金貨のチョコレート

金貨1


金貨のチョコレート。

とある
沼に
メタンガスが発生します。

その近くの
研究所、
学生を
集めて
教授が言います。

この時空から完全に隔離された小さな箱があります。そこで二十日鼠の雄
雌を飼います。まもなく子鼠が生まれました。さて問題です。その命はど
こから来たのでしょう。

ひそひそ声が聞こえます。

ねっ、
分かる?

しっ、
君が思わない
君は、
行ったり来たりしないんだ。

指の
熱で歪む
贋の金貨だけど、
そっと剥がすと中は、
チョコレート。



ある朝


金貨3


 ディーンは有名な映画に出演して若くして死にました。彼は永遠です。
羨ましいことです。そう言ったのは、自分は不可知論者であると主張する人
でした。意識朦朧無知蒙昧です。きっと自分の言うことさえ何が何だか不可
知なのでしょう。                          

 ふつう人は自分を、何だと思うのでしょう。自分を知っているのでしょう
か。自分を知らないなんてことは、あり得ないのでしょうか。それは当たり
前にあるのだから、あらためて自分を知る必要もないのでしょうか。   

 とある音楽家が言いました。いまもモーツアルトが世の人に愛されていま
す。そのように作品が残ることは、私たちにとって最高のことです。   

 たしかに名前を残したい、財産が欲しい、人を楽しませたい、そう思う人
はいるでしょう。そうならば世界は、それを、いろいろな段階で実現するの
は事実です。                            
                                  
 たとえば素敵な作品を制作できます。すると満足が生じます。また人から
認められないこともあります。すると不満が生じます。また夢を諦めること
もあります。すると残念でしょう。この満足と、不満と、残念は、どう違う
のでしょう。どれも世界が人の意に添って働いた結果です。それで世間でも
思うことは必ず実現すると言います。                 

 そんな名前を残したい、財産が欲しい、人を楽しませたいということは、
無論、自分を知りたいために、しているのではないのが普通です。それは自
分を知りたくないためにしていることだ、と言って過言ではありません。こ
の自分を知りたくない努力を、人は懸命に続けます。好き、嫌い、努力、怠
惰、希望、絶望、信仰、不信仰、損得など、あらゆることです。自分を知ら
ないで、なにか成功しても失敗しても何になるのか疑問です。      

 それでも世界は、公平で親切です。もし自分を知りたくないのなら、その
人の言動の総てが、自分を知りたいということの、代償行為になります。影
のように、幻のように、人の自己とはなにかという問題を、その人に常に提
示します。                             

たとえば人は、他の人から見た自分を気にします。もし人が自分を見ても、
自分を見る自分は何、という問題があります。それで人は、仮に、ほかの人
から自分を見る、とも言えます。たとえば人から見られて永遠だから、名前
を残したい、があります。人から見られて美しくありたいから、品行方正が
あります。また逆に素行不良があります。それは自分を知ることではありま
せん。ほかの人から自分を見ることであり、また自分を空想して見ることで
す。これは代償行為です。世界は人に一生そうであることさえ許します。 

 けれど人は代償ではなく、自分を知ることができます。言えるのはこれだ
けです。大切なのはこれだけす。知って欲しいのは、これだけです。できま
す。そのためにこそ世界は機能します。                



金貨のチョコレート。
ここで
野球をしょう、
少年が言います。
ここに
レタスを植えましょう、
農夫が言います。
ここは
家を建てます、
不動産屋が言います。

そんな
草原があります。

そこを
謎の猟師は
ただ通り過ぎます。

女優は歌います。

なんでもあります。だけど、草原は、なにもないのです。そして、なにもしないけど、草原は、なんでもするのです。みんな関係があるけど、なにも関係がないのです。

ひそひそ声が聞こえます。

ねっ?

しっ。 触媒です。



じっと白い紙の上の赤い色を見ていると、その縁に透明に輝く緑色が見えま
す。青い色を見ていると、透明に輝く黄色が見えます。このように総ての色
に対して、人の眼の奥に透明に輝く補色が生じます。おそらく補色に気がつか
ないでも、たとえば赤い色だけを見ることはできないでしょう。透明に輝く緑
色だけを見ることはできないでしょう。                 

 そのように人が善を求めると、悪が生じます。真理を求めると、虚偽が生じ
ます。嘘を求めると、誠が生じます。永遠を求めると、破滅が生じます。  

 では赤い色と緑色、つまり補色関係にある色を接して並べて見るとします。
すると眼の奥に混乱が生じます。そのように、もし世界に善悪があれば、人に
悪善が生じます。いや人に善悪が生じるなら、世界に悪善が生じます。人は混
乱します。                              

 さて人が欲望によって世界を求めると、自己が否定形として生じます。また
自己を求めようとすると、世界が否定形として生じます。ここで問題なのは、
どちらも、それだけを得ることができないということです。しかし一途に求め
続けるのです。                            

 それは人がそれ、世界や自己を、知らないことに気がつくことになります。
たとえば赤い色を定義できるでしょうか。善が悪の逆であるというのは定義と
はいえないでしょう。とあるなにかが善、とあるなにかが悪というのは理論破
綻です。人は対象を知ることはできないけれど、必要な認識、観察力が得られ
ます。                                

 一般化も有効です。ある人に親切なら、総ての人に親切にできないか努力す
るのです。得したいなら、人の得も考えるのです。遊びに熱中するなら、学び
に熱中しなくては奇妙です。それは公平、覚悟、真摯さなどを育て、必要な意
志力を得ることができます。                      

 また嘘ついたり、正直だったり、学んだり、遊んだり、勤勉だったり、怠惰
だったりできます。普通の暮らしです。これは必要な自我を学ぶことができま
す。                                 

 このようなことを人は自然に行っています。総てが必要です。けれど自分を
知りたい人が誰から教えられるからではなく、意味も知らず、努力を重ねるこ
とがあります。                            

 なにか行ったり話したり思ったりするなら、その前提を見つけるのです。そ
の前提は、あまりに当然なので、人は無意識です。それに支配されていながら
気がつきません。その前提が正しくなければ、その人の言動も正しくありませ
ん。そして前提なしには正しくないので、正しいと思っても永遠に正しくない
のです。理解すれば、誤りも役に立ちます。               

そのように前提を探している、その自己が問題です。振り返るのです。   

 たとえば映画を見ています。全身全霊で振り返るのです。すると投射機の仕
組みを見ることができます。あの光と影の物語は、それが映していたのです。


とある沼に

とある

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