超古代の日記



昭和63年6月13日


喜怒哀楽、これは人の感情と言われています。この他にはないでしょうか。もちろん憎しみも、あざけりも、優越感も、劣等感も、憐れみも、不安も、恥ずかしさも、いろいろとあるでしょう。

が、人は誰かにある感情は自分にもあると、なぜか強制的に思っているところがあるかも知れません。例えば誰かからあざけられた人がいるとします。その場合、あざけり返すか、劣等感を持つか、ま、たまには優越感を持とうとしたりするでしょう。

これが確かなことだとは言えないけれど、人は誰かにある感情は自分にもあるのだと思う働きが働くためではないかと思います。これは極あたり前のことで、なんの面白いこともないかも知れません。たとえばあざけられると、自分の内にそのようなものに対応するものを探す働きが始まります。反発する感情がわきあがると言ったはうがいいのでしょうか。

ところがそんなものなくていいのです。いや、ないほうがいいのです。さっき、確かなことだとは言えないけれど、と言ったのはこの意味、なくていいからです。あざける人にその感情があり、あざけられる人にないなら、それはいったい何があるのでしょう。そしてなくていいのです。

無視ということではありません。行動面での無視は感情の有無とはかかわりなく、それが理解されていなければ、これを理解してくれと、それは騒ぎたてるのです。

さてあざけられ、あざけりかえしたとします。すると始めにあざけった人の効果がやっと出るわけです。やっと自分のところまで相手を引き引き降ろすことができるわけです。おおくの場合人には引き降ろされる用意が予め出来ています。(相手に喜怒哀楽があれば自分にも喜怒哀楽があるのです)。行動面での無視がなかなか実際には難しく、また効果的なのもこの辺のことがあるからです。

ところで、俺は人をあざけるといっても人を引き降ろすのではなく引き上げようとしているのだ、こう思う人もいるでしょう。感情に倒錯する場合はそう思うことがおおいいでしょう。ここで取り敢えずわたしが言いたいのは、たとえばあざけりの感情を人が持っていなくても恥とすることはないということです。人はなぜか知らないでいることをなんとなく恥とか思うようだし、自分の立場がないような気持ちになるのでしょうが、構わないということです。

あざけりの感情、あるいはそれに対応する何かが、なくてもいいということです。たとえば、全世界の人が味わったこともない感情があるかも知れません。そういうものに対してどうだこうだは、誰にもないでしょう。それと同じで、例えばあざけりに対してどうだこうだはなくていいでしょう。

はっきりとした理由なしにも人は正しくあるということです。次に言いたいのは、執着とは倒錯であり、倒錯とは欲ではないか、人の判断は欲によるものがおおいいのではないか、ということです。いや、本当に言いたいのは、この世界になぜ悪があるのかのように、なぜ人は倒錯するのかということです。

この世界には倒錯はあります。なぜ人が倒錯しえるのかはかなり不思議です。無論それは人のためになるからです。まず世間というものはそれを原動力としています。一応の話の目安になります。そして人、個人のためになります。取り敢えず思いつくままに言いますが、ある人がこの考えは欲からでたのではないかと自分の考えを疑ったとします。

それが全く理論的な繋がりがなくても、そう思ったなら、確かにそうです。それはなくてもいいからです。このように感情というのも役にたちます。人を啓蒙します。倒錯すると人にはこの世界が無限なものに見えます。権力を望むと、人には権力は無限に見えます。お金を望むとお金は無限に見えます。絵を描きたいなら絵の世界は無限に見えるでしょう。

「しかし人の子には枕するところもない」。人はこの世界が好きだから自分が好きではないでしょう。人がずっと生きていたいのは世界が好きだからではなく、自分が生きていたいからでしょう。



昭和63年6月24日


死ぬということさえ、それは人のためにあるのではないだろうか。(最近はこればっかりですが)。なぜならそうでない限り人が生きるということもないでしょう。と、いうのは嘘です。これがこうだから、あれがああ、そんなことはありません。

いくら世の中がそうなっていても、そうなっている理由はありません。しかし人が死ぬということは人のためにあるのではないでしょうか。理由は知りません。この世界の総べてのものが人のためにあるではないか、そうだとしても、それがそうかどうか知りませんが、そうではないかと思います。その意味は知りません。

この世界に悪があるのも、人のためです。この世界に執着があるのも人のためです。ある人が戦場にいて、長崎の両親兄弟を原爆でなくしました。「神も仏もない」こう思ったそうです。理由があって、そう思いました。

でも、もっと悲惨なことがあったことを知りました。やはり原爆直下、ある中学生の母親が梁の下敷きになってしまいました。それで彼はテコを使ったりして助けようとしましたが非力のため駄目でした。表にでて人に叫んでも、生き残っている人は茫然自失で、子供のことが聞けません。

また家に戻って助けようとしましたが火の手が迫ってきました。「母さん、御免」。といって息子は逃げたそうです。それで、ああ自分より酷い目にあっている人がいる、そう思ったそうです。長崎行きの特急のなかで聞きました。

それで不信仰ということはなくなった様子でした。けれど信仰している様子ではありませんでした。彼なりにいろいろ仏教のことを調べたりしています。聖書も読んでいるようです。けれど信仰の真実を知らない様子でした。理由があるからです。自分の経験を基準にしているからです。

わたしは理由がなければ人は信仰しないことはないのではと思っています。(神を見たことないから信じないとは何と怠惰な理由でしょう。この世界に苦痛があるから信じないとは何と愚かな理由でしょう。理由を作る者は逃げる者であり、逃げる者は卑怯者です) 。

と言うより聖書の神は理由なく信じることを勧めています。聖書の神は、富みにも、貧困にも、幸運にも、不運にも、幸福にも、不幸にも、世界にも、感覚にも、感情にも、意識にも、自分にも依り頼まず、つまり倒錯せず、ただ神にのみ依り頼めといいます。

それは人よ自己であれ、ということでもあります。(神はなんと総べて既に人に与えていることでしょう)。総べての物(物の定義とは自己以外の総べて)に依り頼まないなら人は自己であります。(たとえば「自分の子供は無条件に愛す」ということはその人の恐らくは感情に倒錯していることを条件にしているのです。それ自身を知るという哲学の方法は優れた自己理解方法だと思います)。

もしかして神にも依り頼まないという人がいるかも知れません。その場合は何か物に(武蔵は自分の力に)依り頼んでいるか、無知か、(自分にも神にも依り頼まないのは面白いので、これは何れ考えましょう)でしょう。ある人はヘリコプターの羽根で首を切られて死にました。

ある人はライフルで打たれて脳味噌が飛び散って死ました。ある人は清掃車に巻こまれて死ました。無残です。けれど死さえ人のためにあるのではないでしょうか。わたしは理由も意味も何も知りません。そうでなくてはならないとただ思うだけです。


昭和63年6月21日


一般的な意味での信仰について。イエス・キリストはわたしの頭です。彼の言うことすることはわたしにとって、こんな言い方が正確であるかどうか知らないけれど、わたしより高く優れています。たとえ彼が嘘つきであったとしても、架空の人物であったとしても、わたしより優れています。

ですから、彼は人の模範であり頭です。ですからと言うのは、わたしにとってそうであるからです。(人はこのことを理解しません)。わたしにとってわたしはこうなんだ。ということに人は、君は勝手にそうなんだ、君は自分が一番だと思っていると、くらいにしか思いません。そういう人は、それなりに勝手な基準があるのだろうし(多分、世間とか平均とかでしょうが)「私」でさえありません。

わたしはわたしにとって重大関心事です。おおくの場合人はその自己のなさを、あるいはつまら無いものを、あるいはただあると思っているだけのものを人は拠り所にしているというだけでしょう。それにイエス・キリストを知らないでいるより、イエス・キリストを拒否するでいるより、知ることは、わたしは生きていることを学ぶうえで役に立つと思います。役に立つというより価値があり、意味があります。

なにもそうである必要はどこにもありませんが。信仰は信仰がないでいるより、人生の楽しみということでも意味があります。またもし、人生が無意味なものであっても、彼が嘘つきであっても、その約束が約束でなくても、イエス・キリストは、わたしの頭です。(誰かがわたしより足が速いからとか計算がうまいからとかで、わたしより優れているとわたしが思うなら、わたしは馬鹿です)。

わたしは思います。だれが彼の言ったようなことを言えるでしょう。その人それぞれに彼の言ったことは理解できるでしょう。けれどそれなりにさえ、誰がそのように言えるでしょうか。だれが「野の花を見よ」と、誰が「人の子は枕するところもない」と、誰が「左の頬を差し出せ」と言えるでしょうか。

その意味がどうであれ、その意味としてさえ誰がそう言えるでしょう。そういう意味でもどういう意味でも人が、なにか思うことがあれば(誰もが、何かを思うはずです)その前提を見つけることは役にたちます。なにかについて意見を持つ時、大抵それには前提があります。

「若い時は短い、だから楽しまなくちゃ」とか、「外車はいい」とか、「女が欲しい」とか、それらには総べて前提があります。前提を見つけていくこと、それが考えることと言ってもいいくらいです。人はその上に立っている地面を知らないのです。それは一番かたい大地でしょうか。

これまでの話は(君はそう、でも他の人はどうかわからない、このことに答えてないから)あまり理論的でないかも知れません。「それは科学的ではない」よく人は誰かの意見を否定するときに言います。

しかしそう言う人がどれだけ科学を知っているのでしょう。理論的であるとかないとかいうことは、それと同じで、理論とはなんでしょう。そうして、なぜそれがなり立っているのか誰か知っているというのでしょうか。それなのに人は理論的でないと、だから例えば、わたしのこんな言い方に対して、信仰はなにか特殊なものであると言った感じをもつのでしょう。

そう言う人はなにを根拠にしてそれを言うのでしょう。彼こそ自分の拠り所を知らないのではないでしょうか。「神を見てないから信じられない」。でも、なぜ「見てない」と、「信じられない」が、結びつくのでしょう。信仰する人は見てなくても信仰します。(多分見ても信仰します)。

さらにそうであることは聖書に書かれてあります。見てない人が見て信じられると言うならば、見なくても見ても信じるということが(それがどういうことかは別としても)理論的ではないでしょうか。見ても信じられない、というのが非理論的であるなら。見なくては信じられない、なら、見ても信じられないというのが理論的のはずです。

どうして見なくては信じられず、見て信じられるのでしょう。そう言う人は何を拠り所にしているのでしょうか。(世間ではUFOとか遠い異国の習慣とか出来事とかをそう言うようですが、そんなもの信じるとか信じないとかいう、そんなものではないのです。それらはただそのように有るか無いかだけです。

神は物とか物事とかとしてでなく、「わたしは在ると言われるものである」と自己紹介しています)。ただそれについて知らないということを依り所にしているのでしょう。あるいは放慢さを、です。(その人がどんなに市民的であっても親切であっても、そうです)。

もしそうなら知らないということが前提になっていたことが知れたわけです。(知らないで信仰することは出来ないと聖書に書かれてあります)。考えるということは前提を知るということです。それが総べてではないにしても、それを知らない人は考えるということを知りません。

人が何か意見を持つとき自分でその前提を研究することは役に立ちます。そしてイエス・キリストの言葉を思ってみましょう。イエス・キリストの言葉は普通に考えるよりはるかに高くあり、良いこと悪いことにせよ、わたしたち人の考えることの前提となっています。もし人に信仰がないなら、それには前提があります。いや信仰があるのにも前提があると言うのなら、ともかく信仰がないその前提を調べてみるほうがいいでしょう。

考えるということは特に大切ではないと信仰上は思われるかも知れません。しかし自己を知らないで信仰があるというのは誤りです。前提を考えるのは自己を知る上で役に立ちます。イエス・キリストの言葉(イエスの本名は言葉であるともいわれます)は自己を知る上で投にたちます。自己を知らないで信仰するのは誤りです。

「ただイエスの名を呼ぶものが救われるわけではない」と書かれてもいます。聖書には人が疑問に思ってもない事の答えがすでに書かれてあります。人は折角生きているのです。聖書を知らないで、わたしは一生を過ごしたくありません。それは知らないでいるより知るほうがずっと良いというだけでもずっと良いのです。


昭和63年6月22日


自己を知らない信仰は意味がありません。それがどういう意味なのかは別として、自分を救えません。もし自己を知らないで、ああ神さま、イエスさまと、信仰したとして、救われるのは、その人ではなく、ああ神さまとかイエス様とかいう言葉とか祈りとかでありましょう。

人が自己を救いたいのであれば、自己でもって信仰すべきではないでしょうか。その人の感情とか、理性とか、アーメンとか、十字架とか、行いとか、聖書の言葉が、天の国だろうが楽園だろうがに行ってもその人にとってさえなにが意味があるでしょうか。

敬虔な祈りの言葉は神に聞き遂げられるでしょう。けれど聞き遂げられるのは、その言葉だけであって、その人ではないかも知れません。聞き遂げられた願望は、聞き遂げられた願望であって、その人の自己ではないかも知れません。

実際、聖書はどんなに精神的でしょう。どんなに人を教えようとしていることでしょう。イエス・キリストの言葉は、どんなに人の自己に訴えていることでしょう。それが必要だからです。こんなことについては仏教と言われているものについても同じです。

一万回、お経をとなえると、その一万回のお経は極楽に生まれるかも知れません。いくら五体を投げ出し日に三度祈っても、水ごりしょうが山ごりしょうが同じことです。信仰がなくても、信仰がある人と、どちらにしても困難でしょうが、同じことができることのあることを考えてみてください。

百億の線香を焚こうとおなじこと、巡礼しようとおなじこと、修行しようとおなじことです。苦行は無意味なのです。苦行は苦行したい人が苦行するだけなのです。そのような宗教は倒錯の宗教です。自己を知らない宗教は宗教ではありません。この意味ではどの宗教も同じではないでしょうか。

祈りも願いも言葉も感覚も感情も意識も命も、自己を知らなければ、倒錯の宗教です。それらは被造物礼拝、つまり偶像礼拝です。ただそれらが極楽往生するだけで、けっして人の自己がではないでしょう。例えば良い行いをしたら良い所に行くとか人は思っているかいないか知りませんが、そうだとして、それは変です。

良い行いをした人が良いところに行ったとして、その人が全く悪い行いをしてないということはないでしょうから、その悪い行いをした時のその人はどこに行くのでしょうか。そのひとの良い行いは良いところに行き、悪い行いは悪い所に行き、その人の自己はどこにも行かないかも知れません。

罪は許されるという人がいるかも知れません。しかし罪は許されても人はどうでしょう。こうかも知れないことは、この世界で知ることができます。なら人の自己はどうすればいいのか、この世界で知ることができるように、できているのではないでしょうか。

人の自己のその存在は人自身にとっても不確かかも知れません、けれど神も同じように、その人にとっては不確かではないでしょうか。人の自己の存在は人自身にとって確かかも知れません、けれどそれと同じように倒錯も確かかも知れません。人の自己は物という意味ではなくあり、おなじように、神もなくある、いや在りて在るのではないでしょうか。


昭和63年6月25日


さて、求めてないものは得られません。つまらない仏教者が言うように「仏陀は総べての人を救い、イエスは信じる人だけを救う、キリスト教はだから偏狭だ」ということは本当でしょうか。仏陀が救うことができるかどうかは別として、仏教者は救われる方法を知っているでしょうか。

百億回お経をあげることでしょうか。それならテープレコーダーは極楽にいくでしょう。流行っている坊主ほど無条件に有利でしょう。しかしそうはならないのではないでしょうか。こうすれば極楽に生けると仏陀自身がなにか言っているのでしょうか。わたしはそれを読んだことのないために仏陀を尊敬する位です。

結論に行く前に、求めなくても得られるということを調べてみましょう。棚からぽたもちということはあるでしょう。この世界は目的とする以外の物を得ることができることもあります。で、そういうわけのわからないものに欲を持つこと、これも世間の特質です。

それが何であるかその人自身も知らない欲とか、希望とかが人にはあることがおおいいのです。それも執着の一種です。そのようなものとして極楽を求めているのではないのでしょうか。普段は物にしがみついて生きているのに却ってわけもわからないものを求めたりしているのではないでしょうか。

誰かが南無なんとかと唱えれば良いことがあったり、極楽に行けると言ったからといって、あなたになんの関係があるのでしょう。だれかが56億7千万年後に弥勒が現れ人を救うと言ったからといったって、あなたになんの関係があるでしょう。例えば仏陀がすべての人を救うまでは自分は極楽には行かないと誓ったとて、あなたにはなんの関係があるでしょう。

(聖書にはこのようなことに、神を信じる夫が妻を救える保証がどこにあるか、それはわからないと書かれています)。何か希望を持つ人というのは、ま、そうでなくても、大体世間の人です。ここで言う世間の人とは倒錯している人です。そういう人たちは確かに自分を守ろうとしているのではありましょう。

自分の思いついたアイデアに執着すること、感情に執着すること、それらは、自分というものを守ろうとする働きでしょう。それが高じて自己保存とか自己顕示とかになるのでしょう。ところが守ろうとするのは本当は自己ではありません。そのようなものが、それを守ろうとしているのです。

そのようなものとはアイデアとか、感情とか行いとか、意識とかです。ふつう人は人に理解されたり何かを人から教えられるのを好みません。信じられないけれどそういう人はいます。いろいろな物に倒錯して、それを守ろうとしているからです。いや、守らせられようとしていることに奉仕しているからです。

そういうことがなぜ起こるかとても面白いことでもあります。世間というのはいろいろ楽しませてくれます。さて、イエス・キリストはそれが何と呼ばれようと、それを得る方法をはっきりと述べています。求めるものは得られます。それが何であろうと求めるならば、はっきりと求めるがいいのです。

それは山上の垂訓です。柔和な者は地を受け継ぎます。義なるものは天の国でしたか、わたしはうろ覚えですが、得られると、そのようなことを言っています。そう、地を受け継ぎたければ柔和になればいいのです。これが方法です。

ここの部分は多くの人に誤解されています。何か意識の改革のことだとか、逆説的なももの言い方だとか思われています。そうであっても、語られた内容は方法なのです。いいですか、柔和な者は地を受け継ぐ、のであって神を見るとは、言われてありません。たとえば神を見たいなら柔和さは意味がないのです。これははっきりと方法なのです。

でもクリスチャンはいうかも知れません。そういう個所はほかにも沢山ある、例えば「神の知識なき者は天の国には入れない」ということが書かれてあります、と。しかしその前提を考えてみましょう。それはたとえば「神を見てないから信じない」ということに対してあるのです。

まったく知らないで信仰することはできません。だからといってなにも知識があれば良いということではありません。知識があれば良いのなら聖書を記憶しているコンピュータは、それを得るでしょう。天の国は毎年毎年印刷される聖書で一杯になるかも知れません。それにこれはネガティプな言い方であることに注意してください。

という事は知識さえあれば良いということでないことをも表しています。イエス・キリストの山上の垂訓は、はっきりと、得るのはこういう人だと書かれています。ところでなぜ、柔和な人が地を受け継ぐのでしょう。なぜ、貧しい者が幸いにも神を見るのでしたか?を得るのでしょう。それがわかれば人はイエス・キリストのその言葉を理解したのです。



昭和63年6月27日


さて、わたしがイエス・キリストが信じられる、彼が気違いでも嘘つきでもといえば、例えば仏教者は、「もし仏陀が気違いでも嘘つきでも信じる」と言うでしょう。そして、わたしが葬式など詰まらない、わけのわからないことをやっているだけだ、と言えば、仏教者は「生きていることはわけのわからないことだ」と言うでしょう。

それは信仰でしょうか。わたしはキリストが好きです。けれど、なかには本当に本当に仏陀を信仰している人もいるでしょう。しかし、それは本当に信仰でしょうか。というのは仏陀は信じるものではなく、人の成るもの、であるからです。実際、誰でも知っているように人間シッダルタが、仏陀に成ったのです。

キリストも仏陀も、どちらも人の理解の目標でしょうが、どちらも意味合いは違うにしても救い主でしょうが、人は仏陀になれますが、キリストにばなれないのではないでしょうか。キリストは神の子であります。そしてキリストを通じて人の子は神の子になります。神とは創造主です。仏陀は人の信仰する対象ではなく人のなるものであり、神こそ信仰の対象ではないでしょうか。人のなれるものを人は信仰していいのでしょうか。

でも、仏陀を本当に本当に信仰している人は、いるかも知れません。けれど人は仏陀を信仰するのではなく、仏陀になるべくあるのではないでしょうか。しかし世の中にはイエスはキリストに成ったのだと、人は神にもなれるのだと言う人もいるでしょう。それはもう信仰ではない感じがします。

それは人が成れるものですから、信仰ではないのではないでしょうか。キリストにおいてそう言うことはキリストを引き下げることです。仏陀においてそう言うことは正当です。仏教において人は自らを小さくし愚かにします。これはキリストの弟子もそう(実際には彼はそういいましたが、非常に聡明)でしたが。

ただ、ほかにもわたし自身が知らないこともあるのでしょうが、人がなるものを信仰することは変です。自分がそう成るものであるからです。それは言わば自分の理想形を拝んでいるのです。拝むより成るものではないでしょうか。拝んでいては成れないのではないでしょうか。

それともこの世界には自分の理想形を信仰すると、それに成れるという法則でもあるのでしょうか。ま、仏さま、仏さま、と、拝んでいるとそのうち確かに仏様にはなれますがね。それがなんであるのかわたしに言うことが出来ればいいのですが。では、信仰とはなんでしょう。

それはわたしにとって、それを信じれば天の国を得ることができるとか楽園で過ごすことができるとか、そういうこととしては全くありません。それは取り敢えず、とにかく大切なこと、生きていて為すべきこと、重要なこと、欠かせないこと。人の生きる意味がそのようなこと、そのように思われます。

たしかに聖書には信仰の定義が書かれてあります。まだ見ぬものを確信し、とか書かれてあります。えーと、ヘブライ11−1「信仰とは望んでいることに対する保証された期待であり、見えない実体についての明白な論証です。」と書かれてあります。

この言葉は例えば天の国とか楽園とかを人が望んだとしてそれに対する保証された期待とか神の存在についての明白な論証のことを言うのでしょうか。どうでしょう。イエス・キリストが「野の花を見よ、空の鳥を見よ、蒔かず紡がず、働かず」と言うのを、ああ、そうだ事実その通りだ、と理解したところで、それは理解でしょうか。


昭和63年6月29日


「その日の労苦はその日で充分である」ということは、ただそれだけのことでしょうか。あるいは人はただ本当にそれだけのこととして受け取るだけの資格のある人でしょうか。

ところで話を変えます。多くの人はあまり人としても良くありません。例えば陰口いったり、ぶつぶつ言ったり、ろくでも無いことをしたりします。それは他力本願です。この言い方は独断的で、まったく話がつながらないように見えるかも知れません。けれど、そうではありません。

というのも、それらは他人に、いさめられるのを目的とするからです。普通は自分の思うことすることが自分に対して救いを求めることです。けれどそういう人の場合は、それ以上に他人の力を当てにするのです。それは隠れた他力本願、幼い他力本顧です。

そして多くの場合、他力本願と言われるものには、このような有様が隠れてあります。もし、このことを解決してないなら、はっきりとそうだと思います。ここでわたしはなにも仏様にお祈りしている他力の人のことばかりを言っているのではありません。普通の人のことを言っているのです。普通に会社に行き、普通に学校に行き、普通に生活している人のことです。

だれがこうした、ああした、どうだこうだとお喋りしたり、血液型を調べたり、恋占いをしたりする人達のことです。世間でもよくいうではありませんか「人の迷惑になることをするな」。言っている人も何のことか知らずに言っているのでしょうが。世間というもののおおくの部分がこれで成り立っています。世間様とはこのようなことです。

世間様とは、世間様を気にかける人のことですが、他力はいけないと言いつつ、その意味を知らないためにその罠に嵌まっている人のことです。ここの構造は、よく出来ています。それで世間が世間として成り立ちます。たとえば「人の迷惑にならないなら何をしてもいい」ということがあって、わたしは可笑しいですが、それがまた世間を強化します。

それは「人の迷惑になることはするな」を前提にして導き出されるのですが、その前提の意味は何でしょう、そして、その理解は正しいでしょうか。「人の迷惑になることはするな」ということは他力であるなということですが、言っている本人も聞いている人も、他力を本懐とする世間様のようになれと、了解しているのです。

なんとなく、世間様は正しい、自分の迷惑にならない、だから自分も世間様と同じになろう、こう思われています。その世間様とは大声をだしたり裸で走り廻ったりしないという位にしか思われていません。

普通、社会に対する反抗が無意味に滑稽に感じられるのもこのためです。本来的には、人の迷惑になるなということはそういう意味ではありません。それは他力であるなという意味です。だからと言って自力であれ、ということでもありません。このように言われている言葉の意味と内容が全く違っていて、しかも誤った方向に人を向ける、その方法は実に巧妙です。

またこういうことがなければ、と言うより何もなければ、それは人をそこに止めて置くことは困難でしょう。でも人はそういうのに捕らわれるのが好きです。それは悪魔の領域です。人は知らないとはだれも言えないのですが、というのも、それはそのようでなければ在りえないでしょうから、ですが、捕らえられるのが好きです。おおくの人はそれでもこれを知らなかったと言うでしょう。

超古代の日記「05」






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