し、しまった




ここには
軽く楽しんでいただけるであろう
文章を掲載しています。







損得


ある人が公園を歩きながら、何かキョロキョロと探しました。それから知人に「ここには灰皿がない。いつも俺は、携帯の灰皿を持っているからいいけど」と言いました。そして、おもむろに煙草を吸って、おもむろに携帯の灰皿を出して、おもむろに吸殻をいれたのです。その後、その人が、ある雨の日、一人で歩いていました。そして吸っていた煙草を道に投げ捨てました。知人が後ろを歩いているのに気がつかなかったのです。

このように人は自分が何をしているのか知りません。意識朦朧なのでしょう。もし確信犯なら、腐っています。どちらにしても自分で空想した愚かな他人から、自分を見ています。その空想の愚かな他人に知られなければ、自分にも自分の言動が分かりません。そんな人は空想の他人から見た、空想の自分を理想化します。その理想の自分を、現実の自分が、無理に演じることを自意識過剰と呼びます。そんな人に世界は、金、服、靴など、目に見えるものしか存在を提示できません。準備ができていないからです。

そんな人は、人に見られてなければ、また人が捨てているなら、ゴミを捨てます。持ち帰るより楽です。その、わずかな得のために、そうするのです。

そうではなく人が、道徳、宗教、教育、善悪、環境などを考えて、ゴミを捨てないとします。正直だとします。それも、人に見られる見らないで、人がすることで、言動を変えることと同じです。なにか正しいことをしているつもりなのでしょう。

どちらも自分がある、という偏り、つまり自我があります。そして裕福になったり貧乏になったり、有名になったり無名になったり、肯定したり否定したり、楽しく苦しく日常生活を送ることができます。もし自己を望む気持ちがないなら、こういう損得、欲望、執着が人の関心ごとです。世の中とはそんなものです。そこに問題は保存、蓄積、保護されています。それを永遠を求める人は、活用します。

これは、なに?何かしている、その自分は、なに?と問います。これは人が、善でも悪でも、どんな状態でも問うことができます。

たとえ自分が見ていても、結婚式でも、寝室でも、ゴミを捨てるなら、わずかに可能性はあります。たとえ神が見ていないでも、近くでも遠くでも捨てないなら、すこしは見どころがあります。これは嘘をつかない、約束を守る、など日常生活において同じです。

そのような極端をすれば、修行です。世間と軋轢を起こします。嫌な奴だと思われるでしょう。けれど自分がしていることに気がつくようになります。そして自分が自分の言うことを聞く、行動したことを見る、思うことを知る、この不思議に気がつくことができます。そして自己を得ることができます。人の毎日に、ほんとうの得があります。




態度


この世界が、自然に発生したと言う人がいます。また神が創ったと言う人がいます。この両者が、とても熱心に論争するとします。でも、その主張が、互いに証明できるでしょうか。なんとなく、できる気がしているだけではないでしょうか。もし相手の説を否定できるとしても、それは、自説の正しさの証明にはなりません。

たとえば神の存在など、証明できないだろうと主張する人も、世界、とくに感覚や感情や意識が自然にできたことは証明できないのです。永遠の時があっても論争は決着しません。なにしろ自分が知らないことを主張したり、考えたりしていることを、両者とも知らないのです。意識朦朧なのでしょう。おなじように、偽善者であることを知らない、偽善者、強欲者であることを知らない、強欲者などが、いくらでもいます。

そんな人は、熱弁をふるっても、沈黙しても、真摯になり得ません。問題の核心を直視できません。自分が知らないということ、誤まっていることを、知りたくないのです。そのあたりを指摘されると、怒ったり、逃げたり、嘲ったりするでしょう。その不真面目な態度は、自分が自分に発する救難信号です。これに気がつく人は少ないのです。そういう人は自分の名前、年齢、家族構成、性別、職業などを知っているのが普通です。

ふつう人は無意識に文化、芸術、宗教、損得など、いろいろな分野を設定して判断しています。世界は広くて対象にできないけれど、狭い範囲なら、つじつまが合うと思うのでしょう。けれど正しく思えても、無意識に設定された前提に限って、正しいだけです。しかも好き嫌い、相手の意見に対する自動的な拒否、思い込みなど、真摯でない態度が、判断に影響を及ぼす隠れた前提になっています。これは強論と呼ばれています。人の考えは大雑把に言えば、総て誤りです。

ここにこそ不思議な働きがあります。その誤りこそ、その悩みこそ、その怒りこそ、たったひとすじの蛛の糸です。世界に真実があると、人は絶対に永遠に困ります。

どんなものでも、その考えの、その態度の、後ろを振り返って、その前提、隠れた前提を見つけるのです。ナイアガラを、逆流させるほどの気力を要します。なにかを考えている、その自分、これは、なに?それは得るのではなく失う勇気を要します。

ケーキ屋さんになりたいのは、わたしが少女だからです。空を飛びたいのは、あなたが少年だからです。恋を望むのは、男か女だからです。憎いのは、正しいと思いたいからです。怒るのは、守りたいからです。嫉妬するのは、偽善者だからです。あらゆる限定された自分に、限定された希望と絶望があります。ひとつひとつ観察を要します。もし人が、名前も、年齢も、家族も、性別も、職業も、知らないなら、総てを得るでしょう。




理解


もしなにかの苦痛、葛藤、自我などの有り様を思考して、なにか問題を解決しようとしても。もしかして、そこでは思考されることのない思考が、その問題の鍵を握っているかもしれません。

しかもそれが、人の愚かさであれば、それは、その有り様に気がつかないということが、人の愚かさの特質です。ですから、思考によっては、問題は解決できません。もちろん思考しない、によっても解決はしません。

さらに人が問題を解決しようとするなら、ありとあらゆる問題を解決しなくてはなりません。ここ当面の問題でなく、ここにない、または、ありえる、総ての問題を解決せねばなりません。または過ぎ去った問題も解決せねばなりません。それは、思考によっても、思考によらないでも不可能です。

また、なにかが真理、なにかが不真理ということなど、ありえません。たとえば、ある場合は思考に捕われていないので正、ある場合は思考に捕われているので誤、などと思考するなら。その人が、無意識の葛藤に、巻き込まれているということです。その人が葛藤状態にありながら、それを知らない、自覚がないというだけです。それは無知。それは思考によっても、思考によらないでも、解決しません。 観察するによっても、観察しないによっても、解決はしません。

そしてそれはただ、飛躍によってしかなしえません。そしてそれは、総ての苦痛、葛藤、自我、問題そのものの変容です。飛躍を成し遂げた人は、それを必ず、あまさず理解せねばなりません。たとえばそれは、どんな覚者の、仏陀の、神の教えと異なっているとしても。それは必ず理解せねばなりません。





なぜ


なぜ迷いから、なぜ苦痛から、なぜ葛藤から始めるのか。なぜ愛から、なぜ自由から、なぜ幸福から始めないのか。






理由


あるとき体重が120キロくらいの大男が、地下鉄のホームにいました。電車が来たとき、とるにたりない普通の、弱そうな人が、割り込みしたと思いました。それで、電車に乗り込みながら、その人を追いかけ、器用にも後ろから足を踏みつけました。

しかし弱そうな人が「わざと踏んだのですか」と質問したのです。その大男は、わなわな震え、なにか小声で言い訳しました。話しかけられるとは夢にも思っていなかったのです。

このように人は何をしているのか知りません。意識朦朧なのでしょう。正しいと思っても、人の足を踏む正当性は大男にはないのです。そんな人に世界は、空想の善悪しか、存在を提示しません。それは人の成長を阻止することによって教えます。

なにか問題が起こって、自分が正しいと思ったら、注意が必要です。それは正しくない恐れがあります。さまざまな正しい理由を考えてしまうなら、なおさらです。そして理由で戦うなら完全に誤っています。正しさが、心理的にさえ、戦うことはありません。

おおくの人が、その人自身が理解できないということを、理解できません。理解できないことは、誤っていることだと思います。けれど、その人が誤っているのです。

善悪は、人が理解できるものではありません。たとえば善かれと思ってしたことが悪くなった、悪かれと思ってしたことが善くなった、などということがあるというだけではありません。判断できる善悪は、空想です。善いことは、理由がなく善いのです。悪いことは、理由がなく悪いのです。そうでなくては善悪は存在しません。

もし理由があって、あるのなら、理由がなくなると、なくなります。理由が変わると変わります。そのように、あったりなくなったり、変わったりするなら、あるものではないでしょう。

ある人が悪を行うには、理由があるでしょう。相手が嫌な奴だとか、損得とか、戦争とか、正義とか、それを正当化する理由があるものです。それが何であれ理由があれば、正しくありません。また、どんなに探しても、理由がない、それが正しさです。理由がないのが、善悪です。

その区別を人は、意識では判断できません。意識による、善悪の判断は空想です。そして、それでも、人は善悪を知る者です。善悪の支配者です。ただし意識は、自己を知ることはできません。支配しても、支配する者は、見つかりません。もし支配する者がいたら、人は善を行うことはできません。





損得


とある男女が、一緒に食事したり、映画を見たりしていました。あるとき女性が好きな作家の小説を男性に贈りました。その小説を読んだ男性が、観光地のように美しい文章だけど、無意味、無内容だと言いました。すると女性は「愛してれば、殴ってもいいの?」と不満をもらしました。そうして男性の顔も見たくなくなってしまいました。

このように人は自分が何をしているのか知りません。意識朦朧なのでしょう。殴られたくないと言いながら、自分は、嫌になったら相手を殴るのです。そういう人に、世界は空想の愛しか、その存在を提示しません。そのことに躓かせ、注視させるためです。

ほかの人の言動に対する、好き嫌いで、態度を変えるのは、倒錯、執着、欲望です。自己より、感情(物質、感覚、意識)を大切にしています。しかも感情が何であるか知らないのにです。知らないことも知りません。その知らない感情に支配されています。

そこには無理があり、苦痛が生じているでしょうが、なかなか気がつきません。感情(物質、感覚、意識)を抑えることも、おなじように無理があります。どちらも自分が有る、という偏り、つまり自我があります。いわゆる愛する、愛される、慈しむ、憎しむ、信念、反信念、この対立も両立も倒錯、執着、欲望です。

それはそうだとして。こんなことは自己を求める気持ちがなければ、問題にもなりません。なにかする、その自分は、なに?と問うことは、ありません。世の中はそんなものです。倒錯、執着、欲望も、どこか中途半端です。空想の他人、つまり世間の視線を気にするのでしょうか。

けれど自己を求める人は、そのためにだけ生き、限度を越えて求めます。善にも悪にも満足できません。もし最高の欲望を探究するなら、つまらない欲望には妥協できません。たとえば最高の結婚をするなら、離婚や浮気はありません。ありふれた嘘、なさけない偽善、くだらない軽蔑はしません。でなければ、ありのまま知ることは困難になります。





それは、人の、どのような有り様でもない。親切、優しさ、暖かさ、なにか物や動物や人との、良好な関係では、断じてない。それらは常に反対の思考、感情、感覚があるだろう。そんな愛でないことから、愛は、断じて生起することはない。もし生起するなら、それは消滅もするだろう。そんなことは、執着や、嫌悪に変わったりもするだろう。そんなことは愛には絶対にあり得ない。

パウロは言う…愛は寛容にして慈悲あり。愛は妬まず、愛は誇らず、驕らず、非礼を行わず、己の利を求めず、憤らず、人の悪を念わず、不義を喜ばずして、真理の喜ぶところを喜び、おゝよそ事忍び、おゝよそ事信じ、おゝよそ事望み、おゝよそ事耐うるなり…などということは、断じてない。

ただ愛は、愛。それは、どんな相対することもない。単極であり絶対。愛は寛容にも、慈悲にも、妬みにも、誇りにも、驕りにも、非礼にも、己の利にも、憤りにも、人の悪を念うにも、不義を喜ぶにも、真理の喜ぶところを喜ぶにも、おゝよそ事忍ぶにも、おゝよそ事信じ、おゝよそ事望み、おゝよそ事耐うるにも、絶対の無関係。 これを見た人は、必ず、必ず、忘れてはなりません。





思考


ある人が、強い人には卑下し、弱い人には威張って生きてきました。さてその人は、自分がそうであることに気がつくでしょうか。おそらく無理でしょう。なぜなら、その人がそのようであることができるのは、その人が、それに気がつかず、その愚かさに埋没している間ではないでしょうか。それは「自分を知らない」のです。

そんな人が、あるとき本を読みます。そーか、自分を観察?思考なしに現実に直面する?天真爛漫?うーん。これはいい。俺の望んでいたことだ。というわけで次の日、上司に頭を下げ、部下に怒鳴り散らした。掃除のおばさんを蹴散らした。そーだ。これこそ、思考なしに現実に直面だ。恐怖なしに生きるだ。なんか凄い俺。自分を知らない俺。

そしてその夜、同僚と酒でも飲みながら、得々と説教する。おめーら、言葉に矛盾があるぞ。葛藤があるんじゃないか。俺の眼を見ろ。これこそ矛盾が無い、現実に直面だ、新しい発見だ…ああ、街に冷たい風が吹く。

このように思考は、愚かな現象を対象にしやすいようです。それは、思考する人が愚かな人であり、その愚かさを世界に投影して、それを見ていること示しています。もし人が愚かでなければ、とくに愚かなことは、考えることもないのかもしれません。つまり無思考。 しかし愚かであることを愚かであると思考できない人は、愚かです。

そんな愚かな人にとって、愚かさは世界に投影されており、それを現実として、常に突き付けられています。しかし、それをどう思考しても、思考しないしても、それを理解することはできないでしょう。

しかし、しかし、飛躍によって愚かさを理解した人にとっては、 無知が智恵になり、それについて思考するでしょう。また思考しないことも自在です。このように思考、無思考は、中立であり、なんの非も、なんの是もありません。ここに人が是非を認めるなら、偏りがあり、無知であることを示します。

しかし、是にも、非にも、なんの是非もありません。それは、そうである理由があって、そうなのではありません。ただ根拠なく、是非には、是非はありません。また是が非、非が是であっても、なんの問題もありません。そうである、それを、どう左右できるでしょう。人が、どう偏ることができるでしょう。




理由


なにか思い掛けない現実が起きたとき、人は、理由を聞きます。まるで理由があれば、起こったことを変更できるかのようです。そうです。理由があれば、別の理由があります。そうすれば、違う現実も起きうるでしょう。

おおくの場合、人の愚かさには、理由が見つかりません。それは理由があれば、愚かではあり得ないでいる可能性があるからです。ですから、理由は、見つからないだけです。あるのですが、愚かでいたいために、見ないのです。愚かでいるためには、自分を知らない必要があります。

けど、ほんとうに理由が見つからないことがあります。世界。花。鳥。生きること。自分であること。それは、それ、これは。これ。総べて無根拠。どんなことも、知ると言っても、知らないといっても、どちらでもある、どちらでもないなどと、どう言っても誤りです。




投影


もし意識してなくでも、人が、自分は特別でありたいなら。その人は、ことあるごとに、自分の優位性を示したいだろう。劣ってる人には威張りたいだろう。しかし世界は、すごくよくできている。優れている人には、卑下の姿勢を示すだろう。そういう自分の態度は、生活の中で、現れずにいられないだろう。

ここで、卑下と、威張ること、対極にあることが、その人にも経験されるわけだから、感じられるでしょう。くり返します。それを思考しても、思考しないをしても、解決策は見つからないだろう。そして卑下も、威張ることもない人を見て、怒り狂うだろう。悪魔の領域です。 その人が素直であれば、その悪魔の領域に留まる、努力を捨てる努力をするだろう。そこで、自分の行動や感情や思考の前提を探ることが役に立つでしょう。否定の道。卑下と、威張ること、その両極が、特別でありたいことの現れであることに気がつくだろう。

そして特別でありたいということ、それを総ての他人にも隠していることを、捨てるでしょう。しかし、それだけでは、なんの飛躍も起こらないだろう。どこまでも、どこまでも続ける必要があるだろう。





苦痛


そして、自分が、根拠なく生きていることに気がつくだろう、そして意識的に根拠なく生きるだろう。どんな地位や、名誉も、常識や、思想も、無視し、だた独り生きるだろう。しかし、その根拠なく生きることも捨てねばならないだろう。

さらに自分の日常に、なにも問題が見つからなくなるだろう。ただ自然に生きてることがあるだろう。世界に意味はないだろう。しかし、無理にでも問題を見つけなくてはなりません。そうして自ら迷いを求めても頑張るのです。それがそのときは理解できなくても、後で総べて役に立つだろう。おおく迷いを経験する人は、おおく収穫を得るだろう。迷いを少なく経験する人は、収穫も少ないだろう。

そして残るのは絶望。なにかを、自己を、真理を、求めていたのに、まったく一歩も進んでいない自分を見い出すだろう。そこに苦痛が見い出される。それは、人がどんなことを、行動しても、話しても、思考しても、それは、世界が、人がそうできるように、できているからだ。絶対不自由。やっと、自分が倒錯(顛倒)していることに気がつくだろう。





し、しまった


とある宗教家が、臨終の床にある男を訪ねました。彼らは初対面でした。その宗教家は男に声を掛けます。でも返ってくる言葉は「しまった」です。なにを言っても、返ってくるのは「しまった」です。いろいろ想像してしまいます。悪いことをしたのだろうか。人に優しくできなかったのだろうか。すべき努力をしなかったのだろうか。ま、もっと遊べばよかった、かもしれません。

ともかく後悔、反省、悔い改め、なんと呼んでもかまいません。それをしない人は絶無に近いでしょう。そうだとして人は総てのことを、そうできるでしょうか。なにかを盗んだ、人を傷つけたという具体的なことなら、恐らくできるでしょう。それらは意識しやすいからです。それでも世の中には、人を騙して得して喜ぶ人もいます。人を嘲って喜ぶ人もいます。それで正しいことをしたと誇っている人もいるものです。ここでは小さなことにも素直に後悔する人が、しない人よりも優れていると言えば言えます。

でも自分が強欲であると意識もできない強欲な人はどうでしょう。あるいは他人が卑怯者であることを意識もできない卑怯者はどうでしょう。他人が狡いと思っている狡い人はどうでしょう。ほんとうに良いことをした偽善者というのはどうでしょう。真実を語る嘘つきというのは、どのように悔い改めればよいのでしょう。また忘れたことは、どうでしょう。たった一度でも、些細な悪いことをしたとします。それは相手との関係として悪いのではなく、状況との関係で悪いのではなく、その人自身が徹底して悪いのです。

ある人が貧しくて、妬み、騙し、盗んだとします。けれど同じ人が豊かで、そういうことを行わなかった場合、つまり可能性の悪を、どのように悔い改めればよいのでしょう。

これらは問題です。けれど、まず反省、後悔、悔い改め、そういうことをして何か効果があるのかどうか、ということが大問題です。普通では無理です。悩めば悩むほど悩むからです。でも許されるなら、どのようなことも許されます。人が気がつかなかった罪も、行わなかった罪も許されます。また隠れている良いことも与えられるかも知れません。そういう悔い改めでないなら、悔い改めとは言えません。

これが可能であることを知ることが必要です。でなければ困難を前にして、人は始めから諦めてしまうほどです。そうなったら、どの段階でも俗物です。イエス・キリストの福音に総てが記されています。禅語録も効果的です。どうすれば、いつどことで、とかいうことはないけれど、それは求めれば不意に起こります。明らかに分かります。ただ、これは悔い改めとは呼ばれていません。光明、覚醒、悟、恩寵、愛、幸福、自己などと呼ばれています。それは熱心に求めることにより、求めることとは関係なく起こります。





信仰


どこか外国で悪魔が出現したそうです。駆けつけた新聞記者に向かって、これは神の存在の証明になる、と神父が言いました。ジョークなのでしょうか。ほんとうに悪魔が出現したのなら、悪魔が出現したということしか示さないのが普通です。

でも神は天使をつくりました。その天使が悪魔になりました。そうなり得るように神は天地を創造したのです。敵というか、放蕩息子でもある悪魔をも愛しているでしょう。こんな関係を前提にしているからか、あれは神父にとって正論です。この意味では、光を見て、天地を見て、水を見て、人を見て、動物を見て、聖書を見て神の存在の証明にするようなものです。これは信じる人にとっては証明です。でなければ神の存在は証明できません。また不在も証明できません。そして証明できないことも証明できないでしょう。

では神の存在と、神を信じるということは、どういう関係にあるか見てみます。すると存在しているから信じる、存在しないから信じない、存在していても信じない、存在していないでも信じる、ということがあるでしょう。でも明確な認識ではありません。

というのも存在するものは信じる必要はありません。存在しないものは信じない必要もありません。存在していても信じないというのは、完全に信じる、という意味でもあります。逆でもあります。存在していないでも信じるとは、完全に信じない、という意味でもあります。逆でもあります。

それに信じる、信じないは、対極にあります。どうしても信じるの根底には、どこか信じない、があります。また信じない、の根底には、どこか信じるがあります。

それに存在する、存在しない、ということも普通は不明確です。まず人は存在が、どういうことか知りません。ある人が自分の存在を自分に証明しろと言われると、どのようにすればできるのでしょう。それは証明の必要はない、と言うしかないかもしれません。

あやふやでしかも、そうであることを知らないから、存在するから信じる、存在しないから信じない・・・といったようなことが遠慮も臆面もなく言われるのです。

ところで人は肯定、否定しようとすればするほど、神を強く意識します。そういう意味では信じる人も信じない人も、空想の神を信じているとも言えます。なぜ、ここで空想なのかと言うと神の姿を見たことも、声を聞いたこともなく、知らないで主張しているからです。ほとんど奇妙なことに、神を知らない人は、自分の考える神が空想であることに気がついていません。信仰とは、神を明確に知らない、ということではありません。

どんな沢山の人が信じても、ほかの人が信じる理由になりません。どんな沢山の人が信じないでも、ほかの人の理由になりません。ただ一人で人は神の前に立ちます。





自我


よく人は「あの人が嫌いだ」という理由として自我の強さをあげます。けれど人は自我が何であるかを知りません。それを説明したり、理解したり、定義したりできません。いやそれが何であるか知らないことにも気がついていません。

さらによく見れば自我と、それを嫌うということが密接に接続する必然的な理由というのは、どこにもありません。どういうものかも知らないで、しかも嫌う理由も知らないのです。なのに人はそれが何か大切なことのように嫌うことに執着します。そういう人は、たとえ美しくないことでも好きなことに執着します。

たとえば理由もなく自尊心が高かったり、威張ったりする人もいますが、その理由がないことは頑迷な根拠になります。もし理由がなければ、それを自分で批判することができないからです。また勝手な理由をつくって、正当性を捏造することさえ行われます。

テレビでしか見たことのない俳優などを嫌う場合、自分が作りだした想像の自我を投影して、さらにそれを嫌っているということさえ起こっています。なにか勝手な理由をつくっているのでしょう。よく知っている人に対しても、そんな空想は行われています。

嫉妬が隠れている場合もあるでしょう。それならば偽善者です。偽善者は必ず嫉妬し、嫉妬する人は必ず偽善者です。なぜなら、これらは鏡像だからです。

ともかく自我は強い自我として受け止められています。それは人から嫌われます。そこで、そうでなくあることを人や自分に求める場合があります。けれど見かけ上は強い自我の人を嫌う、見かけ上弱い自我の人は、自我の弱い人ではありません。どららもそのような形態をした自我なのです。

その人の言動が、その人自身にそうであると訴えていますがなかなか気がつきません。一生「あの人は好きだ」「あの人は嫌いだ」といって過ごしてしまうこともできます。どんなことにも意味があるので自分の言動を、真剣に観察して欲しいと願います。

では自我とは何でしょう。人の構成要素である物質(森羅万象と身体)、感覚、感情、意識、ようするに世界が、未熟な人自身のために、その人の代わりを行っていることを、自分でしていると思い違うことを自我といいます。ついでに言うと欲望とは、自己以外のもの、つまり人の構成要素に拠り所をもつことです。

人の構成要素は人の対象なのだから自己ではありません。それに反応して生じる自我を自己であると思う必要はありません。人は生まれただけでは、それしかないけれど、それだけの者ではありません。自我は否定されるのではなく完成されることによってのみ無我となります。無我とは実在です。実在は感知されないから無と呼ばれます。




空想


まだ海を見たことがない人は海を想像します。愛を知らない人は愛を空想します。幸福を知らない人は幸福を空想します。神を知らない人は神を空想します。自分を知らない人は自分を空想します。そして空想であることに気がつかないのが現状です。

人は生まれるだけで、身体、感覚、感情、意識があるのは明白です。でも愛があると思うのは妄想です。もしかしたら幸福になれるかもしれないと思うのは妄想です。神を信じても、信じなくても妄想です。そのままで自己があると思うのは妄想です。

なのに人は愛すると言います。おおくの場合は、とても汚いと思われている執着を、とても美しい名前で呼んでいるのです。

また幸福を望んでも、対象によって感覚を満足させるだけのことなら、何になるのでしょう。さらに勝手に空想した神を否定しても、肯定しても何になるのでしょう。信じない理由は、自分より優れたものが嫌なだけ、信じても取引を考えてのことでしょう。 よくスポーツ選手が自分のために頑張るというけれど、人が自分を知らないで、ほんとうに何かをしたといえるのでしょうか。

あれこれ人は知らないことを空想します。まだ無いものは代用品を使うしかないので、これらは自然なことです。けれど生活のなかで損得が人を支配すると生まれつきのように偽善者となり、権力者となり、愚者となり、欲張りとなる可能性が大きくなります。これが悪いわけではありません。そのままにしておいて活用しないのが悪いのです。

たとえば偽善は、ほんとうに良い人になるためにあります。権力は、完全に行う人になるためにあります。愚かさは、知恵ある者になるためにあります。執着は、愛する者になるためにあります。あれこれと求めることは自己を得るためにあります。

けれど良い人であろうとして、自分を躾ければ躾けるほど偽善者になります。完全であろうとして、権力を使えば使うほど幼稚になります。愛を望めば望むほど、執着を握りしめます。自分であろうとすればするほど、空想の自分をつくりあげてしまいます。これでは人の普通の努力では無理ではないでしょうか。

この世界には生まれつき金持ちも、美しい人もいるでしょう。そういう努力しないで与えられることを、求める必要は誰にもありません。努力するというならば、そういうことをしても無意味です。たしかに探究することは、得ていないことを示しています。けれど人に向上心がないならば、そのままで完全だと無意識で自分を誤魔化しているのです。また学ばないないからといって達成しているとはいえません。精神の探検者として超努力が必要です。よい特質は努力する人に、贈り物として与えられます。





連鎖


とある女性が昔、北極点に行きました。そして、地球の天辺に立った、と言いました。微笑ましいかもしれないけれど、滑稽です。いつか見た地球儀の上のほうが、地球の天辺だと思ったのでしょう。その空想の天辺に苦労して彼女は行ったのです。逆さにすれば地球の奈落に落ちたのです。いうまでもなく人は誰も、地球の中心に向かって足を下ろし、宇宙の果てに向かって頭を上げています。

ではなぜ思い違いをしたのでしょう。血と汗と涙の努力を、自分や他人に対して明確にしたいので、大袈裟になるのでしょう。でもほんとうの原因は、本人にとって思いもよらないかも知れないけど、依存関係を見ないからです。そうでないと、欲に捕らわれます。自己顕示欲、保存欲、物欲。こういうことは世間ではよくあります。いじけている人、威張っている人、いくらでもいます。依存関係を見るなら、総てが変わります。

そうであれば水で絵を描いたとしても、至高の美術家です。砂で城をつくっても、不滅の建築家です。蕎麦を食べても、究極の美食家です。

たとえば世界一の美味は何でしょう。ごくありふれたものに、未知の料理法があるかもしれません。もしかしたら机の足とか、鉱物に、素晴らしい味が発見されるかもしれません。とてつもなく馬鹿なことでも、美食家であれば探究を続けるでしょう。

そうだとして世界の総ての水を味わうことさえできません。総てを見る、聞く、嗅ぐ、触ることもできません。この広い感覚を求め続けることで欲望が触発されます。これとは逆に狭いことに固執する人もいます。あらゆる味覚があるのに、狭い範囲の味覚しか認めない人もいます。とても狭い感情や思考に閉じこもる人もいます。それを他を認めるための仮の基準として活用する人も少ないのです。拒否することは、とても簡単な自己主張、自己保存です。クルミは殻が硬ければ硬いほど中の実が、美味しいとは限りません。

おおくの人は広がる、また狭くなることによって満足を望みます。見かけの、そこそこに満足したい人もいます。どれも欲望です。これらに満足できないように人はできています。この満足できない、が欲望の役割であり、力です。これを活用できます。

たとえば素麺、またトリュフがけフォアグラのキャビア添えを食べてもいいのです。そうすれば味覚があります。たとえば甘い、があるから辛い、があるわけではなく、味覚があれば、感情があります。感情があれば、意識があります。意識があれば、自己があります。自己があれば、命があります。これが人の構成要素の依存関係です。どんなものが対象でも、なにひとつ欠けません。おなじことですが、ここに対象になる可能性のあるものがなくても、なに一つ欠けません。欲望は人の主ではなく人に仕えるものになります。



反応


ところで。ほんとうに、好きの反対は、嫌いなのでしょうか?慈しみの反対は、憎しみなのでしょうか?苦の反対は楽なのでしょうか?

たとえば不快であろう出来事があっても、その人の状態によっては(そんなことをする人を)哀れんだり、嘲ったり、喜んだり、妬んだり、とくに何も感じなかったりすることもあると思います。

やはり好き嫌い、慈しみ憎しみなども、人が勝手に反対のこととして見つけて、思考し、その濃度をあげて、認知しやすくするための働きである、とも思います。(でなくては、ほとんど意識の識域外、であることを含めて)。それに束縛されるなら、それは悪魔の領域。でも、それは飛び越えるしかないでしょう。それがこの世界でできます。こんな世界は人のために働いてると思います。









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