超古代の日記



昭和63年2月29日


さて正しく知るといえば、この前、坊主が「人は自分だけで生きているのでは無い、太陽の恵みなどこの世界があって生きているのである、人は生かされている。だから命は大切にしなければなりません」こんなことをテレビで言っていました。

なぜそんなことを言うのでしょう。そ−と一に人を馬鹿ものと思っているに違いありません。つまりその坊主は馬鹿ものということです。人は能動的に生きているのではなく、言わば受動的に生きているのは事実ではあります。事実ではありますが、それが依存関係であるとするならそれは人が一方的に受動的であるわけではありません。

いままでずっと自分は自分の力で生きていると思ってきて、ある時はっと、そうでないことに気付く、そのような時、わたしは生かされている、こう思うこともあるかも知れません。ないとは言えません。しかし熱心に熟考した結果そういうことが起こると思います。しかもそれは悟りでもなんでもなく、物理法則であり、はっきりと説明できるものです。

たしかに人は生かされてある、このことは事実ですが、このことも正しく知ることなければ誤りになります。よく子供が使う学校の教科書に図解つきで示されてあります。ローソクがありまして水晶体がありまして網膜があります。光の軌道がローソクの方から目の方へ矢印で示されています。網膜にはローソクが逆様に映っています。つまり人は自分の目の力で物を見ているのではありません。

そとの世界のものが自分を人にわたしは在りますと訴えているから、それが見えているのです。子供の使う教科書に図解で示されています。目は目であり脳は脳であります。それはそのようにできているものです。音もそう、味もそう、臭いもそう、触れるものもそのようにあります。つまり世界が感覚器官に在りますといいます。すると感覚は騒ぎ、渇愛を起こし、感情を生じ、意識を覚醒させ、自己に気付かせ、命に頼み、死を恐れます。

ですから私は見さされている、望まされている、笑わされている、考えさせられている、生かされている、死なされる、こういうことです。このことの一つをもって言うことはその人がそれに執着していることのほかないのではないでしょうか。「わたしは生かされてあり命は大切にしなければなりません」ならば「わたしは死なされるわけで死は大切にしなければなりません」ということです。(そしてこの生死を対立して思うならまた正確でないゆえに誤りとなります)。

実際わたしは老後の心配よりも、その後のこと、これを心配します。いや、ああ言ったのは方便だよ人を導くためのものだよ、坊主はそう言うかも知れません。わたしは嘘つきは嫌いです。そう、真実というものそれさえ方便であるかも知れないではありませんか。学ぶということは誰かに説教するために学ぶものではないでしょう。

それにこれはただの物理法則です。つまりなんら精神的なことがらではありません。自己が自己であるところになんら関与しません。ま、坊主が物理法則を言っても悪いことは全然ありませんが。わたしはこれも何度でもいいます。なにかを理解するということは、その言葉を覚えてこの意味であろうと考えることではありません。ただ言葉を覚えてその意味を解くくらいなら、全然無知よりましがどうか難しいところです。命が大切なのも事実です。でも生かされてあるからでなくても大切なのです。人はみな自分で生きようとして生きているわけではないのも事実です。

つまり生かされてあるのも事実です。つまりなんだかの生かす力があるのも事実です。そしてもし自分で生きていると思うなら命を軽視する傾向がでるだろうことも、(そういうつもりなら、どちらによらずそうなのですが )あるでしょう。しかし人を生かしたのは神であって仏陀ではありません。そして人は、この世界の恵みによって生きているのではありません。神の恵みによって人は生きているのです。


昭和63年3月1日



努力について。ニュースによると教会を専門にしていた泥棒が捕まったとのことです。もし見つかっても教会の人は説教するだけで逃がしてくれるから、それを専門に狙っていたのだそうです。「神さまはお許しになっても法律は許さなかったのですね」などと女性キャスターが〔しまった〕と思いながら言いました。

これほど笑ったことはこの頃ありませんでした。法律が許しても神は許さず、法律が許さなくても神は許すのではないでしょうか。いや、人は勝手に人を裁いているわけです。

わたしは暇なのでテレビを良く見ます。「華の嵐」というドラマでこんな話をやっていました。愛しあっていた男女が別れて、女は悪徳土建屋の女房になります。男は他の土建屋に勤めます。どちらもおなじ工事を進駐軍から請負たいと考えます。女は進駐軍に金を使い不正な手段で仕事を得ようとします。男は正々堂々、公開入札にしてくれと進駐軍に訴えます。

そしてそのようになると女は悪徳土建屋である旦那にいいます。「ここで諦めてなるものですか」。「そうだ今までの努力を無駄にしてなるものか」。そして彼等のやり方でもっと努力することになるのでしょう。こんなに努力したのに、ああ神さま、なんて思うことも彼等なりにあるのでしょう。

またずいぶん前のことですが日本が米国に茶を結構、輸出していたことがあります。しかしある年、混ぜ物をして出してしまいました。つぎの年から注文がきませんでした。その時、商売人はこう思うのでしょう。いやー、混ぜ方が悪かった。今度からは良く研究して上手な混ぜ物をしよう。正しい努力でなくては正しい努力ではありません。

たとえば「華の嵐」の場合、それはいろいろな誉められない手段で結果を得ようとしているから、いろいろな誉められない手段で結果を得ようとしていることが行われるのです。

なにが正しい努力なのか当人には分からない場合がおおいいのです。けれど、そうしようとしていることを人はするのです。もっと上手な混ぜ物をしようとして、もっと上手に混ぜ物をするのです。人はふつう、しようと思っていることをしているのです。

わたしは独身であって結婚したい、だから独身であって結婚したいのです。わたしは失業者であっていい会社に勤めたい、だから失業者であっていい会社に勤めたいのです。わたしは半信半疑だから神を信仰したい、だから半信半疑だから神を信仰したいのです。

ここのところでたとえば、もっと上手に混ぜ物をして神を信じたいとか、結婚したいから神を信じたいとか、失業者だから神を信じたいとか、いうことは誤りであることが知れます。そんな馬鹿なことは人はしない?そ−でもありません。信仰のない人はそうしているのです。(自分の経験や運命や人生を思ってすると大体そうなります)。

さて努力について言っています。結婚したくても出来ない時、自分がなにを努力しているのかが分かります。自分の状態が分かります。信仰しようとしても出来ないとき、信仰できないと、自分の状態が自分で分かります。神への信仰はただ神への信仰のほか得られないと思います。神への思いは神への思いなくて得られることはないと思います。 それだのに良く人は自分の現実的な望みに関して、ああ神様と言ったりします。それは良くないことではないかと思います。神を試すことになろうとわたしは思います。

そのとき人にこれは信仰ではないことが知れます。また自分で神と思っているものを拝んで拝んで拝み倒すくらい拝んだとしても、それは信仰でないことと自分で知れます。聖書には「異教徒は何度も祈れば聞き届けられると思っている」と書かれてあります。

さて、テレビのインタビューに応えて裏ビデオの監督が「神に誓います、はい、この通り」と片手をあげて何か自分は人から悪く思われても人のためになることをするというようなことを言いました。自分の知らないものを引き合いにだしてどうして誓えるのかわたしにはわかりません。

もし知っているとしたらキリスト教的に言えば彼は悪魔でしょうし、悪魔が神かけて誓ったりもするのです。注意です。聖書にはまた「誓ってはならない」と書かれてあります。

その監督の下で一生懸命、徹夜して働いているスタッフ達がいます。人の努力とはこういうことがおおいいのです。ですからというわけではありませんが、わたしは努力をあまり好きではありません。例えば生まれつき金持ちの人がいます。権力者もいます。わたしはそのような努力しないでも得られることを得ようと努力するのが嫌いです。

また生まれつき良い頭脳を持ち良い家柄や国に生まれたといってなんの自慢にもなりません。ま、自慢というのはなんの理由もなくそうするのが、それです。それは悪ふざけでしかありません。で、努力したいと思うことそれは信仰です。

パウロは「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」と書いています。

昭和63年3月2日



信仰について。パウロはまた「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである」と書いています。しかしヤコブは「信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである」と書いています。これは矛盾でしょうか、いったいどういうことを示すのでしょう。

わたしはこう思います。信仰はなにかほかのものを求めることによっては得ることはできない、そして信仰を得ることができれば、行いをしても良いということだと思います。なぜなら行いとはこの世的なこと、言わば「目の欲、肉の欲」ではありませんか。

わたしは罠はきらいですが、この神の罠には喜んで捕らえられましょう。ヤコブは行いのない信仰そのものの存在することは否定してはいません。そしてそれだけでは死んだものであると言っているのです。それはひとつには信仰がなくても、ただ言葉だけで、わたしには信仰があると言っていることに対する警告です。

ひとつには「もし行いがなかったら、なんの役に立つか。その信仰は彼を救うことができるか」という意味です。かれは良い行いは良い思いからでると信じる理由があるのだろうと思います。「ぶどうの木がいちじくの実を結ぶことができようか」と書いています。信仰がないなら信仰の行いもまたないのです。

これに対してパウロは、この世的な行いは罪であり「心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである」。つまり行いから離れた信仰の純粋さ正しさを強調するのでしょう。

たとえて言いますと作曲家がいて作曲します。その楽譜が音楽であり、演奏者はみな下手で雑音になるといったことでしょう。ですがすべての行いが罪であるとは思えません。良い思いからでた良い行いがあり、良い思いからでた悪い行いがあり、悪い思いからでた良い行いがあり、悪い思いからでた悪い行いがあります。

わたしはこの二人の使徒が上手に作った罠にできるだけ捕らわれていましょう。では再生、永遠の命について。たとえばもし永遠に生きることのできる薬が発明されたとします。するとひとは家財道具すべてを売ってもそれを求めます。あるいはその人生総べてをかたにしても、つまり永遠ということですが、働くでしょう。わたしにしてもそうだと思います。

もう、頭から人は死ぬものだと思っているわたしにしてからそうです。キリスト教によればそのためには信じればいいのです。しかしそのためには家財道具を投げ打つどころか自分さえ投げ打たねばなりません。まったく世の人が信仰のないのも無理からぬことです。ほかの人のためでなく自分のためでも、それが出来ないのです。

商売でいっているのですが、仏教はすペての人を救う、キリスト教はそうではないという人もいます。けれど神はソドムに住む何万人の中から見逃さずにロトを救ったのです。しかも仏陀は人を救えません。それを知っているからこそ仏教徒は自分で拝んだり祈ったり苦行したりするのではありませんか。


昭和63年3月3日



信仰について。それは神を思うことです。つまりそれ以外のことではないと思います。つまり自分の状態とか希望とかそんなものによって、いわゆる神だのみは信仰ではありません。この世的なことを望むことは偶像崇拝であると書かれています。そしてそれに神を引き降ろそうとするのが、いわゆる神だのみです。それはその名ヤーウェを拝していても、そうではないでしょうか。

わたしの状態とか希望とか、そんなものは忘れるがいいのです。そうでなければ人は、どうしても自分を義とする傾向がでるでしょう。ところがパウロは「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」と書いています。

このことは昨日すこし書きました仏教の件と比べられます。つまり仏陀が総べての人を救えるなら、そしてそれを信じるなら、人はみな祈ったり凝ったり拝んだり修行したり苦行したりする必要はなにもありません。(わたしは仏陀は、彼はやはり勝利者だとおもいます)。

あるいはまったくなにも人が救われることがないなら、また何をしても無駄です。このようなことにおいてパウロは再生と命を確信することが信仰であると説明しました。神を信じて、そのことによって、それが得られると信じたのです。自分が救いを望まなければ救われない、これは当然です。しかし人は自分で自分を救うわけではありません。人はその資格を得る努力をしますが、救うのは神です。


昭和63年3月5日



あるいはまた、これがわたしの信仰です、と言って自分が信仰と思う行いをすることをパウロは嫌ったのです。というのも創世記14の23・24のことをアブラムが言ったのを神が義としているからです。


昭和63年3月9日



正直さについて。人がなにかに正直と言われる場合、なにについてそう言うのだろうか。人のどういう関係について人はそう言うのだろうか。感覚(その対象と、それによって呼び覚まされる特定の感覚)についてだろうか、感情(その対象と、それによって呼び覚まされる特定の感情)についてだろうか。意識(その対象と、それによって呼び覚まされる特定の意識)についてだろうか。そんなものはすべて誤っています。

なぜなら、そのようなものを正直さの拠り所にするにしても(よく女性がやるように、感覚の正しさの拠り所を感情に、感情の正さの拠り所を意識に、意識の正さの拠り所を感覚に、あるいはこれらの組み合わせをもってしても)それを自己が、その正しさの拠り所にするからです。そのようにする人を愚かと言います。

なぜならそれは基準にならないものを基準にしているから。なぜなら自己をこそ却って、その拠所とすべきはずだからです。では自己とはなんでしょう。ある意味ではそれは大切です、ある意味では全然大切ではありません。どちらの意味でも関わりある信仰についてわたしはすこし思うことがあります。

人は祈ったり願ったりしますが、自分についてそうしますが、それでも人は自分が自分を救うのではありません。自分を救おうとしてすること、そのことはなんと言ったらいいか、余り誇りにはできません。それはまだ信仰を知りません。「キリストにあってわたしたちは死んでいるのです」。この世界の総べてに頼ることなく持つことなくあれば、わたしは神を父とよべるのではないかと感じてもいます。


昭和63年3月10日



もし人が信仰するならば、わたしは神を父と呼ぶはど信仰したいものだと思います。


昭和63年3月12日



自分のために自分を投げ捨てねばならないなら、人のためには何をしたらいいのだろう。この世界とはなんだろう。例えば仏陀は依存関係を理解した。そしてそれが世界の有様であるとしょう。しかしなぜそのようになっているのだろう。(例えば密教などでは現象界、アストウラル界、コサール界があって、とかなんとか言っているけど)。

例えばどこかそのような最高の世界あるいは世界ではないのかに人が行くのが救われることだとしても、なぜその世界はそのようになっているのか、わからないでは意味がないと思う。

しかしそうなっているのだから、しかたないと言えばそうなのだろう。人は神によって造られた、なぜ。あるいはなぜ、このわたしがこのわたしなのか。心理学ではこの世界からわたしを説明しようとするけど、わたしはこの世界に根拠を持たないので、却って世界こそ、わたしに根拠を持つのかもしれない。

しかし、わたしがこの世界に根拠を持たないと言っても、それはわたしがこの世界に生きているからだ。わたしがこの世界に生きているから、わたしはこの世界に根拠をもたないのだ。では生きていないなら、この世界に根拠を持つ?あるいはこの世界に生きているなら、ほかの世界に根拠を持つ?もしそうだとしても、なぜそうなっているのか。わたし自身はこの何故を知っているという人を知らない。


昭和63年3月13日



わたしが人に布施をするとかの善行をしたとします。そしてその報いによって天の国を得たとします。どうでしょう、わたしに善行された人はなにか得があるでしょうか。なんにもありません。従ってわたしにとってだけではなく人にとっても得になる行いとは、人に神の存在を知らしめることでしょう。さて、何故について。


昭和63年3月14日



それがどんなに不思議であってもキリスト教によれば、世界や人は神が造ったものであるということです。不思議なこの世界は神が造ったということです。ですからイエスを信じる者は直接に神につながっています。これがほかの宗教とは異なる良いところです。

ところで神は聖書の始めのころ創世記あたりで「わたしが愛したい者をわたしは愛す、わたしの恵みたい者をわたしは恵む」と言っています。それは神が勝手にモーセを慈しみ、他の人にはなにも関係ないということでもあります。このことは理不尽に聞こえます。ほかの人は愛されないのでしょうか。

けれどこれは、わたしは正しいとする人の勝手な気持ち、自己を義とすることへの答えです。つまり自己を義とするということは、その根拠をこの世界のものに持ちます。わたしはこうした、ああした、こう思っている、そしてそれは神の眼からみても正しいのではないかと人が自分で思うことです。

しかし人は、この世界のことを一切知りません。人は神を知れば良いのです。この世界のものであろうと自分であろうと、それを正しさの根拠にも良さの根拠にもしてはいけません。ですからこれ「わたしが愛したい者を愛す、わたしが恵みたい者を恵む」ということは人がこの世界のものを愛してはいけないという意味です。そして神が人を愛しているということです。


昭和63年3月17日



基準について。人は自分の(思いの、行いの)正しさの判断を、何に求めればいいのだろうか。経験であろうか、理性であろうか、哲学であろうか、計算であろうか、運命であろうか。すべて違っています。この世界にあるどんなものでも自己の基準にしてはいけません。それらは却って自己をこそ基準にすべきものだからです。

ですから俺はこれだから正しいとか間違っていないということは、それの基準を感情にせよ言葉にせよ想定された自分にせよ置くことなので、誤りになります。ですから人は人の自己がなんであるのか分からないのはここでも素晴らしいことです。それゆえに人は正しくあるからです。それはなんと美しく造られていることでしょう。

人は自己がなんであるか分かりません。そのことを苦しむには、あたりません。それは却って恵みなのですから。しかしわたしはこれを問います。自己とはなにか。つぎには自力と他力について考えます。


昭和63年3月27日



人が自分で自分を救おうとすることを自力といいます。しかしわたしの知る限りは仏陀以外はそのようにした人はいません。多くの場合、宗教は最後には他力です。キリスト教もそうです。ある人がいて自分を救おうとして努力します。しかしふつうその努力の果てには救いは向こうからくるのです。このようなスタイルで人が救いを見出すことがおおいいのだと思います。

ではこのようなスタイルこそ注意すべきでしょうか。つまりキリスト教も、そのようなものの現れの一つにすぎないのではないでしょうか。これは困ったことです。しかしこのことは次の問題を解決します。人の自己がこの世界のものに捕らわれることなくあるなら、そのようなものに関わらないならば、人はこの世界でなしえる行いをできるだけ沢山したほうがいいのではないか。沢山の良い行いをするのがいいのではないか?

世界旅行をしていろんな経験をするがいいのでしょうか?あるいはまたどんな悪い行いをしても人はそれと関係ないのでしょうか?この間題に解答をだします。この世界の中の物を拠り所としては人は救われることがありません。ですからどちらもよくないのです。これは行いの中道です。

ではなぜこの世界のものを基準に人はしてはいけないのでしょう。いやそれはしようとしても出来ないのではあります。人は執着できるのみであるのかもしれません。しかしなぜ世界はこのように人にとって出来ているのでしょう。なぜこの世界は仏陀が言うように苦痛でしょう、なぜこの世界はパウロが言うように肉の欲なのでしょう。

ではまた執着することなければ人はこの世界でなにをしても良いのでしょうか。人がこの世界で努力することは大概は、自分で自分を救おうとすることは大概は、この世界のものによって努力するのです。そして多くの場合、救いはこの世界以外から来ます。これは何故そうなっているのでしょう。


昭和63年3月31日



ここに包丁がありまして、それは大根や人参を切ったりするものです。しかし人を切る道具にもなり得ます。このような場合、人はそれはものの使いかたが違っているのだ、それが悪だと思うかも知れません。つまり違う目的のために物を使うと、それは誤りであり悪であるというわけです。

しかしそうでしょうか。このまえ新聞を見ていますと、ま、いまだに不倫が流行っていまして、投書欄に「あたしたちは世間では不倫だといわれている関係であろうけど、あたしたちのこの燃える思いは純粋である」、そんなことが書かれていました。そうです。人は自分のしていることが分からないのです。(この場合人は自分の拠所を感情にもってしまっているわけなのですが、自分のなかで迷っているのですが)。

おおくの場合人は自分のしていることが見えていながら、そのことがわかりません。

ここにナイフがありまして軍用のナイフがありまして、それは人を傷つけるために作られたものです。それで人参や大根を切ると、目的以外のことに使うのですから間違いであって悪であるでしょうか。そう考える軍隊もあるかもしれません。

けれどこの話の意味は、こういうことです。人を傷つけようとすること、それが悪なのです。なにも包丁を目的以外の使用をしたからではないのです。実際、包丁をに握りしめている人にはわかりません。これは良く切れるだろうか、相手は嫌な奴だ、相手の武器はなんだろうか、そんなことばかり思っているからです。人を傷つけるそのことが悪であるなら、悪なのです。

それは包丁でなくても、石でもよく、銃でもよく、言葉でもよく、態度でもよく、原子爆弾でもよいのではありませんか。で、人は包丁を握りしめているように「あたしの燃える感情」を握りしめているわけです。また世間がそれを不倫と呼ぶからそれが不倫というわけではありません。その人が不倫をしようとして不倫をしているのです。それ以外のなにものでもありません。

それなのに人は、あたしの心や身体はそのように使われるためにあると、そういうことをいうわけです。〔ね、みなさん、あたしは悪くない〕そういうわけです。あるいはまたほかの人に迷惑をかけるわけではないお互いが良ければいいのだろ、そういうことも言うわけです。まったくその通り、ほかの人には全然関係ありません。もし地獄に行くとしても、ほかの人は行きません。つまりなにより包丁を握りしめているその人にとってしか、そのことは関係ありません。

超古代の日記「01」






ホーム