この日常を観察




いつもの、
喜んだり苦しんだりする
そのことが覚醒の障害であり、その
まったくおなじことが
覚醒の手段です。


どんなことも人を覚醒に導くことはなく、
どんなことも人を覚醒に
導かないこともありません。
そのように世界は完全に働いています。



 ある人が言いました。俺は、働きながら大学を1番で卒業した。また言いました。俺は、稼ぎに稼いで親孝行した。さらに言いました。俺は、7台目のクルマを買おうと思う。そこで、ある人が親切に、その俺って何?と聞きました。返事はありません。自分を知らないで何をしても、何の意味があるのでしょう。


 どこかの激しい戦場を生き抜いてきた戦士が言いました。私は理解した。人は死んだら、なにも、なくなるのです。けれど「私」とは、「理解」とは、「人」とは「死」とは、「なにも」とは、「なくなる」とは、ほんとうは何でしょう。それが何であるかを、知らないことを知らないことは、知っていることではありません。


 なにかと経験を自慢する漁師がいました。ことあるごとに自分の優位を主張、仲間と軋轢を引き起こしました。それは主張するまでもなく完全であることと、未熟なために何も主張することのないことの区別ができず、常に自己主張していないと、自分を見失うようで不安だからです。


 とても賢い女子学生がいました。素粒子の観測と料理が趣味。けっして他の人の悪口を言わず、友人からも尊敬されていました。やがてスポーツマンでもある青年実業家と婚約。ヨットで世界一周する途中、クリスマス諸島で行方不明になりました。知っても知っても、知ってるということが何かを知りません、というメモが残されていました。この日常を観察するのです。


まる



 ほんとうに人は、それが何であるかも知らない世界で、右も左も分からずに暮らしています。たとえば闇夜に、大きな地図を広げて、とても小さなランプで照らし、見える道だけを歩いています。ほかの所は真っ暗です。


 そして、これまで歩いてきた道を、アイデンティティ、主義、主張、主観、個性、信念、習慣などと呼びます。これは人の欠点です。どこに向かって歩いているかも知らないので、道に迷っていることにも気がついていません。それなのに、それに頼っているからです。しかも自分が何であるか知らないことも知らないまま歩いています。


 それでも見える道は繰り返し歩くことができます。まだ見えない道が闇の中にあることを感じることもできます。そして、なによりも小さなランプで地図を照らしている、そのことに気がつくことができます。


 そんなことを通じて世界は、自己とは何かを、人に知らせようとしています。とくに人と人の関係によって起きる軋轢は、それぞれの人の欠点が強調されるので理解しやすくなっています。これを活用できます。


 たとえば他の人と言い争うとき、なにか主張します。けれど反対の意見も、関係ない意見もあります。また黙っていても不満が渦巻きます。どれも完全で総合的な態度ではありません。たとえば地図の全体を見て主張しているわけでさえありません。どんな意見も断片であり、偏りであり、誤りです。


 そこには、自分にとっても、自分が正しいと見せ掛けるための前提が、無意識に必ず隠れています。(なにかを正しいと思いたいなら、それはすでに誤りです)。その理由(たとえば見える道、見えない道)ではなく、それを知覚できるようにしている隠れた前提(小さなランプの光源)を見つけだすことが重要です。この日常を観察するのです。


 そのように自分を知ること、知ろうとすることが、その人の成長に繋がります。ただ現状では成長を望む人は、少ないのです。


 というのも成長を望むなら、その人は未熟ということです。けれど成長を望まなければ未熟であることにも気がつきません。だから無意識に完全だと、自分は成長する必要がないと、とくに根拠もなく思い込みます。
 

 でもそれは誤りであることを無意識は知っているので、補償作用が働きます。ことあるごとに自己主張し、自己満足を求め、自分の状態を知ろうとします。それは自分に対する救難信号です。(そうでない言動は普通はありません)。けれど、それに見とれて、それを発射した自分に気がつきません。
 

 そこには春があれば秋があります。朝があれば夜があります。勤勉があれば怠惰があります。快楽があれば苦痛があります。それで人は世界が完結しているように感じてしまいます。なんの疑問もなく日常を送ることもできます。


 ただ笑ったり泣いたり、儲けたり損したりすることが、ありのままだと考えるなら、それは自分への冒涜です。ほんとうに覚醒を望もうとも思わないなら、自分への侮辱です。


まる

 あるところに愛されたい男がいました。未熟児として生まれ、家族や親戚から大切にされる快感を覚えたのでしょう。また愛されれば、それが生活に有利に働くと思うのでしょう。


 やがて大人になっても、なにか犬や猿が、より強い犬や猿に向かって、自分の腹を見せて転んで、服従を示すように、弱点を見せて愛されるのを望むのでした。


あるとき知人の家の風呂を使って言います。シャワーで肛門を洗っちゃった。


 およそ愛されたい人には、強く賢く美しく有能であって目立ちたい人と、弱く愚かで汚く無能であって気を惹きたい人がいます。その人は後者でした。前者を嫉妬したけれど、そうと気がつかず、ただ嫌いだと思っていました。前者の影である自分に気づかないことで、自我の殻を守っていたのです。


 そして食べ物、服、靴などの、どうでもいい狭い分野で、あれが好き、これが嫌いと、選り好みすることで、根拠のない優位性、独自性を感じていました。そんな自分の不完全さに気がつかないので、不完全だと思えない、つまり自分勝手に完全だとする、弱者の傲慢、また愚か者の自己顕示欲が見え隠れします。


 あるとき駅前でスケートボードをしている少年達を見て言いました。あれって、人が見ていない場所では遊ばないんだよー。また海で魚釣りをしていると、クルーザーに乗った誰かが釣り竿を持って接岸してきました。すると言います。あれって人に見せるために釣りをしているんだよ。


 また、あるとき知人と初めて行ったイタリア料理店で、奢ってもらって、ほくほく喜んで帰ります。そして次の朝、いきなり言います。あそこの料理は、もう飽きちゃったよー。


 あるとき職を世話してくれたり、お金や物をくれたりした、知人が失業しました。すると言います。仕事を紹介してやるよ。


 それっきり何の連絡もしません。逃げることによって注目され、愛されたいのです。それでも自分を追いかけてくれる人でなければ、利用価値がありません。


 だから、そんな人は無視してやったよー、と陰で誰かに言います。文章の校正が仕事でした。そして言葉とは、わかりきった事を回りくどく言うものだ、と言います。


楓の葉

 これは悲惨な日常です。けれど誰でも、愛されたいなら、愛されたくある人になります。尊敬されたいなら、尊敬されたくある人になります。裕福になりたいなら、裕福になりたくある人になります。自分のことを分かって欲しいなら、自分のことを分かって欲しくある人になります。平凡に生きたいなら、平凡に生きたくある人になります。特別でありたい人は、特別でありたくある人になります。


 そんなことは意識されてなくても、誰にでもあることです。あらゆることが無意識に隠されているといえます。ただ意識されることで、たとえば小さなランプで照らされ、そこだけ強調されます。


 そして人に総ての可能性が眠っているなら、まさに人は、どうしようもなく混沌で、矛盾ですが、これに気がつきません。とりあえずは整合性がありそうな対応関係しか見えないからです。


 たとえば愛されたいなら、ほかの意識されないことよりも、嫌われたくない、だから逆に先に嫌う、が強調されます。そして幻のように影のように、愛したいが、自動的に現れます。


 もし尊敬されたいなら、ほかの意識されないことよりも、軽蔑されたくない、だから逆に先に軽蔑する、が強調されます。そして自動的に、尊敬する、が影のように幻のように現れます。


 そんな幻のような影のような思いを、残念ながら、損得が支配します。おおくの人は損得が基本です。損得が好き嫌いです。そうすることが得だから愛す、そうすることが得だから尊敬することになります。ほかのことは、暗くて見えません。そのまま喜んだり悲しんだりして、人生を過ごすこともできます。それはその人が望んだのです。


まる

 それは自分を知りたいために、そうしているのではないかもしれません。そうであるなら自分を知りたくないために、そうしているのです。


 そのために人は、懸命の努力を続けています。笑ったり怒ったり、儲けたり損したり、威張ったり卑下したりすることに力を尽くします。


 そんな人は、なんとなく辻褄があいそうな、偏った狭い範囲の、肯定と否定の間に隠れて、自分が自分だと思う自分を守っているのが普通です。


 そして、それが自由あれが不自由、あれは幸福これは不幸、これは善あれは悪などと、それが空想であるとも気がつかず、自分勝手な選り好みをします。その狭い偏った世界の中心にいます。そのくらいの小さい範囲なら支配できると勘違いできるからです。そこでは主人公です。


 なにか見るのも、聞くのも、話すのも、優位性、独自性がある、つまり特別だと(意識する人には強調され、意識しない人でも無意識に)感じることを好みます。


 けれど他の人はどうでしょう。特別に早く泳ぐ人も、特別に頭脳明晰な人も、特別に奇妙な人も、特別に平凡な人もいます。それぞれ選り好みします。すると自分は特別だということは、とくに特別ではないということです。


まる

 ヨーロッパの片田舎にクレオパトラのような化粧をした少女がいました。その腕や背中に、なにか文字のような、幾何学模様のような、みみず腫れが浮き上がってきます。それを少女の家族が写真に撮ります。


 どこかのTV局が日本に連れてきて医者に見せました。なにか細い棒の先についた小さな金属の球で、かるく腕を擦ると、やがて、みみず腫れが現れました。医者は言います。ジンマシンです。すると少女は、嫌、わたしは特別なのよ。神の言葉を授かっているのよ、と泣き叫びました。


 これほど顕著でなくても、特別ではないために、根拠なく特別だと、独自性、優位性があるなどと思うこともできます。


 しかも根拠なく特別だと感じるなら、それを自分で検証することができないので、誤りを見つけることができず、無意識に正しいと感じてしまいます。けれどそれは根拠がないのではなく、自分について無知であることが原因です。


 また未熟な人が優れた人の振りをする、つまり代償行為ともいえます。そんな自分であることを知らないから、そんな自分であることができます。そのために自分でそうしていながら、それに気がつかないようにしています。


まる

 とある小さな下請け会社の社長は、(働いてくれる仲間であるはずの)社員に対して威張り散らします。そして(自分が勝手に見下している)誰かから何か親切な提案をされても、指図されたと感じて(自分の優位を勝手に守ろうとして)過剰に怒ります。


 さらに他の人が何か個人的な失敗をして反省すると、反省するのは未熟な証拠だと、薄笑いします。それによって自分を完全な人だと思わせたいのです。そして儲けさせてくれる人には、過剰に謙って見せます。(このように傲慢と謙虚などの、対極にあるものが揃っても人は完全ではありません)。


 そのように拡張(ほんとうは萎縮)した自我は、それに気がつかないようにするために、より傲慢になる(過大な自己評価をする)必要があります。さらにそれに気がつかないようにするために、より愚かになる必要があります。それはその人の問題です。


 つつましく他の人に迷惑をかけないように、いじましく気のあう仲間と生きているのが普通の自我です。そして拡張して見える自我を嫌うかもしれません。けれど、どちらも自分が自我であることに気がつかないように努力している点では変わりありません。それはその人の問題です。


 それは誰かが、そのようにしろと命令したから、そうしているのではありません。そのように自分でしているのに、自分で気がつかないようにしているのです。


 それでも自分のあり方の現れが、自分の行動、言葉、思考です。それを理解することができるように人はできています。自分の行動は感じることができます。自分の言葉は聞くことができます。自分の思考は意識できます。この日常を観察するのです。




楓の葉



 また自分がそうでありながら、そうであることに気がついてないことを知ることもできます。たとえば歩いていて、知らない誰かに、馬鹿と呼ばれたとします。すると不愉快でしょう。それならば普段、意識していなくても独自性、優位性が隠れているということです。無意識さえ傲慢だということです。


 それで傷ついたと感じて、隠れていた自尊心が現れ、強調されたのです。そこで怒ることもできます。けれどそれを、自分を知る、いい機会にもできます。


 まったく同じことが自分を知りたくないために使えます。まったく同じことが自分を知りたいために使えます。


まる

 そして人が自分を知りたくないなら、世界は人が自分を知りたくない人の世界になります。もし自分を知りたいなら、世界は人が自分を知りたい人の世界になります。


 そして人が自分を知りたいなら、なにか成功することだけではなく失敗することも、楽しいことも不快なことも、理解できることだけではなく理解できないことも、意識だけでなく無意識も役に立つようになります。無知も、自我も、欲望も役に立つようになります。


 このように自分を知りたくない世界は、自分を知りたい世界の断片です。


まる

 それでも自分を知りたくない人は、自分が誰かを嘲るのはかまわないけれど、誰かが自分を嘲るのは許せないでしょう。それでも自分を知りたくない人は、自分が損するのは許せないけれど、誰かが損するのはかまわないでしょう。それでも自分を知りたくない人は、自分が嘘を言うのはかまわないけれど、誰かが自分に嘘を言うのは許せないでしょう。それも自分に対する救難信号です。その前提を見つけるのです。


 そんな不公平なことができるのは(すでに生活に争いを想定しているからであり)自分を不完全だと思ってもないからです。無意識に完全だと思っているからです。


 このように隠れた傲慢があるなら、ほんとうに隠れた従順があるはずです。どうして片方だけを選ぶのでしょう。どこまでも約束を守る、どうしても嘘を言わない日常があります。


 そうでなければ人の偏った狭い範囲、断片しか機能していません。他の人が嘘を言い、約束を破っても、関係ないはずです。


 たとえ誰が約束を破っても自分は約束を守る、たとえ誰が嘘を言っても自分は嘘を言わないということは、誠実で従順だということです。


 それを嘲り、自己満足するために、たとえば権力欲のある人(つまりそれを解決していない人の総て、つまり覚醒してない人の総て)は約束を守らず嘘を言います。


 そして互いに嘘を言いあって、都合のいい約束だけを守って、自分は誠実だと思うことさえできます。あるいは私が嘘を言う理由は君には分からないだろうと、密かに自己満足することもできます。


 そんな人は、ときに誰かを傲慢だと思うものです。その場合は、自分が傲慢なのではないかと疑うことができます。


 なんであれ他の人を批判したら、それを自分に適応するのです。そうすれば意識されず、強調されてない無意識のことも見えるようになります。


 そんな要素が自分にないなら、そんなことを考えることもできません。そんな勝手な判断(この場合は投影)と、自分が傲慢ではないのに傲慢を理解していることの差は、一見は微妙だけれど、絶対です。


まる

 そのへんの誰かに向かって、傲慢な人だと言っても、ほとんど間違いはありません。偽善者と呼んでも、ほとんど間違いありません。


 そんな状況にないというだけで傲慢や偽善が発現してないだけだからです。たしかに殺人者と呼んでも、ほとんど間違いはありません。たとえば人が自分を偽善者と知らなければ、偽善者でないということはありません。


 また偽善者は、他の人も偽善者であると空想します。そして他の人も偽善者だからという、なにも根拠がない理由を捏造して、自分が偽善者であることを認める場合もあります。つまり影のようにではあるけれど、自分が偽善者であると知って、偽善者であることもあります。


 そうである可能性が常に隠れています。嘘つきは何か事実を話しても嘘つきです。偽善者は何か親切をしても偽善者です。


楓の葉

 それだから偽善者でないというのは、その可能性を無意識でさえ解消している人です。偽善という偏った断片に依存する必要がなくなった人です。


 もし人が覚醒するなら、その人の総てが、意識、無意識に関わらず活性化します。


 そうであれば人は偏った断片に依存する必要がありません。傲慢でも、偽善でも、意地悪でもありません。そして真摯で、誠実です。それはその反対、つまり不真面目、不誠実を隠し持っていません。この違いは絶対です。これは不可逆です。


 そうでない人は、他の人から見ての、自分を重視する傾向にあります。言葉、流行、旅行、地位、財産、伝統、人間関係などで、身の回りを飾ることを好みます。集団自殺する(どうも嘘らしいけれど)レミングのような人生です。


まる

 とある女性は古く小さな家に住んでいました。そして根拠もなく、隣人に優越感を持っていました。しかし隣人は、ある人からは恐れられ、ある人からは馬鹿にされ、ある人からは嫉妬されるのでした。すると優越感の原因は、その隣人にではなく、その女性にあるということです。


 それでも女性は反論できます。わたしは、ある人は優しく、ある人は厳しく、ある人は賢いと思います。わたしは、ありのままに見ています。だから、わたしの理解は正しいのです。


 けれど人は、隣人や友人を空想しています。そしてそんな空想した人、つまり誰でもない世間様から見て、自分を空想します。そして、それが空想であることに気がついてない間は、そうであることができます。おおくの人が、同じように空想するので気がつきにくいのでしょう。


 そんな人が世間様を敬っても蔑んでも、そのことが空想です。事実ではありません。それは、ここではない、今ではない、誰でもないという有り方をしています。


 その空想の人から見て、自分が嘘をついたと分からなければ、自分も自分が嘘をついたと認識できないほど愚かな状態になります。それを成り立たせている前提を探るのです。


 それは自分でそうしているのだから自分で理解できます。そうして初めて自分を直視できるようになります。


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