しまった




ここには
軽く楽しんでいただけるであろう
文章を掲載しています。







不識


ある電気の技術者が言いました。「わたしは電気回路を設計できます。でも、電気が何であるか知りません」。たしかに、この物質が何か知っている科学者はいるでしょうか。身体が何であるか知っている医者はいるでしょうか。聞く、見るが何であるか知ってる芸術家はいるでしょうか。怒りが何であるか知ってる怒る人はいるでしょうか。意識が何であるか知ってる哲学者はいるでしょうか。

たしかに人はみな自分です。でもそれが何であるか誰が知っているでしょう。知らないと思ってもいないことが、知っていることではありません。

インドを出発した達磨が、3年かけて中国に着きました。そこで梁の武帝が、最高の真理は何かと、質問します。達磨は「なにも聖なることはない」と教えます。すると武帝は、困ったのでしょう。怒ったのでしょう。あなたは何者かと聞きます。達磨は「不識」つまり「知らない」と答えます。さらに武帝は、自分は即位してから、寺も建てた、僧も保護した、経を講議した、功徳はあるかと、質問します。達磨は「ない」と断言します。

「なにも聖なることはない」

なにも聖なることがないとは、聖を空想してないことです。空想の俗もないことです。つまり空想の聖俗の超越も示します。聖にも俗にも、依存できないことです。そのことは聖であることを示さないではありません。つまり「なにも聖なることはない」ということは、聖であるという表現です。もちろん、ただ聖はない、のです。

しかし。ここで、思考によって「聖がある」としてみます。すると人はどこかに、「聖がない」状態、俗を想定してしまうかもしれません。その人の世界には、聖俗があるかもしれません。なら、その人は聖俗に迷っていて、聖であるとは言えないでしょう。

それは対立概念と、一応は考えられます。このように聖と俗は、そうでありたい人の欲望の、方向が違うだけとも見受けられます。こういう思考は既知の範囲にあると見なされやすいのです。しかし、それは、ただ思考の癖のようなことかもしれません。

というのも、ただ聖であるとします。それはそれで問題はなさそうです。おおっ。聖なる和尚様、などと言って、拝んでしまう人がいるかもしれません。とくに拝んでしまう人が、俗である必要もありません。つまり聖なる人が聖なる人を拝んでしまうのです。もちろん拝まないでも、聖なる人なのです。

ほんとうに聖には俗が、対立しているでしょうか。それが世界を二分しているでしょうか。いいえ。ほかにいくらでも対立関係は見つかるでしょう。たとえば善悪、優劣、慈しみ憎しみ、好き嫌い、損得、安心不安、既知未知などがあるでしょう。それらの関係は、どうなっているでしょう。

それらは実際には世界を二分することはできず、できるとして、そうであると思考する人の思考しか、二分できないのではないでしょうか。それを人は葛藤と呼ぶのでしょうか。 もしかして聖は俗を含み、それゆえ聖なのではないでしょうか。

さらに、しかし。聖とは、俗とは、なんでしょう。それって、どういう意味なのでしょう。それは互いに対立していると仮定されることによって、意味が明確に思える働きに利用されているだけかもしれません。そして欲望がなければ聖で、欲望があれば俗と、あれこれ空想の翼を広げることができるだけかもしれません。たとえば善悪、優劣、慈しみ憎しみ、好き嫌い、損得、安心不安、既知未知なども、そうであるだけかもしれません。

ほんとうは既知さえ、未知なのではないでしょうか。たとえば聖俗、善悪、優劣、慈しみ憎しみ、好き嫌い、損得、安心不安、既知未知。それは記憶に関し、たしかに意識のする空想であるかもしれません。しかし、それがなんであるか、どうしてそうであるか、誰が知っているでしょう。

それに向き合ってしまえば、それがなんであるか、どう探っても、知ることができないのです。たとえば思考、それさえ何であるか、知らないのです。

それだから、あなたは何者か、と聞かれたら、知らないと答えます。人は不思議です。あれとか、これとか知ることができるものではありません。その人にとっては、その人が未知なのです。よく言われるように人は自己認識が困難です。それは、たとえなにかであると認識したとしても、それは必ず誤りだからです。もし人が自ら望んで、たとえば狡い人になり、不実な人になり、優しい人にならなければ、どうして規定できないことを規定できるでしょう。

そうでなければ、たとえば聖俗、善悪、優劣、慈しみ憎しみ、好き嫌い、損得、安心不安、既知未知さえ、未知なのです。つまり既知が未知なのです。そうであれば 物質、身体、感覚、感情、意識を、ありありと見て、それが何であるか、知る人はいません。ありとあらゆることを見て、それを知ることはできません。知っていることが何であるか知りません。また知らないことも知らないのです。

それでも、たとえば既知(あるいはそれに対応する未知)という仮定をするなら、そして、それを信じるなら、人は、既知未知に、欲望、執着できます。けれど、ありありとあり、知らないものには、欲望、執着できません。それは過不足ないのですから。どうして得ようとしたり、失おうとすることができるでしょう。

そして執着がなければ、知ることはありません。それぞれの構成要素に、欠けること、加えることがあっても、全体は変わりません。完全です。ただし知ってる、また未知だと思っている、欠けたり、加えたりできると思う、劣った人が、執着できます。物質、感覚、感情、思考を崇めます。なにより優れた者は、功徳は不要です。






日々是れ好日


ときどき海に行きます。それは魚釣りをするためです。ある種類の、というより、ほとんどの釣り人が主張することがあります。それは潮流と釣果の関係です。いわゆる潮が動いてないときは釣れないといわれています。そして新月と満月あたりは、干満の差が大きい大潮で、潮が動き、よく釣れるといいます。

では現実はどうでしょうか。そんなことはありません。大潮に釣れるとはいえません。すると、ある種類の、というより、ほとんどの釣り人は原因を探ります。これは海水が暖か過ぎるのかもしれません。これは風の向きが悪いのかもしれません。これは餌が悪いのかもしれません。しまった。そして、原因があるのですから釣れなくても、それは納得できるようです。

そして大潮に釣れたとします。すると、やはり太古からの言い伝えは正しかった、というわけです。どちらにしても、潮が動かないと、釣れない、これが証明されました。

それで楽しいのでしょうか。釣れる条件が揃ったら、釣れるなら、釣りの技術としての趣味は、ないのではないでしょうか。ただ潮流と釣果は無関係と思います。

あるとき雲門が修行者たちに言いました。

「15日以前のことは問わない。
15日以降をなんと言う」。

これに答える修行者はいませんでした。

そこで
雲門が修行者たちの代わりに答えました。

「日々是れ好日」。

いろいろな解釈があるようです。昔は月の運行で暦を決めていました。新月と満月の間は約15日です。つまり暗闇の新月から、明るい満月まで15日です。また明るい満月から、暗闇の新月まで15日です。どちらも大潮です。

つまり人が真の闇を見たら、あるいは明るい夜を見たら、修行が満ちたら、つまり悟ったら、なんと言う。こんな質問です。

おおくの修行者は、沈黙で答えたのでしょう。それは問題です。なにかを言うこと、思考することは大雑把に言って、善いことより悪いこと、幸福より不幸、同意より批判、悟りより迷いがテーマになりやすいのです。思考が展開しやすいのです。人の意識は、暗いことを嫌っていながら、それに親しんでいるのです。それなら沈黙。それが問題です。悟った人は言葉で言えないことを言葉にし、自ら理解せねばなりません。「15日以降をなんと言う」。これは、そんな質問です。

「日々是れ好日」。

これは全肯定の表明です。否定さえ肯定するのです。たとえば人生には雨も嵐もあります。そんな苦難さえ受け入れる、という簡単なことではありません。きっと根性のある人なら、どんな苦境にあっても、やせ我慢できるかもしれません。それは無関係です。それは、そういうこともできるというだけです。

たとえば聖俗、善悪、優劣、慈しみ憎しみ、損得、安心不安、既知未知などの、一応の対立概念があります。

それぞれは一応、互いに否定しあい、互いに拠り所になっています。たとえば慈しみは、憎しみの否定です。憎しみは、慈しみの否定です。しかも互いに拠り所になっていないで、どうして互いがありえるでしょう。それらを総べて認めるのです。すると、そこには、慈しみ、憎しみは、あることができるでしょうか。あったとして、それに縛られることができるでしょうか。

それによく見るならば、対立関係は対立関係ではありません。もし対立関係なら、どうして、たとえば善悪が、優劣にすり変わったりできるでしょう。

また修行者は自我をなくそうと努力することもあるでしょう。つまり自我を否定しようとします。それは否定の道です。もし人が人が真の闇を見たら、あるいは明るい夜を見たら、総てを許すのです。もちろん自分を拒む誰かを許すのです。そうして、そうしているという意識さえ生じないでしょう。





非意識


物質…やかんをガスにかけていて、忘れていても、やかんはガスにかかっています。なんか部屋が暖かくなるとか、沸騰する湯の音で、それを思い出します。意識されなくてもありました。けど非注意、非意識でした。その、やかんが意識されます。これは日常の、物質的なことは、そのようだと思います。また物質は「自分はある」と訴えています。その、あるを、あると、ことさら意識は意識するのです。意識されてないことも、ないことは、ないでしょう。海を見たことがなくても、海はあります。(わたしは海を見たことはない、神を見たことはない、だから、それはない、という思考はできます)。

たとえば注意を「テレビの画面」から(それまで非注意、非意識であった)「家人の話し声」のほうに移した、ということは、(なんとなく/まったく)非注意、非意識であっても、「家人の話し声」は、そうあった。注意、意識されると、非注意、非意識と比べると、明瞭になっています。この非意識と意識を同等に見ると、強調がわかりやすくなるでしょう。

身体…たとえば針で指を怪我をしました。意識します。ちょと小さな赤い血の球が、じわっと大きくなります。もちろん出血してないでも、見えなくても、意識されないでも、非注意でも、身体に血は巡っています。しかも意識されていない、背中や足なども、もちろんあります。それが、そうであることを意識することによって、それが、あることが明確になります。つまり意識されてなくてもあることを、意識することで、明瞭になります。

感覚…たとえば、針で怪我した指の痛みがあります。あるいは木綿のシーツを撫でる快感があります。それは、たとえ矛盾する感覚だと(考えると)しても、(また、たとえば風呂に浸かっていて)そんなことを感じることがなくっても、非注意、非意識だとしても、あると思います。痒い、熱い、寒い、甘い、辛い、なども感じることがなくても、ないことはないと思います。感じるということは、なにか出来事によって意識されるからです。意識されないでも、痛みも快感も、ないことはないのです。

参考…たとえば大きめの白い紙の上に、3、4センチの赤い紙を置いてください。じっと見ます。さらに見ます。だだ見ます。眼だけで見ます。すると、赤い紙の周りに、補色である緑が、透明な炎のように美しく輝いて見えます。これは人の眼が、現実にない色を勝手につくったのです。それを意識しないでも、そのようにして、人の眼は赤を鮮やかに見るようになってるのだと思います。総ての色に補色があります。

感情…とある出来事によって、怒りが生起します。それは意識されます。意識が、怒りに向いてないときの、非意識な怒りも、ないことはないのです。それが意識することで、スポットライトで照らされたように、強調されます。問題になります。 これは、補色のように、冷静、を発生させます。それはそれで、強調作用を明瞭にします。それは、また、そこには現れていない、非注意の、悲しみ、喜び、好き、嫌い、不安、安心、恐怖、などより強調されています。

思考…たとえば善悪を思考します。それは非意識でも、問題としてはあったのでしょう。善を思います。すると補色のように、悪が発生します。おおまかに言うと、意識は、そう意識しないでもあることを、意識することで強調します。それをさらに印象づける方法が、対立概念ではないでしょうか。思考による海、神。それは、ある、ない、の対立概念によらずには、意識化は困難だと思います。

もちろん怒りなんかが、非意識のときにはないと、思考はできます。そして、ここで、ある、ない、を思考するなら。それは意識されてない、ある、ないの強調ではないでしょうか。

生活…たとえば自分を偽善者であると知らない(無知)偽善者がいます。無意識でも、偽善者です。しかし、その人が偽善を意識し、良い人になろうと(葛藤)します。すると、無意識の偽善、そして意識された偽善、二重構造になっていませんか。つまり無意識の偽善者が、偽善を意識するのです。

それは人が、偽善を強調して、理解する働きだと思います。意味が濃いので、それに返って縛られたりすると思います。そして無意識でも偽善者である人が、自分の損得を考えます。すり替えます。思考は、強調と、すり替えしかないように思えます。





ときどき海に行きます


ときに大きなスズキなどが、小さなイワシの群れなどを追ってる場面に出会います。イワシの群れは飛び跳ね、あちらへ、こちらへ、まるでにわか雨のように、音を立て海面を騒がせます。 また小さな魚が潮に乗って流れる枯れ葉の上に、飛び乗り、滑り落ち、飛び乗り、何度も何度もくり返すのを見たことがあります。

そして堤防の上を歩いていると、だれか釣り人が捨てた小魚が流れていきます。それをカモメが足で掴んで飛び去ります。とくに夏の夜は無数の夜光虫が、ひと波、ひと波ごとの刺激を受けて、まるで青白い蛍光インクを流したように海が発光します。そして魚がその中を泳ぐと、光の軌跡を残します。それすべてが生き物です。

もちろん魚釣りをするために海に行くのです。スズキか黒鯛が釣れるといいのですが、メバルがおおいのです。とくに魚が欲しいのではなく、釣りたいだけなので、すべて逃がします。でも、欲しいと言う人にはあげます。また逃がしても、魚の生存率は不明です。 また大きな魚を釣って持って帰った場合、その大きな魚に食べられるはずの、小さな魚は、助かるのかもしれません。

そして深夜営業のスーパーなどで、カレイの干物(誰かが殺した)を買ったりします。とくにレタスが好きです。でも、それって、みな生き物です。人は生き物を食べて生きています。

さて、釣った魚を食べる人が、言いました。「食べてあげれば供養になる」そう言いました。かなり大きくても、卵で腹が大きくなっている魚は、逃がす人がいます。きっと罪悪感があるのでしょう。それは本人には聞いたことはありませんが、もしかして、今日を、精一杯に生きていない後悔の証なのかもしれません。その償いかもしれません。

いろいろな釣りの方法があります。その人がねらってる魚の量より、遥かに大量の撒き餌(もちろんそれも元は生き物です)を海にまき散らし、海を汚し、そのまき散らし方の技術を誇る人さえいます。テレビの釣り番組では、そのようです。それは恥ずかしいことです。また何本もの竿で投げ釣りをし、魚が掛かるのを待ってる人がいます。なぜ、魚は釣れなくていいから、一本の竿を握り、探り歩かないのでしょうか。それで、なぜ楽しくないのでしょうか。まったく釣れなくっても、あー疲れた、楽しかった、でいいでしょう。

テレビの番組で、中年夫婦が、鮭のテンカラ釣りを見学します。日本伝統の毛針ではなく、同名ですが、大きなトリプルフックで引っ掛ける漁です。きゃー可哀想、などと奥さんは、掛けられて暴れる鮭を見て、大騒ぎです。

そして、すぐ場面が変わって、鮭料理の店の前です。きゃきゃ喜びながら、店にはいり、美味しい美味しいの連発です。きっと人を呆れさせるのが得意なスタッフが編集したのでしょう。そういう番組が、ときどき放映されます。

ところで人は犬や猫を飼い、誰かが殺した魚や、動物を原料にした、餌を与えます。そういえば、犬を食用にする地域もあるそうです。それで猫を食用にすることはあるのでしょうか。海に一緒に行く調理人に聞いてみました。猫は、泡が立つから駄目だと言います。意味不明です。

それで煮たりすると、鍋が泡だらけになるのか、と聞いてみました。そうだと言います。でも、それは、それだけなら問題ないのでは、と聞いてみました。不味いという答えです。犬はとくに赤犬(茶色の犬)がうまいと言います。で、そういう噂が調理界にはあるってことかな、こう聞いてみました。いや。昔の人が、経験したことで、事実だと言います。

またあるアメリカ人は、家族が一番大切だと言いました。それは人類みな家族という意味なのでしょうか、聞き逃しました。人は勝手な思いで生きています。たとえば自分の得を追求するなら、この世界は、弱肉強食だという、世界観を支持するでしょう。そして、それが自己犠牲でもあることに気がつかないでしょう。そして、損得が好き嫌いであったりするでしょう。

しかし、しかし。このおぞましい世界。これこそ、人が成長するための触媒です。苦も楽も、偽善も嫉妬も、善も悪も、ただ人の成長のためにあります。






たとえば世界が楽なら、誰が解放を求めるでしょうか。ここが天国なら、誰が解放を求めるでしょう。なにか人生に苦が生じるのではありません。この世界が苦です。では苦はなんでしょう。それは老病死ではないと思います。もちろん、好きな人と離れることでも、嫌な人に近づくことでもありません。

それらは苦の説明概念と思います。苦とは、人が、この世界でなしえる総てのことは、そうできるように、世界ができているってことではないでしょうか。どんなことを行動しても、なにを話しても、あれこれ思考しても、それはそうすることができるように世界ができているから、できるのではないでしょうか。ほかの言い方をするなら、絶対不自由だからではないでしょうか。それは人が倒錯していることを示します。

そうであるなら、ふつう言われる苦も楽も、喜びも悲しみも、成功も失敗も、安心も不安も、苦、なのではないでしょうか。つまり生が苦ではないでしょうか。そうでなくて、どうして人は、それからの解放を求め得るでしょう。

そうであるのに苦と楽を対立概念として見なすなら、それは事実を正確には見てないかもしれません。あるいは苦を無くそうとすることを求めて、楽を得ようとすること。あるいは苦を求めて、楽をなくそうとすること、それこそ苦ではないでしょうか。倒錯であり、迷いではないでしょうか。この世界は、苦です。しかし、倒錯することのない自己にとっては、それがそのまま楽でないことはありません。





無明


たとえば愛されたい人がいるとします。そして、そうであることが、まだ行動、発言、思考に現れていなくても、その人が、そのようであること、それを無明と呼びます。無知と呼びます。

そして、たとえば愛されたい人が事実として、そうでありたいためにする、行動、発言、思考、それが「無明」による「行」です。これある、ゆえに、これあり、と言われます。それは、その人の、愛されたいという問題が、世界に投影されていること、といえます。それから解放されたいのに、それに埋没し、縛られていることを、迷いと呼びます。

そして愛されたいのですから、愛してくれる人を好み、愛してくれない人を嫌う、というようなことが起こるでしょう。好き嫌いが生じるでしょう。すると嫉妬や、偽善も生じるでしょう。それで優劣や、善悪に縛られることもあるでしょう。それはおいといて損得に走ることもあるでしょう。つまり葛藤を感じたりもするでしょう。ならば、この葛藤は、(遡って)無明から生じたのであると知れます。つまり、そんな葛藤は無明による行です。これには、これが起こる理由があります。

ほんとうは、どんな人でも成長したいのです。そう人は生まれているのです。ですけど、それがうまくいかず、ただ愛されたい人になったり、威張りたい人になったり、妬む人になったり、怒鳴る人になったり、卑下したい人になったりして、それに止まるのではないでしょうか。葛藤は、そのための好都合な踊り場になります。つまり、成長してないことの補償作用が、そのような行動、発言、思考であるとも言えます。 つまり無明とは、人の成長原理であるとも言えます。

と、いうのも人がこれを活用することができるからです。(また、そのまま迷いのなかで暮らすために、活用しないでいることもできます)。つまり無明は行として、世界に投影されているのですから、自分の行動、発言、思考を観察するのです。そして、それがなぜ、そうであるのかを探るのです。自分の行動、発言、思考の前提を探究するのです。無明による行を、理解するのです。

それでも、ただ、それだけでは明らかに不足です。自分の目前の、またはあり得る葛藤を理解したとしても、 ありとあらゆる葛藤を、あまねく理解したことにはなりません。たとえば善悪を探究するなら、自分が行わなかった悪事も理解しなくてはなりません。すくなくても、その可能性も思考せねばなりません。これまで小さな悪事をしたことのない人も、可能性としては、どんな大悪人かもしれません。それでもまだ無明には届かないでしょう。

しかし、それが起こらざるをえなくなったら人に、覚り、光明、覚醒と呼ばれていることが起こります。そうであれば、可能性としての善も与えられるでしょう。たとえば愛されたい人は、ほんとうに愛する人になるでしょう。そんな良い特質を獲得するでしょう。 そしてそんな恩寵を得たら、それを必ず必ず自らの力で理解せねばなりません。理解することで、そのまま、無明が智恵になります。それが「無明」からの解放です。すると「行」からも解放されます。すると「識」からも解放されます…。それがあっても、なくても人を縛らず、問題になりえません。これなき、ゆえに、これなし、と言われます。





中道


たとえば熱い寒い、騒がしい静かとか、好き嫌い、慈しみ憎しみとか、否定肯定、あるない、とか、それが(とりあえずのことであっても)両極端の問題意識が、中道への、直接ではないけれど、道になっていると思います。

そして(とりあえずのことであっても)両極端の完全な活動、つまり両極端の完全な肯定が、人における中道の発動です。たとえば善悪などの、両極端が機能しているのですから、どこかに偏っていることなどできないのです。もちろん善悪などの、中間にも、偏ることができなくなります。すると、それがそのまま、両極端、中間の否定になります。そんな人は、否定にも肯定にも偏らないでしょう。あるない、にも偏らないでしょう。

そしてそうであれば人が望めば、依存関係を見るでしょう。たとえば感覚の(たとえば熱い寒い、騒がしい静かとか)総てが活動すると、それが、感情の(たとえば好き嫌い、慈しみ憎しみとか)認知に繋がると、見るでしょう。そして感情の総てが活動すると、意識の(たとえば否定肯定、あるない、とか)認知に繋がると、見るでしょう。

そして総てが活動している訳ではない日常の場面において。たとえば美しい音楽を聞き(感覚)し、楽しく(感情)し、そうであると知れる(意識)でしょう。それこそ、否定にも肯定にも偏らないでしょう。有無にも偏らない、中道です。

ただ、それを理解してなければ、そのおなじことが苦痛として感じられます。なぜなら、日常は、人の総ての要素の完全な活動ではなく、歩く、話す、食べる、仕事する、学ぶ、遊ぶ、出来事などの必要に応じて感知される範囲の、偏った、依存関係しか認知されないからです。この偏りこそ葛藤として認知されます。

それはたとえば煩悩、迷いと呼ばれること(苦痛)において、より強調されて認知されるでしょう。それは依存関係の理解がないことの補償作用、救難信号です。

つまり日常では、感知されない依存関係の範囲があることの無知が、苦痛を与えるのです。それを理解することが大切です。たとえば日常で感知されない範囲の依存関係も機能しているのです。たとえいま感じていない楽しさも悲しさも怒りも喜びも、ないことはないのです。

たとえばコップの海水を、手前から、向こうから、左右から、どこの方向から飲んでも(なにか太古の書で見た覚えがありますが)塩味であるように。つまり飲まないでも、塩味であるように。たとえば楽しいときには感じてない悲しさも、ないことは、ないのです。それが認知されてなくても、依存関係は機能しているのです。

そうであれば中道でないことを探しても、見つかりません。ほかのことなどないのです。善悪とか、好き嫌いとか、否定肯定とか、あるない、それが、中道です。そうであるなら、たとえ偏っても偏らず、つねに、ただ人は中道を歩みます。どんなことも、ある、ない、どちらでもある、どちらでもない、どう言っても誤りです。






ところで依存関係は、その総ての要素が、空であると知れます。というのも総ての要素は、それのみでは機能せず、それがそれ自身に原因がない、こと、もの、と見なされるからです。たたえば、感情、それだけが(虚空に)存在するということはありません。

つまり物質、身体、感覚、感情、意識は、それ自身がそれ自身に原因をもたず、つまり実在ではなく、たがいに依存することによって機能するからです。

たとえば熱い寒い、騒がしい静かとか、好き嫌い、慈しみ憎しみとか、否定肯定、あるない、とか、どんなことも、それ自身に原因がなく、空であり、実在ではありません。もし実在であれば、どうして他のことと関わり、依存関係を成立させるでしょう。そうであるので、どうして人は、それに拠り所を持ったり、欲望したりできるでしょう。 なにも人の対象になっていることが、空であるというのではありません。人が、空なのです。

たとえば何かの出来事で、怒りが感知されるとします。それは何かの出来事によらずには、感知されません。それは実在ではありません。それを実在と見なさなければ、どうして、それに欲望できるでしょう。たとえば幻を、どうして握りしめることができるでしょう。このように実在でないこと、ものを実在と見なすこと、ここに欲望の拠り所があります。

あるとき修行者が聞きました。

「万法は一に帰します。では、一はどこに帰しますか」。

趙州は答えます。

「私は若い頃、青州で、服をあつらえた。その重さは約4kgもあった」。

とても大切な、もの、こと、それは実在のように重いのです。たとえば人が欲しい立派な服、美味しそうな食事、高い地位、名誉、恋人、感覚、感情、思考、それは、実在のように見えます。欲望がそうさせるのです。欲望が、ある、ないを、認知させるのです。しかし、欲望も、依存関係によっています。どうして、それを知って、それに拠り所を持てるでしょう。そして依存関係というそのことも、実在ではありません。

ところでこれは、もの、ことの空の側面です。そうでなく、総ては実在すると見なすこともできます。そして、それはそれで、人の要望の対象にならないという機能としてはおなじです。実在は実在に欲望を持つことができません。その必要がありません。





この世界は人を覚醒させるための触媒です


たしかに世界は何であるとか、ないとか人が理解できることではないけれど。また人も、人が何であるとか、ないとか理解できる生き物ではないけれど。世界は常に人が成長するために働いています。そのために、ただ静かに深く激しく、なんとでも機能しています。

たとえば星、たとえば月、たとえば夜。

それを美しさのために使いたい人がいれば、世界は、美しさのために使わせます。 それを知識として、誇りたいために使いたい人がいれば、世界は、知識として、誇りたいために使わせます。それを研究のために使いたい人がいれば、世界は、研究したいために使わせます。それに無関心でありために使いたい人がいれば、世界は、無関心でありために使わせます。

たとえば生、たとえば恋、たとえば死。

それを遊びのために使いたい人がいれば、世界は、遊びのために使わせます。それを探究のために使いたい人がいれば、世界は、探究したいために使わせます。それを成長するために使いたくない人がいれば、世界は、成長するために使いたくないために使わせます。世界は、世界を、人に完全に提供しています。 ありとあらゆることも、ありとありえないことも、人の、どのような要望にも応えています。

たとえば雲、たとえば雨、たとえば海。

たとえば一杯の水を飲みます。その不思議。 この不思議に気づきたくなければ気づかないでいられることの不思議。たとえば喧嘩。たとえば苦痛。たとえば欲望。どんなことでも人の日常は、不思議です。どんなことでも人は、それが何であるか知らずに、それに縛られ、それが何であるかさえ知らずに解放され、それが何であるか知らずに成長します。

たとえば有、たとえば空、たとえば無。

あるということの意味を知らず、人は、あるものに欲望します。ないということの意味を知らず、人は、ないことに恐怖します。そして欲望も、恐怖も、それが何であるか人は知らずに、それに執着します。

たとえば欲望も、恐怖も。それを葛藤のために使いたい人には、それを葛藤のために使わせます。それを遊びのために使いたい人には、それを遊びのために使わせます。それを成長のために使いたい人には、成長のために使わせます。これを成長のために使いたくない人のためには、それを成長のために使いたくないために使わせます。

たとえば眼、たとえば耳、たとえば手。

この世界を人が見ます。この世界を人が聞きます。この世界を人が触れます。 この世界が人を見ています。この世界が人を聞いています。この世界が人に触ります。 そして、それは変化しつつも、変化しません。

こんな世界も人も、あるのでも、ないのでも、どちらでも、どちらでない、どういっても誤りです。それが無関係に関係します。たとえば喜、たとえば怒、たとえば悲。それは、ただそれだけでありながら、ただそれだけである、たとえば生、たとえば恋、たとえば死に、関係なく関係します。そうであってこそ苦痛も、快楽も、安心も、不安も、希望も、絶望も、成長したいも、成長したくないも、機能します。この世界は人を覚醒させるための触媒です。それゆえ、そのようにして、総てが人を完全に成長させます。





真意


テレビの宗教の時間で、禅の師匠みたいな人が、そのまた師匠から、公案を出されたときのことを話していました。それは「否定してもいけない、肯定してもいけない、どうする?」という問題だったと言います。どうしても、どうしても分からない。あるとき「もう滅茶苦茶です」と答えたそうです。すると師匠の師匠は「もっと向上に言いなさい」と言いました。

それで思わず、阿波踊りをしたそうです。それで通過した、らしいのです。あとで師匠の師匠に「あれはなんだ」と聞かれたそうです。「阿波踊りです」。そうすると師匠の師匠は「阿波踊りはこうするのだ」と、踊って見せてくれたそうです。

その後、師匠は、徳島に行ったそうです。そこで師匠の師匠の踊りは、女踊りだったことがわかりました。それじゃ「俺は男踊りを」ということで憶えて帰ったそうです。師匠の師匠は、まだしも師匠は、支障があります。こういう批判のようなことをするのは、すこし胸が痛むのでしょうか。

たとえば昔の覚者の言うことを、くり返し、まるで覚者のように振る舞う人がいます。そういう人に対して、あなたは、あなたが話していることと、おなじなのですか?あなたは覚者なのですか?こう質問する人は、すくないようです。 とても大切な質問を、人はしません。

たとえ神の言葉を話しても、神を知らない人の言葉は、悪魔の言葉です。たとえ真理を話しても、真理を知らない人の言葉は、虚偽です。たとえ悟りの言葉を話しても、悟りを知らない人の言葉は、迷いです。

あるときAさんが発言しました。けれど真意が不明でした。それが原因で、BさんとCさんの間で、口論になったことがあります。それでDさんが「じゃ、Aさんに真意を聞いてみればいいじゃないか」と提案しました。するとBさんとCさんは言いました。「そんなことは聞かないよ」と。これは口論を楽しみたいのでしょうか。また問題を明確にしたくないのでしょうか。

なんであれ話題の中心、その問題の発生原因を、聞くことは、それほど困難なことなのでしょうか。もしかして、そこで自分が話あってることに関心がないのでしょうか。それが、たとえば自分を知るとか、ありのまま生きるとか、そういうことであるとしても、そこで自分が話あってることに関心がないのでしょうか。

そういえば昔、オリンピックの日本代表監督が言いました。「選手たちを見ていると、欠点がわかります。直せば強くなります。でも欠点を教えません。これが優しさです。はい」こう言いました。ほんとうに?その監督にとっては、そうなのでしょう。選手は自分で、欠点に気がつかねばならないのでしょう。

だとしても欠点は指摘すべきです。そこから、やっと練習が始まるのではないでしょうか。なにかの発言があるなら、その真意を直に質問する、そこからがやっと、対話なのではないでしょうか。弱さは、優しさではありません。

ところで、あの禅の師匠みたいな人が、さらに言いました。「いま修行中の人がいます。だから、ここでは、公案の答えは言いません」。そうなのですか?公案とは、そんなものなのでしょうか。違います。その人には、その人の、経緯があり、誰にも聞いたことのない答えがあります。ほかの人の答えは、障害にはなりません。

それが障害になるとしたら、人まねを正解とする姿勢です。そんな人には、疑問を持ってしまいます。また「いまここ」と言うなら、「生かされてある」と言うなら、「事実に直面」、「宇宙いっぱいの私」と言うなら、それを説明できるのが当然です。なぜって、その人が、そうであって、それを言えなかったら、嘘でなくては言えないでしょう。言葉にできないことを言葉にできるのが言葉ではないでしょうか。







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