序章


それは突然です。
至高体験による覚醒の、
始まりと、中間と、成就が
自覚されます。

その完全な歓喜状態で、
意識と無意識が連続し 超意識が生じます。
覚醒と呼ばれます。そうであるなら自我の
否定でなく肯定でなく、
完成が無我です。
欲望の否定でなく肯定でなく、
完成が無欲です。
無知の否定でなく肯定でなく
完成が智慧です。



少女

これは秘密だけど、
どこかの図書館では、
なにか一冊、本を読むと、
いつの間にか
読まれない本が
一冊できます。


だから誰も
読めない本があるそうです。


なんだか真面目な、
顔をしてギルバート先生が、
ひそひそ話しました。


それには文字が書かれているのでしょうか。


知ってるよ、
アルバート少年は応えます。
それは至高の闇の図書館。


その本は、
真夜中に裏から見ればいいんだ。
すると誰もが
最初の一行から
引き込まれて、
熱中するんだ。


でも意味が
わかる人は
いないんだ。


自我は、
否定されるのではなく、肯定されるのではなく、
完全に成長せねばなりません。

ところで人が、覚醒する、悟る、光明を得るためには、どうすればよいでしょう。それは自我をな
くせばいいのです。そのように言われます。けれど注意が必要です。              

 どこか自分の中に隠れていた無我を見つけてしまいます。それを握りしめて、自我を抑圧して、自
分は無我だと思い込むことさえできます。けれどそれは、空想の無我であり、自我のする演技でしか
ありません。そして、自我、無我が何であるか知らないことに気がつかないほど、とんでもなく愚か
であることさえできます。                                 

 では、どうすればよいでしょうか。それは愚かさをなくせばいいのです。そのように言われます。
けれど注意が必要です。                                  

 またしても人は自分の中の賢こさを活性化してしまいます。おおくの知識、智恵を獲得して、なに
か理解したつもりになってしまいます。なんと自分が愚かであることが、分からないくらい、賢くな
ってしまいます。それに縛られてしまいます。                        

 では、どうすればよいでしょうか。それは束縛をなくせばいいのです。そのように言われます。け
れど注意が必要です。                                   

 またしても人は、なにか自由を見つけてしまいます。けれど行動、表現、思想、競争の自由、それ
を自由だと思うのは誤解です。それは束縛でしかありません。なぜなら、人が何をしても、人ができ
得ることしかできないからです。                              

 では、どうすればよいでしょうか。今ここに、生きればいいのです。そのように言われます。なぜ
なら過去や未来に気を取られ、不自由を自由と思い、自分を失っているからです。けれど注意が必要
です。                                          

 またしても人は、過去と未来の間にある、一種の時としての、あり得ない今を見つけます。地図の
どこかとしての、ここを見つけます。また、生かされているとか、ありのままとか、心とか、無心と
か、気づきとか、正しく生きるとか、なんとでも言われています。               

 これらは、みな真実だとしても、みな誤っています。というのも知識として知っているだけなら、
それが空想であるのに、事実だと思い違いをするからです。いや、それが事実として得られていない
場合は、それを空想して、空想であることに気がつかないように、人の無意識が操作するのではない
でしょうか。                                       

 このようなことは、みな自我、つまり空想の自己の働きです。(たとえば自我をなくそうとするの
も、自我の働きです。また自分が自分を対象にするなら、そこで対象にされている自分は空想です。
そして対象にする主体を考えるなら、それも空想です)。それは否定されるのではなく、肯定される
のではなく完全に成長せねばなりません。                          

 こんなことに関わらず、怒ったり、泣いたり、絶望したりしながら生活するほうが平穏かもしれま
せん。そうして、なぜ悪いかを問うことさえないのもいいかもしれません。けれど望まないでも、誰
もが至高体験の、覚醒の途上にあります。どのような状態であっても人は、怒ったり、泣いたり、笑
ったりしながら、その自分を、毎日のように学んでいるからです。               


渦
わたしが
学校の裏庭で
見つけた
バッタの背中の
模様は、否定、という
文字に見えました。


わっ、わたしは
生きてる否定を捕まえたのです。


ギルバート先生は、
次の日、
生徒たちに
どこか自慢そうに見せました。


さて、
背中に、肯定、という
文字のある
イナゴも
そのへんの草原を
なんとなく跳ねていました。


そいつを
捕虫網を持った
ギルバート先生が
見つけて言いました。
うん、これで両方が揃った、完全だ。


そのとき危うく
世界は壊滅するところでした。


たしかに、
善だけでは半分です。悪だけでは半分です。
そして両方が揃っても不完全です。

 もし人が成長を望むなら、世界には役に立たないことはありません。たとえば悪さえ役に立ちます。
意地悪さえ、絶望さえ、意味があります。                           

 もちろん善も役に立ちます。優しさも役に立ちます。希望も役に立ちます。でも善だけでは、半分で
す。優しさだけでは、半分です。希望だけでは、半分です。半分の人は、生きることができません。半
分の世界は、存在できません。どの半分も誤りであり偏りです。                 

 そして、どの半分を合わせても完全にはなりません。たとえば意地悪と優しさを合わせ持っても、そ
の人は完全ではありません。善と悪を合わせ持っても、その人は完全ではありません。絶望と希望を合
わせ持っても、その人は完全ではありません。                         

 その原因は人が倒錯しているからです。問題は、このことだけです。客観的に言えば、その人は、そ
の人自身よりも、物質、身体、感覚、感情、意識(それは人の自己ではありません。それは、それがあ
るとか、ないとかが分かる、つまり人の対象です。ここでは、それを世界と呼びます)に依存し頼り切
っているのです。                                      

 さまざまな物質、身体、感覚、感情、意識を、人は対象にします。すると何かを対象にしている主体
があるはずです。それが、空想の自己、つまり自我です。すこし角度を変えて見ると、自我とは、世界
がその人にしてあげているのに、そのことに気がつかず、その人が自分で何かしていると思い違いをす
ることです。それは、まだ人に自己がないから、世界が、その人の代わりをしてあげているとも言えま
す。                                            

 その自我には、解決できないことがあります。 たとえば善と悪を合わせ持っても、その人は不完全で
す。また善と悪の中間にいても、その人は完全ではありません。さらに善でもなく悪でもなくても、そ
の人は不完全です。たとえば愛、自由、幸福を追求しても、その定義さえできません。たとえば人が欲
望をどこまで追いかけても、満足を得ることはできません。みな空想の自己、つまり自我が見る空想だ
からです。そんなことによって世界は、そんなことではない、ほんとうに、ほんとうの自己を求めさせ
ようとしています。                                     

 また、たとえば人の自我は、自分がある、と感じます。そうであるなら、その人は(生きている)自
分は存在する、また(死んだら)無である、ということに偏っています。世界は、その不安によって、
まだ人に自己がないことを、その人に知らせようとしています。そして人に自己を得るように強く促し
ています。                                         

 そんな自我を否定してはいけません。たとえば種を蒔くと芽がでます。それは花ではないから、抜い
てしまえ、というのと同じです。それは完全に成長しなくてはなりません。そうすれば、やがて花が咲
き、つまり覚醒し、枯れるのです。                              

 こんな言葉も、おおくの人にとっては、無意味にしか聞こえないかもしれません。なにかの自分の考
えに強く執着するからです。それは、それで、とても大切です。                 

 ひとつには、それぞれ人は、そうと知らなくても独自の道を歩いているからです。その人にとって最
も問題であることを追求することが重要だからです。                      

 ひとつには、もし世界に何か真理があるなら、人は永遠に覚醒しないからです。どこかに何か真理が
あれば、どこかに何か真理でないものがあります。なにか得があれば、損があります。知ることがあれ
ば、知らないことがあります。それでは覚醒はありません。                   

 ひとつには、その迷いが覚醒の方法だからです。その自我、強欲、嫉妬、無知こそ、方法です。むろ
ん善意、犠牲、忍耐こそ、方法です。けれど、おおくの人は、それを完全に活用しません。     


渦
理由



しかし人から、
至高体験による覚醒に近づく道はありません。
それが人に訪れます。

ただ最高の欲望が必要です。そうすれば、裕福になりたい、いい車が欲しい、有名になりたい・・そ
んな中途半端な欲望には、関心をもてません。                         

 ただ最高の自我が必要です。そうすれば、自己顕示、自己欺瞞、自己主張などに関わっている暇は、
どこにもありません。                                    

 ただ最高の嘲りが必要です。ただ最高の嘘が必要です。ただ最高の善意が必要です。ただ最高の公平
が必要です。ただ最高の従順が必要です。ただ最高の否定と肯定が必要です。           

 ひとつには、それは真摯になるために有効だからです。でなければ人は嘘をついても、また自分を騙
していても、気がつかないほど意識朦朧です。懸命になれば、意識明瞭になります。あくまで素直に、
正直になります。わずかでも行動したら、そのままに知る、話したら、そのままに知る、思ったら、そ
のままに知る、正確で素直な認識が育ちます。                         

 ひとつには、欲望とは、自我とは、善とは何か、それらの仕組みを、探究することになるからです。
それが何であるか人は、知らないことにも気がついていません。知らないで何かを得ても失っても、無
意味で無駄です。最高を求めると、理解しようとせざるを得ません。そうして見られる対象と、見る主
体の仕組みに気がつくようになります。                            

 ひとつには、自分を鍛えることになるからです。たとえば鳥のヒナが餌を求めるために鳴き叫び、羽
を無闇に動かしていれば、それを意図しないでも突然、空に飛び立つ準備ができていたことに気がつく
のです。そんなことが起きるからです。                            

 ひとつには、自分が矛盾であることに気がつく必要があるからです。たぶん誰でも、氷と熱湯を見て
それは水にとって矛盾であるとは、言わないでしょう。矛盾のように見えても、それだから完全である
ことに気がつくためでもあります。ただこれは人が覚醒し、倒錯から解放されてから事実として見るこ
とができます。                                       

 そのようにして人は日常で、学んでいきます。努力に努力を重ねる必要があります。怠惰に怠惰を重
ねる必要があります。そして意識の限界まで知る必要があります。必ず、そうする必要があります。 

 しかし人から、至高体験による覚醒に近づく道はありません。それが人に訪れます。たとえば、桜の
花が咲きます。けど、そのときまで桜は春を知りませんでした。林檎は熟すと、自然に落ちます。人は
至高体験による覚醒を起こせません。起こるのです。もし人が起こすなら、それは人の構成要素の演技
であって、空想であり、自我の働きでしかありません。                     

 それは起こります。至高体験による覚醒の、始まりと、中間と、成就が自覚されます。その完全な歓
喜状態で、超意識が生じます。無意識も目覚めるから、覚醒と呼ばれます。男性であれば、その女性も
目覚めます。透明な球を中から見ます。そこに見える虹の光彩が意識です。            

 そのとき空想の自己、つまり自我ではなく、自己が与えられます。それは無と呼ばれる存在、あるい
は存在と呼ばれる無です。それは無にも存在にも偏らないので、あるときは空とも呼ばれます。自我の
否定ではなく肯定でなく、完成が無我です。欲望の否定ではなく肯定でなく、完成が無欲です。無知の
否定ではなく肯定ではなく、完成が智慧です。                         

 なんにしても人が迷うなら至高体験による覚醒は必然です。それだから、どうしたら至高体験による
覚醒をするかは問題ではありません。その後、どうするか、ということが問題です。人は必ず至高体験
による覚醒で見たことを理解しなくてはなりません。理解することによって、それを失わねばなりませ
ん。そして失うことによって、得ねばなりません。                       

 なぜなら至高体験による覚醒は、その人独自の事件であり、その独自性を失うことによって、それが
一般化されるからです。そして意識にもよらず、無意識にもよらず、人は覚醒を了解しなければなりま
せん。また、それができるから、その人に、至高体験による覚醒が起こるのです。そうしなければ苦痛
です。                                           


渦
これは秘密だけど、
ある研究機関では、
なんでも撮れる
カメラが開発されているそうです。


その名前は、満月の眼。


なんだか真面目な、
顔をしてギルバート先生が、
そっと打ち明けました。


それで永遠を
写してみたいものです。


知ってるよ。
アルバート少年は応えます。
ほんとうは、新月の眼。


スプーンで
掻き回したミルクの渦を
なめる子猫の
赤い舌に、
見とれてしまう、
日食の眼。


星も風も、感覚も、感情も、思考も
撮れるカメラを、
構えている人だけがいない、
そんな、
月食の眼なんだ。



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