超古代の日記



昭和63年4月23日


ところでものがあるのはその理由がありません。なぜ世界があるのか、まったく理由がありません。ですから世界は偶然にできたと思われるでしょう。そして神がいないと思われるでしょう。でもわたしは、そのおなじ理由で神を信じたいと思います。神を信じたくない人は単に神を信じたくないのでしょう。

ところでものが変化せず個別的なものであっても原因はあります。たとえば甘さは、辛さにも変化せず、苦さに依ってできるものでもなく、舌や意識にも変化するものではありませんが、舌や意識に依ってそれがあると分かります。あると分かるということは何もそれ自身で、存在するとかしないとかはわからないということです。

それがそこにあると感じられると言ってもそれ自身であるとは言えないし、それがそこに感じられないと言っても無いとはいえないのです。

さて、物は本当に変化がないでしょうか。やはり夢を見ながら考えました。ひと塊の粘土があって半分で焼き物をつくり半分はそのままにしておきます。それだけを見たところ、それらはそれら自身であります。それらは別べつのものであり、それ自身以外のものではありません。

また北海道の土と沖縄の土を混ぜて焼き物を作ったとします。それ自身はひとつのものですが、それはもとはふたつのものでした。すると物は変化するのではないでしょうか。また焼き物が壊れます。これは変化といっていいのではないでしょうか。

また耳が聞こえなかったり味がわからなかったり意識がなかったり死んだりします。これは変化といっていいのではないでしょうか。このようなものには原因があると言われます。原因があるといわれるものはそれ自身で存在するものでないと言われます。この場合の原因があるとは、気温があがって細菌が増えた、細菌によって病気になった、病気になって感覚がなくなったとか、そういうことです。

これはどういう仕組みになっているのでしょう。いや原因がないものを考えることのほうが難しいのです。「雨が降って天気が悪い」とか「夜がきて朝になった、弟2日である」とか。ここに赤いペンキが一缶あります。それに何か原因があるでしょうか。それを誰かが持ってきたのでしょうし、誰かが作ったのでしょうが。原因は目にみえません。

うーむ、この赤いペンキー缶の原因は何だろう、なにが何だかわからないほどです。その缶の中のペンキの一つの分子がなぜそこにあるのかといえば、ほかのところにはないからです。この一缶のペンキも、ほかのところにはないからです。この世界のなかでそれ自身以外のものからそれであるということは与えられているようです。これは原因の説明でしょうか。例えば池の水が暖まったのは太陽があがったからだ、という時はそうかも知れません。


昭和63年4月26日


許すことについて。イエスのように罪なき人が、人の罪を許すことができます。しかしわたしのような普通の人はなかなかそうはいきません。それでも努めていますが、いろいろ考えて、人の罪はわたしには関係ないことだから、許そうなどと思いますが、それでは許したことにならないのです。

また自分に罪があるのに人を責めるよりはいいだろうと思っていたりしますが、そうでもありません。自分はそれをしないからと言って、人の罪を告発するといったようなこともしてはいけないということが見逃されていてはいけません。許すということはまったく許してしまうことです。

言ってしまえば人の罪を許すことによって自分の罪を許すくらい許すのです。しかし自分の罪が許されるために人の罪を許すのではありません。なぜなら、人の罪を許す、だからといって自分が罪を侵してもいいとはいえないからです。たとえば誰にも害のない嘘をつきまして、だれにも害がないのだからいいだろうということがあります。けどわたしにとってはそれは良くありません。

でも人のそのようなものは許してしまえます。もし人が人には関係ないと思うだけで実際には人に迷惑かけていることも許そうと思います。自分が罪を侵していること、それを気がつかないことがおおいいのです。また人の罪も自分の罪と同質なのにも気付かないことがおおいいのです。

イエスには人の罪を許す権威があります。それで右の頬をうたれても左の頬をだせと言われたのです。自分をうつ人の罪を許すためです。そうして自分の罪が許されるからです。目の塵とは罪のことです。自分の罪にはなかなか気が付かないのです。ですからまず自分の罪を認めることから始まります。たとえばわたしが人のためになる嘘をいったとします。それも罪です。(どんなものより真実が勝っているのではないでしょうか)。


昭和63年5月2日


あなたはこの世界の総べてを知っているわけではない、あなたはあなたの感覚の総べてを知っているわけではない、あなたはあなたの総べての感情を知っているわけではない、あなたはあなたの総べての意識を知っているわけではない。あなたはあなたの総べての執着を知っているわけではない。

それなのに何故あなたは言うのか「自分はこうする」と?ああ、この世界の何かが自己であろうか、否。感覚が自己であろうか、否。感情が自己であろうか、否。意識が自己であろうか、否。執着が自己であろうか、否。これで総べてと数えても、それは自己ではない。

それらは変化しないためにそれ自身である。そして自己とはどのようなものでもない。これを無と呼ぽうか?わたしがいくら嫌がってもそれは無。しかし自己はこの総べてではないか?そう考えるとき世界は幻のように現れる。世界は陽炎のように立ち現れる。

それはそれ自身で存在するゆえに幻である。ものはそれ自身であるために生成変化する。ものとは自己以外の総べてを言う。そしてものは他のものに変化せずそれ自身であるために生成変化する。聞くがいい、ものは存在であるゆえに幻であると。


昭和63年5月4日


許すことについて再び。ほかの人の悪い行いによって自己を正しいとしてはなりません。「あいつは法律を破った、あいつは行列に割り込んだ、それにくらべて俺はそんなことはしたこともない、俺は正しい。そうだ、俺とあいつは無関係だ」。これは人を許すことではなく裁くことなのです。

なぜか心理的にはそれが人を許すことと思われてしまいますが、それは裁くことです。ほかの人の悪い行いによって自己を正しいとしているからです。自己を正しいとすることは、どんなことがあっても許すということではありません。

もし右の頬を打たれて、自分が正しいと思うなら、打ち返すでしょう。逃げるでしょう。無抵抗でしょう。イエスは言います、左の頬も差し出せと。

「あいつは人に迷惑にならないと思って盗みをした」。けれどおなじように人に迷惑にならないと思って嘘をついたことはないでしょうか。イエスは言います。「まず自分の目のなかの梁をとりなさい。そうすれば兄弟の目の塵をとることができるだろう」。人は罪の子です。その罪は、ほかの人を許すためにあるのではないでしょうか。許すということは自分を正しいとしないことから始まります。許すということが神の前に許されるということでありますように。

では、生死について。ものとは自己以外の総べてです。これがものの定義です。ものはそれ自身で存在します。それは他のものに変化しないからです。すべてのものはそのようにあります。しかし自己はそのようではありません。もののすべては存在し、それゆえにそれは幻です。それは生成変化しませんが生成変化するからです。

そして自己はかつても今も、ものが存在するようには生まれてはいません。ですから死にません。なぜなら自己はもののようには存在してないからです。これは不生不死と言います。本当でしょうか?

これについての説明をテレビで聞いたことがあります。「わたし達は親から生まれ、また親はその親から生まれました、つまり死んだことのない命です」。坊主得意の嘘です。また本で読みました。「わたしが生まれる前わたしはいなかった、わたしが死んだら、わたしはいない。わたしが生きている時間というのは束の間である。後にも前にもいないのに今いるわけはないではないか」なかなか面白いのですが命は消えるものであることの証明にもなっています。

これらは不生不死を前提にしてなんとか説明しようとしています。これは誤りです。(それに前者は依存関係を見誤り、後者は時間の見方が誤っています)。わたしは不生不死は説明できないと思います。なぜなら結論がそれだからです。それは言わば依存関係の一つの解です。(ものはそれ自身で存在するというのも依存関係の一つの解です)。

というよりそれを知らない人がそれを正しいとして説明したということです。いまだかつて自己は生まれていないのです。ですから生まれていないものは死なないでしょう。その理由は次の通りです。人は生まれて死にます、だから人は生まれてなく死なないのです。

なぜならものは実在であるゆえに幻であるからです。わたしはこのことについて考えたくなかったのです。それは余りに理論的であって、実際的にそうであるかどうか自信がないためです。

時間について。もし時間がふつうに考えられているように線的に前から後に流れているのだとしたら、どうして人は座ったまま音楽が聞けよう。どうして時計が時を刻めよう。あそことここにあるものが同時に流れているとしたらどうしてそこに変化があろうか。時間は依存関係に対して直角に流れています。


昭和63年5月25日


子供が使う教科書に書いてあります。光が目に差し込んで網膜に像を結んで世界が見えます。けれど光が視覚に変化するわけではありません。ならば、なぜ、それがある時にのみそれが見えるのでしょうか。それになぜ見えるのでしょうか。後者に関してはこういう疑問です。世界は不変で不増不減であるのになぜ見えるということがあるのでしょうか。また前者に関しては、人は考えたり想像したりする時、それを見ているとも言えます。

世界が有るからわたしが見るのでありましょうが、わたしが見るから世界があるともいえるのかもしれません。もし人が世界に一人しかなく、また死ぬことなければ、このことの区別はわからないでしょう。

さて話を変えます。わたしの愛するイエス・キリストが「いちじくを求める子に蛇を与える親がいるだろうか」ということを言っています。人は人生でやはりいろんなことをしたり、したいと願ったりします。多くの場合は倒錯がありますので感覚やら感情やら自己保存に自己が奉仕する羽目になっています。

そうであるのに人は人生で愛を得られなかった、真実を得られなかった、自分自身を得られなかった、そう思うでしょう。ま、そう思うことさえなければ人は幸福にも、倒錯があるのにも気がつかず、したがって愚かな人生を送れるでしょう。これは普通の人です。

ところがやはり人は時として、あるいは不断に、自分の心の叫びを聞かないでいるわけにはいきません。その時、わたしはこれだけのことをしてきた、なのに愛を得られなかった、真実を得られなかった、自己自身を得られなかった、こう思うことがあるかも知れません。無駄です。

それは求めてないからです。蛇を求めていてどうして、いちじくが得られるでしょう。その人の人生がどんなに苦難に満ちたものであれ、努力に満ちたものであれ、求めないでいたものは与えられるはずがありません。人が林檎を欲しい時には果物屋に言って林檎を買ってくるのです。葡萄を買ってきて、さぁ、林檎を食べようという人はいません。

しかしこのような間違いはいくらでも起こります。この前ある人と飲んだのですが、彼は「俺はまだ若い、世界のいろんな国を見たい」こんなことを言いました。それはそれだけのことです。けれど間違ってはいけません。それは世界のいろんな国を見たいということだけです。つまり自分を知りたいということではありません。

わたしにはなぜかわかりませんが、人が例えば経験に奉仕すると、例えば世界が見たいということが、旅行をするということが、自分を知りたいということと思われ違いし易いのです。結婚をして子を育てることが、なぜか愛することだと思われ違いし易いようです。林檎の木を育てて、いちじくはならないのです。

それがどんな困難なことを遣り遂げたことであっても苦難を要したことであっても、求めなかったものは得られません。また、人は世界を見てまわらなければ自己を知ることはないでしょうか。人は子を育てなければ愛を知ることはないでしょうか。人はそのようにはできていません。

あったりまえのことですが、世界を見尽くした人が自己を知るわけでも、百万人の子を育てた人が愛を知るわけでもありません。そうでなければ人はそれを知ることがないようには作られてはいません。それを求める者がそれを得るのです。


昭和63年5月30日


執着とは欲であり、欲とは倒錯ではないだろうか。例えば出世欲というのがあるとします。それはその人が倒錯したいという欲にほかなりません。欲というのはそのようなことを言います。

権力欲、自己顕示欲、自己保存欲、物欲。なぜだか分かりませんが、人はそのような、対象物とか自己の構成要素(感情とか感覚とか意識とか)に倒錯したいという欲があります。(聖書によれば「目と肉の欲」があり仏陀によれば「五感と口と意の欲」があります)。

これは人の自然なありかたではなく、強調として人に現れます。もちろん人は生きていなければ倒錯することはできません。ですからそうしているのかも知れません。彼等は彼等なりに一生懸命、この生きているということのなかでしか出来ないことをし ているのかも知れません。

生きていなければ世界征服をしようとも思うことはできなく、課長や部長になりたいと思うこともなく、お金持ちになりたいと思うこともなく、恋人を欲しいと思うこともなく、嘘をつくということもないでしょう。

しかしそこには酷い愚かさがあります。盗みもあざけりも貧乏も、生きていなくてはできませんが、〔ここには正しいこと、正直なことも生きていなくてはできないということで、それらと同一視するという愚かさがあるのです〕このことは重要です。もし人がこれを知らないなら、それはどんなことをしても、正しいということを知りません。

人がこの世界に対してどんなに素晴らしいことをなし遂げても、また失敗しても、それはこの世界に対してそういうことを行ったということでしかありません。それでいいでしょうか?

ある人が死んで神の前に立ちました。「わたしは苦難の人生を歩みました、むくわれない努力の人生でした」。こう言っても神は言うかも知れません。「おまえは天の国を求めなかった、だからそれは与えられない」。

もし彼が清く貧しく美しく生きたとしても、この点ではなんの意味もありません。ただ彼は清く貧しく美しく生きることを望んだだけです。しかし一般に正直であることの価値を見逃してはいけません。だれも天の国のために欺きを行う者はいないでしょう。逆説的に見えるかもしれませんが、正直さはそれだけで天の国を求めることになりえるでしょう。

それはこの世においては困難なことがおおいいのも理由があるのです。正しいことの悪に対する優位性はここにあります。それはけっして同じレベルにあるただの対概念ではありません。このことを聖書では簡潔に言っています。「世のものから離れていなさい」。この世界のなかにさえ正直さがあるということ正しさがあるということ、それは天の国と主催者である神の存在の証明ではないでしょうか。


昭和63年6月3日


理由と宗教について。あなたは悲しんでいるかも知れない、怒っているかも知れない、楽しんでいるかも知れない。けれどそういうあなたが、あなたであるとは限らないのではないだろうか。なぜなら、そのようでない時でもあなたは、あなたではないだろうか。

あなたが全く味わったこともない感情もあるだろう。無いものによってもあなたはあなたであるのに、どうしてあるものによって、あなたはあなたであるだろうか。感覚も意識もそうであるだろう。経験も心もそうであるだろう。

あなたは何かを考えている、だけど、それを考えていなくても、あなたではないだろうか。あなたの知らない考えもあるだろう。それなのになぜ、あなたはあなたの考えをあなたの考えというのだろう。

人が自分自身であることが感情にも思考にも行いにも依存していないとしたら、自分であることはどんなに基本的なことであるだろう。人が自己であるのは何かを知っているからというわけではないだろう。(人が悟っているからといって、その人ではない、悟っていなくてさえ、その人なのです)。

人が自分であるのは何かに依存しないでそうなのではないだろうか。それなのに人はよく何かにしっかりと根拠を持てば持つほど自己が強まると思うのはなぜだろうか。

この前、世間話で「コンピュータに感情がわかってたまるか」。こんな意見を聞きました。しかし感情にコンピュータがわかるのだろうか。お互いに意見の違いがあり対立したところで、その立場を取り替えても、別に構わないのではないだろうか。

それなら立場の違いに依って対立するのは何か意味のあることだろうか。お互いが自分のものでさえないものの上にたって争ってもなんの得があるのだろう。そこではいろんな理由やら根拠やら意見やら理論やらがあるのでしょう。けれどではなぜそれらが成立するのだろうか。

それがそこにあるといって、なぜそれがそこにあると思わねばならないだろうか。ある人は貧乏な少年時代をおくりました。それで決心して「よーし、お金持ちになる」と努力しました。ある人は貧乏な少年時代をおくりました。それで決心して「そうだ、清く正しく生きる」と努力しました。

ある人は裕福な少年時代をすごしました。「もっとお金持ちになる」こう決心しました。ある人は裕福な少年時代を過ごしました。「清く正しく生きる」こう決心しました。ある人は普通の暮らしの少年時代を過ごしました。ある人は普通の暮らしの少女時代を過ごしました。

おなじ原因で違う理由が現れました。違う原因で同じ理由が現れました。また、これといった原因がなくても同じ、あるいは違う理由が現れます。人はそのしたいように理由をつくるのではないだろうか。その行いの思いの感覚の感情の奉仕者になるために。

人はその望む所のものを行います。例えば、ある人が相手をあざけったとします。それは相手が馬鹿であるとかいうことでなく、人がそうしたい人であるというだけのことです。人にあざけるという気持ちもない時どうしてそれができるでしょう。そうしてそういう気持ちなく人は生きることができるのです。

「人がよくそうするから」ということを理由にするなら、見なさい、まったくそうしない人の前ではその人はどうするのでしょう。イエス・キリストはこの点でも人の模範です。「蟹はその甲羅に似せて穴を掘る」といわれています。これはなにもその人の力量にあわせて何かを、そうするということだけではないのです。

べつに人は穴は掘らないてもいいのです。そこに手軽に感情があるからといってそれを拠り所にする必要はなく、感覚があるからといって拠り所にする必要はなく、行いがあるからといって拠り所にする必要はなく、そこに世界があるからといって拠り所にする必要もないのではないでしょうか。

あなたは宗教は好きだろうか嫌いだろうか、それになにか理由があるだろうか、ないだろうか。またそれらについて総べてを見たであろうか。違う理由を思いついたら、また意見も違うのではないだろうか。また、それはそのようなことに左右されるものだろうか。

あなたは死んでお経をあげて欲しいだろうか、アーメンと言って欲しいだろうか。それとも太平洋に骨をばらまけと遺言したりして、死んでからも生きている人の手間を取らせたいだろうか。人がもし拠り所をもつことがあれば、それは常に誤るのではないだろうか。それは倒錯とならざるを得ないでありましょう。

聖書の神は人が太陽を拝む事さえ、自身の像を作ることさえ快しとされませんでした。聖書の神は人が何か物を拝み、そのことを拠り所にし理由にする意味での信仰を嫌っているのです。なんという神でしょう。なんと人を大切にする神だとは思われないでしょうか。

あなたよりあなたを大切にしていると思われないでしょうか。人は自分の着るものを食べるものを心配します。けれど神はそれ以上のことを心配しているのです。ですから人はけっして着ることや食べることを心配してはいけません。「その日の労苦はその日で充分である」。

「野の花を見よ、空の鳥を見よ、蒔かず紡がず働かず、栄華を極めたソロモンでさえ百合の花ほど美しくはなかった。ましてやあなたがたは、それよりずっと優れた者ではないか、どうして天の父が良くしてくだされないことがあろうか」。このような聖書の神にどうして人は理由や意見を言うことができるでしょう。

「偶像を礼拝してはならない」。それはそのようなものを拠り所にしてはならないということではないでしょうか。そのようなものとは物であり、感情であり、意識であり、感覚であり、行いのことではないでしょうか。あなたは何かをするとき理由をもってしていますか?理由が無い時、あなたはあなたではないだろうか。理由が無い時、正しくあるのではないだろうか。


昭和63年6月6日


悪魔について。もし人が自分の感情などに倒錯しているとするなら、この世界は苦痛でありましょう。この世界にその可能性があるだけで、それは苦痛でありましょう。悪魔が存在しないとしてもそうであるでしょう。

また、悪魔が存在するとしても人に倒錯なければ世はさはど苦痛ではないでしょう。もし天の国にあってさえ人が倒錯しているとするなら、何になるでしょう。もしこの世界にあってさえ人が倒錯なくあるなら、どんなに良いことでしょう、倒錯して天の国にいるより良いかもしれません。

わたしは知りませんが、倒錯なくこの世界にあるより、倒錯して天の国にあるのを望む人もいるでしょう。でも、この世界で倒錯して天の国で倒錯しているなら、それは何のための天の国でしょう。それが楽園であっても人にとって何になるでしょう。楽園での倒錯は地上での倒錯と違い苦痛でなく幸福をもたらすでしょうか?

もちろん、この世界にあっても天の国にあっても倒錯していないのがいいのではないでしょうか。こう見るなら、この世界に悪があるのは、悪魔によるのではなく、この世界のそのももの有り方、人の有り方によるのかも知れません。わたしはこの世に悪のある原因を悪魔に置くのは嫌いです。

それはただの責任転化でしかないでしょう。この世界の暮らし辛さは、総べてが悪魔によるのではないのではないでしょうか。そうするならば、人はこの世界でなすべき事があるということでもあります。この世の苦痛とか悪とか執着とかは、人が解決すべき課題としてみなせると思います。

それが総べてとはいいませんが、倒錯とは欲であり、欲は悪の原因になりやすく、それは苦痛であることは否定できないからです。もし悪魔が人を悪に誘惑しても人に原因がなければ誘惑されえないでしょうからです。悪魔が存在するとしても、人の悪の原因は人にあるでしょう。

(倒錯は悪であるとは限らないかも知れませんが、この世界は倒錯できるようにも作られてあります。ところで、なぜこの世に悪があるかといえば、それさえ人のために、あるのです)。

では、悪魔は存在するのでしょうか。ただ、倒錯した人あるいは霊をさすのかも知れません。イエスがどこかで弟子をそう呼んだ時の意味はそうであったでしょう。しかし聖書には、あからさまに悪魔がでてきます。

ヨプ記であろうと思いますが、悪魔は神に会い、「ヨプは裕福だから神を信仰するのだ」というようなことを言っています。(悪魔は神を見たのに神を信じていないのです)。悪魔は神と神の使いの衆人監視のなかで、ヨプは裕福さに対して倒錯し誤解して神を信仰しているのだと言い放っているのです。

その倒錯によって神を信じているのならヨプはもちろん誤っています。(もちろん苦難によって信じるのも倒錯から生じた誤りです)。悪魔はここでは不思議なことに倒錯の告発者です。(悪魔は神を自分の所まで引き降ろそうとしているのかも知れませんが)倒錯着である悪魔がヨプと神に貴方達も倒錯しているのだと告発しているのです。(もし神が倒錯してしまったら、それはなんと呼べばいいでしょう)。

ここで更に不思議なことに神は悪魔にヨプを試みる権限をあたえます。(神は悪魔に対してさえ無限に寛容です)。不思議といったのは苦難によって信仰をヨプが捨てても捨てないでも、なんの証明にもならない感じがするからです。(裕福さによってヨプが信じても、なんにも証明にはならないのです)。

ま、とにかくヨプは悪魔の試みにあい、苦難を拠り所として神を信じて一時は、倒錯してしまいます。けれど若い友人の「みずからを義としてはならない」という訴えにより正しく神に戻ったとのことです。(ここで正しく神に帰るとは、裕福にも苦難にも拠り所を置かないで信じるということでありましょう)。

さて、しかしこの時悪魔は自分の告発が解決されたと思ったでしょうか。裕福さを拠り所にしても苦難を拠り所にしても自己を拠り所にしても、その信仰は正しくない、このことは明らかにされました。

しかし、神は義なる者ですか、と疑っている悪魔の疑問。これに答えがでたのかどうか?また、ヨプが正しい信仰を得てもこの論争に決着がついたとは言えないとも考えられるでしょう。これが悪魔の悪魔であるところかも知れません。(悪魔は神を見ても神を信じられませんでした)。

この悪魔とは誰でしょう。わたしはここで人のなかに悪魔を見ているわけではありません。けれど人には悪魔的なところはやはりあります。もし、ヨプが苦難によって神を信じなくなったとしたら、それも倒錯でありましょう。(悪魔は神を信じなくさせるより悪魔を信じさせたいのかも知れません)。

もしそうだったなら悪魔はヨプは倒錯しているだけで、信仰はないのだと喝采するでしょう。(もしそうだとするなら却って悪魔はたんに倒錯しているだけということが悪魔自身にも知れるでしょう、ここでヨブがしかたかな男であって「わたしは神を捨てる、しかし悪魔よ、おまえもわたしとおなじだけの者だ」こう言ったら面白い展開になったかもしれませんが)。

これは大切です、もし裕福さや苦難によって信仰を捨ててしまったら、一体どうしてそれを取り戻せるでしょう。これは大切です、もともとそれらにはかかわらない信仰を、それらを理由にして捨てるという不可能を可能にしたとしたら、人はどうすればいいのでしょうか。

まだ信仰のない人は一般にこの様なのではないでしょうか。(神を見なくては信じないというのは、神を見てなお信じないとい うのより、まだ執行猶予があるでしょう。けれどそれに頼ることは感心できません。「見ないで信じる者は幸いである」イエス・キリストが言っています、見て信じない可能性のある者は幸いでありません)。

これは人の悪魔的なところです。聖書では、悪魔はヨプを倒錯していると告発しましたが、告発したことで信仰をなくさせることはできませんでした。

こう見るなら、(わたしは全く信じて言っていませんが)たとえ倒錯があろうと信仰があるほうがいいということかも知れません。ここで悪魔は見掛けどおりヨプに信仰をなくさせようとした者だともいえるでしょう。また、真の信仰を露にさせしめたとも言っていいかも知れません。(なにしろ悪魔も聖書の登場人物です、ある意味では重要人物です)。

ヨプは、人は、裕福さによって神を信じていると自分でも思っていたとしても、裕福さによって信じているわけでななく、信じているのです。ヨプは、人は、苦難によって神を信じていると自分で思っていたとしても、苦難によって信じているわけではなく、信じているのです。

倒錯があっても信仰が有る方が良く、さらには、倒錯がなくても、信仰がなければ意味がなく、もっとも良いことは、倒錯なく信仰があることだと思います。

さて、目的と手段について。「オレはお金儲けをしたい」。これは企業とか経営の目的だと思います。けどそうしたところで何になるのでしょう。ま、どれぼど自分が倒錯しているとか、誤っているかを競っているともいえます。が、普通にはそれは目的と手段を混同しているのだと見なされるでしょう。

というのは普通はお金を儲けることは、それが目的ではなく、それで何かをする目的があり、お金を儲けるのは手段だと思われるからです。しかしわたしは言います。目的と手段ということで、なにかが考えられる時、それは誤ります。

なぜなら、それは人の目的でもなく、手段でもありません。と言うより、目的と手段は、ただ誤ってそのように現れるだけであり、なんら基本的な事柄でさえありません。目的と手段は人が誤って、目的と手段をもつ時のみ現れます。人が執着する時に、目的と手段にとらわれます。可愛い娘を好きになるのは目的でしょうか、手段でしょうか。会社にいくのは目的でしょうか、手段でしょうか。


昭和63年6月7日


「右の頬を打たれたら左の頬もさしだしなさい」イエス・キリストはこう言っています。この意味は相手の不義によって自分を義としてはならないということです。しかし左の頬も、ということは相手を愛して、相手の非を相手が自分で知るようにしなさいということです。もし打ちかえすなら、相手をも義とすることに加担したことになるでしょう。


昭和63年6月8日


この世界に人は倒錯しうるようにできています。執着し欲を持つことができるようにできています。しかしそうだからと言ってそれをそうする人は、卑怯者であり賄賂を取る者であり、自分を裏切る者でありましょう。自己は根拠なく理由なくあるゆえに自己であるということを知ることは困難なことかもしれません。

しかしそれを知れるようにこの世界はできています。また、この世界は根拠だとか理由だとかを求めることのできるようにもできてあります。(しかし、理由には根拠が必要であり、根拠にはまた理由が必要ではないでしょうか)。なぜに人は倒錯しえるのでしょう。この世界はそのようにできているとしても、なぜに人はそのようなことができるのでしょうか。それは愚かだからかもしれません。「無明ゆえに行あり」。

超古代の日記「04」






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