まった




ここには
軽く楽しんでいただけるであろう
文章を掲載しています。







成長


おそらく
太陽も水も、
空気も、
植物を育てることはできないでしょう。

しかし植物は、
太陽も水も
空気もなければ
育つことはないでしょう。

おそらく
不安も安心も、苦悩も解放も
模倣も独創も
人を育てることはできないでしょう。

しかし人は
不安も安心も、苦悩も解放も
模倣も独創もなければ
育つことはないでしょう。

そうして人は、不安も安心も、苦悩も解放も、模倣も独創も、関わりながら関わらず、帰ることのない道を歩くでしょう。

たとえば欲望は、望ましいことでも、望ましくないことでもありません。とくに自我は、望ましいことでも、望ましくないことでもありません。とくに無知は、望ましいことでも、望ましくないことでもありません。

それが、なんであり、それが、なんでなくても、それによって人が成長したくなければ、成長しないでいられます。 それが、なんであり、それが、なんでなくても、それによって人が成長したければ、成長します。そこに何の違いもありません。

たとえば戦争も平和も、善も悪も、空想も事実も、不安も安心も、慈しみも憎しみも、現在過去未来も、なにも役に立たず、そうでありながら、総てが役に立ちます。それゆえ覚醒の方法がなく、それゆえ総てが方法です。

それゆえ人は、空想があってもなくても巻き込まれず、それゆえ人は葛藤があってもなくても隷属せず、それゆえ人は苦悩があってもなくても縛られません。






知りません


おそらく
春に咲く花も、秋に咲く花も、
太陽、水、
空気、それがなにか、
知らないでしょう。

そして太陽も水も
空気も、それ自身を
知らないでしょう。

そして 人は
誰も
不安も安心も、苦悩も解放も
模倣も独創も、
それがなにか
知らないでしょう。

そして
不安も安心も、苦悩も解放も
模倣も独創も、
それ自身を
知らないでしょう。

コタツを買いました。けっこう快適です。と、なれば、アイスクリームです。それで、アイスクリームをスプーンですくいながら、舐めています。

そんなとき「あなたは、アイスクリームを知っていますか?」と質問されたとします。 笑ってしまうか、考えこんでしまうか、ではないでしょうか。とりあえず、知ってるも、知らないもありません、アイスクリームを舐めてる、だけのことです。

じゃあ、「アイスクリームを舐めてる、あなたは、その自分を知っていますか?」と質問されたとします。もちろん自分で自分に質問したとしても、答えるのは困難ではないでしょうか。

おそらく知ってる?知らない?が問われるのは、あまりに当然のことでも、まったく未知なことでもなく、知ると知らないの対立がありそうな、その境界線上にありそうな、ことに関してだと思います。

なにか新しい科学技術のこととか、遠い国のこととか、歴史のこととか、知ると知らないの対立がありそうな、その境界線上にありそうなことについては、知ってる?知らない?が問われるでしょう。

もしかして、好き嫌いとか、優劣とか、安心不安とかも、境界線上にありそうなことかもしれません。そして、なにかを完全に好きとか、なにかを完全に嫌いとかいう感情があったとしても、そうでない他のなにかが(そうであることを意識するしないに関わらず)世界にはあるから、好き嫌いが感じられると思います。では世界全部を好きになってみましょう。世界全部を嫌いになってみましょう。

どちらも困難です。けれど知ってる?知らない?ではない、ただ知らないは、世界がそうです。人は知らない世界に暮らしています。いや。もっと正確に言うと、知る、知らない、どちらでもあり、どちらでもない、どう言っても誤りです。

そんな世界に人は生きています。アイスクリームもそうですし、それを舐めてる自分もそうです。 また知ってるということが何であるか知らないし、知らないということも知らないのです。

これが人の日常意識だと思います。そこで改めて、知ってるということがなにか探ってみます。おそらく、自分の身の回り世界、部屋とか、近所の道とかに、知らないこと、ものはないのですから、知らないと言うしかない、というわけでもないようです。

もしかして、身体、感覚、感情、意識・無意識など、自分を総べて知っていたら、知らない、であるのかもしれません。それは世界に投影されて、世界も知らない、になるもかもしれません。たとえば庭の柏の木も、見ている自分も、知らない、になるのかもしれません。

たとえば人は自己認識ができません。それは人が人を、どのように認識しても、断片であり、空想であり、誤りであるからでしょう。つまり自分の総てを知っているとして、それにも関わらず、分析、解析、分類しようとするから、それは総べて誤りになるのではないでしょうか。

もしかして、身体、感覚、感情、意識・無意識など、自分を総べて知らないとしたら、それも、ただ知らない、とは言えるかもしれません。でも、これはちょっと困難です。総てを知らないで、ただ知らないが、認知できるとは思えないからです。

つまり人が、身体、感覚、感情、意識・無意識など、自分を総べて知っているとして、それは意識、無意識に関わらず、知っていなければ、ただ知らない、というわけにはいかないと思います。

おそらく人は自分の意識は知っていても、無意識については知らないなら、自分を知っていますか?という質問は有効でしょう。やはり無意識も、無意識であっても、知っていなければ、ただ知らない、とはならないと思います。

それでも総てを知っていて、ただ知っていると、なぜ言えないのかと言う疑問があるでしょう。それでまた、知ってることがどういうことかが、問題になります。

たとえば人が怒るとき、その怒りが、なんであるか知っているでしょうか。怒ってる人に「その怒りが、なんであるか知っていますか?」と質問したとして、さらに怒るとしても、沈思するとしても。 たとえばアイスクリームを舐めてるとき、「あなたは、アイスクリームを知っていますか?」と質問されたとします。というようなことではないでしょうか。

そのようにして、もしかして、総てのこと、ものは、ただ知らないのではないでしょうか。それは、たしかにアイスクリームであったり、怒りであったり、記憶であったり、思考であったり、言葉であったりしても、やはり、ただ知らない、ではないでしょうか。

それが何であれ、それが、ありありとしているから、人はそれを、ただ知らないのではないでしょうか。つまり中途半端に知ってると、知ってる?知らない?が問われるのではないでしょうか。つまり、自分を知れ!は、知らないに、至るのではないでしょうか。

まとめてみます。もし人が、自分の意識、無意識にかかわらず、自分を知ってるなら、ただ知らないであるしかないでしょう。それは人の日常にあっては、どんなことも、それを見る自分も、ただ知らないのです。

それを、知る、知らない、どちらでもあり、どちらでもない、どういっても誤りです。また、もの、ことが、ある、ない、どちらでもあり、どちらでもない、どういっても誤りです。と表現します。

そうであれば優劣、好き嫌い、不安安心、過去未来、なんだかの悩ましいこと、葛藤があっても、どれも、ただ知らない、のではないでしょうか。そうであれば、それに巻き込まれたりはしないでしょう。

しかし、もし人が、自分の意識、無意識にかかわらず、自分を知ってないなら、たとえば断片の認識しかないなら、優劣、好き嫌い、過去未来、なんだかの悩ましいこと、葛藤があったら、それは知ってる?知らない?の範疇にあることになります。そのようにして、人は、それに巻き込まれます。そうして自分を意識無意識に関わらず、知る努力をしていると言えます。






表現


てくてく歩いていると、歩道に小鳥がいます。なんか雀みたいですが、うす緑です。しゃがんで見てみました。んー。そっと人さし指で、小鳥の胸のあたりを触ってみました。でも逃げません。それで、小鳥を捕まえてみました。掌のなかで、もがく小鳥の足の繊細な動きが感じられます。まだ若い感覚があります。

けっこう大袈裟な言い方をすれば、人はなにかを見るたびに見ることを驚嘆し、聞くたびに聞くことを驚嘆します。喜ぶたびに喜ぶことを愛で、悲しむたびに悲しむことを慈しみ、不安のたびに不安を享受し、また、それらが感じられないことに驚嘆します。それが、ほとんど奇蹟ということを知っているからでしょう。

きっと、うす緑の小鳥は、飛び疲れているだけでしょう。すこし休めば大丈夫。すぐ近くに桜の木があります。その支柱が、好適のようです。その上に小鳥を乗せて、そのまま去りました。

ふと、思います。ある人が世界の秘密というか、絶対の真理というか、そういう文章を思いついたとします。それを紙に書きました。これで総ての人が救われます。永遠の平和が実現するかもしれません。でも誤って捨ててしまいました。しかも、なにを書いたか、忘れてしまいました。これって、なんか凄いことです。世界って、なんでもOKです。なにも惜しみません。

この世界に総てがあります。たとえば命を与えることも、与えないことも、奪うことも、奪わないことも、なにも惜しみません。たとえば良い人が貧しく短命なことも、悪い人が富んで長寿なことも、なにも惜しみません。苦しむことも、楽しむことも、悲しむことも、言葉も、総べてあります。この世界は、この世界に満たされています。と、言っては誤りです。この世界には、総てが、ある、ない、どちらでもある、どちらでもない、どう言っても誤りです。

ところで禅関係のサイトを見ていると、悟ると「身体がない」なんてことを書いていました。なんでしょう?それについての説明は、そこには見つかりませんでした。やはり、言葉を正確に文章にするということは、大切だと思います。ない、ということと、あるけど感知できないこととは違います。また、ない、なら、ないと、いうことがどういうことなのか、なぜ、ないのを、ないと分かるのかとか、説明しなくてはならないと思います。

そうでないと読む人にとっては無意味です。書く人にとっても無意味です。たとえば命がけで達成したことでしょう?遊びじゃないでしょう?ほかではない自分のことでしょう?なら、できるはずです。うやむや曖昧は、読む人にとっても、書く自分にとっても誤解を招きます。微妙なことを正確に言葉にするという、そのことで、学ぶことがあります。言葉は、ものごとを正確に表現できないけれど、それゆえに、言葉はものごとを正確に表現できるのです。

その文章が、表現したかったことを、表現できているか、自分で知ることが大切だと思います。自分がいて、その文章をつくるのです。自分は理解して、その文章をつくるのです。でも、その文章を、自分の状態とは関係のない、独立した文章として、意味が通じるかを、検討することは必要です。

たとえば「ない」とあれば、それを言った、なんだかの様子、状態にあることに注意させることができます。でも、その人の状態までは示していません。表現している意味、意図までは表現していません。この「ない」を、自分とは独立した言葉として、そこに意図した意味が表現されているかを検討する必要があります。そうして表現する人の、その自分の意図が、より明確になります。ていねいに微妙なことを言葉で表現することは大切です。

どんなに微妙なことを表現しても、言葉は、その表現されている、その事実ではありません。まったく関係ありそうで関係ありません。ですから、言葉は、表現されていることに影響を与えません。なので、正確に表現できるのです。この機能を使わなければ、人は、言葉に使われているのかもしれません。たとえ、言葉は事実を伝えることはできない、などと言ったとしても、そうだと思います。言葉は事実を伝えることはできない、というのも言葉です。






普段


たとえば スピーカーで音楽を聞くとき、頭の中から聞こえます。また 雨垂れの音は、頭の中から聞こえます。それが当然なのだろうと思います。たしかに鼓膜が振動して、脳で音として感じているのでしょう。

でも日常で人と話すとき、歩いてて、街の雑音を聞くでもなく聞いてるとき、やはり外から聞こえているようです。それは、どう違うのでしょう。

テレビを見てると、やはりタレントなどが話してる口の映像のところから聞こえてる感じがします。 テレビには、そんな機能はありません。変といえば変です。もしかして犬の遠吠え、車の急ブレーキの音などが、部屋の外から聞こえると、自動的に設定、空想して、部屋の外から聞こえるように感じているのでしょうか。

そう思って、歩きながら、街や木、空を見てみました。なんか違います。どうも、街や木や空が、こっちを見ている感覚があります。というか、こっちからも見ていて、そこに空間の感覚があるように思えます。これは、そういえば、そんな感じです。

そういえば気になって、塾の講師に、エネルギー保存の法則は、絶対なのかと、聞いたことがあります。絶対だと言います。たとえば牛乳を飲むと、味があります。エネルギー保存の法則は、絶対なら、どうして味が感じられるのか、不思議だからです。なにが味になるのでしょう。味になった分だけの牛乳は、微量でも減るのでしょうか。でなくて、たとえば総ての味はすでに人に潜在してて、それが牛乳によって、呼び覚まされるだけなのでしょうか。

そうだとしたら、音や光もそうなのでしょうか。そうすると、世界ってなんなのでしょう。この自分の中に世界があるのでしょうか。でも他の人も世界にはいます。ということは、やはり、中、外、どちらでもある、どちらでもない…どういっても誤りです。事実、空想…どう言っても誤りです。ということなのでしょう。

そういえば田舎のあぜ道を走り回ってた子供の頃は、感覚が意識だった。区別がなかった、そんなことを思い出したことがあります。そして、あーあ、意識って重いなーと感じました。

ところで一生、恵まれた生活をしたために、苦難を感じたことのない人がいるとします。そんな人は、苦難を解決しているのでしょうか。たとえば自我を自分で感じたことのない人がいるとします。そんな人は、自我を解決しているのでしょうか。

たとえばいま、仮想の過去未来に捕われていない人がいます。もちろん、その人は、捕われていません。では、その人は、仮想の過去未来に捕われることを解決しているのでしょうか。もし解決してないなら、いつ、生活が変わるだけで、それに捕われるかもしれない、と思います。

ある人が「真ん中の自分は悩んでも苦しんでもいません」と言いました。それで「仏陀の言う中道を知っていますか」と聞いてみました。知らないと言います。どうも自分で発見したのではなく、ただ誰かから聞いたことをくり返しているようです。それでも社会的には成功者ですし、安定、安心は感じられるのかもしれません。とりあえず、中道、依存関係を、ていねいに説明しました。

すると詩を書いたと言います。10分で書いたんだと言います。で、依存関係を知ったとか、書かれてありました。それは、知るとか言えることではありません。知識ではありません。

これが不思議です。それに、どうしても、その人が、そうでなくてはなりません。これはなぜなんでしょう。どうであれ方法など、どうでもいいのかもしれないにしても。ただ結果だけあるのでしょう。でも、なぜそうなのでしょう。

それはそうとして。いまここ、には悩みも苦痛もありません。なので、それを悟りと見なす人がいます。でも、それは社会的な成功者が、悩んでも苦しんでもいないことと、そうは違わない感じがします。その人は、悩み苦しみを解消しているのでしょうか。もとが違うのに、現れは、そっくりのことがあります。

もちろん、いまここで悟ったとして、それは方法は問わないのですから、いまここを理解して捨てること、あるいは、ほかのことを知ることのために、悟後の修行が必要なのかもしれません。

たとえば印象的な披露宴などをして、10年まえに結婚した人がいるとします。その人が「結婚は過去のことです。そんなことから自由に今を見つめます」などと言ったとします。奥さんは悲しむかもしれません。子供がいたら、なんと思うか想像もできません。その人は、結婚しているのです。

そういえば念仏系のサイトで、わたしは煩悩をなくす修行をしていません。煩悩があるまま悟るのです。とありました。そうです。その通りと思います。たとえ煩悩、迷い、葛藤、なんと呼ぶにしても、なにかを排除することは、悟りではありません。ただその煩悩、迷い、葛藤などは、人を苦しめないでしょう。たとえば真理から、不真理を取り除いたら、それは真理ではありません。






過剰


とある人と東京湾に釣りにいきました。もしかして魚が釣れても汚染されてて臭くて食べられないかも知れないと言います。それで思いついて、じゃ、2、3匹持って帰って試してみれば、と応えました。すると、それは俺が決めるっ、と言って車を運転しながらも怒ります。

よくいるタイプです。俺が一番でなくてはならない人です。なので、ただの提案を、指示として受け取って、ことさら怒って、俺が一番を、主張したのでしょう。こちらは、そんな気持ちはありませんから、なにもありません。その怒りに対する怒りも、賛同も、非難もありません。

そんな態度は無関心に見えるかも知れません。でも、大人ですから、相手も、それ以上は黙っています。ふつうに話を続けます。しかし、こんどは無関心に見える、こちらの態度に対して、さらに不満は渦巻いています。そうなると、ほとんど偽善の領域です。

さて、こんな出来事にも、いろいろな意味がありそうです。とある人は、望むなら、なぜ自分が怒るかを理解することもできる、かもしれません。そうして、俺が一番を、理解して、それを解決することもできる、かもしれません。 すくなくても、そんな意志を持つことはできます。

すると怒りは、人の役に立つことになります。そして俺が一番を理解したら、ただの提案に対して怒ることもなくなるでしょう。つまり無明が理解されたので、行、識が働く必要がなくなったのです。また偽善が見えたなら、それを理解する機会になります。災いが福になります。そのために怒ってくれるのでしたら、こちらは、とある人の怒りを厭いません。じつは密かに応援したりします。

しかし、どうするか。それは総べて、その人しだいです。どんなことも人に任されています。カウボーイの諺に『馬を水飲み場には連れていける、けれど水を飲みたくない馬に無理に飲ませることはできない』。というのがあるそうです。

こちらが怒りに対して怒らないのは、俺が一番、を理解しているからかもしれません。でも、単に関心がないだけかもしれません。なにか問題を観察、検討しようという気持ちさえないのかもしれません。もし怒りに対して怒れば、もしあるとして、潜在している自分の問題点が顕在して、それを観察、検討することができるかもしれません。機会を逃がしたのかもしれません。怒らないことが、いいとは言い切れません。

ところで怒りは、なにかの出来事などによって起動します。そして怒りは、過剰な防御が、攻撃として現れたものです。ですから、友人のためを思って、その誤ったことを攻撃するために使われることがあります。もう二度と会えないことを覚悟して、全身全霊で、怒ることもあります。

とある会社に務めていて、社長が意図して詐欺的な商品を売ろうとしたら、社員が社長に怒って当然です。内部告発しても、食い止めねばなりません。ガス機具、交通関係、医療、食品など、とくに命に関わります。

そんなとき、わたしは怒りを克服している、超越している、などという人は、自分の思考に捕われていながら自覚してない人かもしれません。たとえば海で溺れてる人がいます。十分に助けることができるのに見殺しにしました。そして、わたしは生死を超えている、などという人は、自分の思考を超えてはいないでしょう。自覚がなくても、思考の奴隷です。

でも。怒ってないときの、怒りがどうなってるか、も問題だと思います。たとえば仲間と仲良く談笑してるときの、怒り、それは、どうなっているでしょう。出来事によって発動するなら、出来事がなくても、ないことは、ないのでしょう。つまり怒りが現れたときのことだけを解決しても、あまり解決にはならないと思います。

でないと、どんな思い掛けない出来事が起こって、怒りに巻き込まれるか、だれも分からないではありませんか。そのためには怒りの奴隷でなく、主になるしかないのではないでしょうか。しかもその怒りも主も、あるでもないでも…どう言っても誤りです。

こんなことも人は、誰もが解決せねばなりません。そして思考、欲望、自我などの奴隷でなければ、戦争も、反戦も、詐欺商売も、内部告発も、はじめから生じないでしょう。人は、それらの主です。学ばねばなりません。成長せねばなりません。そのためにも人は、この世界で、迷惑をかけながらも、迷惑をかけられながらも、喧嘩しながらも、仲良くしながらも、生きるのではありませんか。

(これはあるサイトの掲示板に投稿したものをまとめたものです)










無自覚・改


たとえば人が、なんだかの問題を解決しているとします。あるとき、それを解決していないなら、悩んだり苦しんだりする出来事が起こったとします。知人から騙されたり、会社を辞めさせられたり、期待してたことが起こらなかったり…しかし、その人は解決しています。

それで悩みません。それで、悩んでないことさえ気がつきません。まったく解決しているゆえに、解決していることさえ気がつきません。このように、人が、なにかを解決していることさえ忘れていることがあります。なんだかの問題とは、自我、欲望、無知。ある、ない。などです。

それで問題は、解決しているのに、そうであることが感知、理解できないから、迷ってるかもしれないと、思い違いすることがあるということです。それは、やはり自分の体験を、完全に理解する必要があるでしょう。そして意識が愚かであること、これに気がつく必要があるでしょう。

ピアノを学ぼうとしました。毎日の練習。けっこう辛いです。また楽しいです。でも練習しなくては上手になりません。ときに怠けて、それで親と喧嘩したりします。近所から五月蝿いと文句を言われたりします。いろいろ迷惑をかけたりして、何年もかかって、上手に弾けるようになりました。

そうでなく初めからピアノを練習しなければ。なんの問題もありません。音楽は、上手な人が演奏するのを聞けばいいでしょう。CDとか買って、ウォルドロンが好き、グールドも好き、などと楽しむこともできます。 これはピアノに触ったことがなくてもできます。

ピアノとは、人が成長するために、思い悩むことの譬えです。自我に悩み、欲望に悩み、無知に悩み、人は成長します。それを捨てたり、忘れたり、度外視する訓練が世にはあるといいます。

しかしボートが滝に向かって流れています。人が乗っています。滝が接近してきました。でも、本人が「いまここ」それでいいと言い張るなら、それを助けることができる人は絶対にいません。まった、なしです。

そのボートには、自我は、欲望は、無知はありませんか。 つまりオールはありませんか。ロープはありませんか。それで努力しませんか。努力しないための努力は、もう止めましょう。などというのは、やはり余計なお世話なのでしょうか。

たしかに「いまここ」に生きれば、悩みも苦痛も感知できません。だからといって、それは悩みや苦痛を解決しているということなのでしょうか。葛藤を解決しているということなのでしょうか。たしかに努力しないための努力も、努力であり、不要とはいえないのですけど。

それで「病老生死」「自分って何」の問題は、解決するのでしょうか。もちろん問題にしなければ問題ではないとは思いますけど。 この世界が遊園地みたいな天国であれば、そんな脳天気でいいでしょうけど。 世界が苦である、これはよくしたものです。

リッチであるために泥棒しなかった場合の悪事は、問題にならないでしょうか。たまたま競合する相手がなくて、しなかった嫉妬は、問題にはならないでしょうか。 いま実際に起きてない葛藤は問題にならないでしょうか。 そして、問題にしなくては至ることはできないということはできない、世界の不思議があります。

ところで。たとえばピアノプレーヤーが、いま演奏してないときでも、音楽家です。たとえば食事していても、まったく音楽を意識してなくても演奏技術は、ない、では、ない、ではありません。そしてそれは、辛い練習をしたからです。ここにピアノがなくても、空想しても練習したからです。(練習しなかった人は、たとえ絶対音感があっても、音楽家ではないでしょう)。

そのように人は意識に依存する必要はありません。何回でも言います。誤ることのできる意識の働き、これを、知ると呼ぶのです。知ることに依存する必要はありません。意識は対象がなければ、意識を感じ得ないので、たとえば過去の意識さえ対象にするというだけのことなのです。それは、そうであってかまいません。それは過ぎ去っていくから問題ではない、のではありません。それに依存しなければ、問題ではありません。

ただの人は、現在にはこだわれません。過去にも未来にもこだわれません。なので、過去にも未来にも、こだわれないけど、こだわってもかまわないのです。明確に現在過去未来を、区別して見ることもありません。なにもこだわらなければ、どのようにしても今しかなく、そうであるとも思う必要はありません。

(これはあるサイトの掲示板に投稿したものをまとめたものです)





悟くん一家


なぜ
僕は、
僕なの?

なにか
嬉しそうに
キッチンで
たまねぎの皮を
剥いている
ママに
悟くんが
そっと
たずねました。

うん
それはね
どーでもいいからなのだよ。

ママと
ならんで、
楽しそーに、
人参の皮を剥きながら
パパは
ふっと
言いました。

悟もね、
至でも、
博でも、
誠でも
よかったんだよ。

この話は
ちょっと
早かったかな
でも、
そーなんだ。

そう、
でも
今日は
カレーだね。

悟くんは
なんだか
うつむいて、
言いました。

ちゃう、
今日は
シチューだよ。

たとえば漁師をしても、会社員をしても、人は利益を得ることができます。で、職業は、どーでもいい。どんな時代に暮らしても、どーでもいい。男でも女でも、どーでもいい。欲望も、自我も、無知も、どーでもいいのです。ここまでは自分があれば、どんなことも、どーでもいいのです。

そうだとして、どーでもよくないことがあるでしょうか。たとえば世界は、どーでもいいのですけど、自分は、どーでもよくないなら、自分が世界を離れてあるかのようです。だけど、ありません。自分も、どーでもいい。

じゃ
僕は
僕で
ないってこと?

こんどは
覚悟を
決めた
悟くん、
両手を
握りしめて、
聞きました。

ちゃう、
どーでもいいけど、
そーでもない。

パパとママは
くすくす笑いながら
言いました。

たとえば欲望、自我。それが解決されます。ただ人が、そんなことの奴隷でなくなったら、倒錯しなくなったら、それが現れる機会がなくなるでしょう。それが現れるということは、その人が、その奴隷であることを、その人に教えようとする働きでもあります。それが目的を果たすと、欲望や自我は現れる必要はなくなるからです。

でも人が、たとえば欲望、自我の主人になっても、たとえば身体、感覚、感情、意識が、なくなるわけではありません。なにも失われることはありません。なくなると思うなら、それは空想です。

ならば、何も変わらないのでしょうか。総ては世界にあります。たとえば世界は真理だとして、それから不真理が失われると、それは真理ではありません。つまり、このまま世界は真理です。人は、それを見る、それだけでしょうか。

そーでもない。たとえば欲望、自我。それは無知によって生じます。それを理解することは、無自覚でも、それが智恵に転換されていることです。その智恵は、初めから、世界にあったとは、言えないようです。愛、自由、幸福も、そうです。

じゃ
僕は
何?

それは
なんだか
わからない。

しかーも、
いる
でもないし
いない
でもない。

どちらでもある
どちらでもないと
どー
言っても誤りです。

パパとママは
きゃきゃと 笑い転げながら
言いました。







たしかに心という言葉があります。しかしそれを見つけることができません。なにを心と呼んでいるのでしょうか。どこかに心というものがあるというわけではないと思います。

たとえば知人の家で遊んでいます。でも自分の家でやらなくてはならないことがあるとします。早く帰りたいと思います。すると不満です。その不満を解消したい、でも帰れない、ということがあります。すると不満を解消することを空想します。で、いまの状態が、ますます不満です。安心を求めます。これは運動です。

おなじように好きとか、嫌いとか、相反するとも思われる感情が生じます。それは、あるいは違うときに、違う対象に振り分けられたり、違う方向に振り分けられたり、運動として感じられます。苦があれば楽があります。 善があると、悪が生じます。優があれば劣が生じます。なにかの思考もこのような働きとして捉えられることがあります。

ところで。なにかが反対のことがなくては生じないなら、そのことは、実在ではないということではないでしょうか。反対のことが、なにかをつくっているのではないでしょうか。すくなくても意識にとっては、善が悪を、悪が善を、楽が苦をつくっているのではないでしょうか。あるなら、それだけであり、反対のことは必要ないでしょう。その運動する対立関係しかないことに捕われて、いるだけなのかもしれません。それは、この瞬間に感じられることではなく、運動です。

なのに、この瞬間に感じられると勘違いしているのかもしれません。たとえば、いま、にこだわる人がいます。運動がないこと、運動がないという、そんな運動にこだわっているのかもしれません。これとは逆に、瞬間瞬間に変化する、いま、といっても、こだわりがあるなら、こだわりです。

それは、実は、それは明らかに、いま、ではありません。あること、その類似のこと、その反対のこと、関係ないこと、そうであること、それを思考すること、それは運動です。そこには、いま、などありません。

おなじように、事実にこだわり、空想を嫌う、そういう働きがあるなら、それはすでに。あること、その類似のこと、その反対のこと、関係ないこと、であること、であることを思考すること。それは選り好みです。それは事実を生きていません。それは思考の運動、空想です。それでいて、いま、ここ、などと言ったりすることは、矛盾です。自己撞着です。その運動です。いま、でも、ここ、でもありません。

で、心と呼ばれることを認めるなら、このような運動を心と呼ぶのでしょうか。 喜びなら喜びだけです。悲しみなら悲しみだけです。勤勉なら、勤勉だけです。怠惰なら、怠惰だけです。そうであれば、心は見つからないと思います。

また、また知人の家で遊んでいます。また、また自分の家でやらなくてはならないことがあるとします。早く帰りたいと思います。すると不満です。その不満を解消したい、でも帰れない、ということがあります。

それで、その不満を認めて、その運動であることを止めて、いまあることに覚悟して、解消することはできます。そして、それで不満なしに知人の家にいるという現実が感じられます。いま、ここ、には不満はありません。また、なにか面倒な作業があって躊躇っていると苦痛を感じていまいます。(楽しいことでも躊躇っていると苦痛なこともあります)。でも、いざ始めてしまえば楽しいこともあります。それは不満の対症療法としては有効です。ただ根本治療とは思えません。

心が見つからない、それでいいというわけではありません。心がなんであろうと、なかろうと、なすべきことはあります。






いきしちにひみり


これはなにかといえば。あいうえおの第2段目です。子供の頃、五十音表を見て、憶えてしまいました。

おなじように、おおくの人は、九九ができると思います。でも、そんなことは忘れています。できるとか、できないとか思ってもいません。でも、いつでもできます。

で、九九ができない人がいます。その人も日常、忘れています。おなじように、できるとか、できないとか思ってもいません。

でも九九を練習した人は、いつでも暗算計算ができます。練習しなかった人は暗算計算できません。できる人、できない人、違わないけど、違いがあります。

なにかを。たとえば欲望を、自我を、無知を解決した人、してない人、違わないけど、違いがあります。

そういえば「白と黒は誰でも分かる。白と白の違いが分かる人は、めったにいない」という言葉を聞いたことがあります。おこそとのほもろよん。これは、あいうえおの第5段目です。







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