもので、自分自身の知らぬものです。体に根ざしたものでなく他人と関係することはできないか、と探す場合のみこの主題が奏でられます。

 これはしかしどうしても人間が不幸である場合です。幸福な場合どうしてもこれは考えにくいものです。つまり感情や感覚は受け身の場合は、(食物の例のように)不幸です。いや不幸のあり方が感情や感覚を受け身のあり方にするのです。不幸はだから、このような考えのしゅご者です。

もちろん幸福の場合も、もっと相手を幸せにしたいと努力するならば同じです。多くの場合のように単に感情や感覚が積極的になっているだけでないならば、同じです。



6,30



 この世界のしくみについての解答のひとつとして「名称と形態」ということが考えられています。それは僕の思うところかなりの高得点をあげられていそうです。ただし及第点では多分ないかもしれません。この世界の有り様を観て「名称と形態」を理解することは、しかし人間が個別物であるかどーか?他の人が生きていることは付ということをまだ知らしめません。

 なぜなら名称と形態をよー認することは、絶対の絶望を認めるということだ。

 そりゃ自分自身の有り方が名称と形態によることは全然かまわない。

 しかし、人に愛や恋のあるとき、それは理不尽なものになる。



7.3

 名称と形態

 僕はイエスキリストではありません。と、すると、人間というのは根本的に個別者ということになるでしょう(か)。では僕が僕であることの原因となっているものは何でしょう。僕が他の誰かでないということは、何によるのでしょう。(もちろん鉄ゴーシの中には自称イエスがたくさんいるでしょうが)

 では簡単にいって、体は僕、感覚は僕、感情は僕である、ということになるでしょうか?

 とすると、体や感覚や感情はその根拠もなにも自分自身に知らされてないのに、それが個別的なもの、ということになります。

 とすると、体や感覚や感情の根拠を知らないというだけで、それは自我でない、とするのは早計ということになります。

 もし人が個別者であるとすると、それ自体がまったくの不思議です。とある在るものがなくなるつまり死ぬことがあるはずはありませんから。

 あるいは人がもし個別者でないとしたら、これはまた不思議です。

 では、人は個別者であるからこそ体によらず感覚によらず感情によらず在る、のかも知れません。では人は根本的に個別者なわけです。

 人が個別者であるとするなら、個別者が個別者を生むことつまり誕生と、個別者が無くなること、つまり死は、不思議です。

 人が個別者ではないとするなら、人が生きていることが不思議です。



7.5



 とすると人は、他の人に対しては個別者であり、自分に対しては個別者でない、ことになりましょう。



7.6



 考えよーによっては、この有り方は非常に素直であります。どこまでも人をケンキョにします。

 まわりのどのようなものも自我であるはずがありません。感覚(対象)も感情(対象)も、それの根拠は自我にありません。感情や感情の根拠を知らずあることは、その対象を我としないための有り方でしょう。

 もし感覚 感情 対象が我であれば、つまり自己のまわりのものが我であれば、自我の個別性は失われてしまいます。ですから自我は、どのようなものでもなくあるものです。

 感情や感覚は無根拠です。このことは自我は自我のまわりにあるものでは、対象ではない、ことを保ごします。

 僕は僕にとって個別者ではありません。しかしおなじよーに個別者でないところのあなたがいます。これは何を意味するか。そうです。世界の有り様がこそ個別化であります。いや個別性こそ世界の有り様です。だから僕はあなたにとって個別者です。と、こういう考えは採らないことにしましょう。なぜならこれは何も理解したことになりませんから。

 僕とあなたが在るそこの所を示せ。僕とあなたが違う存在であるそこのところを示せ。

 自分が自分にとって個別的なものであるという証拠は何ひとつありません。というより個別者でないことを証拠だてています。感覚対象は個別的なものにみえます。そして感覚ということ、というもの、は自己を示しません。

 あなたがあなたであるところのものは何ですか?




7.14



 名称と形態

 人は自己にとって個別者でありませんが、他の人にとっては個別者です。これは、ま、今の私の有り様を表している、としましょう。これについての批判をなし得ているわけではありませんから。というのも、

 愛は名称と形態を超えねばならないからです。

 いや名称と形態を超えるものが愛であり、そのことを証明せねばなりません。



7.25



 まず自分自身を信じましょう。そうでなくて、どうして他の人を信じることができるでしょうか。

 むかし神は、アダム、アブラハムに、語りかけ、試みを与えました。しかし今はそんなことはないようです。この神の語りかけがないことは、我が子を捧げようとすることよりも、全人類のために命を投げることよりも、大きな試みです。

 まずこの世の中の見えるものによっては、私たちどの人間も、聖書に出ている驚くべき信仰者よりも予言者よりも激しく高く試みられています。もしかして、神が存在しないのでは?と。いや、もし神の語りかけがある場合は、神の存在があり、その命令は、神によって保証されていますが、それを越えて人は試みられています。この生きている一瞬に次ぐ一瞬が、試みられています。それはまったく人がその運命を負って、自己が自己である有り方が試みられています。

 あなた自身を愛すように
 あなたの隣人を愛しなさい。

 ほんとに私たちは、私自身を愛しているでしょうか。自己保存の本能と呼ばれている身体に対する、メンティナンスとかなんとか、が、愛であるとも思えません。一瞬に次ぐ一瞬試みられてある自分の有り方を大切にしていることが愛ならば。

 私の隣人の試み、というより、あなたの隣人もまた神に最高の試みを受けているということ、ということ、を示していることになります。

 あなたも、あなたの隣人も、
 神の最高の試みを受けています。



7.27



 ある人を試みるとき誰でもその人の行動に自由を与えてみるでしょう。人間は、どんなことをしようとも自由です。できることならば、してはいけない、などということはありません。しかし、こういう場合、いつもそーであるように、しかし、がつきます。

 この自由は、みかけ上、まったくの自由なのですが、やはりこの世界のしくみに従っています。名称と形態のしくみに従っています。

 そして自由とは、最高の試みであることを認識せねばならないように、そのような方向に定められています。

 この世のしくみは(名称と形態)は、人はまったくの不自由である、ということです。なぜなら私たちは、この世の現れているものすべての根拠を、まったく知ることができません。人間もそのなぜに彼であるのか、なぜそう思うのか感じるのか感情するのか、その根拠を知りません。



7.28



 たしかに自分の子供を犠牲に捧げることや、自分の命を会ったこともない人々のために与えることは、神の命令であっても、最大級の信仰が必要とされることです。それは確かに大きな試みです。けれど多くの人にとっては、神の命令がないのが普通です。なんと40億もの試みが現在なされています。それは神が語りかけないということに於いてです。

 私たち人間は毎日、常にその運命に従って、とある状況に置かれてあります。そのただなかで、何をどう思い、どう行為するか?それは確かに名称と形態に支配されていますが、それなりに自由であり、それは私たち自身に任されております。そこで試みられてあります。

 たとえば、人との約束を守ること。このような信条がないならば、人は試みられているわけでは決してありません。もし、すべて人の思うことが、行為することが、その人の自由であるとするならば、確かにそれは試みられていないことを示します。けれど、それでは単に名称と形態に人がとらわれてあることを示すだけです。

 私が個別者であるのは試みられてある限りに於いてです。

 私は試みられる故に私であるのです。

 たとえば、
 あなた自分を愛すように
 あなたの隣人を愛しなさい。

というのは、どのような他の人に対する感情的愛も、結局は自己愛なのであり、どのような利他的に見える愛もその根底には、自己愛があるのです。ということを決して正しいとは認めません。思考的にも、これでは愛はあれこれ飛び回って幻のように現れているだけで、決して愛そのものを明らかにしていません。まずそして、始めに、あなた自身を愛すように、なのです。

 神の試みに忠実に従い、目をそむけず、立派な解答を出すように。そしてそれ以上の美しい果実が現れて始めて愛と呼べるものなのです。そうでなければ、誰もまだ愛を知りません。

 私たちは、愛らしい異性への感情や仲間への思いやりを愛だと思ってしまいます。けれどそれは愛への動機であり芽なのです。イチジクの実も、イチジクの木の芽もイチジクですが、私たちはこの違いをはっきり知っておきましょう。

 そしていつもその実がない木はかれるのです。

 ふつう人が名称と形態にとらわれている時、それはみかけ上、まったく自由です。ただ檻の自由です。



7.30



 私は試みられてあり、それ故に個別者として私自身なのです。

 名称と形態にとらわれてある時人は、その思いもその行動の根拠も自分にとって明らかでなく、絶対の不自由のなかで、完全な自由と思い違いして、何かを思い何かを行っています。人を完全な自由に思わせ、自由に行わせるためのしくみが、そのようなものを自己とするその根拠を無におく名称と形態です。もし人がその思いのその行いの根拠を、何かはっきりとしたものにもつとしたら、どうしてそれが見かけ上でさえ自由といえるでしょう。その根拠のなさこそ不自由であり、また人の根拠が不自由であるからこそ、その思いも行いも自由なのです。これが名称と形態です。

 人が名称と形態にとらわれてある時、決して人は自己ではありません。コレ、と認められる根拠なくあるために、見かけ上人は自由なのであり、それがまたまったくの不自由であるということなのですから。

 しかし神の試みのある場合のみ、この見かけ上の自由は存在意ギを持つのです。

 私の生きてある有り方が正しいかどうか、それが試されてある場合のみ、見かけ上にしても、この世での思い行うことの自由が正当性を有すのです。

 まったくこの世のしくみに従った自由なくしては、どのようにして私を、誰を、試すことができるのでしょうか。



8.3



 試みられてある故に、私であるのです。

 では、なぜ、そうなのかを知らねばなりません。




8.25



 大切なことについて。

 まず、なぜ私が私であるか?それは単純にただ私が人ではなく神の基準によって生きることによってです。ふつう人は何を自我とするでしょう。誰にでもたずねてごらんなさい。自我とは何でしょうと。それは確かに言葉として、あるいは現にされたものとして示すことは困難です。

 しかし暗黙のうちに理解していることを言うならば、それはその人がその人の根拠を置いてあるところのもの、例えば仕事で自分の思いついた意見などを主張するその有り様、人との関係の有り方、自分のしようとしていることなど、などそんなものです。

 そんなものが自我ではないことは明らかなのですが、とにかく、なんとなく、そのあたりに自我はありそうだ、と思われてあります。世界に対する固有な有り方が、そうじゃないかなと、これも闇のなかで思われてあります。誰も、自分が自分であることは、いや、そういうものは、ただ神の基準によって生きることの前段カイというか、カリカチュアである由に、そういうこともあり得ているのです。

 ところであなた、あなたにとっての大切なこと、それは何でしょう。あなたの基調、あなたの主なセンリツは何でしょう。それは誰にとっても、その人の杭であります。十字架であります。

 なーにもこの世に大切なものはないさ、という者の有り様さえ、単に不満な者から虚無的なものから絶望者まで、その有り様さえ、その者の基調なのです。客観的に性格といわれているものが客観的に自我といわれているものです。主観的には、生きてあること、これが自我なのです。

 この生きてあること、この不思議なキセキについて誰が何と言えるでしょう。そして、それが世界に向かって人に向かってあり強調されるとき、そのようなこと一般を、人は自我と呼びます。

 そしてそれ、つまり強調される媒体、それが人にとって大切なこと、なのです。そして、それが人に与えられた十字架であります。ふつう、それは恋や愛やお金や社会的地位やらです。この世のありとあらゆる物や事がらが、そのようになります。



8.24



 この世界のありとあらゆるもの、空に輝く星、小さな生物、お金、人々が自我の増幅器になり、また媒体になります。



8.26



 自我、とは生きてあること、です。このことをはっきりとさせましょう。

 つまり生きてあること、は内から世界を展望しているのです。

 この世のすべてが自我の媒体であり、ブースターになります。物質有からそれ、自我について考えたことまでが、そうなります。そして、そうなった場合のみ、他の人間にとって、自我として認められます。

 逆に私が他の人間を観て、その人間の自我を見るのも、このように活性化あるいは捉われた、あるいは媒介された、あるいはブーストされた自我を認めるからです。



9.3



 自我は命の別名です。自我はしかし、この世のしくみに命が対立してあり、対立との関係に捉われて、自己を見いだしてあること、をそう呼びます。それは人にあってその人の基調となるものです。それは出世欲であったり、すねて生きることであったり、真実に生きることであったり、恋であったり、愛であったり、ほうしであったりします。それが人にあって大切なこと、なのです。それが杭であります。

 誰でも自分の杭を取って、わたしの杭を背負いなさい。わたしの杭は軽いのです。それはあなたを爽やかにします。とイエスはいいます。

 人にあって大切なこと、そのことは、すべて個人的なものであり、それは食物の味覚が、ただその当人にとって意味があるだけであり、それを少しも出ない、と示されています。

 ではイエスの杭を負ったとして、それはどういうことが考えてみましょう。

 僕は子供のころガリレオの話を読んで、なんてヒキョーなんだ、けれど、それは許されると人々が認める範囲内にあるのだな、と感じました。

 その理由は分かりませんでしたが、なんとなく、そう思ったのです。

 それが許される範囲にあるというのは、ガリレオが、それでも地球はまわると言っても言わなくても、つまり人がどー思おうと思わないでも、宇宙のしくみには全然関係がないと、いうことにおいてです。

 それが許されないのは、公的に太陽がまわることを認めることは、この人々への責任があるからです。

 それでも太陽は動かない、と公的な場で言ったのなら、彼は英雄です。それでも地球はまわると、つぶやいたなら彼は道化です。

 ガリレオにとって、自分の杭は後者です。イエスの杭は前者です。前者はなんと(食物の味のように)自分を離れていることでしょう。しかしなんと、自己主張に満ちていると人々から思われることでしょう。

 公的に大地が不動であることを認めるのは、自分の杭にしばりつけられています。消極的ですが、なんて自己保存なのでしょう。

 もし事実として彼が地動説をあきらめたのなら、人間がどう思おうが、宇宙のしくみは変わらないと考えたにしても、後悔が、負い目が、彼をとりこにしたでしょう。そして、それは当前です。そうならば彼は彼の杭にしばられていることが、良くないことなのですから。

 しかし勇気が必要です。

 イエスの杭は軽いのです。人が自分の杭を抜いて、イエスの杭を負うと、それは人を上に連れて行ってくれるのです。

 けれど勇気が必要です。

 しかし誰でも自分の命を守ろうとする者はそれを失い、イエスの名の下にそれを失うものはそれを得るのです。と記されています。

 おそらく命を大切にすること、それこそ杭です。恋の場合でも、コッケイながら「君のために死ねる」か、どうか試されます。どんなことでも「命の次に大切なこと」なのでしょう。お金も、地位も名前も命の次に大切なのです。そして、それらのために命を投げ得るか?と試されないことはありません。そして普通には命より大切なものはないのです。

 もしイエスの言葉がないのなら、命より大切なものはありません。

 しかし、ここでイエスの杭が真実であるかを考えてみなければなりません。

 恋に例をとってみましょうか。恋し恋されることも、恋し恋されず恋し続けることも、おそらく、どのような状況を考えても、そこには自分の杭しかありません。

 お金に例をとってみましょうか?名誉に例をとってみましょうか?この世のありとあらゆるものに例をとっても、そこには自分の杭しかありません。つまり、自分の命か?それとも命から2番目に大切なものか?と。

 もし現代たとえば誰かが、「それでも太陽は動かない」と言ったとして、それがイエスの杭を負ったことになりましょうか?

 イエスの杭が示されるのは、どういう時でしょう。

 命をマトに頑張るとき、それはイエスの杭を負うことになるのでしょうか?いいえ。



8.4



 この世界に深くささったトゲのような自我、それが自分の杭なのです。そしてそれを取り上げてイエスの杭を負わねばなりません。

 もし人が永遠に生きるとしたら、誰が人を憎んだり嫌ったりできるでしょうか?そうです。

 人が人を嫌うことができるというのも、人が死すべき身であるからです。この憎しみも消えてしまう、ということなしに憎しめるはずはありません。このくつじょくも、みじめさも、ヒキョーな態度も、不誠実も、嘘も。それが(死とともに)なくなってしまう、ということがないかぎり、そんなものを味わってはいられません。もし人が永遠に生きるならば、

 あなた自身を愛すように
 あなたの隣人を愛さねばならないのです。



9.7

 この世界に深くささった痛ましいトゲのような自我を、引き抜くこと。それはイエスの杭を負うこと以外にはなし得ません。



9.9



 なぜなら、この世のどのような対象も自我の杭たり得るのですから。

 さて、自我とは、世の中のものに対して深く関わっていることをいいます。







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