至道無難



わたしが
山歩きしていると、
青い空に
浮かぶ雲が、
虚無、という文字に見えました。

やがて風が吹き
それは奇跡のように雷雲に成長して、
豪雨を降らせたのです。

わっ、わたしは、
虚無を全身に浴びたのです。
ギルバート先生は、
次の日、
なんとなく誇らしげに、
生徒たちに言いました。

さて、実在、という
文字の雲も
いまにも雪を降らせようと、
ヒマラヤ山脈を、漂っていました。

そいつを、
謎の猟師が一発で撃ち落として言いました。
けっ。

これを訳すと
この世界には実在と虚無、それ以外なら、
なんでもあって、
それは空と呼ばれているのだ。となります。



至道無難



 あるとき趙州が言います。
 「道に至るのは難しくありません(至道無難)。ただ選り好みを嫌います(唯嫌揀択)。わずかに言葉を話せば、選り好みです。これが明白(覚り、究極)です。わたしは明白にも在りません。これを君は大切に守っているでしょうか」。
 すると一人の修行者が質問します。
 「すでに明白にもいないなら、何を大切に守るでしょう」。
 趙州は答えます。
 「わたしも、また知りません」。
 修行者は言います。
 「和尚さん、知らないなら、なぜ明白にもいないと言うのでしょう」。
 趙州は答えます。
 「なかなか良い質問です。礼拝して去りなさい」。


あるとき趙州が言います。
「道に至るのは難しくありません(至道無難)」。



 とても美しい夕暮れでした。テレビのインタビューに応えて、とあるインドの半裸の修行者が、「一生では悟ることはできない、人は何度も何度も輪廻する必要がある」、と言いました。その修行者は、覚醒したくないための、永遠の努力をしているともいえます。おおくの人も、そんな努力を自分でして、自分で気がついていません。

金の海
 たとえば人が威張りたいなら、大統領になれます。国民のボスです。そうなれないなら社長になれます。社員のボスです。そうなれないなら、社員になれます。そうなれないなら、パートになれます。そうなれないなら、犬や猫のボスになれます。そして酔っぱらって道で暴れることができます。

 このように世界は人が迷うためにあります。けれど、まったくおなじ世界が覚醒するためにあります。どんなことも人がすることは道を見ないためにあり、まったくおなじことが道を見るためにあります。どんなことも人が自己を得たくないためにあり、まったくおなじことが自己を得たいためにあります。どんな違いもありません。

 そうでなくては不完全です。世界は人のために完全に働いています。たとえば、あることは真理で、あることは不真理だとします。すると世界には不真理があるわけで、そんな世界は不完全です。また、そんな不真理がないのでも、ないのでもないなら、世界は不完全です。この世界は完全です。そんな世界に生きる人が永遠に迷う努力をするのは難しく、道に至るのは難しくありません。


2わたしが




 

「ただ選り好みを嫌います(唯嫌揀択)」。



 とある初心者が、黒鯛を釣りたいと思いました。しかし一匹も釣れません。それでも(どこかで読んだ)この自分の特別な方法なら、すぐ釣れる、釣れないはずはない、と言い続けます。さらに自分が知らない方法で釣っている人を見ては嘲ります。そして誰かが釣ると、あれは偶然に釣れたんだ、と言います。

 どこか自己満足したい人の言動は滑稽です。それでも世界は人のために働きます。人の迷いを助長する働きがあります。いつか黒鯛は釣れるでしょう。すると誰かに自慢できます。そんな自ら望んだ迷いは、限りがありません。

 そうすると自分の迷いが強くなり、そのことを自分で理解しやすくなります。自分の奇妙な行動、言葉、思考に気がつきやすくなります。そして、そんなことをする動機、原因、前提を見つけやすくなります。そして自分の仕組みを理解しやすくなります。つまり迷いが、道に至る方法になります。けれど、おおくの人は、この世界の機能を活用しないままでいます。


黒鯛

 それほど人がこだわるなら、ずいぶん自分を学んでいるはずなのに事態は逆に働く傾向にあります。たとえば威張りたい、自己満足したいなどと望むと、それを正当化するために、そのことを自分で無意識に隠してしまうからです。すると、その是非を自分で検証できなくなります。自分の行動、発言、思考が意味不明、理解不能になります。そして、ことさら無意識に威張ったり、自己満足したりできる機会に飛びつきます。迷いたくて迷っていることを忘れます。

 そんなことに自分を縛っておくために、威張りたいなら、頭を下げるも見つけます。自己満足したいなら、不満も見つけます。人が嫌いなら、好かれたいも見つけます。悪があれば、善を見つけます。それらを対極にあると感じて眼を奪われます。そんなことしか世界にはないと思うのでしょうか。自分を知らないことも知らずに暮らせます。でも、そうであることに気がついて自分を研究することもできます。

 たとえば無意識の偽善者は、無意識の偽善者の行動、発言、思考をします。そうと知って欲が強い人は、そうと知って欲が強い人の行動、発言、思考をします。それが悪いということではありません。それが実は役にたちます。なんであれ自分の行動、発言、思考の正当性を疑い、(自分で隠した)無意識の前提を探し続けることができます。もしその前提が誤っているなら、その人の行動、発現、思考は誤りです。(そして誤りでない前提などありません)。

 たとえば優れた人の言動を嫌うなら、なんの成長もしない自分を、そのままで完全だと思いたいのでないかと疑うことができます。たとえば嘘をついて自己弁護するなら、自分は損得のために嘘を正当化しているのではないかと疑うことができます。たとえば人に嘲られて傷つくなら、ふだんは無自覚でも自尊心が隠れていたことを知ることができます。そんな無意識さえ傲慢な自分を知ろうとすることができます。そうしたら傲慢も役にたつのです。偽善も嫉妬も役にたつのです。善も悪も役にたつのです。そのように人は自分を研究し、結果的に自分を鍛えることができます。どんなことより簡単です。日常の自分を学ぶのです。



林檎


 ところで迷いを除くこと、自我を抑圧すること、真理を求めることは、道に至ることではありません。それを意識が無理にできるとしても、無意識はできません。(たとえば人が意識においては自我を抑圧したとします、あるいは真理を得たとします。けれど、その人の無意識は、自我を抑圧できないし、真理を得ることもできません)。それを無理無理できるとしても、あることは好ましく、あることは好ましくないことになります。あることは真理で、あることは不真理になります。それは迷いです。選り好みです。問題は人が日常の自分の仕組みを知らないことにあります。

 この世界には、なんの非もありません。ただ選り好みする人の姿勢が問題です。あれを好きでも、これを嫌いでも、あれこれは対象です。ということは、あれこれを対象にする主体があるはずです。それを人は、私、俺、僕、などと呼びます。その(生きている)自分が存在する、と人は無意識に無条件に予め前提にしてしまっています。
                               
 それは事実ではありません。仮定です。そういう仕組みによって人は、自分が在ると、強調し偏って感じるだけです。そうして対象を、見たり聞いたり触ったりします。また在る、に対応することが(死んだら)無いであれば、それも事実ではありません。仮定です。強調し偏っているだけです。


「わずかに言葉を話せば、選り好みです」。


 どんな言葉にも、なんの非もありません。話したり書いたりすると、言葉は、あれこれを指し示します。言葉も、あれこれの一種です。その世界の中心にある、私、俺、僕、などが予め前提にされています。それは仮定です。しかも、そう在ることに誤りは認められない(だから自分を学ばなくていい)と前提にされています。それは仮定で、誤りです。好きがあれば嫌い、善があれば悪、在るがあれば無いがあります。選り好みです。

 あれこれの迷いを生じさせるのは、在る、無いに偏っていることを、隠していることによってある自我です。その、在る、無いに偏らず、それが完全に機能すると、その仕組みを見ることができます。すると自我はあることができません。逆に言うと、人が、意識においてであれ無意識においてであれ、在る無いとか、善悪とか、好き嫌いとかに偏っているなら自我が生じます。

 また、どんなことも人ができることは、そうできるよう世界ができているからです。世界がしてあげているのに、自分でしていると思い違うことが自我です。ほんとうは自我と無我は同義語です。


3わたしが


 それは求める人に、求めることとは関係なく起こります。ほとんど瞬間に人は、その変質の始まりと中間と完成を自覚します。まったく歓喜状態で無意識も目覚めます。覚醒と呼ばれます。光の意識と闇の無意識は連続、超意識が生じます。その明るさから光明と呼ばれます。人は実在から自己を見られて世界の仕組みである依存関係(縁起)を見ます。

 どんな依存関係(縁起)でも、連鎖する階層と、その内容を総て見ることになるでしょう。ここでは仏陀の言う依存関係(縁起)を大雑把に見ます。

 なぜ人は死ぬのでしょう。ありとあらゆる原因が考えられます。(人が総ての病気を経験するだけでも、永遠に生きても不可能です)。それは、たとえば病気、怪我、老衰などを経験できる総ての前提である、人の身体があるからです。

 ではなぜ身体があるのでしょう。自然に進化したのでしょうか。神が創造したのでしょうか。いろいろ意見があります。けれど、どんなに探究しても、この階層だけでは理解不能にできています。それはそうできる総ての前提である、世界があるからです。

 ではなぜ世界があるのでしょう。取があるからです。さらに愛、受、触、六処、名色、識、行、無明と続きます。この連鎖の順逆両方向が通じる、これが人の完成です。

 そんな仏陀は、食中毒で死んだといわれます。それは他の人が死んだからではありません。肺炎があるから、肝炎があるのではありません。ただ身体があるからです。その身体は、右眼があるから、左眼があるのではありません。ただ世界があるからです。

 ここで仏陀が心臓病で死んだとします。ほかの生き物だったとします。ほかの世界にいたとします。そうだとしても依存関係(縁起)の連鎖は成立します。  すると総ての病気を経験しないでも、食中毒という偏り限定された原因でも、依存関係(縁起)は完全に成立し(総てであり)それは偏ることができません。どんなことにも、在る、無いにも偏ることができません。

 そんな依存関係(縁起)に増減はありません。人が偏ることで増減(損得)すると思うなら、それは欲望と呼ばれます。それは希望ではなく絶望です。不可能を望むからです。


黄金



 このように道を得た人は偏ることができません。そうして選り好みをするならば、また言葉を使うならば、なんの迷い、偏りがあるでしょう。それは選り好みしない、また言葉を使わず沈黙する、ということとは何の関係もありません。原因がないのです。


「これが、明白(覚り、究極)です」。


 つまり人が迷うなら、依存関係(縁起)に迷うほかありません。仏陀の場合は死、生、有、取、愛、受、触、六処、名色、識、行、無明に迷いました。それ(総て)が迷いです。依存関係(縁起)の順逆両方向が通じる、それ(総て)が道です。たとえば登山者は山に迷います。けれど登山者の道は山です。なにかが道で、なにかが迷いというのは理不尽です。


「わたしは明白にも在りません。これを君は大切に守っているでしょうか」。


 まったく明白なので、不明白の対極としての、明白はありません。とくに聖なる言動をするわけではありません。怒ったり笑ったり、お茶を買う金を心配したりします。


すると一人の修行者が質問します。
「すでに明白(究極)にもいないなら、何を大切に守るでしょう」。

趙州は答えます。「わたしも、また知りません」。


 わたしも君も、知らないを守ります。誤ることができる意識の働きを、知る、と人は呼びます。ありありと依存関係(縁起)を見て、それを知る人はいません。たとえば世界が何であるか誰が知っているでしょう。感覚、感情、意識が何であるか誰が知っているでしょう。また言葉を知らないから人は話すことができます。人を知らないから人は人です。


修行者は言います。
 「和尚さん、知らないなら、なぜ明白にもいないと言うのでしょう」。

 趙州は答えます。「なかなか良い質問です。礼拝して去りなさい」。


 ありありと見たら、自分が自分だと思う自分は去るのです。しかし、どこに行くのか。



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