超古代の日記



昭和63年6月30日/7月1日


それは非常に巧妙です。人はいけないこと、良くないこと、悪いことを、隠れてします。このことの意味が分かるでしょうか。たとえば泥棒は隠れてします。なぜ隠れてするのでしょう。

それは明らかにされたくない、自分が悪魔の領域にいるためにそうすることが必要なのです。これ、この単純なことに秘密があります。

そこで人前でおなじことをしたとして、いさめられたとします。それは言わば救いを求めてはいるのです。求めてはいてもそれは罠としてあります。(助けて欲しいと人に頼むということ、それが間違いです。助けを求める在り方をしていながら、迷いであることができているのです)。

例えば、人に理解されるのを怒る人がいます。あるいは同じことですが、ある程度の理解で満足することを好む人は多くいます。

さて、人から理解されたとします。すると悪魔の領域は、この野郎、あいつを嫌いになってやれと、人の自我に訴えます。すると人の自我はそれとなぜか共同戦線を張ります。悪魔の手の内には、なにもないのに。この無いものに人は捕らわれます。

これに捕らわれ人は自己ではない物に拠所を置き、執着、倒錯します。あるいはそのために手の内にはなにも無くなります。自己という物でないものが無くなります。自我は騙されているとも気が付かずに。自己が基準にするものを実在だと思い違いします。

またそれを実在だと思うためには悪魔の領域が必要です。人が物に基準を置くとはこのようなことです。(これは人から理解されることに対する怒りを例にしましたが、たとえば人前で行う悪い行いとは、仕事の上司に対する下役の不満の愚痴とか、意味もない噂をするとか、そういうことです)。

それは対象と理由を鉾と盾としてふりかざします。それに気を奪わせて悪魔の領域は人を自分のものとします。

さて、よくないことを人は隠れてします。それは見つかりたくないからです。すこし解説しますと、人からいさめられたくてする悪いことは、それがそうだとは人は気がつきませんが、人に助けを求める行いです。にも関わらず、助けを求めているにも関わらず、人はそのことを却って悪魔の領域に止まるために用います。

と言うより、悪魔の領域が人をそこに止めるために巧妙な仕組みを人に与えているのです。簡単に言ってしまえば、物を人の自己と思わせる働きです。しかしこのこと全体も、隠れてよくないことをするということの上に成り立っています。

それは悪魔の領域の在ることさえ人に隠します。悪魔の領域は人の自己と思っているものからも隠れています。それだから人にいさめられたい行いが、その人自身においても助けを求める行いであることであることが、理解の外にあります。いわば人前でする悪い行いは自己の構成要素から自己を隠し、人から隠れてする悪い行いは自己から自己を隠します。

けれど隠れているもので露にならないものはありません。それがそこに在るからです。わたしのイエス・キリストは言いました。良い行いは隠れてしなさいとか言いました。

どうです、わたしは彼を誇りに思います。隠れて悪い行いをするのではなく、良い行いをしましょうと言っているのです。積極的に悪魔の領域を破壊しましょう、と言っているのです。

ね、実際に良い行いは隠れてしても人から見える表でしてもいいでしょう。単に良い行いは隠れてしたほうが良いということだけなら、そう見るならイエス・キリストの言葉はある程度しか現実性のないものになります。天の父はその良い行いをみるのでしょうか。

いいえ、神は人の自己を見るのではないでしょうか。ところでわたしは人が妬んだり嫉んだり恨んだりすることがよく分かりません。多分、そうする人はその苦しいことが好きなのではないかとさえ思ってしまいます。もちろん基本的にはそれは自己を救ってくれという自分への声なのでしょうけれど。

ま、面白いですね。隠れて悪いことをするよりは見えるところで悪いことをすることを世間は容認することがおおいいです。心のなかで人を嫉むこと(なんと隠れてすることでしょう)ではなくあからさまに罵倒したりすることは、すこしは助けを求めているからでしょうか、それとも世間がそれを好きなのは、世間のようにそれが自己の構成要素から自己を隠しているからでしょうか。

こころのなかで(人に隠れて)人を恨んだり嫉んだり妬んだりもし、仲間とそのことで愚痴をいいあいもし、相手を罵倒したりもする、世間は忙しいものです。

人はよく自己であろうとして自己を失います。才能に感覚に感情に依り頼み、より自己であろうとして自己を失います。

昭和63年7月3日


なぜ神は見えないか。このことを考えるまえに、まず、別の問いを考えてみましょう。人はいったい何に依って生きているでしょう。また何に自分の拠り所を持っているでしょう。

太陽の恵み、食物、思想、社会、力、健康、お金、いろんなことが考えられるかも知れません。しかし本当にそれらはそうでしょうか。まず、人はそれらが何であるか知りません。それらに拠り所を持つのは人自身ではなく、人の構成要素(感覚とか意識とか感情とか)だけであるかも知れません。

そして人はその構成要素さえ実際は何であるか知りません。感情の人、感覚の人、行動の人、いろいろいるでしょうが、その人自身さえ、それがなんであるか知りません。そして何よりもそれらは人の生きている、あるいは拠り所となる原因ではありません。それはただそこにあるものです。

もし人の生きている理由が、原因があるのだとしたら、原因以外のものを持って、それとすることは誤りとなるでしょう。わたしは、この世界の総べてをあげてもそれはそれでないと思います。あるいは本当にそれは人によって違うというものなのでしょうか。

ある人は宗教を、ある人は健康を、ある人は仕事を、ある人は経済を、ある人は哲学を、自分の拠り所として、いるように見えるかも知れません。しかし、本当にそうでしょうか。人によっていろいろな物を選んでそうするなら、また選ばされてそうするなら、なぜ人によって違うのでしょう。

そこにはなにか原因とか理由とかがあるのでしょうか。わたしは、ここには愚かさ、悪魔の領域、執着があるのだと思います。また、なにものにも依り頼まないということは単にそのようなことの一つでしょうか。

さて、人の生きる原因が、見つからないとします。この世界のどんなものもそれではないこと、そのために多くの人は苦しむのですが。というのも人がなにかに依り頼むといえども、人がそうしたいというだけで、けっして実際にはそうできません。

もしそうできたら人は人ではなくなります。もし、総べてがそれでないとしたら、原因は消去法によってしても、神ではないかとわたしは思います。これが消去法だとして、究極の消去法です。総べてのあるものと思われているものを消去するからです。

そして人が自分の拠り所としようとするというか、そんな、経験であるとか、思い出であるとか、家であるとか、芸術であるとか、希望であるとか、絶望であるとかは、この世界にある見えるもの、意識や感情や感覚の対象になるものです。それらは人の生きる原因でも理由でもなく、単に人の構成要素の対象です。

人の生きる原因とか理由とか以外のものが人の依り所となりえるのでしょうか。人の生きる原因となったもの以外のものが人の 生きる原因になるというのでしょうか。(ここではわたしは、原因とか理由とか拠り所の意味を一つのこととして見ています。人の生きる原因となったものと、拠り所は違っていても不思議ではないことは確かです。しかしこれは飛ばします)。

このように、あるもの、この世界のものは人の拠り所にはならないということは非常に簡単なことだと思います。けれどこのことは意識で捕らえることは難しいのです。それは意識の対象には殆どないからです。

健康が大切です。こんなことを誰かがいいました。身体にとってはそうです。人は身体でしょうか。と言うより健康が大切です、こう思うことはともかくも人は身体であるということを強調して、暗黙の内に死ねば終わりだとか、自己は身体であるとかが認められてしまっています。

病気の恐さ、死の怖さが人をかろうじて、健康が大切です、に引きとめているのです。ある人が自分の意見を守ろうとしてほかの人と対立します。その意見が自分の意見であると思いたいために、人はほかの人と対立する必要があるのです。お金の場合、思想の場合、家の場合、力の場合、芸術の場合、仕事の場合、太陽の場合、この世界にあるどんなものにしても、そこにはみな何かこんな思い違いがあるのではないでしょうか。

それらはみな見えるものです。それは存在ではないから見えるのです。それは人の自我の対象であり、人の自我と自分で思っているものは、それを対象とすることに依ってあるのです。


昭和63年7月6日


人生とはなんだろう。これを考えるまえに少し別のことを見てみよう。たとえば女優が弁護士とか医者とかと結婚したら、多くの人が「あの女は人間とでなく、地位や金と結婚したのだ」と密かに思ったりするでしょう。

ドラマなんかでも、もてない男の「そんなんじや無い、心だよ」なんて台詞が臆面もなくでてきたりして、結構それらしい滑稽な雰囲気を醸しだしたりします。どうでしょうかね、特に女優というわけでもなくても女というのは大抵なにか条件を重視するようです。

ま、よほど自分の条件を世界最高だと思いたいのでしょう。けれど話はこのことではありません。女が条件で選ぶとして、心とか男の気持ちで選ばないわけがあります。それは心とかいうものも、ただあるだけのもの、べつにどうでもいいものだからです。

たとえば地位や金と、心とか気持ちが、なにか対立するものだと思うのは何か思い違いをしています。それらは同じ地平にあります。どちらかを重視する場合、どちらも馬鹿げています。それらはただあるものだからです。

わたしがここでいいたいのは人が人生と思っているもの、そんなものは人生でもなんでもないということです。たとえば人には感情があります。そんなもの、誰が自分自身だと思うでしょう。感覚にしても何にしても、そんなもの誰がそれを自分自身だと思うでしょう。そんなものただあるだけの物です。

ところが人には運命とかがあって、それがなんなのか知りませんが、人は運命に捕らわれていると思われます。未来は決まっているとかいないとか人は言うけど、そんなものは自己にではなく、人の構成要素にとって意味のあるものではないでしょうか。

誰だって、自分の感情、感覚、意識、それらが自分自身だなんて思うはずもないはずです。ところが人生が関わるのは、それ、だけでしかありません。人生とはなにかという問いに多くの人は「それは旅である」「それは経験である」と答えるのだそうです。

それは旅とか経験が対象にするもの、同じことですが、それらから対象にされる人の構成要素にとってそうなのです。そして人の構成要素は自己ではありません。これはあまりにも簡単なことです。人が何ものにも拠り所を持たないということは、改めて言うことのないほどのことです。しかしこのことを歩きながらこんなことを思ったり、街を見ながら、このように感じたりするのは何か不思議な気持ちがします。けっこう楽しいのです。

たとえばこの世界に拠り所をもつのは自己ではなく、構成要素です。とはいえ、わたしはちゃんと歩いていますし、聞いていますし、見ていますし、食べています。それらにかかわらないに関わらずそうしています。これが結構面白いのです。

昭和63年7月7日


時間について。諸行無常とか、形ある物は総べて壊れる、とか言われています。ある人がとても大切にしていた焼物が割れてしまいました。その人が一生、あれはいい物だった、そう思う位のいい焼物でした。

ある人が恋人を失っていまいました、それからの人生でいつも悔やむ位いい恋人でした。ある人が素晴らしい思想を思いつきました。しかし忘れてしまって思いだしませんでした。

さて、多くの、この世界のなかのものは失われます。しかし、それゆえに人はそれに捕らわれます。きっと人は死ぬでしょう。それゆえに人は自分に捕らわれるでしょう。もし永遠にそれがそこにあるものなら、人はそれに捕らわれるでしょうか。

ここでわたしが言いたいのは、物はなくなる、だから人はそれに捕らわれる。この世界のあり様はそのようになっているということです。つまりこの世界は人がそれに執着するのを誘う在り様をしているということです。

わたしは恐怖します。世界の在り様が人を執着に誘っているのです。世界は変化し、人を世界に捕らえようと、自己主張します。世界は千変万化し、人を惑わします。しかしなぜ、そうなのでしょうか。そして多くの、人が求めるものは手に入れ難いものです。それだから人はそれに執着します。

なぜ、この世界がこのようになっているのでしょうか。世界がこのようであるとして、それがどのようにして人のためになるのでしょうか。始めに返って、諸行無常とは、世界は変化するものであるだから人はそれを良く知って、それに捕らわれないようにしよう、という意味だと思います。

しかし人は、世界が無常だから捕らわれるのです。ではなぜ、世界の性質がそれだとして、それを知ったら、それから離れることができるのでしょうか。世界はなぜそのようになっているのでしょうか。永遠はもしかしたら、もし永遠に執着したとしたら、それからは逃れ難いかも知れません。人はわりと失ったものに対して執着します。

それは死んだ猫とか、落としたお金とかですが、安心してそうします。そして多分それはあまり激しいものでありつづけることはありません。割れた焼物にしても、失った恋人にしても、忘れた思想にしても、再び得ることの無いものには人は安心して思い出とします。

また逆に言えば変化するものに執着するとして、それは執着しても意味のないことだと知れるということがあります。ということは、総べてのものは変化し、だから人は執着し、だから人は執着から離れるということです。世界は変化し、人を執着へと誘い、執着から離れさせます。おなじことが違う働きを持ちます。


昭和63年7月13日


今日、歩いていると、前を歩いている人がタバコの吸殻をすっと捨てました。ん−と、そういうのって見られると困る人から見られてないから、そんなことができるのか、自分の家ではそんなことしないだろうから家と道路では何か違うものがあると思っているのか、もうすでに道路は汚いから自分の吸殻なんて塵のなかにも入らないとか、たったそれだけのことでいろんなことがあります。

でも、誰が知らなくても自分が知っているのにとわたしは思います。たかがタバコの吸殻、道路に捨ててなにか悪いのかとも思われるでしょう。なぜそれが悪いことなのかはっきり理由を言える人はいないかも知れません。火事になるかも知れないとか、公共道徳であるとか、道路は塵箱ではないとか、何となくとか位にしか理由はないでしょう。

だけどわたしはいいます。自分が知っていると。普通の場合、人は自分がすることは自分が知っているのです。たとえ神が見ていなくても自分が知っているのです。その筈なのです。けれど現実はなかなかそうでないことがおおいいのです。

よく母親が「そんなことはしていけない空の神様が見ているからね」子供に言います。自分は信じてもないのに。じゃ、神様が見てなければいいのでしょうか。ほんとうに神が見ていると信じられるでしょうか。信じられないなら何をしてもいいのではないでしょうか、こういうことになりやすいのです。

たとえばある人は人から理解されることを嫌います。それはそう、自分で自分を理解していないからです。わたしは思いますが世の人はそれを求めてないようです。自己を求めてないようです。

それはこういう場合もあるでしょう。執着するのです。執着とは自己でないものを自己と思うことです。たとえば「あの野郎」と思ったとします。するとそう思うためには自分の感情のあることを必要とします。それはもう前提です。で、それは存在するものとなってしまいます。そうするともう何がなんだか分からなくなって人は感情に支配されます。倒錯とは逆様という意味でもあります。

感情は自己のためにあるのですが、自己が感情のためにあるようになってしまいます。これは人がそのようにあるということもあり、世界がそのようであるということもあります。なぜそうなっているのかと思います。

例外について。たとえば例外のないものはないという命題を立てたとします。するとすぐに算数はそんなことはないと思います。何時までたっても1+1は2です。このことをそれこそ例外の存在する証拠であると見ることもできます。まったく決まりきって不変のもの、それこそ例外だと思うこともできます。


昭和63年7月17日


たとえば朝、人から挨拶されない、人から卑下された、無視された、よくあることですが。いわゆるそういう時、人はムカッとくるわけです。自尊心ですね。満足されないために自尊心が起こるわけです。満足されないために起こりましたが、普段はどうなのでしょうか。普段は感じていなくてもやっばり、そういう自尊心はあると見るはうがいいでしょう。

よかったですね、卑下されたために、つまらないものが自分にあるということが分かって良かったですね、わたしは思います。ところで人はやはり自分を何ほどの者と思いたく、他人を卑下したい思いがあるようです。わけもなく自分の職業に誇りを持ったりします。職業には貴賎はないとかね。よ−するに何でもいいんです、尊厳を持ちたいということです。

ここで何でもいいんだろう、なんてわたしが言いますと、大概の人は怒りますが。わたしにとっては自尊心が自分にあったと知ることは落ち込みの原因になります。苦しいです。自尊心が傷つけられて人は苦しいのですが、それは自尊心があるということが苦しいのかも知れません。多分これは皆おなじではないでしょうか。

苦しいからムカッときて、相手に立ち向かうのかも知れません。そのほうがあるいは楽ともいえなくはないでしょうから。しかも立ち向かっている相手に、私を助けてくれ、こう言っているのですから。この倒錯している自分を助けてくれ、こう言っているわけです。

ムカッときて立ち向かうことによって自分は迷いの存在になっているのですが。ここんところを波風たてないよう人々は、おたがいに尊重しあって生きていくわけです。おだてあって生きていくわけです。あるいはつまんないところで傷めあっているわけです。人は自分も苦しいですから他人も苦しめたいのです。苦しいのが好きなんです。

ところでわたしから卑下されたと思っている人がいて、わたしに怒ったとします。そこでわたしは、わたしに何か助けて欲しいのですか?と言ったらどうなるのでしょうか。多分ますます怒り狂うでしょう。そうあって欲しくありませんが、そうしなくてはならないでしょうね。

でも「豚に真珠を与えてはならない」のです。「猫に小判」というのは価値の分からない人には良いものも無駄という意味ですが、豚に真珠は、与えてはならないのです。

ちょっと話を戻します。卑下されて「こいつめ」こう思ったとします。そうすると自己でないものが自己になってしまいます。それは苦しいです。そのようでなければ人は自己であるというわけでありませんが。つまり人は自己ではない、このことが明らかになると人は苦しいです。普段はそれさえ隠れています。

とある宗教では「自己を捨てよ」といいますが、すでに自己でないものをさらに捨てるのは難しいのです。よく見ること、よく分析することは大切です。けれどこの場合、そうするとますます泥沼に嵌まってしまいます。理由とか原因とか根拠とかいろいろ考えて、それに捕らわれてしまいます。

それにとらわれて自己でないものが自己になるわけです。これってなかなか面白くて人は一生これで遊ぶのです。どこかに旅行にいくとか、何かゲームをするとか、遊びはいろいろあるでしょうが、実際にはこれで人は遊んでいるのです。

昭和63年7月18日


自己について。それが何であるか言うまえに人が死ぬことを考えてみましょう。人が死ぬと身体は死ぬでしょう、意識は死ぬでしょう、感覚は死ぬでしょう、感情は死ぬでしょう。しかし、それらは自己ではありません。これは余りにあったり前のことです。ですから人は死ぬ、だから人は死なないのです。というのも人は生まれてないからです。

理論的に言えばこのようになります。自己とはどのようなものでもありません。自己とはどのようなものでもありません。そうして神もどのようなものでもありません。それで古代インド人は神と人とを同一視しました。アートマンはブラフマンであると言いました。自己は梵天であると言いました。

しかしそれはこの世界においての在り方であって、事実ではないと思います。たとえばここに小石があります。その小石にとっては小石自身とは他のどのようなものでもないでしょう。けれどそれは小石です。そうして小石はわたしではありません。つまりお互いがどのようなものでもなくても、お互いは違っているのです。これは何を示すでしょうか。

なんにせよ自己が自己であるのは理由がわからないはど根が深いです。えーと、だから人は自己とはこんなものだと思う必要さえありません。わけ分からないほど自己ですから。よ−するに人は倒錯してしまいますが、わざわざそうしてまで自己であろうとする必要はありません。もし、そのようであっても自己とは何かと問えば答えがないのではありませんか。あったり前です、どのようなものでもないからです。


昭和63年7月20日


たとえば人は自己を感情だと、あるいは身体だと直接的には思うことはできません。けれど、そういうことを前提にしてとあることを認める時、思う時、行う時、そのようなになります。と言うより何かを思い行う時、たとえば自己を身体だとするということが前提とされるということが成立しています。

たとえばちょっといい例は思いだしませんが、適切ではないかもしれませんが、例えば、男の人ってあたしを狙ってるんだからということを認める時、女は自分を身体であることを前提としてあり、そうなります。たとえば親の地位とか名誉を越えたいということが在る時、反発とか、出世欲とか、権力欲とか、そういうものが前提となり、前提はほとんど無条件に受け入れられるという性質があり、人はそういうものに捕らわれます。

たとえば上役のことをぶつぶつ言ったり噂したりすると、愚かさとか他力とかをそれは前提としてあり、人は愚かさとか他力とかを受け入れてしまっています。

これは逆イエス・キリストの山上の垂訓です。というよりイエス・キリストの言葉はこの仕組みを解明して良いことを言っているのです。福音と言われています。

なんだ、お前は仕事が出来ない、そう思う時、人は能力とか出世とか地位とかに、すでに捕らわれてあります。お前のいうことなど誰も聞くものか、こう思う時、人はたとえ悪いことでも多くの人がすることはしてもいい、これが前提とされてあり、すでに、そのような人になっています。普通は何かを考えるには前提が必要だとか言われます。けれど実体は逆です。何かを思う時すでに前提が発生しているのです。

そうしてこの場合の前提とは単にある考え方というものではなく、人がそうあるところのものです。あいつは自分勝手な奴だ、こう思う時、人は自分がこそ他人を拒んでいるのです。わたしはここでさほど適切な例を考えつきませんが、このような在り方で人はあります。

世間様のように金とか意見とか物を基礎とする時、人はただこの世界でいきて死ねば終わりになります。よ−するにこれは悪魔の領域です。非常に巧妙です。

つまり何か意見とか行いが成立するためには前提が必要ですが、もうすでに意見とか行いとかがあるのだから、前提は確定しているのだと、実際は意見とか行いによって前提は成立するに関わらず、人に思い込ませるというより人をそれに引きずり込むのです。

超古代の日記「06」






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