悟りの秘蹟



禅の公案。
それは読む人が、その悟りを実際に
体験できる秘蹟です。



禅の公案。
それを解いて
悟りに至ろうとするなら、
それはその人が、
悟りを目指している状態、
つまり悟っていないことを示しています。
たとえばケーキの見習い職人にとっては、
レシピは言葉であり、
学ぶべきもの、修行すべきものです。
しかしケーキの達人にとってレシピは、
そのケーキの
その姿であり、その味覚です。
とくに禅の公案は、
読む人が
その悟りを体験できる秘蹟です。



しだいに太陽


長慶

 ある人がレストランで食事をしました。デザートも終わって、ふと言いました。もう、食べ
物が、なくなってしまった。それは違います。料理は、その人の血や肉になったのです。だ
から見えなくなったのです。見えないから、あるのです。                

 あまり賢くないと、長慶は、修行仲間から思われていました。雪峯に、毎日、何度も質問に
いきます。でも理解できなくて、また何度も、何度も、質問に行きます。あるとき雪峯は言い
ます。これからは質問にこないでよい。ただ山火事のあとの、焼け焦げて黒くなった、木のよ
うに座りなさい。10年、7年、あるいは3年で悟るだろう。その言葉を彼は疑わず、懸命に
努力しました。2、3年の後、野外で座っていて気がついたら、すっかり夜。そこで部屋に戻
るために、簾(すだれ)を巻き上げた、その瞬間、悟ったのです。            


月


 ありとあらゆる質問、疑問があります。それは人の意識の対象です。そうして、もし絶対の
真理の言葉を得たとします。それを人が対象にします。それは、あれとか、これとか世界の、
ひとつの断片になります。すると真理ではありません。いわば世界でさえ、その断片より大き
く深く高く明るく暗いのです。真理は、世界より優れているはずです。真理は質問したり、答
えたりできるものではないでしょう。これに気づいていた彼は、何度も何度も質問する必要が
ありました。質問が消えてなくなりそうなのです。そうでないものが接近していたのです。こ
れを雪峯は見て、それが起きるよう計らいました。                   

 そのとき長慶は夜の闇にいました。きっと寺には、蝋燭がついていたでしょう。そんな闇と
光の境界に歩いて行きました。そして、なにげなく簾を巻き上げたとき、いつもは閉じている
闇の無意識と、光の意識の、簾が巻き上げられたのです。無意識と、意識がつながっているの
を見たのです。つまり総ての意識を見たのです。そうしたら、ほかの総ての構成要素、つまり
依存関係(縁起)を見ます。そのために、どうしても必要な、無と呼ばれる存在、つまり自己
を彼は得ました。                                  

 または野外の闇から、簾を巻き上げて、室内の闇にはいったのでしょう。簾に意味はなく、
闇に何の違いもないことを見たのです。そして自己を彼は得ました。           

 それまで嘘をついたことも、怠惰だったこともあるでしょう。けれど、ふざけてしたことは
ありません。ほかの人を馬鹿にするために威張るような、自分の権利を守るために偽善である
ような、演技せず、感覚や感情や意識に頼ることなく、ただ求め続けました。そんな人は、ほ
んとうに馬鹿に見えるのです。懸命にそうであったのです。それがなかったら起こりませんで
した。そのために総てがありました。その無上の歓喜のため総ては、良しとされます。そのよ
うに一途に求める人は少ないのです。                         




わたしは晴れた日、
積乱雲の
きれめに輝く
星が
青空に
見えます。
友達に言うと
軽蔑かな、
薄笑いされました。
それで誰にも、
言わなくなりました。
わたしは
いいんです。
でも軽蔑って
その人にとって、
重すぎます。
やがて、
わたしも結婚、
子供ができました。
もしかして、
真昼の星が見えるのと、
そっと目を
のぞいて見ます。
子供の目に
わたしが映っているのが
見えました。
わたしの目に
映っている子供を、
子供が見ているのを
感じました。





趙州

 ある修行者が「達磨が西から来た真意は何でしょうか」と質問します。趙州は「庭さきの柏
の木」と答えます。                                 

 これは悟りとは、どんなことでしょう。ほんとうの自己とは何でしょう。という質問です。
その庭さきに、柏の木しかありません。それを見ている誰もいません。もし見ていても、見る
人がいません。これが理解できなかった修行者は言います。               

 「和尚さん、対象を示されては困ります」。すると趙州は「わたしは対象を人に示したりは
しない」と答えます。                                

 どんな対象も真理ではありません。どんな対象も自己ではありません。そんなことは理解し
ています。和尚さんは外しました、わたしは存在を知っています、と修行者は言いたいのでし
ょう。なにかを対象にすると、あらゆる対象にしていないことが前提にされて、対象にしたこ
とは世界の断片になります。それは全体ではなく、分裂した、ひとつの偏った部分です。そこ
から自と他の対立も生じます。対立によって起こることは、真理ではありません。たとえば善
が、悪の対極に生じるなら、善ではありません。これは、なにかを対象にすると、そうする仮
の主体、空想の自己、つまり自我が生じることによって起こります。もともと対象は自己では
ないということです。                                
羊歯

 けれど人が自分のことを、存在、また無という偏った見方をしないなら、空想の自己が生じ
ません。それは対象、非対象、反対象の区別を生じず見ます。そうであれば柏の木を見ても見
る人がいないのです。また断片ではなく、総てが対象なら、総てが自己でなく、総てが無我で
す。すると対象にすることが、真理でないという理由はありません。           

 それに対象は、それ自体が原因で存在せず、依存関係によって生じるのであり、なりたちが
空です。また空想の自己、つまり自我があるとしても、それ自体が原因で存在せず、依存関係
によって生じるのであり、なりたちが空です。それによく見ることができるなら、迷えば迷う
ほど真理から離れれば離れるほど空です。とある何かが聖で、とある何かが聖でないことは不
条理です。これを理解できなかった修行者は、こんどこそ対象を指さない、真実の存在を聞け
ると期待して、再度、おなじ質問をします。                      

 「達磨が西から来た意図は何でしょうか」。                     

すると趙州は「庭さきの柏の木」と答えます。                    

 この庭の柏の木は、鳥が種を運んだか、また誰か苗を植えたのでしょう。寺が建つ前からあ
ったかもしれません。雨が降り、太陽が照らし、自然に成長しました。なぜ、と問うこともな
いほど、なぜかを誰も知りません。そうでなくていいのに、そうです。柏の木、庭、世界は、
不思議です。それを見る目も、感覚も、感情も、意識も不思議です。           



どこか



図書館の庭に、桜が咲いています。

ふと気づいたけど、
僕は、君を
知らないんだ。

きれいな風が、窓から、吹いています。

ほんとうに。
わたしも、あなたを
知らないのです。

少年が犬と一緒に、公園を走っています。

ん、
お兄ちゃんなんて、
知らないよ。

誰もいない部屋で、電話が鳴っています。

ツルル、
ルルル
ツ、ツ、ツ。

桜の蕾と花が、交信しています。

ねえ、君。どうやって
咲いたの?
うーん、知らないんだ。
でも君も咲くんだよ。


桜咲く


洞山と魯祖

 はじめて洞山が魯祖に会いました。おじぎをして魯祖のそばに立ちます。しばらくして部屋
から出ていくと、あとでまた入ります。そこで魯祖は言います。「そうだ、そうだ、その通り
に実行した」。                                   

 これは意識と無意識の関係を示しています。また存在と無、それによって起きる、自己同一
の束縛からの自由を示します。                            

 たとえば犬と一緒に散歩しましょう。あっちこっち匂いを嗅いで、おしっこして、猫を追い
かけ、世界に縄張りを主張します。ふつうの犬にとっては、生まれつきの習慣、とても大切な
儀式、どうしようもない欲望、なのでしょう。                     

 おなじように人には、身体、感覚、感情、意識は自分であって、海、山、風、星などは自分
ではないという範囲があります。これは、ほとんどの人にとって、なんの疑問でもなく、一生
を通じて変わらないでしょう。さらに生まれた国と外国、家族と家族でない、知ってると知ら
ない、所有と所有でない、味方と敵、損と得などの範囲もあります。これさえ変わることは稀
です。人には自動的な執着、つまり欲望があります。こんな縄張りを、主張、権利、能力だと
思う人はいるけれど、ほんとうは束縛でしかありません。                

 それは空想の自己の作用です。それ(対象を見る主体として仮定された、人が自分と呼ぶ自
我)は存在するという、偏った見方をすることによって生じます。また無である、という偏っ
た見方をすることによって生じます。対応することなので、同じことです。        

 これは極端を考えると明瞭になります。総てが自己ではない、とすることは、対象にしてい
る仮の主体が、存在でも、無でも生じます。また総てが自己である、とするのは、存在でも、
無でも生じます。ふつうは完全に、どちらか極端であることはできません。そして人は、それ
に気がついてなくても、そういう仕組みのどこかに固定され、支配され、縛られています。ほ
かが原因ではなく(自分がそうだのに)無意識のままです。               

 そんな人が、なにか自分を自由だと思うとしても、まったくの不自由です。無意識の欲望の
苦痛もあります。それで意識と無意識を見る人は、存在でもなく、無でもないと言います。存
在でも、無でも、おなじです。この、無と存在の中道を、空と呼びます。         

 そこで洞山は魯祖の前に現れ、消え、現れ、自由であることを表現しました。そうであれば
来ても来るものがありません。去っても去るものがありません。これを魯祖は見て喜び、うな
ずきました。しかし洞山は「それを認めない人がいます」と言い返します。すると魯祖は「君
の弁舌など相手にしない」と答えます。なんであっても意識の言うことなど聞く必要はありま
せん。洞山は礼拝し、数カ月、教えを受けたといいます。                



おじい



丹霞

 ある日、丹霞が、馬祖に会いに行く途中、老人と子供の2人連れに会いました。そこで「ど
こに、住んでいるのか」と聞きます。すると老人は「上には空があります。下には地がありま
す」と答えます。そこで丹霞は「空が壊れ、地が砕けたらどうする」と言います。老人は「あ
あ、ああ」。子供は大きく息を吸います。そこで丹霞は「父親がなければ、子供はできない」
と言います。老人と子供は山に入り、二度と姿を見せませんでした。           

 この老人と子供は無意識の自己同一から自由です。たとえば東京に住んでいます、と返事す
るような自動的で頑固な束縛がありません。大阪ではありません、もありません。いま丹霞に
会った、ここがアドレスです。この美しい世界の中心にいます。家族と家族でない、所有と所
有でない、好きと嫌い、などの縄張りから自由です。でも善と悪、聖と俗、存在と無などの、
つまりは生と死の極端を認め、その偏った真ん中にいました。              

 そこで丹霞は、天と地が崩壊したらどうするのか、と言います。ほんとうは住むところなん
かないだろう。善と悪、聖と俗、存在と無、それぞれの極端は存在しない、頼れるものなんか
ないだろう。ほんとうに死んだあとは、あなたは、どうするのか、という質問です。すると老
人は、「ああ、ああ」。子供は大きく息を吸います。                  

 さまざまな悟りの門があります。はじめは、ひとつの門しか人は通らないので、とても素敵
な経験として記憶に残ります。それに恋をしてしまいます。この老人と子供は、その状態でし
た。その習慣が、丹霞の問いによって取り除かれたのです。これは老人の最期の歓喜の言葉、
子供の最期の歓喜の行為です。わずかに残っていた残像のような自我も消えてしまいました。
とうとう死ぬ主体もなくなってしまいました。                     

 けれど、これで終わりではありません。丹霞は、親がなければ子供はできないと言います。
つまり原因がなければ、結果はないのです。これは依存関係(縁起)のたとえです。ちょっと
影を見ただけで、老人と子供は、総てを理解しました。というより覚醒体験で見たそれを思い
出しました。ほんとうに意識は愚かです。忘れるのです。                

 いや、意識も無意識も、それを理解できません。人が自分の中心をそこに置くと、それが見
えないのです。こんなことを指摘できるのは、たしかに伝統宗教の良さです。もう、老人と子
供は、どんなことをしても、捕らわれません。意識と無意識で知ることはできません。山に消
え、街に消え、職場に消え、見つけることはできなくなりました。歩き、遊び、学び、食べ、
眠る、それこそ、それです。                             

 これが修行の始まりです。善と悪はありません。それでも、それでも善を行います。死につ
づけ、失いつづけ、壊れつづけます。それでも彼です。ひとつの言葉が、ひとつの呼吸が命懸
けです。たとえ誰かが、あるがままでよいと言っても、今ここと言っても、生かされてあると
言っても、無であると言っても、それが何だというのでしょう。             

 あるとき智門が修行者に答えます。「悟りに向かうときは蓮の花。悟ったら蓮の葉。」あま
りに自然で、誰も見ることもない池に浮かぶ、なんの変哲もない不思議の蓮の葉です。   



睡蓮



小さな点

人の構成要素の依存関係、縁起について、断片B。

 ある山村では一年に一回、正装した男たちが、神社に向かって整列します。そして全員が上
着に隠した、オコゼという魚を、そっと襟を開けて見せながら、大笑いします。豊作を祈願す
る神事です。こんな変な山村にも、ぽつんと可愛い家がありました。           

 すぐに暖かい、気持ちいい、が見つけて住みました。つぎに、喜ぶ、怒る、が住みました。
このようにして、自然に仲間が増えていきました。そしてある日のこと、考える、がやってき
て、この家を管理する者は誰か、と聞きました。                    

 とりあえず適正がある、喜ぶ、悲しむ、淋しいが選ばれました。でもほかの家では、好き、
嫌い、気持ちいい、が。またほかの家では、損得、が管理する者なのでした。でも彼らは主人
が家にいない間、主人のふりができるだけなのを忘れているようです。          

 ある家は大きな前庭をつくりました。ある家はたくさんの部屋を増築しました。ある家は管
理する者の交代がありました。いろいろあるのは、どうでもいいからです。        

 あるとき家が火事になって燃えてしまいました。そのとき突然、主人が帰ってきたのです。
家のみんなは喜んで、お祭です。みんな主人の名前を聞かなかったけど自然に分かりました。
自己といいます。不思議ともいいます。                        

 その主人は教えます。物質があれば、感覚器官つまり身体があります。その身体は、目があ
るから耳があるわけではありません。手があるから足があるわけではありません。感覚がある
からです。そして感覚は、熱いがあるから、寒いがあるのではありません。甘いがあるから苦
いがあるのではありません。それは感情があるからです。たとえば美味しいがあるから、嬉し
いがあるのです。悲しみがあるから、喜びがあるのではありません。苦しみがあるから、愉し
みがあるのではありません。それは意識があるからです。また、とある思考があるから別の思
考があるのではありません。それは自己があるからです。自己があれば、命があります。そし
て愛、自由、幸福があります。                            

 物質は人のためにあり、人は物質のためにあるのではありません。感覚器官つまり身体は人
のためにあり、人は身体のためにあるのではありません。さらに感覚は人のためにあり、人は
感覚のためにあるのではありません。さらに感情は人のためにあり、人は感情のためにあるの
ではありません。そして思考は人のためにあり、人は思考のためにあるのではありません。意
識は、これ以上は知りません。                            

 けれど自己がない人は、逆になっています。そのどれかに人は、素直に従います。たとえば
嫉妬、偽善に素直に従います。このことを誰かが親切に指摘すると、真珠を投げ与えられた豚
のように、素直に激怒します。その人は感情のためにあります。感情が、その人のためにある
のでは、ありません。主人がいない家では自然なことです。それでも、そのようである自分を
自分で観察することができます。それで必要充分です。総てが人の役に立ちます。     

 自己は、不思議です。それは意識の対象にはなりません。意識は自己を知ることはできませ
ん。執着するとされる、その主体が、意識されない、つまり無(有無の無ではない無、空)と
等価なのです。だから、もし物質から思考まで、総てが人に奉仕しても、執着が不可能です。
なんどでも言います。ただ自己が空想である場合だけ、それが(自我)が有る、または無いが
あります。                                     

小さな点



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