超古代の日記



昭和63年4月1日


市場で雀は、わずかな値で売られているではないか、それは神が落ちるのを許さなかったら落ちることはなかったのである。こんなことをイエスは言っています。結論から先に言います。この世界のどんなことでも神がそうあることを許しているのです。戦争も、人殺しも、姦淫も、盗みも、あざけりも、良いことも悪いことも、この世界で行われること総べて、神がそうあることを許しているということです。

このことは、だからわたしがそういうことをしても、いいと言うことではありません。昨日言った不倫はわたしの問題ではありません。つまり、わたしが、お前は不倫しているではないか、と言うことさえ言うことはいけません。それを神が許していますのに、わたしがそれはいけない事だよということはいけません。ここでも問題が不倫ならば、不倫している人にとってそれは問題です。お前それはいけないことだよという、わたしにとって、お前それはいけないことだよということは問題なのです。

ところで人は人からあざけられたり、苦しめられたりします。そんな時にも、そうされても放っていればいいのです。ま、世間的なことですが、そうされた時、この野郎なんて思いますと、それはこの世の思いになってしまいます。人は人をそのように、この世的なものにしようとするのででもありますから、放っていればいいのです。

昭和63年4月9日


動物はなぜ死ぬのだろうか。人が死ぬのはアダムとイブの罪のためであると聖書はいう。けれど創世記には人が罪を犯さなければ永遠に生きたはずであるとは書かれては無い、イエスの弟子が「一人の人の罪によって死がこの世界に入ってきた・・」と書いているだけである。もちろんそれは正しいだろう。

けれど動物はなにか罪を犯したのだろうか。その総べての種類それぞれが罪を犯したのだろうか。あるいは人が罪を犯したから動物もということであろうか。もしこの世界の終わりがきて人が永遠に生きるようになったとして、動物は死ぬのだろうか。動物も永遠に生きるのだろうか。

エデンには命の木があった。ということはもし人が罪なくても死ぬということを示しはしないだろうか。神は「わたしたちのように人が永遠に生きることはないように」と人をそこから追い出したのである。また罪なき人の子は死ぬことができたのである・・・・。

再び他力について。ふつう人は自分の意識を自己と思っていることがおおいいと思います。この辺はすこし分かりにくいので例え話をします。ある人が他のある人を感情的に嫌っていたとします。「この野郎、俺はあいつを嫌いだ」。そして嫌いになっている自分を発見して、意地悪したりあざけったり害を加えたりしたいとします。

そういうことをする根拠というか理由を人はやはりあれこれ考えます。「あいつは態度が悪い、仕事が出来ない、性格が悪い・・」このようにそれぞれ自分をも世間をも納得させることのできるものとして理由を考えます。そして人は意地悪したり、態度に表したり、我慢したりするわけです。

つまり自分のすることの基準を感情に持ったりするわけです。この場合、人は自己を感情あるいはそれに呼び覚まされている意識だと取り敢えず思っているわけです。それは原因つまり、あの嫌な奴と、バランスがとれてそのような有り方が存在するわけです。ところがそのような有り方というのは全然変な有り方なわけです。

それがたとえ意地悪するとかしないとか行動することとしてあるにしても、自己の基準を感情に置いているからです。つまりそれは逆であって、感情こそ自己を基準とするもののはずであって、自己から生じたもののはずです。つまり自己から生じたもの、あるいは自己の属性、あるいは自己の一部分それを自己が基準にすることは変だということです。

それは行動することしないことを対極とするからかろうじて有りえる有り方であろうと思われます。このことはほかのこと例えば感情としての愛(と呼ばれているもの)でもおなじです。ところで我が我がと思う場合、おおかたこの世界に有るものを理由にして主張するわけです。仕事の能力だとか、善悪だとか、金だとか、権力だとか、家族関係とか、そういうものを基準にするわけです。

しかし人はそういうものの為にあるのではありません。いわば自己のためにそういうものはあるのです。さて、これやあれやを人が自己だと思っている場合、他力が役に立ちます。全くそれらを自己だと思っている場合、言わばこの世界の外から呼び掛ける者の存在によって、我が自己であると思っているもの以外の存在(つまりあれやこれやでない自己)を知るのです。

(ところでこの世界に有るものを自己であると人は決して思うことはできません。ただそう思い込もうとしていることに捕らわれることはでき、そのことは執着と呼ばれます)。人の経験はその人の自己を示しません。なぜかと言えば、経験のために人はあるのではなく、人のために経験はあるからです。この世界のために人はあるのではなく、人のために世界はあるのです。

ただ人は人のためにも有りえるわけで、それが他人の不思議さです。つくづく自己は不思議です。人の自己がなんであるか分からないこと、それだから人は自己であるのです。人の自己はまったく無規定でなければ自己では有りえません。

しかしなにはともあれ、感情を自己と思うことでさえ実は自己を探していることには他なりません。しかしそれはまず執着を学ぶためにそのようであるのでしょう。「こんなに愛しているのにあなたは応えてくれない」、女性は自分の子供に対してこう思うことがおおいいようです。「こんなに毎日、朝早く起きてお弁当を作って、帰るまで心配してこんなに尽くしているのに、あなたは良い子にならない」、このように思うようです。

愛しているはずなのに愛を求めているのです。(もちろんそれが愛などではないことは少しはっきり見ればわかるのですが、女性は包丁を握りしめていますからなかなかわかりません)。まずこんな場合は、こんなに尽くしているのにとかいう理由が考えられています。そしてそのようなあのような関係のなかで自己を見出そうというか、主張しようというか、そんなことがなされています。

しかしここで見出されようとしている自己はそのような関係のなかでしか有りえません。つまり逆に言えばそのような自己を有らしめるために、あのような関係を作るといってもいいのです。またそのような自己があるために、あのような関係があるのです。これを執着と呼びます。

こんなことは滅多に起こらないことではありません(こうでないことのほうが滅多にないことです)。このような場合、特長的なことは理由を作ることです。「こんなに尽くしているのに・・・・」そのことによって自己を存在せしめようとすることです。もともと理由と自己とはなんの関係もありません。にも関わらずそのように思いたいわけです。無理無理に自己をそのように思いたいのでしょう。

さらにそこには倒錯があります。倒錯とは、この場合は感情を自己の拠り所とすることです。なぜ倒錯と呼ばれるかといえば自己は感情を拠り所とすべきではなく、この逆が正しいからです。人は感情を自己と思い違いしきることはできませんが、殆どそれに近いことをやりとげています。ここに苦痛があります。そして感情を主体と見なすためには多くの場合、なかなか思いどおりにはならない可愛いわが子の存在が必要なのです。このようなことをさらに愚かに自身に隠すこと、それが世間と呼ばれています。世間が愚かなのはこのためです。


昭和63年4月10日


自己でないものを自己と思おうとする努力を執着とよぴます。それは言わば包丁を握りしめているわけです。それには行動とか思いとか感情とかの対象であるものが必要です。例えば女性にとっては子供です。おおくの男にとっては地位であり金であり、ま、そんなものです。それを対象にする自己、それは自己ではありませんが、それを自己と思うために対象とのいろいろの関係をつくります。

この関係のなかにいることそれが執着です。わたしは包丁を捨てなさいといいます。そうすれば倒錯がなくなるでしょう。倒錯とは自己が自己でないものに基準を置くことです。なぜ、包丁を捨てることが難しいいのか。それはそうすると自己がなくなると思われるからです。倒錯によって生じているところの自己が、捨てることを恐れるのです。

まさしくそういう自己は、ないほうがいいのです。しかし世間ではそのような自己を成長させること立派なものにすること、それを尊びます。なぜか。それはそのような人が思っている世界は物質であり貧しいからです。人は物心つきますが、物心つくということは、すでに倒錯であることがおおいいのです。なぜか。それは人がこの世界のなかで物とか人とかの関係のなかで自分に気付くことであるためでしょう。

さて人が包丁を握りしめているといいました。ま、軍用ナイフでもいいですけど握りしめています。すると対象である敵を必要とします。この場合、敵がいるから自己があるのです。その人が恐れることは、敵もナイフを持っていることではありません。敵がいなくなることです。ですからナイフを握りしめて、「こっちへ来い、こっちへ来い」と言うわけです。

そしてなにも理由なしにそんなことをする人はいません。敵が悪人だからです。このように理由があってすることは基本的には正しいものではないと、わたしは思います。そして人はこの握りしめているものを、なかなか手放すことが出来ないのてす。いってみれば握りしめていることにもなかなか気付かないのです。正しく知ることがないためです。人は苦痛が好きだからでもあります。

この握りしめているものは人によっていろいろです。感覚のことも、感情のことも、欲望のこともあります。ところでわたしがここで言っていることは、人がどのように出来ているか、そしてそれを正しく知ろうということです。つまり誤りはこんな仕組みになっているのだと言っているのです。それを知れば人は正しく有りえるでしょう。

そしてなぜこんなことを言うのか。例えて言いますと誤りはもつれた糸です。そのもつれぐあいが明らかになると人はそれを解けます。ではなぜ糸なのか。つまり、なぜこの世界がこの世界であるのか、人が人であるのか、それに答えたいからです。神がそのように造っているからです。いろいろ宗教家はいいます。この世界とか、あの世界とかの仕組みについていいます。けれどなぜそれがそうなのか、これには答えていません。神が造ったからそうなっているのです。

関係ない話をします。この前テレビを見ていましたら、なんとか女子大学の女教授が「言葉は嘘をつきます、けれど非言語表現は嘘をつきません」こんなことを言っていました。この言葉の矛盾に本人は気付いていませんでした。またそれを読むのが下手な場合のみ非言語表現は嘘にみえないのにも気付いていませんでした。ま、どうでもいいですけど。

昭和63年4月11日


感覚とはなんでしょう。わたしはビールを飲みます。ビールの味がします。その場合、わたしが飲むことによって、ビールの物質的な質量に変化があるでしょうか。たぶん無いでしょう。そうであるならなぜ、ビールの味という感覚があるのでしょう。つまりビールの一部分かなんかが変化して感覚になっているわけではないのではないでしょうか。

わたしはコルトレーンを聞きます。空気の震動によって鼓膜が震えます。それが信号になって耳のいろいろな仕組みによって聞こえるわけです。空気の震動は熱にもなるでしょう電気にもなるでしょう。けれど質量が保存されているとしたら、この聞こえるということはなんでしょう。

わたしは時計を見ます。わたしは部屋の匂いを嗅ぎます。わたしはキーボードに触ります。それは多分、身体が刺激に対する備蓄としてなんだかのエネルギーを動かすだけのものを持っているからでしょう。しかしその質量も世界全体からみても変化しないのではないでしょうか。

このようにわたしは考えます。考えるということは電気信号によって行われるのだそうです。けれど考えることによって電気信号が他のものに変化したところで、質量は変化しないのではないでしょうか。電気信号が思考というものに変換するのでないならば、考えるということはなんでしょう。この世界の物質的なものを使いますが、考えるということはそれはそういうものとは別のものではないかと思われてしまいます。

では結局、人の自己はこの世界のものではない、こういうことになるでしょうか。いろいろな考えかた(変ですね)があるでしょう。物質は感覚に変換されるのだが余りに僅かなので測定できないとか。たとえばフイルムに風景がうつるように(その場合はまったく質量の変化がありませんから)感覚はそのような(なんだかわかりませんが)ものであるとか。対象も刺激も感覚も幻であるとか。感覚は人のうちに言わば眠っているわけで、刺激がそれを呼びさますのであるとか。

わたしはビールを飲みます。それはわたしの側からいっても世界の側からいっても、それ以外のなにをしているものでもなく、そこにはまったく出会いの必然がある。こんなことも思われるでしょう。おなじビールを飲んでも旨いときも不味いときもあるとか。そこにあるのに感覚されないときがあるとか。そこに無いものがあるように感覚されるときがあるとか。感覚しようともしてないのにされるとか。いろいろな場合があります。このいろいろな場合に応じて、いろいろな理由が考えられるでしょう。


昭和63年4月12日


さて、このような感覚を依存関係によって調べてみましょう。つまりそれがどのように仕組まれているかを見てみましょう。まず、感覚にはふつう見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触るがあると思われています。これらは互いに依存するでしょうか。

つまり見ることの存在が聞くことの存在の理由、基準、原因になるでしょうか。これはとある感覚の無い人がいるのをみても分かるとおり、そうではありません。それは感覚器官のあることによってあります。

では眼、耳、鼻、舌、手足は、互いに依存するでしょうか。つまり眼の存在は耳の存在によって存在するものとなっているでしょうか。そうではありません。それらの対象物つまり世界に依っています。では対象物は、ほかの対象物が原因になって存在するでしょうか。つまり塩の存在は砂糖の存在を原因として存在するでしょうか。

そうではありません(ふつう因果関係と呼ばれているのはこのへんのことを研究することです。これは後述します)。ではこんどは逆に見ていきます。感覚があるのは何によるでしょうか。甘さは辛さの基準になるでしょうか。そうではありません。

意識によって感覚はあると知れるのです。では意識は、ほかの意識の存在によって存在するのでしょうか。これは困ります。そうであるかも知れないからです。このことをもっと詳しく知るために後戻りしてみましょう。

まず見ることについて見てみます。丸は四角に依存しているでしょうか。これは(形ですから)していないとはいえません。赤は緑に依存しているでしょうか。これは(光の周波数ですから)していないとはいえません。では形は色に依存しているでしょうか。これは全然関係ないものであるのに互いに関係無くあることはありません。

では聞くことをみてみましょう。低音と高音、大きい音と小さい音があります。これもおなじような関係ですね。味はどうでしょう。対象物に応じた味と、強い味と弱い味と無味があります。匂いはどうでしょう。対象物に応じた匂いと、強い弱いがあり無臭があります。

触ることはどうでしょう。熱い寒いと重い軽いがあります。(ここで例えば、熱いが有るから寒いが有るなどという二元論は、ある種の対象の有り方に捕らわれてしかも感覚に捕らわれているだけであることが知れるでしょう)。

ここで類推してみますと意識は、ほかの意識に依存して存在するものとそうでないものがあります。ところでわたしはビールを飲みます。これは見えます、触れます、味わえます、嗅げます、聞けます。このことは面白いことです。もしここにビールが存在してないのに、その感覚がある場合、ビールは存在してないと、わからないのではないでしょうか。

つまり、感覚が対象に依存しなくても存在するなら、感覚それ自身が存在するかもしれないということです。もしこうみるなら意識も感覚を意識しますので、意識もそれ自体で存在するかもしれないのです。これは非常に困ったことです。世界もそれ自身で存在するということです。

もしそうなら依存関係が成立しないわけですが、一体なにが真実の存在でしょう。世界でしょうか。感覚器官でしょうか。感覚でしょうか。意識でしょうか。(しかし実際には総てのものがあり、そうであることは依存関係がある、つまりもの自体は存在しないということですが。面白いですね、物が存在するゆえに物はそれ自身では存在しないとは)。

この場合は意識が総てを作りだしたと思っていけない理由はありません。しかしこの場合は明らかな矛盾が生じます。意識が総てを作り出したのに関わらず、世界、感覚器官、感覚はそれ自身として存在しないかぎり、意識がそれらをつくりだしたとは思われないからです。

しかし意識がなくなれば、それらはなくなるのではないでしょうか。そうです。意識がなくなれば意識はなくなるということです。では次に意識はなんに依ってあるでしょう。生きていることに依ってだと思います。わたしが生きていることは、例えば砂漠の駱駝に依ってあるでしょうか。そうではありません。

ではブラジルあたりで日光浴している、どこかの姉−ちゃんに依ってでしょうか。そうではありません。では友達に依ってでしょうか。隣人に依ってでしょうか。これに応えるのは結構難しいことです。ふつうは人は両親に依って生きるものになります。

こうしてみますと物事に二つの系統がみえます。水は氷になり蒸気になるといった変化系、水は空気ではないといった独立系です。しかし空気もそれは変化します。これはどういうことでしょう。

これとは世界には水や風や人や星があり、感覚器官には眼、耳、舌、鼻、手足があり、感覚には見る、聞く、味わう、触る、嗅ぐがあり、意識には・・・これは種類があるのかどうか知りません・・・命にはわたしのものと、そうでないものがあります。それぞれにおいてそれぞれ区別されるものがあることはどういう意味が有るのでしょう。

ここでそれぞれだと区別されるものはそれらが互いに依存しないゆえに区別されたものとなります。たとえば水と空気はどちらかが有るためにあるのではありません。眼があるのは耳があるからではありません。見るがあるのは聞くがあるからではありません。ある概念があるのはある概念があるからではありません。人が生きているのは犬が生きているからではありません。

しかし、でも、絶対そうであるとは言い切れません。(さてこのように変化系と独立系の関係を因果関係と呼びます。)対象物は世界と呼ばれます、感覚器官は身体です。見る、聞くは・・・これはすこし無理があるけれど・・・感覚と呼ばれます。どのようないろいろな意識も意識と呼ばれます。

では生きることはなんでしょう。生きているものと呼べるかもしれません。では次に生きていることは、なんによってあるでしょう。変化系では両親とか食物です。独立系ではわたし以外の生き物です。(この場合も因果関係がありますから、これらが完全に独立してはいません。)これらは何に依存してあるでしょう。この間題はすこし置いておきます。

さてしかしこれらのことを見渡して、どうしてそうなっているのでしょう。そう、神がそのように造ったからでしょう。ここで人が正直というか素直であろうとするなら、これらに依存してはいけません。なぜなら、それらは自己のためにあるのですから、自己がそれらのためにあるのでは無いのてすから。

ところで振り返ってみます。鶏がいて卵を生み、それが雛になって親になります。猫がいて子を生み、それが親になります。ここで変化系と独立系があります。鶏が鳴きます、猫が鳴きます。それぞれわたしの耳に低音と高音、強く弱く聞こえます。それぞれわたしの眼に形と色があるものとして見えます。それぞれわたしの手に温度と重さのあるものとして触れます。それぞれわたしの鼻に匂いとその強弱として嗅がれます。それぞれわたしの舌に味と強弱として味わわれます。

これは総べての対象物の総べての変化形についていえるでしょう。そして対象物、ここでは鶏とか猫ですが、どんなもののどんな状態でも感覚をもっています。ということは総べてが網の目のようにネットワークされているのです。

すべての対象となるものが(人も含めて)独立してあるとするなら、それら自身において対象物があり、感覚器官があり、感覚があり、意識があり、生きるがあり、総べてがネットワークされているということではないでしょうか。

では無生物はどうでしょう。生き物の身体は無生物でできています。感覚は、意識は、生きるは、なんでできているのでしょう。この問題は後回しにします。ここでもし、対象物の独立がないとします。つまり総べての対象物が同じものであるとします。鶏と猫と人となんでもかんでも同一のものだとします。

また感覚器官が総べて同一だとします。また感覚が総べて同一だとします。また生きるが総べて同一だとします。これはなんでしょう。また対象物と感覚器官と感覚と意識と生きるが同一だとします。これは何でしょう。ま、依存関係の成立には独立系と変化系が必要であろうことは確かしょうが。

ついでに感情も渇愛もなにもかにも纏めて総べてのものが同一であれば、これはなんでしょう。ではまた振り返ってみます。生きるは、何によってあるでしょう。命はやはり死に依ってあるでしょう。そうだとして死は何によってあるでしょう。死もまた独立系であるなら変化系もあるのではないでしょうか。ほかの世界でしょうか?また死の変化系とは輪廻でしょうか?これはこのままにしておいて、では世界はなんに依ってあるのでしょうか。


昭和63年4月13日


さて、母親さんの場合は「こんなに愛しているのに」といいますが、父親さんの場合は「我が子は無条件に愛す」よくこういいます。このことは感情を愛と思っているゆえに神に対する罪であり、倒錯があるゆえに自分に対する罪であり、わが身かわいさのゆえに人に対する罪であります。すべてに於いて罪でありますが、それが許されているのは彼等が愚かであるからです。

なぜなら感情は愛ではなく、愛は神からのものであり、それを誤るのを良しとするのは神に背くことだからです。なぜなら感情は自己をこそ基準とするものであり、自己は感情を基準とするものでなく、倒錯があるからです。

なぜなら自分達によかれと思いつつ人と敵対しているからです。これは世間と呼ばれますが、それにもいいところがあります。これを知ってそれから離れることができるからです。愛を正しく知りましょう。感情を正しく知りましょう。自己保存を正しく知りましょう。

さて倒錯するのは、そこに欲望があるからではないでしょうか。身体(感覚)の欲、意識の欲、物質に対する欲望があります。ですからこのために欲望は対象が必要です。逆にいえば欲望するためには倒錯しているところの自己(それは自己ではありませんが、なぜかそう呼ばれます)を必要とするのです。そしてその自己と呼ばれるものは自分自身で存在しませんから理由を求めます。


昭和63年4月14日


このような自己は例えば身体です。その場合は対象として相手の身体を必要とします。恋とか結婚とか、スポーツとかです。取り敢えず前者は女性的で、後者は男性的です。なぜなら女性は子供を生むということがあり、男性は働く(戦うというこは働くということの過剰ではないでしょうか)があるからです。

このため女性は身体を非常に大切にします。そしてその対象は男性の身体です。ここでは理由は例えば相手の美しさとか家柄とか職業とか性格とか貧富とか年齢とか健康とか、つまり色々な条件として考えられます。(このような自己と思いたいものを満足させるために、よい条件が必要なのです。そして喜んで自己を捨てる機会を待っているのです)。

そうしなけれは自己を身体だと思えないからです。これはあんまりな話です。ついでに言いますと、女性は男性が自分の身体を対象にするものとして自分の身体を対象にします。これはあんまりな話です。あんまりなと言うのはこのようなことは本当には女性的なものではないからです。そこには倒錯がありしかも固定されているからです。このような女性は可愛くありません。

スポーツマンが対戦相手を前にして変な余裕を持ったり舐めたりするようなことです。そうでなければ相手に対する恐れがあり戦きがあり、自己と思っているものに対する恐れがあり戦きがあります。それは自己ではなく、それを自己と思いきることへの恐れと戦きです。(フレーズについて初期のアルバート・アイラーは実に良くこれを表現しました)。

これは倒錯です、なぜなら自己は身体のためにあるのではなく逆だからです。(ところで身体の場合は、相手の身体を対象にするのは自分の身体ですが、実際には自己を身体だと思うことはありません。けれど自分の身体の美しさ家柄職業性格貧富年齢健康を自己と思うのです。そしてそれも理由です。つまり理由は相手の理由、自分の理由があるというわけです)。

さて、ここでは身体を見てきましたが、それぞれの感覚(見る、聞くなど)についてもおなじです。また、そのような自己と思われるものは例えば感情です。これにも対象と理由があります。そのような感情を自己と思うためにそれらが必要とされるのです。これは倒錯です。なぜなら自己は感情のためにあるのではなく逆が正しいからです。

また、そのような自己は例えば意識です。これにも対象と理由があります。これは倒錯です、なぜなら自己は意識のためにあるのではなく逆が正しいからです。これが欲望です。これはこの世界のものを対象にしてあります。対象になるものはこの世界とこの世界にあるもの総べてです。対象にするものも総べてのものです。

ダイヤモンドがあります。それを感覚でまた感情でまた意識で求めるのです。そして他の人の感覚を感情を意識を、感覚で感情で意識で求めるのです。このことを執着といいます。そして執着とは実は対象物に捕らわれることではありません。そのようなものに捕らわれている自分に捕らわれているのです。それは正しく知らないことによって捕らわれているのです。

さて、話を続けます。また、そのような自己は命です。これにも対象と理由があります。これは倒錯です、なぜなら自己は命のためにあるのではなく逆が、つまり自己のために命があるのが正しいからです。また、そのような自己は死です。これは倒錯です。なぜなら自己は死のためにあるのではなく、(これは多分)死は自己のためにあるからです。これで、ここで自己と思われているものについては総べてです。

つまり(本来的な)自己はこのどの総べてでもありません。なぜなら総べては倒錯し得て、それは自己ではないからです。では次になぜ倒錯するのかを言わねばなりません。そのためにはなぜ人が人より優れた者と思いたいのか、それを知らねばなりません。はっきり言ってそんなものに意味はありません。

例えば誰かから意地悪されたとします。「この野郎」、こんなことです。自分の子供がなかなか言うことを聞きません。「こんなに愛しているのに」、こんなことです。女性の文字でご連絡ください、こんなダイレクトメールがポストにありました「もしかしたら」、こんなことです。(あるいは我の強調は、独立したものがない限り依存関係もありませんから、依存関係の強調であるかもしれません)。

こんなことは倒錯した自己がそんなことを待ち構えて対応を用意しているといってもいいでしょう。まずそこには倒錯した自己があるから、そのように思うといっていいでしょう。ではどうすればそうで無くあるでしょうか。わたしには余り良い方法であると思いませんが戒律によって(強制的に)生活することがあります。

修行することです。「犀の角のように一人歩め」、「この世界の上下右左、過去未来どんなものにも自分の根拠を置くな」、このようなことです。(これの極限が、あのモーセの十戒ではないでしょうか)。しかしこれらは倒錯なく正しく知ることなければ、それを守る意味も理由も分かりません。それが心の問題であれば心で解決すべきだからです。

さて倒錯がある場合、人は人の感情に対して自分の感情があります。力にたいして力があります。心に対して心があります。行いに対して行いがあります。ここに、強弱があります。さてこのような倒錯、執着は、この世界のどのようなことでもおなじです。では才能とか権力とか自己顕示とかはどうでしょう。おなじです、それへの執着を欲望と呼びます。(感情の愛は欲望にすぎません)。さて自己とはなんでしょう。それはこの世界にあるどのようなものでもありません。そうでなければそこには倒錯しか有りえないでしょう。自己は対象になるものではないということです。

超古代の日記「02」






ホーム