それは見えないけど



●実在は、常に、不在●

それは太初とも、
静寂とも、不思議とも、呼べるでしょう。
これを日常といいます。




もし人が無知を
世界に投影しなくなったら、そうしている自分は
不可視になります。







 たとえば道を歩いていたとします。そこに嫌で、嫌でしかたない奴が向こうから近づいてきます。それで、うわっぁ、と思います。でもよく見ると、人違いでした。こういう経験は誰にでもあるでしょう。ここで注意が必要です。うわっぁ、と思った瞬間、つまり人違いだとわかる前に、相手を正確に認識する前に、まず始めに空想していたのです。

 もし向こうから近づいてきた奴が、ほんとうに嫌な奴だったらどうでしょう。その場合は、人違いだと分からないので、それは空想のままかも知れないということも考えられます。まったく事実、その人の前にいながら、その人を嫌な奴だと空想しているという可能性は否定できません。

 つまり現実に見ているからといって、正しく見ているとはいえません。リアルでないと思ってもないこと、日常で何かを印象しても、空想であるかもしれません。もちろん相手が、好きな人でも、事態は同じです。もちろん単なる通行人が歩いているなら、単なる通行人が歩いているという空想をしているのかもしれません。たしかに単なる通行人なんて、どこにもいないのです。

 そうすると、たとえば嘘つきでない人を嘘つきだと判断するなら、それは相手ではなく、判断する人に嘘があるということになります。おなじように相手が嘘つきだとしても、その相手を嘘つきだと判断する人には、嘘があるということになります。

 つまり人は自分の状態を世界に投影しているということです。これを投影だと見ることができないのは、その投影に埋没しているからではないでしょうか。また、おおくの人もおなじように、おなじような投影に埋没しているからではないでしょうか。

 (それでも偽善者を、優しい人、親切な人などと呼ぶのは愚かでしょう。そんなことを言う人は、ほんとうに偽善者かもしれません。人として正確な理解は必要です。ほんとうの偽善者を、ほんとうに偽善者と呼ぶ、つまり主観的でなく不公平でなく、認識する必要があります。そして人は自分が偽善者でなくても、つまり投影でなくても、偽善を理解することもできます。それは偽善を理解した人です)。

 このように感じたり考えたりすることは、それは総て自分の解決すべき問題であると見なすことができます。そうであるなら、それは人が無知であることを自分で理解するために、世界に投影したと考えることができます。それなら、どんな困難な問題があっても、自分で必ず解決できるということです。なぜなら自分が自分に提出した問題だからです。

 (ただこのような無知が、どこにあるのか、それを考えることは無意味です。それはもともとは個人にあるとするなら、集団無意識、前世、業とかを空想してしまうかもしれません。また、それはもともと世界にある、とするなら、それに関わらないでいればいいだけです。この、どちらも無意味です。毒矢が、どこから飛んできたかは、無駄な詮索だと仏陀は言います)。

 くり返します。このように人が問題を投影しているのに、それに気がつかずに埋没していることを、無知と呼びます。

 たとえば自分を特別であると思いたいなら、威張ったり、嘲ったり、また逆に自分を過小評価して見せたりします。また、たとえば自慢したいために、故国や宗教や仕事に誇りを持ち、それを否定されたり無視されたりすると怒ったり、蔑んだりします。そしてそうでありながら、それに自己同一し、そうであることを理解できなくなります。つまり埋没します。それが無知の投影であり、それから生じた行いであることに気がつかなくなります。

 (そしてそれを理解したら、無知は解消されます。つまり理解することは失うことに似ています。智慧と呼ばれます。これに比べて、たとえば数学の方程式の解き方を憶えるということは、得ることに似ています。これは区別する必要はないけれど、知識と呼ばれます)。

 そんな無知を自らの努力で理解し、解消した人は、無知から生じる行いである、投影が解消されます。たとえば誰かに優越感を感じていたいために、傲慢であったり、逆に、卑屈であったりする必要がなくなります。「これあるゆえに、かれなし。これなきゆえに、かれなし」。この仏陀の言う縁起の順観と逆観が(そうと意識されないとしても断片的に)実現されます。そのような状態が得られるなら、 結局は、問題は何であっても、いいということです。偽善でも、傲慢でも、嘘でも、優越感でも。

 けれど、たとえば傲慢を投影していた人が、そうする必要がなくなった、その場合でも、傲慢ということは感じることはなくなっても、理解できます。ということは、違いといえば、それに縛られていない、執着しない(乱暴な言い方)、というだけのことです。

 そのためには、探究している、その自分のあり方が問題です。おおくの場合は、探究している自分、それが、ある、に偏っています。たしかに、確かな存在であろう自己を探しているのですから。そうであれば、ない、にも、あるでもないでもないに、偏っているということです。そして偏っていなければ執着は不可能です。

 そうであるから思考は、たとえ人が根拠なしに生きるとしても、根拠なく生きるということに根拠をもってしまうかもしれません。

 ここで賢明な人は、どういう言い方をするとしても、自分が偏っていることに、偏っているままで気がつくことも。また倒錯していると、倒錯したままで、気がつくことも。また自我であると、自我のままで気がつくこともあります。それを否定しようとして、ますます迷うでしょう。しかし、おおく迷う人は、おおく失い、おおく得るのです。

 たしかに人は、自己を知るために、このような迷宮に、自ら望んで迷う覚悟がなければ、迷うこともありません。

 どんなに、このことが思考によって理解できればいいでしょう。そうであれば誰もが数学の方程式を解くように理解できるのに。それができるなら、どんな掟やぶりも厭わないのに。

 それができないのは、意識の対象である思考の領域外を、思考しようとしているからかもしれません。

 たしかに思考は、思考が定義できないことを対象にしています。たとえば善悪、それを目撃しても、経験しても、定義できません。たとえば欲望、それに捕われても、その働きは見えても、そこでは、その真の意味は見えません。

 また思考にとっては微妙で、矛盾であることを扱っているのも事実です。なにか迷うとして、それは迷いであるために、迷いであるとも、そうでないとも規定できないからです。なにか真理があるとするなら、どこかに不真理があり、それは真理ではありません。しかし、それが真理ではないということもないのです。

 さらに思考は自らを解消するために思考し、そのためにこそ思考は、自らを維持しなくてはならない苦しい立場にあります。

 そういうこともあって、このことの理解は、熱心に求める人に、恩寵のように与えられます。ほとんど瞬間に起こります。また、そうでなければ、それは不可能であるでしょう。いわゆる真理でも真理でもなく、ある、でも、ないでも。根拠がないということにも根拠を持てない根拠のなさに、安らぐことを感じる必要もなく人は安らぎます。どこをどう探しても、自我はもちろん、心も見つかりません。

 そして人が自我と呼ぶことが、もっとも恐れることが、この虚無とも見える根拠のなさです。自分を感じる必要もない、たとえば善悪などの、否定肯定などの、相対を見つけることもできない、あえて言うなら単極です。それは人の意識は見ることはできません。意識にとっては、実在は、常に、不在です。それは見えないけど、あるとか、ないとか、あるでもないでもないとか、どう言っても誤りです。

 そうであるなら人は、なにを見ても聞いても考えても、そうしている、その主体を見つけることはできなくなります。見ても聞いても考えても、その背後には誰もいないのです。なにか経験して、経験していることを感じます。しかし、それを感じている自分を感じることはできません。もし感じるなら、それを感じる、またそれを感じる、またそれを感じる、、、ことがなくては、ならないのではないでしょうか。それは不可能です。

 もちろん言葉には、名前をつけることのできないことにも、名前をつけることができる機能があります。それを太初とも、静寂とも、超越とも、不思議とも、なんと呼んでもかまいません。しかし、ここでは、それを日常と呼びます。この人の日常生活こそ事実、その名前をつけられないことです。もしそうでないなら、どうすれば、そうであるというのでしょう。







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