超古代の日記



昭和63年4月15日


きょうも美しく桜が咲き散る、どうして人に、神を信じないようにさせることができるだろう。「オレは神を見るまでは信じない」こう言う人が神を信じることは難しいだろう。けれどその同じ人に神なんて絶対いないと信じさせることのほうが、もっと難しいだろう。

昔は酷いことをしたようです。いまも科学とか社会と思想とかが一生懸命そのようにしています。けれど無理でしよう。人の神を信じる気持ちを失わせることは出来ないでしょう。さてここに一人の男がいます。ねころがって天井をみています。とある素晴らしいことをなし遂げて喜びに満ちています。またとある情け無いことにであって落ち込んでいます。

どっちにしても、ねころがって天井を見ています。ここに一人の娘がいます。電車に乗っています。とある男から結婚を申し込まれて有頂天です。また違う男から結婚を申し込まれて不快になります・・・・。さて、昨日は対象がはっきりしている場合の執着を見てきました。

例えばここに喧嘩をしている人と人がいます。人は人と自分の感情とか行動とかそういうものを理由に人を対象にして憎しむわけです。そしてそういうものを自己の拠り所とするために、それは倒錯と言われます。おなじように同じような有り方をする感情の愛も倒錯です。ですから感情の愛は愛ではありません。愛が倒錯であるはずがあるわけないではないですか。

で、すべてのものは対象になりますから、つまり倒錯しえますから、愛はそのようなものではありません。さて、喧嘩するといっても憎しむといっても実に全世界の人をそうできません。感情的(その本人は感情などと思ってもいないでしょうが)な愛も全世界の人を愛せません。相手を選ぶのです、従ってそれはもともと排他的なのです。

うまくいって意識的な愛ですが、それは無理があります。しかも偽善になりやすいのです。それにも理由が必要だからです。ところで対象がはっきりしない場合の執着があります。対象がはっきりしないというよりも自分の身体に対する執着、感覚に対する執着、意識に対する執着、生死に対する執着です。(これは普通、順に性、芸術、哲学、宗教の分野と分類されます)。

(科学というのも対象物に対する執着です。だからこれを他の執着と区別する意味で客観的といいます)。ま、なんというかこのような倒錯を文化ということがあるようです。(倒錯するための才能とか歴史とかが必要なのです)。この場合のほうが実は仕組みは簡単です。すべては自己のためにあって、自己はそれらのためにはないということです。

というよりは自己はそのようなどのようなものでは、ないということです。自己は対象物ではないからです。したがって自己に執着するということは実際にはできません。できるとすれば倒錯したところの、あのようなこのようなものを自己と思うことによってそれができます。自己に執着することはできないのですから、倒錯なく知ることが正しく自己を知ることになります。

すっごく理論的ではありませんか。自己とはなにか?この問いは絶対に、あれこれであるとしては、答えがでません。それは単に主体であるからではありません。そうである、つまりなにがなんだか分からないから自己であるのです。しかしわたしは、それを問います。

では振り返ってみます。自己はどのようなものでもありませんでした。では実に物つまり対象物、端的にいって物質はどのようなものかであるのでしょうか。たとえば、鉛筆、紙、林檎、地球、身体、感覚、感情、意識、命、それらは一体それ自身においてどのようなものであるでしょうか。それ自身に於いて、それらは、この自己とおなじような有り方をしているのではないでしょうか。


昭和63年4月17日


さてわたしは基本研究をしているだけです。それだけなのに何故これほど困難なのでしょう。わたし自身が困難と思っているわけではありませが。そういったのはそれを知ることが人の最終目的であるというのは何か変だと思うからです。人は嫁いだり娶ったり、働いたり、遊んだり、食べたり飲んだりします。人は人の基本的有り方によってそういうことをするわけです。

ですから人はもしかして意識的にではなくても人の基本を知って、そうしているはずなのです。ま、それを知るのは意識かどうかは問題ですが。基本研究は馬鹿のすることのようです。それを知らない人がそれをするからです。倒錯がなければ全然する必要はありません。ほんとうに人の基本を理解すること、具体的には人や世界の仕組みを知ることを目的にこの世界に生きているのでしょうか。

そうだとするなら奇妙です。誰もが思うでしょう。これに何の意味があるのかと。しかしそのわたしにしても金儲けしたり地位の向上を計ったり、結婚したり子供を作ったりすることに、まったく意味を感じません。そんなものは意味があるからするのではないのでしょうが。しかし、もしこの世界の有り方を知ることが人の生きる意味なら、わたしは人の生きる意味を研究しているのだと思うこともできます。

ほんとうは人はこの世界の有り方を知るために生きている、そうかも知れません。それしか人はこの世界に生きていて為せることはないのではあります。しかしそうだとするならこの世界しかないというのは変な気持ちがします。ほかの世界のことを言っているのではありません。それが幾らあってもおなじことです。

これに意味があるとすれば人のために何か神とかがそのようにしたと思われないでしょうか?そうは思うことはできます。そう思わないこともできます。(神がそのようなあのようなもののはずがないのも確かです。ですから基本的なものを知ってから宗教が始まるとわたしは思います)。

繰り返しますと、人がこの世界に生きてこの世界の仕組みを知るのが人の生きる目的だとしたら、神がそのように用意しているのではないかと思うのです。そしてもし神がそう用意しているものでなくとも、この世界にその用意がないかぎり人が例えば勝利者になるということはないのです。人が仏陀に成りえるということは世界にその用意があるということです。仏陀になるとはこの世界の仕組みを知るということです。(ということは世界は、人は、ある意味では完成されているということです)。

ん−と、この世界には意味がない、こう思うこともできます。しかしこの世界には意味がある、こう思うこともできます。人は選べるのです。嫁いだり娶ったり食べたり飲んだり何の疑問もなくするということは、理性的であろうともして愚かであり世界に意味がないと思っていることにはならないでしょうか。

神はない、こう思うこともできます。神は存在する、こう思うこともできます。人は選べるのです。ここに工場から盗んできた青酸カリがあります。それは鍍金の薬品としても、人殺しの道具としても使えます。これは手に握りしめたナイフです。ここに1億カラットのダイヤモンドがあります。いやー、実に美しいです。でもそれで人を殺すこともできます。

ここに嫁いだり娶ったりする人があります。そうすることで、またそうしないことで、自分を生かすことも殺すこともできます。人がそうすることが出来るというだけで愚かになるのは情け無いです。人は選べるのです。そうして世界には用意があるのです。何不過足なく、とわたしは思います。人が勝利者になるために何不過足なく用意されていると思います。

ん−と、人はそれの基本がなんであるか知らないで嫁ぎ娶り生き死ぬることができます。それを知らないでそうすることができるというだけでなく、(知らないでできると)知ってそうすることができます。わたしはこれを選びません。世界には用意があるからです。ここに1キロメートル立方の金塊があります。それで豊に暮らせるし、また貧しく暮らせます。ここに悪もあるし善もあります。なぜか?それは勝利者のために用意されているのです。

昭和63年4月16日


では、自己とは何でしょう。この世界と世界の中にあるどのようなものでも無いということでした。なぜならこの世界とこの世界の中にあるものが自己であるなら、それは倒錯であるからです。自己はこのようであるあのようであるとは決して考えることもできないものです。

自己は対象物ではありません。感覚器官ではありません。感覚ではありません。意識ではありません。命ではありません。では何でしょう。もしかしたらそれは存在しないのではなんでしょうか。つまり自己というのは倒錯によって生じるのであり倒錯がなければ存在しないのではないでしょうか。

あるいは自己は存在するのですが、その存在が分からないのかも知れません。わたしとしては自己は存在すると思います。この存在ということの意味は何だかわかりませんが。取り敢えずは自己の変化形(倒錯したもの・・・倒錯しないもの)と独立形(他人)がないとまた依存関係も認められないと思うからです。

依存関係があるということは、それらがあるということです。依存関係があるゆえにそれらはあり、それらがあるゆえに依存関係であるということです。もしそれらがまったくバラバラに存在するのなら依存関係はありません。しかし自己はそれらのどのようなものでもありません。

ということは(1)自己は依存関係から外れて存在する(2)依存関係を構成するもの各々もそれ自身以外のどのようなものでもない、ということではないでしょうか。わたしとしてはこれらは統一されるかとも思いますが、まず(2)から見ていきます。

まず何でもいいのですが、ここに対象として時計があります。それは感覚器官・・・感覚・・・意識があって認められます。このどれでもいいと思いますが例えば感覚自身は感覚器官でもなく意識でもありません。もしこの感覚を主体とするなら感覚はなんでしょう。これは自己がわけわからないとおなじような仕方でわけわから無いでしょうか。

これはものは依存関係によってのみ存在するかということでかなり重要です。しかしここではこう考えられます。総べての感覚がなくなったとします。すると意識はなくなるでしょうか。ここではこう考えられます。わたしの感覚が全部なくなっても例えば世界は存在すると思われています。しかしわたしにとってはそうではありません。

ということは依存関係に依って自己は存在するということではないでしょうか。(このことを主観と呼ぶのでしょう)。ほかの人にとっては、わたしがいなくても世界は存在するでしょうから。(それを客観と呼ぶのでしょう)。すると主観的にはものは依存関係によってしか生じませんが、客観的には物はそれ自身で存在するということでしょうか。

物とは世界であり感覚器官であり感覚であり意識であります。自己はただ依存関係によってのみ存在するのでしょうか。自己は客観的に存在するでしょうか。するならば自己も物であり、そうすると例えば感覚自身はわけわからない・・・この問題になります。

しないとするなら自己はただ(これがどういう意味が知りませんが)依存関係によって存在するということです。でもわたしが言わば客観的にその辺にいる人のことを思ってみたとして人の感覚器官がなくなれば感覚はなく感覚がなければ意識はなく意識はなければ自己はなく・・・だと思います。

ま、世界は残る?いいえそれは、わたしに取ってあるのです。その辺の人に取っては世界もなくなるのではないでしょうか。ではこの問題、ものはそれ自体で存在するでしょうか依存関係によって存在するでしょうか。つまり世界、感覚器官、感覚、意識、自己は、ものそのものとして存在するでしょうか。

あるいは本当に依存関係によってのみ存在するのでしょうか。例えば感覚は、それ自身は意識がなくても有りえるでしょうか。(あるとはいえません。ないともいえません。ないのでもなくあるのでもないともいえません・・・龍樹)。これは依存関係の構成要素すべてに於いておなじです。取り敢えずはこれを認めてみましょう。

しかし世界は感覚器官ではありません。感覚器官は感覚ではありません。感覚は意識ではありません。意識は自己ではありません。これは各々が各々に対して異なっているということです。ことなっていると言っても各々はそのものとして存在するとはいえませんけど。とはいえこれらを本当には区別することなどできません。

では、依存関係でない関係をみてみます。たとえば甘さの感覚は苦さの感覚の原因にはなりません。このことです。あるいは鋏で切ったから布が切れた。このことです。わたしは、あなたではない。このことです。それぞれは勿論依存関係からのがれることはありませんが。おなじ構成要素のなかでは違いがあるということです。

林檎は自転車ではありません。ではものが独自のものとしてあるためには対立したり区別したりされることが必要だということでしょうか。そうかも知れません。鋏で布を切ったら、電話がかかって来た。このようなことを偶然といいますが。この世界は偶然出来たと言われる時、そのようなことを考えているのでしょう。

これは例えば人が存在しないでも世界が存在するといったことです。そういうことはあるでしょうか。もし人が全部死んでしまったとして世界は存在するでしょうか。するのではないかと思えます。では全く人のいない世界というのもあるでしょうか。これはわかりません。

では人の生まれるまえ、世界はあったでしょうか。あったのではないでしょうか。ではわたしの生まれる前、世界はあったでしょうか。あったでしょう。ではわたしが死んでも世界はあるでしょうか。あるでしょう。では世界は依存関係とは関わりなくあるのではないでしょうか。では世界はなんに依ってあるのでしょう。それ自身によってあるのでしょうか。

わたしとしてはそれには原因があると思います。神です。でもさて、世界が人がいなくてもあるとするなら、逆も正しいかもしれません。(1)つまり依存関係から離れて自己は存在するということでしょうか。しかし実際には人こそ依存関係に依ってあるはずです。いまは鎌倉時代です。男がいます。そして考えました。「わしが死んでも世界はあるのではないか?わしが生まれる前にもこの世界はあったに違いないように」。そうですありました。わたしは時間についてはあまり考えたくありませんがしかたない。


昭和63年4月19日


宵のうちに降り始めた雨が夜には激しくなり朝にはあがった。そこここで雀たちが雲行きを見ながら戸惑いがちに囁きはじめた。わたしはずっと眠れぬ夢のなかで時間について考えていた。とある経験があり、またほかの経験がある。それらの間にも、わたしとそれらとの間にも依存関係はない。

わたしと見知らぬ誰かはなんの依存関係もない。しかしわたしの祖先の誰かが次の祖先を見なかったらわたしはない。わたしがあるというのは、ずっとずっと最初の人間までこの世界での命が繋がっているからだ。これは依存関係ではない。ならば命は依存関係ではないのだろうか。時間のなかでは依存関係は成立しない。

このことはたとえば苦さは辛さに依存しないが関係はあるといったようなものだろうか。しかしそれだと時間も依存関係の一要素ということになるだろうか。これは良く見なければならない。わたしは御飯を食べる、わたしは音楽を聞く、わたしは聖書を読む。ここには依存関係なんてないじゃないか。それなら依存関係とはなんだろう。

もし依存関係があるなら、それをわたしに見せてくれ。もし依存関係がないのなら世界は一体なんなんだ。ここに一杯のウーロン茶がある。それは依存関係によって生じたのではない。では、ものは依存関係のうちにあるけれども、それぞれのものは、依存関係によって生じたのではないのだろうか。

人は両親を原因として生まれる。けれどこれは依存関係とはいわない。原因はあるし子は親に依存するといっても、親は子に依存するとはいえない。この世界にはおよそ56億7千万杯のウーロン茶がある。そのうちわたしが飲むのは何杯であろう。つまり、わたしが飲まないサーロン茶もこの世界にはある。わたしの知らない街があり、わたしの知らない言葉があり、わたしの知らない意識があるだろう。

だれかの知らない街にわたしは住み、だれかの知らないものを食べ、だれかの知らないままわたしは死ぬだろう。その世界があるゆえにわたしは生まれる。わたしが生まれるゆえにわたしは死ぬ。では逆にいってみよう。

死ありて生あり、生ありて世界あり?わたしが生まれなくても世界はあるのではないか。しかしそういう意味ならわたしが生まれなくても死はあるだろう。わたしが生まれなくても誰かは生まれ誰かは死ぬだろう。誰かが生まれなくてもわたしは生まれわたしは死ぬだろう。わたしが生まれないでもすべてはあるだろう。

では世界は何によってあるのだろう。ここで何を考えようとしているのかはっきりさせておこう。(1)依存関係によって総べてはあるのか?ということである。すべてはほんとうに依存関係によって生じているのかということである。わたしの思う依存関係が正しくないかも知らん。けどそうなら矯正しつつできるだろう。

わたしの知らない感覚がある(自由落下とか)、わたしの知らない感情がある(あざけりとか)わたしの知らない意識がある(とある哲学の命題とか)がある。それなのにわたしは、わたしであると言う。これは変と言えば変。

しかしこれは倒錯であるとも言える。この世界とか時間とか考えることは倒錯であるともいえる。それらは自己であるはずがない。(2)では自己とはなにか?ということもある。そのために、依存関係の構成要素は多分おなじような有り方をしているだろうから、世界とはなにかを調べるのは意味があるであろう。

自己は依存関係によって生じているのかどうかも今のところは分からないのだから。しかし依存関係の師である仏陀が「わたしの過去生はあるのだろうか、わたしの未来生はあるのだろうか、また現在においても自己とはなにか、自己はあるのであろうかないのであろうか、何処からきて何処に行くのだろうかと思うことがあるかも知れない。しかし仏陀の弟子はそのことわりを知らない、ただ依存関係を知るのみである」こんなことを言っています。

それに仏陀のいう依存関係には「自己」なんてでていません。さらに弟子サーリープッタも「生は自作ではない。また、生は他作でもない。あるいは、生は自作にして他作なのでもない。あるいはまた、生は自作にもあらず、他作にもあらず、因なくして生ずるものでもない、ただ、有あるによって生があるのである」と言っています。

ですから(1)(2)とも多分依存関係からは答えられないでしょう。けれどわたしは問います。仏陀はまた「わたしがこの世界に生まれようと生まれまいと、依存関係は法として定まっている」こんなことを言っています。ということはわたしが生まれなくても世界はあるということではないでしょうか。しかしその世界は依存関係によっていると、そういうことです。

けれどわたしは問います。仏陀のいう通りを記憶しても理解したことにはならないし、それが本当であるかを確かめなくて理解するということもないでしょうから。「なぜ人は生きているのか」この問いに医者は「身体が健康であることによって」と答えるかも知れません。「なぜ世界はあるのか」この問いに科学者は「物理法則によって」と答えるかもしれません。これは明らかに依存関係ではありません。それに答えになっていないかも知れません。

おなじように「世界はそれだけで存在する」というのは何の答えにもならず誤っているかも知れません。しかし誤りなら誤りと理解できなくてはなりません。で、もしかしたら世界はわたしが生まれてこなくても存在するのではないかということでした。ということはわたしとの依存関係によらずして存在するのではないかということです。これは解決されます。

だれかまだ生まれていない人がいても世界はわたしとの関係にありますから。しかし世界によって生まれることは納得できても、生まれることによって世界があるとは納得できないのです。この意味でわたしがいなくても世界があるというのは、世界は依存関係でなく存在するかも知れないと思われるのです。

また人が全然いないでも世界は存在するかも知れません。そんなものはあるかどうかもわかりませんけど。ここにローソクがあります。風が吹いたので消えました。これは原因はありますが、依存関係とは言わないのではないでしょうか。両親がいて子が生まれます。これは原因はありますが依存関係とは言わないのではないでしょうか。

なぜならローソクの火が風の原因にはならず、子は親の原因にはならないからです。とはいえ物であるかぎりは因果関係にはあるでしょう。ですから物質は因果関係によって生じているということは間違いとはいえません。けれど、ものは依存関係によらずとも存在するのではないかという問いには、答えていません。

でも正しい関係(順)でそれを知らなければ依存関係は誤りですから、世界は何によってあるのかよく見なくてはなりません。操り返します。わたしの知らない街があり人がいます。これはわたしがいなくても、それらはあるということです。もしそこに人がいなくてもそれらはあるでしょう。

しかし、そう、わたしの知らない感情もあり、意識もあります。それでもそれらは依存関係によってあります。ですからわたしが知らないでも生まれないでも世界があるとして、それが依存関係によって無いとはいえません。というのも感覚と意識の関係も、世界と生まれるとの関係と同じようですから。感覚はなくても意識はあるのかも知れません。意識はなくても命はあるのかもしれません。それらはふたたばの葦のように相依ってあるといわれます。

しかしひとたばの葦はあるのではないでしょうか。というのはこの世界において人は親から生まれ(つまり世界から生まれるとはいえず)ウーロン茶は感覚器官から生じたとはいえないからです。そうもちろん、感覚から意識は生じたとはいえません。感情にしてもそれがほかのものから生じたとはいえません。それはたしかに片方がなければもう片方があるとはいえません。けれどひとたばの葦はあるのではないでしょうか。

昭和63年4月20日


良いことも悪いことも、美しいことも醜いことも人のためにあります。人がそのためにあるのではありません。それにとらわれて倒錯が有る場合に相対論があるのではないでしょうか。

さて、もうすぐつつじの季節です。それから菖蒲が咲きます。つつじから感覚器官が生じたとはいえません。おなじように感覚器官が感覚になるという意味で生じたとはいえません。おなじように感覚が意識になるとはいえません。おなじように命が死になるとはいえません。したがってそれらは、ひとつの葦束のように、それら自身として存在するのではないでしょうか。

それがあることによる条件によって、次のものはあるでしょうけれど。しかし両親によって子は生じるのではないかと思われるでしょう。そのように思われる時には人から人への命の連続生とそうでないものがあると思われるでしょう。

では感覚に変化する感覚器官といったものがあるのでしょうか。意識に変化する感覚といったものがあるのでしょうか。死に変化する命、命に変化する死といったものがあるのでしょうか。こう考えるよりはつつじはつつじを生み、感覚器官は感覚器官を生み、感覚は感覚を生み、意識は意識を生み、命は命を生み、死は死を生むと考えたほうがいいのではないでしょうか。

しかしそうだとするとつつじがあって菖蒲があるといったこと、目があって耳があるといったようなこと、苦いがあって甘いがあるようなことは理由がわからないことです。また時間的変化もわけがわからないことです。

ま、このことはひとつの葦束のように、これら自身が存在しないとしてもわけがわかりませんけど。ではつつじが菖蒲に変化する、目が耳に変化する、甘いが苦いに変化する、そんなことがあるでしょうか。ないとは言い切れないと思います。

もしそうだとするなら時間は横流れでしょうか。というのもふつうは時間は過去から未来へと言わば縦流れと思われていますのに。昨日が終わり今日がきた、過去から未来になった、こう思うのが普通ですが、それは単に対象の変化であるかも知れない、つまり目が耳に変化するというか、甘いが辛いに変化するといったことかも知れないのです。

ごく特殊な場合、例えばウランが鉛に変化するというような場合、そういうことが起こるのかも知れません。ふつうはウランはつつじにはならず、目は耳にはならず、甘いは辛いにならないでしょうから。すると総べてがバラバラに、一本の葦として存在するのでしょうか。対象物があって感覚器官があって感覚がある、こんなことはそれらがある理由ではありません。

目があるのは耳がある理由にはなりません。甘いがあるのは辛いがある理由にはなりません。理由はないけどそうなっているのです。ところで、総べてが変化せず、単独であるとしても、それらが存在するとは言えないということもあります。

また、存在するといっても対象物がなければ感覚器官がなく感覚器官がなければ感覚がないというのも確かです。そして依存関係は人のためにあり、依存関係のために人があるのではないのです。


昭和63年4月21日


さて、例えば甘いという感覚はそれ自身で存在するのではないでしょうか。それは変化しませんから。それは他のもの例えば辛いが変化してできるものでもなく、舌が変化してできるものでも意識が変化してできるものでもないのですから。

では「憎しみが愛に変わった」とかいわれるのはどういうことでしょう。あるいは「体調によってコーヒーの味が変わる」というのはどういうことでしょう。おなじ対象に違う反応があるわけです。これについては、おなじ対象も人によって違う反応があるということもあるでしょう。これは後回しにします。

ところで、たとえば一本の葦があるとしてもそれには原因がなくあるわけではないと思います。ここに葦があります。それは原因がなくあるわけではありません。突然いきなり何もないのにそれが存在するというようにはなっていません。

では無生物はどうでしょう。海や山も原因がなくあるというわけではありません。では世界はどうでしょう。この世界全部にはなにか原因というものがあるでしょうか。

例えば甘いという感覚は、その存在の原因はなにかあるでしょうか。葦の原因とは種とか空気、水、熱、栄養とかと思われます。けれどそれは原因とは言えないかもしれません。それらは葦とは別のものです。海とか山とかも水とか土とかとは別のものかも知れません。

例えば水をコンロであたためて湯にした時には、なにも変化がないように、個別的なものは存在するということでしょうか。ところで時間の変化は水を湯にするということで計るとします。それは対象物の領域です。また感覚領域の変化、意識領域の変化があるでしょう。

もし時間の変化があるのだとするとそれが同時に起こらねば時間の同時性はないでしょう。(横方向の時間)。なにかを考えているだけで時間の経過があるのはわかりますから。ところで対象物は沢山あります。また感覚も幾つかあります。意識もそうです。

しかし命は人に一つ、自己はあるかどうかわかりません。後者2つのように変化がわからないものには時間の経過がわからないのではないでしょうか。自分というものに時間の経過があるとは思われないところがあります。

また対象物があって感覚があって意識があるといった(縦方向の時間)についてはよくわかりません。それは瞬間かもしれず光速度かもしれませんが。それはより空間に関係するかも知れません。ふつうは林檎と蜜柑のあいだに空間があるというように対象物に空間はあると考えられていますが。ま、とにかく、ものが個別のものとして存在するということは困ったことです。

とはいえ次のように考えられもします。自己というのはこのようなどのようなものでもありませんでした。すると自己はものとして個別的には存在しないとも思われます。それなのに自己はあると思われていますから自己はなにか存在というものとは違うと。けれど自己が存在するとは思われないかもしれません。意識を自己と思っているだけかもしれないからです。しかし意識は自己ではないでしょう。それらは倒錯しえますから。すると自己はものとしては存在しないのに有るということです。

超古代の日記「03」






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