った




ここには
軽く楽しんでいただけるであろう
文章を掲載しています。



ここ、あんまり更新しないと思います。




非A

そこに自我しかないのに、
どうして自我があるのだ?

そこに欲望しかないのに、
どうして欲望があるのだ?

ただ自我しか機能してなく、たとえば欲望を見る誰か、目撃者、が設定されなければ、それは自我として、機能しないでしょう。すると、たとえば欲望も、自我の機能としては、働かないでしょう。

と、言うより。たとえば欲望を、見る何か、目撃者が設定されるということを、自我などと呼ぶのではないでしょうか。そんな誰かが設定されてなければ、初めから、自我は機能しないのです。 そして自我が設定されてなければ、自我に関係する、なんと呼ぼうと欲望、葛藤、恐怖、分離、苦悩など機能しないでしょう。

つまり、自我しか機能してなければ、自我は機能しないのです。という表現は矛盾でありながら、事実ではないでしょうか。AはAであるためにAではない、のです。Aは非A。 この世界の出来事は、矛盾において、その時、その場で現象するのではないでしょうか。

そして。なにかを見る誰か、目撃者は、はじめから、いないです。いないのに機能すると思うなら、それはなにか人生の大事な問題があって、その問題に集中させるために、あるいは心理的な分離、あるいは心理的な視野の狭窄、あるいは空想を起こさせ、自我が設定されるだけです。

なんと呼ぼうと欲望、葛藤、苦悩など、まだ問題が解決されてないゆえに、その目撃者は設定されているだけです。けど。そんな自我は、完璧に守られています。なぜなら、それが完全に必要がなくなる必要があるからです。 それまでは、守りは鉄壁であらねばならないからです。

たとえば未知と既知を区別する、それは勝手です。しかし。どうして思考が、過去が、既知でしょう。どうして傲慢でなければ、それを知っていると思えるでしょう。どうして、なんと呼ぼうと、今、ありのままが、ことさら未知なのでしょう。そんな比較をさせるのは、自我の機能です。

たとえば、ありのままと、あるべき、創造的な生と葛藤、思考と事実、そのような対立、分離は、自我の機能です。そこには嘘があります。自我が設定されてなければ、その区別は無意味です。どんなことも、言うまでもなく葛藤や思考も、過去も未来も、既知も未知です。

そこに自我しかないのに、どうして自我があるのだ?そこに欲望しかないのに、どうして欲望があるのだ?そうであれば、自我や欲望は初めから、機能しないのです。この逆説。しかし。なにも失われたのではありません。

(これはあるサイトの掲示板に投稿したものをまとめたものです)






欲望

欲望は、
「○○○したい」と思うことである、
とは言えないと思います。

というのは、
「○○○したい」と思わなければ欲望してない、
とは言えからです。

欲望は人の有り様ではないでしょうか。
その人の「○○○したい」「○○○したくない」と
思う、思わない、に無関係です。

繰り返しますが
なにか「○○○したい」と
思わなければ、その人は欲望してない、
と言うなら、
なにか「○○○したい」と思うときだけ
欲望があるのでしょうか。

なにか「○○○したい」と思うときだけなら、
そこで思ってない、
ほかの幾らでも隠れてる「●●●したい」は
どうなってるのでしょう。

つまり思ってない「●●●したい」については
無欲なのでしょうか。

違うと思います。
欲望は
ときにあったり、ときになかったり、するとは思えません。

そうでなく
その人が無知で、倒錯し、片寄ってる有り様を
欲望と呼ぶのです。

そして
たとえば「○○○したい」「●●●したくない」
として人の感情や意識として現れて
その人が無知で、倒錯し、片寄ってる有り様が
欲望として認識できるのだと思います。
なので、そのことを否定しようとしても
肯定しようとしても、
思っても思わないでも、
理解不能、
欲望の解消は直接の道がないのではないでしょうか。

それは人が
無知で、倒錯し、片寄ってる有り様
でなくなって
初めて気がつくのだと思います。
それが欲望の否定でもなく肯定でもなく完成です。

そうであるから人が
無知で、倒錯し、片寄ってなければ
「●●●したい」「○○○したくない」など、
どーでもいいに、なるのでしょう。







自我

たとえば
なにかにこだわり
それを支配しようとして
それに支配されてしまう、
そのためには、

その人に、
架空の自分が設定されてる
必要があり、
それを自我と呼ぶ、
のではないでしょうか。

そうであれば、
人は
自分と架空の自分に
分裂していると言えます。
そしておそらく
その人は架空の自分に
気がついてないと思います。

その気がついてない
代償として、
たぶん社会や世間を空想して
そこから見た自分。
また、社会や世間を空想してる自分。
また自分を見る、
自分が、いる、と感じるのかもしれません。

そして分裂した
その架空の自分が
それを切り離すことも不可能な
世界から、その出来事、
身体、感覚、感情、思考を分離して対象にし、
狭まった視野に集中させ
理解しようとする
それを自我の機能と
呼ぶのだと思います。

なのに
なにかを求めることを、
感情や思考が生起することを、
自我と混同しやすいのは。
そうしてる人に、まず
おそらく自分の理想像としての、
また、その逆の惨めな、
また、そんなことと無関係な、
架空の自分が設定されてると
いうだけに過ぎません。
もちろん、そんなことを見てる自分も
自我です。

それが、
自分が、自分と思う、
思われる、自分ではないでしょうか。
それは虚構であり
最初から、いない、ではないでしょうか。
これは空想の領域で、いる、とされる
だけではないでしょうか。

そうであってこそ
空想の過去や現在や未来を、
空想の世界を、
彷徨えるのではないでしょうか。

それは自分と世界の分離とも言えます。
ならば自分は世界を対象に、世界は自分を対象にしてるとも言えます。
それは空想です。

それは
自我が何かを対象しているのではなく
とりあえず対象してるから
自我が生じている、
そんな習慣が機能してるだけではないでしょうか。
それが虚構であると見ること
そのためには、あのこと、このことではなく
自我の機能が自然発火し、
完全燃焼すること、
それが自我の
否定でもなく肯定でもなく完成です。

空想がなければ、
その自我がする空想の行為としての
たとえば
支配、隷属、搾取、奉仕、偽善、嫉妬、蔑み、謙り
また、その中庸。 あるがまま・生かされてる・今ここ、など
不可能です。

さらに
執着しないことに執着することもなく
自我のないことが自我であることもないならば。

自我もなければ、
無我もない、です。







無明

ある人が闇のように
無知なこと、
それが無明と呼ばれます。
そこは
知覚、意識、認識の光が届きません。

つまり 無明は、自覚することが
不能であり、
ただ、人の行動、言葉、思考として
日常に現れます。

たとえば欲望するなら
自我を張るなら、
それは自覚できない
無明が
自覚できる姿として
現れてるということです。

その、
たまたま現れてるだけの
自覚できる
あれこれの行動、言葉、思考を
どのように観察しても、
観察しないでも、
無明は見えません。
どのように訓練、矯正しても、
訓練、矯正しなくても
無明は解消されません。

ただ、
その、たまたまの自分に、
たまたまに現れてるだけとしても
その行動、言葉、思考の
前提を見つけると
その行動、言葉、思考の正当性は
失われ、
その行動、言葉、思考は解消されます。

そのようにして
いくたの行動、言葉、思考の前提の、
前提の前提の前提を
見つけていくことによって
暫定的に無明は理解され、
たような気がするだけです。

また正しい生活、
正しい思考、
正しい方法などを行っても、
暫定的に無明は解消され、
たような気がするだけです。

また人が無明を
自覚できないからといって
それが、ない、のではないように。
つまり無自覚でも
無明に支配されてるように。
その人に
あらゆる自覚できない
欲望、自我、虚偽、善悪、偽善、嫉妬、傲慢、卑下などが、
あっても気がつかず、
気づかないから、ない、と無意識さえ傲慢に判断し
それゆえ自由と思うこともできる、
そんな愚かさにも、
支配されるのです。

この総てが
無明
つまり無知ゆえに
生起しています。

そのような無明は
しかし限界まで達すると
瞬間に智恵に転換せざるをえなくなります。
それは世界の機能です。

これが、
無明の
否定でもなく肯定でもなく
完成です。






現実逃避

たとえば、この1週間の自分と、自分と関わった人の行動、発言、思考を、まったく知覚された事実だけを思い出すのは、1週間かけても不可能でしょう。それで飛び飛びに短絡的に、判断する。その基準は、たとえば損得、苦楽、優劣、善悪、好悪とか。

そうすれば、それに添った意味のある行動もできます。簡単。便利。ただそれだけの、なんだかの価値基準で判断するという機能に、その人の環境や有り様が合わないとかいうだけで。葛藤に巻き込まれることもあり得ます。

そういうことを解決するなら、簡単です。判断と環境が一致すればいいだけです。たとえば威張れる立場にあれば威張ればいいだけです。謙れる立場にあれば謙ればいいだけです。または、なにかの価値基準で、なにか判断してない自分に気がつけばいいだけです。ありのまま。いまここ。の現実にあればいいだけです。たぶん動物、たとえば馬や鹿なら、事実そうでしょう。

そのようにして。さて馬や鹿が、自分とはなにか?を解決してるでしょうか。人は、それを問題にさえできない愚かな有り様だからといって、それを解決しないでいいでしょうか。それに。なんだかの価値基準で判断するという空想に対する、いかなる現実も、空想です。つまりありのまま。いまここという空想に生きては誤るでしょう。つまり現実に現実逃避しては困ります。

それは、ありのまま、いまここ、では解決不可能ではないでしょうか。たとえば自分を実際より優れた人と思いたい、誰かを支配したい、自我、欲望。 人は、そういうこととして現れてる無明を、根こそぎ理解したいのです。自我、欲望を徹底活用するほうが賢明ではないでしょうか。

どんな人でも、その自分を知ろうとすることができます。善い人でも、悪い人でも、傲慢な人でも、謙る人でも、怠惰な人でも努力の人でも。それらを否定しても、肯定しても、無関係でも。たとえ自分を知りたくないことでも、なんでもいいのです。それらは、たまたまの自分に現れた、たまたまの問題です。なんであれ、自分を訓練する負荷として機能するだけです。

なにか、とあることを選択するということ、選択しないこと、が成長ではありません。なにか、とある真理というものがあって、それを見つけたら、真理というわけではないのです。なにかを捨て去ったら真理があるというわけではないのです。そういう真理であれば、そうでないことは不真理になり、その不真理を隠し持つことになります。

また、見つければいいだけなら、たとえば真理の言葉を記憶すれば、人は真理になるかもしれません。それでいい、というようには世界は出来ていません。なんでもありだからこそ、成長したい、成長したくないということさえ、それを触媒として人は成長できるのです。世界は徹底して人の成長のためにあります。







世界

なにを行動しても、
発言しても、呼吸するだけでも、
人は、
この世界を変え続けています。

ちょっと散歩して、
見る、聞く、
それだけで世界が変化します。

ただ空に向けて
一指を示すだけでも
空気の流れが変わります。
鳥の飛ぶ軌跡が変わります。
どこかの誰かが
それを見て・・・
季節の訪れを感じています。

そんな、
その世界・・・
話し相手とか隣人とかは
とくに強く関係づけられ、
肯定しても否定しても
影響しあい
繋がっています。

そして自分とは、
その世界であり、
自分たちで自分たちである世界を
間断なく
作り変え続けています。

ありとあらゆること
ありとありえないこと
総てが繋がっています。

なにを行動しなくても、
発言しなくも、呼吸を止めても、
人は、
この世界を変え続けています。

関係。それは、完全な分離でも、完全な融合でもなく。渾沌でもなく、統制でもなく。それは歓喜と苦痛と平穏に満ちて美しく。人は、この世界に生きて。悪いことをせず、良いことをすること。たったそれだけです。悪い世界を創らず、善い世界を創りましょう。

つまり善い自分を創りましょう。ただ、素直であること、嘘をつかないこと。盗まないこと。そして人のためにすること。そんなことだけで、いいのです。大切なのは。そんな簡単なことだけです。






分離と融合

なにかを感じるのは、とりあえず「それは自分ではない」ということにして、感じるのかもしれません。たとえば樹や人や車を対象として、その自分ではない、「差」を、感じるのかもしれません。 つまり、知覚は「差」。

たとえば眼は、たとえば樹や人や車、赤と青の「差」を知覚する、というのではないでしょう。 まず「差」を知覚するために、眼や耳や舌の感覚器官が発生するのではないでしょうか。意識もそうかもしれません。

そして、なにか世界という全体から 「差」を引いた残りを、とりあえず「自分」として仮定するのかもしれません。それは世界を見回せば中心であり、主観になるでしょう。

そして、その「自分」と対象との「差」を縮めよう、なくそうとする働きが、欲望として機能することがあるでしょう。なにかを欲しい、つまり密着したい、と。また心理的な欲望も、 なにか理想を空想して 「差」を埋めたい、ということでしょう。

そして、 それは、「差」を広げよう、自分は独立した自分であろう、と意図しても不可能。なのだけど、ことさら、ほかから分離しようとする働きが、とりあえず、自我として機能しているから、なのでしょう。

そんな、自分勝手な「差」を広げようとしてる自我が、「差」を縮めよう、と意図しても不可能。なのだけど、そうしようとすることが、こうありたい欲望として機能する、 ということかもしれません。

このように、どう意図しても、その「差」を縮めることも、広げることも、実現不可能なゆえに葛藤は生じる、だけかもしれません。そんな葛藤があれば人は無意識に逃げ道を探し、気晴らしをしたり、問題を忘れたりするかもしれません。けど。それは、なにをしても解決されないでしょう。

それはただ自分を鍛える負荷として機能するだけです。どうしようもない欲望でも、苦痛でも、自尊心でも。それは人に必要だから発現するのです。その負荷は、なんでもいいのです。そうでなくて、どうして人が自己でありえるでしょう。

せっかく葛藤が生じたのです。それをただ観察するのではなく、それから離れるのではなく。徹底的に根こそぎ掘り起こすこと。もし必要な努力をしないということであれば、自覚できないかもしれないけど、努力をしないという、努力をしているかもしれません。

ところで、なぜ意図して、差を縮めようとしても、広げようとしても、不可能なのでしょう。それは、自分と対象。それは完全な分離でもなく、融合でもないのに、それを、どちらかに無理に片寄らせようとすることだからではないでしょうか。

そして、完全に「差」がないなら、つまり完全に一体なら、知覚不能。そして、完全な「差」があるなら、つまり完全な分離なら、知覚不能ではないでしょうか。







夢一夜

こんな夢を見た・・・

さあ一緒に思考実験してみよう。その異形の怪物は、もうすぐ春ですねー、の空から話しかけて来た。この一瞬、すべての時間が止まります。さあ、そうであって、世界は、ある、だろうか。もちろん、あるさ、僕は、即答した。んっ。その異形の怪物は言った。そうだろうか、そうであって、世界は、ある、と、どうして知覚できるだろう。

それに時間が停止して、さて、世界は、ある、だろうか。う−。僕は言った。ない、かもしれません。しかし異形の怪物は、言った。そうであって、どうして、世界が、ない、と知覚できるだろう。いいかね、これは思考実験だ。どちらも、そんなことはありはしない。しかし、どうして、そんな思考実験ができるのかね。

すべてのことが変転する、この世界は、ある、と言えるのかね。ない、と言えるのかね。どっちでもあるのかね。どっちでもないのかね。そして、物質、感覚器官、感覚、感情、意識・・・その君、君もそうではないのかね。苦し紛れに僕は、その異形の怪物に聞いた。あなたの名前を教えてください。

なぜ、それを聞くのだ。わたしの名前は不思議と言う。そう言って、異形の怪物は、もうすぐ春ですねー、の空に帰って行きました。







実感

テレビで。クラスメートから虐められて悩んでる女子高生の話をやってました。病院の屋上で自殺しようとしたけど、たまたま近付いてきた人の一声で助けられたと言います。苦しい実感にばかり注意して悩んでいたのです。

でも家族は、その女子高生を愛しています。その愛には実感を持てなかった。愛されてる、当たり前に、愛されてる。 実感する必要さえないのに、なぜ愛されてる実感が欲しいのでしょうか。

それは愛の欠如ではないでしょうか。愛の欠如が、愛の実感を求めるのではないでしょうか。自分が愛してる愛されてる愛してない愛されてない、愛の、実感がある、なら、愛はある。実感が、ない、なら、愛はない。に縛られてるともいえます。実感に依存してることでもあるでしょう。それは葛藤。欲望のことでもあります。 それは意識の範疇。

それは、知ってると思うことができるだけの意識に依存して、自分が愛を、知ってる、と誤解してることでもあるでしょう。それなら自分を知らないはずはない、と思い込んでるのかもしれません。そのようにして人は愛を求めるのかもしれません。その自分も空想。その求める愛も空想です。

しかし人に、どのようなことでもない愛が訪れます。それは意識の対象になりません。それを意識しようとしたら、空想せざるを得ないでしょう。 素直さなどの良い特質も、自己も、実在も、そうです。 それは実感を求めると空想になります。

しかしもう、ある、ことは知ってる。ない、ことは、知らない。と思いたい、しかも誤ることのできる機能がある、意識に依存する必要はありません。迷いが転換した叡智も、分別したがる意識の領域にありません。素直さなどの良い特質も、自己も、実在も、そうです。

たとえば素直さなどの良い特質の、愛の、自己の、実在の、実感は不要です。それは実感がなければ、ない、のではないのです。たとえば自我は、ない。この、ない、と、ない、の違いを見るでしょう。そして、ない、という実感も不要です。







欠如

とても仲のいい夫婦が、喧嘩して、離婚したとします。その楽しく暮らしてた、愛しあってる感情として実感があった時にも、不満、憎しみ、怒り、無関心になる可能性が隠れてたのかもしれません。それは愛と呼べるでしょうか。愛は、実感できるからあったり、実感できないから、なかったりするのでしょうか。

そうでない、愛。純粋な愛。どんなことでもない愛。「無差別な愛」。その欠如として、代理として、たとえば憎しみに、怒りに変わるかもしれない、無関心に変わるかもしれない、感情の一種としての愛が現れるのではないでしょうか。それが愛ではないこと、愛の欠如であることが、人に愛を求めさせるのではないでしょうか。(たとえば愛の反対は憎しみという思考は、それ自体が思考の罠です)。

そんな、愛は、地上では、ほとんど不可能に思えます。しかし求めれば可能です。自我が、ない、という体験、そうであれば、愛が現れることもあります。それは、なにかの行動とかいうことには関わりません。それは感じるだけしかできないかもしれません。しかし生まれて初めて感じるとしても、それを誰もが間違いなく、愛、としか呼べないでしょう。それは感じても感じなくても世界に溢れています。

そして、たとえば夫婦が、友人が、隣人が、雨の日も晴の日も、一生に渡って辛い時にも努力したりして暮らしていくこと。そのほうが別れるより、断然いいと、思われるのではないでしょうか。

それは、ほとんど愛と呼べるかもしれない、からではないでしょうか。また愛がなければ、そうできないからではないでしょうか。

ほかの例・・・たとえば相手のことを思って、と思って、怒ることがあります。それは自分では愛と思ってる、ということもあります。それは、ここに愛がないこと、愛の欠如、愛の代理として、そういう怒りが現れたと見ることができます。

もしかして、優しくすること、仲良くすること、そういうことも愛の欠如かもしれません。そういうことを拒否されたりすると、怒りが、無関心が現れる可能性があるからです。それは愛がないために実感を求められる愛着、執着である可能性があります。

それは愛の欠如であり、それは愛がないからです。その愛の欠如は、実感してるときだけ、あるのではありません。実感しないとき、ないのではありません。愛の欠如は常に愛の欠如です。つまり欲望、自我、それは愛の欠如です。それが愛を求めさせます。







夢二夜

こんな夢を見た・・・

いきなり質問です。と、桜吹雪の中から、56億7千万年の美女が舞い現れながら・・・話しかけてきました。もしかして、君は、もう二度と巡って来ない、この今、爛漫の桜を楽しんでいるのではないでしょうか。

まぁ、そーだよ、僕は言った。すると。秘かな笑みを浮かべて、その美女が言いました。ん、まぁ。それは大変です。この今を、この今、想起できるでしょうか?

うー、僕は言った、できません。すると秘かな笑みを浮かべて、その美女が言いました。ね。そうでしょ。では、今は、あるのでしょうか?うー。そんなの観念としては、ない、のかも、しれません。と僕は答えた。それでは、過去は、未来はどうでしょう?うううー、ない、のかもしれません。では観念としての時間が、ない、ってことでしょうか。

じゃ、そのまま。この桜の公園を、よーく見てみましょう。どう見えますか?秘かな笑みを浮かべて、その美女が言った。げっ、見てる、僕がいませんっ。でーは、この公園は、ある、でしょうか?秘かな笑みを浮かべて、その美女は言った。

うううー。見てる、見られてるも、なく・・・この公園が、ある、とか、ない、とかも関わりませんっ。しかも、あの遠くの緑の山、その裏側が、ない、よーな気がします。

これは、たしかに大変です。無我の主観絶対なのでしょうか。過去・現在・未来の時間解釈は、なんだったのでしょう。緑の山の裏は、空想なのでしょうか。そこで僕は、 苦し紛れに、あなたの名前を教えてくださいと、言ってしまったのです。

すると秘かな秘かな秘かな笑みを浮かべて、なぜ、それを聞くのでしょう。わたしの名前は、ちょと小悪魔な弥勒菩薩。と言いいながら、 56億7千万年の美女は、森羅万象の、桜吹雪のなかに舞い戻っていきました。







夢三夜

こんな夢を見た・・・

こんな夢を見た・・・

あああああーさんから、メールがあった。

しかし変ですっ。
そっちのPCにも緑色の三角帽子を
かぶった小さい妖精が
暮らしているでしょうか。

ちらちらと空気抜きの隙間から、見えたりすることがあります。

目と目が合うと
あかんべー
をすることがあります。

このまえ夜中に目を醒ますと、
キーボードの上で、
どうも恋人らしい赤色の三角帽子の妖精と、
けんけんぱっ、をして
遊んでるのを目撃しました。

そして
こっちを振り向いて幽かな幽かな幽かな
声で言いました。

「無我を張っちゃいけないよー」。。。

どこかに連絡したほうがいいでしょうか。

いいでしょうか(残響)。

それで、んんんんんーさんは
返信した。

こっちは、
青と黄の妖精がいるよ。
そして秘かな秘かな秘かな
声で言ったんだ。

「そーだね、それは無我を見てる残響のような自我なんだー 」。。。

それを理解するためには。思考の教えてくれることを、聞きましょう。ただ聞きましょう。自分が考えるのではなく、起こった考えに教えてもらいましょう。それに導いてもらいましょう。そうすれば、あの体験で見た、愛、自己、実在、その実感から、解放されるでしょう。

ことさら無我の実感も不要です。無自覚に自覚するでしょう。なぜならそれは、それが、その人だからです。たとえば水を飲みます。するとコップは空になります。であれば水は、無自覚でも、身体を循環しています。そして渇きが癒えています。







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