この日常を観察・続



ふだんの、
楽しんだり悩んだりする、
そのことが覚醒の手段であり、その
まったくおなじことが
覚醒の障害です。


とある方法が人を覚醒に導くこともなく、
とある方法が人を覚醒に
導かないこともありません。
そのように世界は完全に機能しています。




 それでも人はアイデンティティ、主義、主張、主観、個性、信念、習慣などと呼ばれる自分の欠点に惹きつけられます。


 そこには強い自己保存が働いています。その愚かな状態は、頑固なほどに、その愚かな状態であり続けようとします。


 それは人の欠点が覚醒のために役立つから、それまでは守り育てねばならないからです。たとえば種は堅い殻で、芽がでるまで自分を守る必要があります。


 そんな未熟な人は、嘲り、また謙り、その場その場で意見を変えて気がつかず、毎日を楽しく苦しく過ごしています。けれど、もうそれは充分です。


 それで覚醒した人は親切に、正しく行い、正しく話し、正しく思いなさい、と教えます。これは悪く行い、悪く話し、悪く思うことの逆ではありません。


 たとえば善が悪の対極にあるとします。すると、その善は世界の偏った断片です。その善は、悪があるからあります。


 そんな悪を根拠にした善は、善とは言えません。それでも仮の基準ができて、自分の行動、言葉、思考が明確になる利点はあります。悪にも同じ働きがあります。


輪

 それらは世界の偏った断片です。そうではなく総てが活性化して、そんな断片に人が依存しなくなることを、正しいと呼ぶのです。


 だからといって世界の総てを経験しようとしても100億年では足りません。たとえば生まれつきのように純真な人もいます。親に虐められて意地悪に育つ人もいます。生活の知恵として品行方正な人もいます。


 きっと数えきれない人生、快楽、苦痛、病気があるでしょう。ほんとうに人は、さまざまな死に方をします。その総てを経験することはできません。


 けれど、この自分を研究することは、どんなことより簡単です。タイムマシンで世界の始まりを見に行く必要はありません。どこか遠い星に行く必要はありません。ヒマラヤ山脈の降り積もる雪の洞窟に女賢者を探しに行く必要はありません。苔むした山の道場で瞑想する必要はありません。


 ただ自分の日常を学ぶ、それで必要充分です。ほとんど真摯な哲学者、科学者は、この世界そのものは理解できないと言います。たしかに人は勝手な判断で世界を解釈しています。けれど、そうであることは知ることができます。ならば人が学ぶべきことは、ただ自己です。この日常を観察するのです。
楓の葉

 そして理解することは失うことに似ています。たとえば机の上に未解決の書類が一杯あります。どんどん仕事を進めていったとします。すると書類がなくなります。つまり仕事をするということは、仕事を失うということです。それでこそ人は仕事をなしとげたということです。

 たとえば建築家が家を建てます。そして完成すれば、仕事を失います。けれどそこに誰かが住みます。そして建築家は、真摯であるほど技術が熟練します。そのためには懸命に努力するほうが簡単です。


 アイデンティティ、主義、主張、主観、個性、信念、習慣などを容赦なく理解し、容赦なく失うのです。それは欠点です。それを理解するためには懸命に努力するほうが簡単です。


 けれど理解せずに否定することは、ただ欠点を増やすばかりです。もちろん理解せずに得るこことは、ただ欠点を増やすばかりです。
輪



 そして理解することによって断片を失うと、結果的に総てに接近します。

 たとえば種は、(光や水や空気の力を借りて)、芽や根、つまり苗になります。失われるのだけれど、無くなるのではありません。そのように人は覚醒するようにできています。


 それを世界が可能にしています。それを信頼せず、自分中心に振る舞うなら、人は困難な道を歩きます。


輪

 ある高校の美術の教師は趣味で俳句をつくっています。そして言います。俳句など適当につくればいいのです。句会などで懸命に自分の作品の優位を主張する人がいるけれど、それは見苦しいものです。そう言います。


 いい加減にひねった俳句が優れたものであれば、凄く才能があるということなのでしょう。そんな人は、自分が真摯でないことをアピールするために、遊びにさえ真剣になることができません。


 たとえばサッカーなどで真剣に遊んでいる仲間に、そんな人が混ざると迷惑です。けれどその人にとっては、独自性、優位性を発揮する絶好の機会です。そのために、くだらない冗談を言い、ふざけ散らし、傍観者の真似をし、エネルギーを無駄に費やします。


 その人の座右の銘は、その場その場で全力を尽くそう、というのでした。そんな格言が書かれたカレンダーの一部を切り取り、もう何年も何年も美術室の自分の机の横の壁に貼っています。


 そして言います。俺は聖書を読みません。読まなくてもモーセや、イエスと同じことをすればいいのです。そう言います。読むのは推理小説ばかりです。


 そして困っている隣人を、見て見ぬ振りをすることで、密かな愉悦を感じます。そこまでしても、その自分の言動に気がつきません。奇跡です。そして言葉とは、感情の代用品だと言います。


 まるで愉快犯のように自我は、さまざまな証拠を残して、白昼の下に暴露されるかもしれないスリルを楽しみます。そんな自らの愚かしさを楽しみます。この日常を観察この日常を観察するのです。


楓の葉



 そんな人でも損得には敏感です。それは人が自己ではなく、世界の断片に依存することです。断片とは、あれこれ物質、あれこれ身体、あれこれ感覚、あれこれ感情、あれこれ思考の、その部分です。依存とは中毒でもあります。


 そうして満足を望みます。こんな欲望を、夢、希望と呼ぶ人は少なくありません。欠点だと思う人は少ないのです。そして現状では、欠点こそ成長をもたらすことを知る人は、もっと少ないのです。


 たとえば言い争ったりして相手を嫌うことがあるでしょう。相手と離れていたいでしょう。そうであるなら人は、世界の断片である自分の断片である感情の断片である、嫌い、に依存しています。中毒しています。


 なんであるかも知れない自分は不確定であり、それよりも明確に感じられる、自分の対象だと思っている、あれこれ物質、あれこれ身体、あれこれ感覚、あれこれ感情、あれこれ思考の断片(それが何であるか知らないのに)が上位にあります。人は倒錯しています。


 こんなことも世界が、そうできるようにできているから、そうできるのです。できないことは絶対できません。


楓の葉


 たとえば朝、顔を洗って歯を磨くようなことも、そうでき得るように世界ができているからできるのです。できないことは絶対できません。これは倒錯した人にとって絶対不自由であり苦痛です。


 なにかの苦痛があるから、人生は苦痛なのではありません。たとえば老病死が苦痛だから、苦痛なのではありません。日常は、プログラムだから苦痛なのです。だから楽しくても辛くても、生は苦痛なのです。たとえば機関車が、進んでも後退しても、線路の上しか走れないことに気がついたようなものです。


 そこで考えられる自由は空想です。もちろん愛は空想です。幸福は空想です。けれど代用品があります。そこでは我が儘が自由であり、執着が愛であり、贅沢が幸福です。それは人が真理として求めることではなく、代用品であると知ることができます。


 そうであることにも気づかない人は、夢、希望を追い求めます。あれこれ物質の、あれこれ身体の、あれこれ感覚の、あれこれ感情の、あれこれ意識の、その断片を崇め奉ります。その偏った断片の、支配者のつもりで、その奴隷です。


 そこにはダイヤモンドがあれば炭があり、男があれば女があり、意見があれば反意見があり、それだけで完結しているように感じられ、人は目を眩ませます。


 そんな人は自分の欠点を誰かに指摘されるのを嫌います。ほんとうに自分で理解しなくてはならないからです。自分で理解するのが世界で最も簡単な解決法です。そして世界には最も簡単な解決法しかありません。


輪

 およそ人の欠点、たとえばアイデンティティ、主義、主張、主観、個性、信念、習慣などは倒錯です。そして倒錯は欲望として現象しています。


 それは雨あがりの街の虹のように、ビルや鉄塔などの障害を避けながら追いかけても、いつまでも追いつけないことで、いつまでも人の気を惹こうとします。


 あるいは倒錯は反欲望として現象します。人が虹を背にして逃げると、こんどは虹が追いかけます。人は振り返って虹を見ます。


 どちらにしても追いかけたり逃げたりする、虹を見る主体である自分が、ある、を前提にしています。すると世界も、ある、に傾きます。


 それは人を倒錯した状態にしておくための単純だけど巧妙な仕組みです。そのように逆立ちさせることで、人が自分だと思う自分、自我と呼ばれていることを、鍛え育てているとも言えます。


 せっかく育っているのだから、活用するほうが賢明です。おおくの人は無意識に策略を巡らし、自分を覚醒させないための、懸命の努力をしています。そんな不可能を可能にする、凄い潜在能力があるのです。それを遡るのです。



楓の葉



 ありとあらゆる自分の行動、言葉、思考を正確に認識して、その前提を理解します。そして、そうしている主体と思われる、その自分を振り返り見るのです。


 たとえばクルマを7台も買おうとする人も、どこかの激しい戦場を生き抜いてきた戦士も、なにかと軋轢を起こす人も、悪口を言わない人も、愛されたい人も、世間様を空想する人も、尊敬されたい人も、真剣になれない人も、行ったこと、言ったこと、思ったことを洗いざらい正直に正確に認識するのです。


 そしてそれを正当化している隠れた前提を見つけます。さらに必要なだけ、そのまた隠れた前提を見つけます。そのようにして思考の仕組みを理解します。そして最後に残った、そうしている主体と思われる、その自分を振り返り見るのです。


 なんと、その自分は空っぽであることを発見するでしょう。それを見ることも、聞くことも、感じることもできません。けれど、それは見ることも、聞くことも、感じることもできます。


 たとえば台風の中心は青空です。人は、とても素敵な開放感を味わいます。


 いわゆる自我の殻という言葉があります。自我には殻しかありません。その中は空っぽです。人と世界は、それを大切に育ててきたのです。


輪

 ある青年が工事現場での労働を終えて、専門学校に行くために電車に乗って立っていました。ひどく疲れていたので限度まで我慢して、しゃがみました。その瞬間、驚いて立ち上がったのです。あまりに世界が明るく美しいのです。


 あふれる元気を感じながら、彼は電車の中や外の風景を確認したけれど、ただ目は穴です。その穴を通じて光が風のように、外から内、内から外へと吹き抜けています。外界と人の内部はともに透明で、なにも違うものはありません。


 また、ときには恍惚状態で明瞭に幻を見ることもあるでしょう。また、ときには背骨の両側を快感の電気が、くり返し駆け上がることもあるでしょう。また、とくに何も起こらないかもしれません。


 そんなことは気にすることはありません。忘れても大丈夫です。あんな方法、こんな方法、特別な方法などありません。つまり世界が方法です。それを限界まで活用するのです。それは望んでも無理だけれど、望まないでは不可能です。覚醒は人がそれを受け取ることができるようになったら突然に起こります。


楓の葉

 ほとんど瞬間に、人はその始まりと、過程と、完成を経験します。たとえば人が白熱電球だとして、スイッチONされると、フィラメントが初めは暗く、すぐに白熱して、自分の内部の構造と、世界を明るく照らします。そのように自分が変化していくのを自覚します。


 そしてまったくの歓喜状態で、人の総ての要素が活性化しているのに気がつきます。意識と無意識が連続し超意識が生じます。とても美しい明るい世界を目撃していているけれど、目撃者はいません。自我が隠れる闇が消えたのです。


 そのとき真理も不真理も活性化します。否定も肯定も極限まで働きます。善も悪も完全に機能します。この総ての要素の完全な活動は、静寂とも呼ばれます。なにかに驚くという狭い範囲だけの、活性化だけではないから、驚くべきことに驚いてないのです。そして総てが機能しているのです。


 そうすると人は偏った断片に依存することができません。どんなことでも人ができることは、そうできるように世界ができている、その絶対不自由が逆転したのです。


 それは逆立ちしないこと、正しくあることです。そうでなければ、善や悪、否定や肯定などの逆説関係、また総ての可能性があるための混沌は成り立ちません。


 そして有と無の両極端が完全に活性化するために中道を見ます。そうでない人は無意識だとしても自分が、ある、に傾いています。すると世界も、ある、に傾いています。そうであるなら、どこかに、ない、があるはずなので、増えたり減ったりすると思います。その不可能が欲望です。人が、ある、ない、に偏らなければ、世界も、ある、ない、に偏りません。すると、増えも減りもしないことを見ます。欲望から解放されます。


 そして世界の仕組みを見るでしょう。それは縁起、あるいは依存関係と呼ばれています。ただ、これを見ることは、覚醒に必須というわけではありません。たとえば波と海の譬え、として知られることを見る人もいるようです。けれど覚醒でしか、縁起、あるいは依存関係と呼ばれることを見ることはできません。そうでなければ、疑似的に誤解できるだけです。それは因果関係と呼ばれています。


 そんな因果関係とは、人が意識に自分の座を置いて、物質(世界)の原因と結果を、空想したものです。それは縁起、あるいは依存関係と呼ばれていることの断片でさえなく、戯画でさえありません。


 ところで依存関係、つまり縁起を見る人には、偏った断片と全体は等価です。もし人が罪に捕われていたら、それは依存関係、つまり縁起の偏りでしかないことを見て、どんな罪からも、犯していない罪からも、許されます。そして機会がないというだけで行わなかった良いことの結果も得ます。


 たとえば損得勘定で愛されたい人は、その嫌われる嫌うことがない、損得勘定によらず愛する人になるでしょう。みんなから尊敬されたい人は、その軽蔑される軽蔑するがない、みんなを尊敬する人になるでしょう。知らないのに知っていると思う傲慢な人は、威張り散らすのでも謙るのでもなく、知らないことを知っている誠実な人になるでしょう。


 たとえば偽善者は、その嫉妬が対極にない、ほんとうに良い人になるでしょう。感謝されたい人は、感謝する人になるでしょう。おおくの欠点がある人は、おおくの良い特質を得ます。


 さらに、それ自身に原因がある存在を、人の意識は感じることができません。それを見ます。いや正確には、それから見られる自己を感じるでしょう。その眼差しは愛、自由、幸福と呼ばれています。生死の問題が解決されます。
輪



 この世界は人が覚醒するための触媒です。もし人が世界を知ることができるなら、(または知っていると傲慢にも空想するなら)、世界は触媒として機能しないでしょう。なぜなら人が知ると、なんであれ世界と(意味のある)関係ができるからです。その(意味のある)関係とは、たとえて言えば薬品が、他の薬品と化学反応して、それまでとは違う化合物ができることです。けれど触媒は、なにか薬品と化学反応を起こさず、化学反応を促進させます。


 たとえば聖書「伝道の書」にあります。私は見た。良い人が貧しく短命で、悪い人が裕福で長寿なのを見た。この世界は、空の空。とあります。このように知ることができないから世界は触媒として機能します。なにか世界に真理、不真理があるのでないために人は覚醒します。そのように世界は人が成長することにしか関心がありません。


 ただ人が素直であれば、それだけで効果があります。どんな人も言葉が何であるか知らないのに話します。水が何であるか知らないのに飲みます。喜び悲しみが何であるか知らないのに感じます。意識が何であるか知らないのに考えます。命が何であるか知らないのに生きています。そうでなくていいのに、そうです。これは不思議です。人は不思議の真中です。この日常を観察するのです。


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