言葉





ただ言葉は
表現するものと、表現されるものが
関係ないものです。


 
しかも言葉は
それが何であるか人に知られることはなく、それだから
正確に働きます。



 おおくの場合、人は、言葉によって思考します。その言葉が何であるか知らないでは、正確な思考はできない恐れがあります。そこで言葉を定義する必要があります。たとえばトンボという言葉は、トンボを必然的に表現しないので、トンボを正確に表現します。たとえば言葉という言葉が、言葉を示すのであれば、言葉と言う言葉は、言葉を示さないからです。言葉は意味がある、または意味がない、などと考えても総て誤りです。もっと簡単に言うと、言葉は、何であるか知られることがないから、正確に機能します。この世界も、そのようです。
 
蜻蛉

 この世界には、すでに人が生まれて気がついたときには、嫉妬があります。偽善も、高慢も、欲望も、嘘もあります。それは人に働きかけるものであって、それぞれの仕組みによって機能しています。そういう、たとえば悪という形態と闘うとしましょう。

 この場合、おおくの人が行っているように、それに接近しないで逃げるのも一つの方法です。ほかの人がどうであれ、そんなことに関わる必要はありません。その一生において、盗む必要も、嘘をつく必要も、嫉妬する必要も、高慢である必要も、欲望を持つ必要もないでしょう。(それはそれで凄い修行だけど)怒ることも、なげやりになる必要も、誰かを嫌う必要もないでしょう。愉快な仲間と暮らせばいいでしょう。なにか夢を実現すればいいでしょう。そのように楽しいこと、優しいこと、快いことを求めていればいいでしょう。

 でも、そのうち不快なこと、辛いこと、悪と思われることにぶつかるでしょう。そうしたら、また、それから逃げ、好ましいことを求める、そんなことを繰り返すだけでいいでしょうか。それでは解決にならないはずです。(そのような設計図が人にあるからです)。たとえ人が好ましい一生を送ったとしても、それだけなら、それを解決したわけではありません。そうであるなら、ただ楽しく生きることは得ではなく損失です。そんなことに気がつかないほど、人は愚かである必要もありません。

 そこで人は確実な方法を実行します。そんな不快なこと、醜いことに接近して、たとえばネジや歯車の働きを観察して、分解することができます。すると機能しなくなります。これが理解するということです。とても適切に、理を解すると書きます。

 たとえば嫉妬とは何でしょう。それは誰かの評価を引き下げることによって、自分の評価を引き上げて見せかけようとする働きです。しかも、おおくの場合、相手に対する嫌悪感に隠れて、その働きがよく見えないように(自分で)仕組んでいます(ほかの人がしているのではありません)。これは偽善と、鏡像関係にあります。嫉妬する人は必ず偽善を行い、偽善者は必ず嫉妬します。これら嫉妬と偽善は互いに映しあって生じます。これを見るなら、嫉妬と偽善は+と−の粒子のように対消滅するのが自覚されます。

 ではなぜそうなっているのでしょう。まず偽善、高慢、欲望、嘘などが現れるということは、それが歪んでいる、偏っていることによって、知覚できるようになるからです。深い湖に石を投げると波が生じるように、快、不快が生じます。嫉妬と偽善の対消滅は反対の波が打ち消し合ったのです。もし対消滅が起こらないなら、欲望とか、傲慢とか、嘘とか、無知の波が、その人にあるからでしょう。そしたら、それを理解すればいいのです。

 たとえば嘘とは何でしょう。人の行いは、身体による行い、言葉による行い、思考による行いがあると言われています。それらが互いに矛盾することが嘘ではないでしょうか。しかもそれが損得に支配されて、その働きが、よく見えなくなるように(自分で隠している)場合を言います。そのようにして嘘が正当でないことを隠します。そうしておいて正当であると主張します。単なる思い違いは、嘘とは言えません。これを理解するなら、自分の行いを正確に知ることができます。

 すくなくても自分に嘘をつくことは解消されます。すると誰かに嘘をつくことは超困難になります。つまり誰かに嘘をつくということは、まず自分を騙しているということです。自分で自分を愚かにして、その愚かさに依存しているということです。

 また嘘とは人が自分の、身体による行い、言葉による行い、思考による行いを、正確に見ることができないことを世界に投影したものである、とも言えます。それだから正確に見ることによって、投影する必要はなくなります。つまり嘘が解消されます。

 なにかを理解するとは、このようなことです。それは得ることではなく、失うことに似ています。勇気が必要です。

 ではなぜそうなっているのでしょう。たとえば快、不快などが見えなくなることは、それが完全になることによって、知覚できないようになるからです。たとえば指などを怪我をすると出血します。治ると血は見えなくなります。

 しかしそれでは知覚できなければ完全だということにもなります。そんなことはないはずです。まったく悪とも気がつかずに人は悪を行うことがあります。いや善と信じて悪を行うことがあります。しかし善悪とは何でしょう。それは、やはり偏りです。つまり知覚できなくなるとは、人が悪を、善を、快、不快を、嘘を、真実を、世界に投影して見なくてもよくなったということです。そのためには意識、無意識に関わらず、人は自分の行いを理解せねばなりません。

 そして人が、たとえば悪を、善を、快、不快を、嘘を、真実を、世界に投影していながら、それに気がつかないで、それに埋没(まいぼつ)していることを、無知、または愚かさと呼びます。つまり無知、愚かさも、見ることによって解決できるのです。

 そして無知が解決されると、たとえば、その無知によって生じていた行いである嘘が解消されます。たとえば、その無知によって生じていた行いである高慢が解消されます。(高慢を理解すると、それを成立させている無知が解消されます)。つまり見た人は、それについての正しい理解を得ます。無知、愚かさの完成が、智慧です。(これは伝統宗教や哲学を学ぶことによっては、ほとんど不可能。人が自分を研究しなくては、起こらないでしょう)。そうであれば人は、それについて意識していなくても、その智慧は、ないわけではありません。

 ここで人は、いわば意識と無意識の運動をします。たとえば石を持ち上げても、運動になります。石を下ろしても運動になります。石には、なんの変化がないのに、人には運動になります。つまり偽善も、高慢も、欲望も、嘘も見えたり見えなかったりしながらも何も変化がないのに、人の運動になりました。

 これが人を鍛えます。どんなことも直接にではないけれど、そのときは、そうと自覚できないけれど、覚醒の準備ができます。そして準備ができてないと、至高体験が起きても、それを理解できず、覚醒とは無関係でしょう。そんな至高体験も、たしかにあります。

 そして理解するために、人は思考します。それは強調と、すり替えで行われます。まず強調とは、人が何かを意識することが、すでに強調です。たとえば無意識の偽善者が、偽善を意識します。意識してなくても偽善者でありました。それを意識するので2重構造になっています。意識するということだけで、そのことが強調されたことになります。

 さらに偽善者が、損得を考えます。この場合は、違うものが重なっています。そして損得であるものが、善悪を考えます。このように重なったものが、すり替わることによって考えることは行われます。そうでなければ概念と概念とを関係づけることができません。思考の対象を変えることはできません。

 そして思考の道具は言葉です。それは表現するものとされるものが関係ないものです。たとえば同じものを表すのに、違う単語があります。芋と言っても、スイートポテトといっても同じです。いろいろな国の言葉があります。そしておなじ単語が、違うものを表します。芋といっても植物の根でもあり、田舎者でもあります。タコとも言うようです。たまたま外国語で同じ発音で、違う意味のものがあったりもします。

 このように表されるものと、表すことは、必然的な関係が全然ありません。それだから正確に働くのです。もし何か僅かでも関係があるなら、表されるものは表すものと関係があり影響を受け、正確には働きません。たとえば言葉という言葉が、言葉を現わすことはできません。

 それは理解できるものでも、理解できないものでもありません。また理解できるものでも、できないものでもあります。無意味でも無意味でもないものでもあります。無意味でも無意味でもないのでもありません。などと、どんな意見を言っても、それは総て誤りです。

 たとえば言葉とは真実だと、します。すると言葉は虚偽だ、という意見が発生します。無意味だとすると、意味が生じます。善といえば悪が発生します。なぜならそれは(もし人が倒錯しているのでないなら)完全だからです。そうでなければ歪んでいる、偏っているからです。それが何かであると言われるなら、それが知ることができるとするなら、それは常に偏りであり、誤りです。もし誰かが、意味を与え過ぎたり、意味を無視し過ぎたり、違う意味で言葉を使うなら、その人は偏っていることを示します。世界も、そのようです。

 このように、とても良く機能するように仕組まれています。それをそのまま知る、ということが意味の意味、意味の定義です。もし人が自分の行動と、言葉と、思考を真剣に観察するなら、このようなことは自らを明らかに開示します。





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