超古代の日記



昭和63年8月12日


たとえば人は世界のどこでも歩いていける。けれど権力があって、そうしてはいけないと言う。すると人は自由を求める。我々に自由をと言う。この自由はしかし言葉の持つ本来の意味での自由ではない。それは実は不自由であるというより、この場合は権力に反してある自由であるという意味だ。人が自由を求めるのは大方このようなことです。

現代では、権利と言ったほうが通りが良いかも知れませんが、行動の自由、思想の自由、言論の自由、経済の自由、選ぶ自由、拒否する自由、表現の自由。その自由を得ることがあって、また得ないことがあって、人は満足、不満を持つかも知れない。けれどこの自由は本来の意味での自由ではない。

さて、このようなことは穿った見方かも知れないけれど、本来の自由を隠すために、何だかの自由が争われるといってもいいでしょう。しかしそれでも自由を求めると、この仮のものと本来のものが見えるはずです。なのに人はすぐ近くに見えるものに拠り所を持つのです。

聖書のなかでモーゼがイスラエル人をつれてでて幾多の奇跡を見せたに関わらず、人々は荒野でぶつぶつ言ったと書かれています。ぶつぶつ言うとは人が人を拠り所とすることです。なんの権利も力もない人を、人が拠り所とすることです。

では権利とか力とかがある人を拠り所とするのならいいのではないかという議論がでできます。そして実際そうする人がいます。それが誤りであるのに。その人にはちゃんとした根拠とか理由とかがあるわけです。でもそうする人自身、どんな人になっているでしょうか。おべっか使いになっていませんか、人の顔を窺う人になっていませんか。

そのようなことは自分で分かるのではないでしょうか。この世界では、どうしても自分のすることは自分で分かるようにできています。このぶつぶつ言うことは現代では会社の上役とか同僚とか部下について不満を言い合うとか、他人とか隣人とか親戚とか兄弟とか親とか子について本人のいない所で不満をいいあうとかいうことが含まれます。

それは人に拠り所を持とうとすることです。ところが実際には人は人に拠り所を持つことはできません。実際そうなのです。ですからそれは仮のものになります。これは悪魔の楽しみしみです。(それは実際に隠れて行われ、また人が真実の拠り所をもつペきものであることを人に隠します。けれど人は自分のしたことが見えるのです。そうして人がそこではまだ拠り所をもってないことを人に知らせます)。

また、たとえば世の母や父は子を愛していると自分たちでも思っています。でもそれは欲なのです。欲は対象を限定し疎外的です。教育します、躾します。けれどそれが人の総べてではありません。なぜ人の僅かな部分を左右しようとするのでしょう。それは無理無理に人とはそんなもので価値が決まると子に押しつけようとすることかも知れません。母が子を叱って言います。愛しているからだと、言います。

ま、何でもいいのですが人には自分の言ったことが聞こえるし、したことが見えます。けれど気がつかないことがおおいいのです。わが子だけはというのは欲であって愛ではありません。どうして怒ったり苛めたりすることが愛なのでしょう。しかも欲とは自分の欲なのです。

このことは自分で見えることなのです。でも毎日おなじことを繰り返します。自分に愛のないのを見るのは怖いのかも知れません。けれど人が愛を知るのは、まず無いということを知ることから始まるのかも知れないではないでしょうか。

ね、生まれて初めから愛を人が知っているのなら、人が誤る必要もこの世界にあるわけないではありませんか。

では猫可愛がりにすることが愛ではないかと思うということ、行うということがあるかもしれません。また愛は範囲を狭めてはいけない、ならば自分は人に対しては博愛をすると、こう考える人もいるでしょう。子に対しては放任主義にすると思う人もいるでしょう。それもまず誤った前提のうえになりたっています。まず誤った愛のうえに立っています。

それを否定しつつ、その上に立っているのです。それは本来の愛を見えなくするために働きます。(けれど実際そこに愛は無いのです)。(そこに無いことに気づかせるために、本来の愛を見えなくするといってもいいのです)。これは非常に人を迷わせます。どちらをとっても誤りです。

しかし愛という言葉が語られる時には仮のものも本来のものも、どちらの意味もあるのです。違うものを愛と思うのはもちろんのこと。誤って、誤った愛を否定するついでに真実の愛も忘れてはいけません。自由の場合も同じですが、まず誤ったそれを求めて、自分がどんな意味でも自由ではないことに気づき、やっとそれを求めることができるのです。

本来の自由を隠すために自由が争われますが、そこにはまだ本来の自由がないのです。それは始め隠れたものとして現れ、人に与えられるのです。(あるいは人が仮の自由を得たとします、それは飽きるようにできています。仮の愛を得たとします、そこに苦痛があるように出来ています)。

形式としては次のようになります。まず誤った自由が求められます。それに対立しつつ前提として人はまた誤った自由を考えます。ところがそれは本来の自由ではありません。なぜなら人にはまだ、それがないのです。誤ったものを否定することによって真実のものが現れますが、それはそのような仕方で与えられるのです。それまで人に無かったものが与えられるのです。

それまでは人に予め与えられているもの、感情や意識などがそれの代行をします。「親分(つまり自我)、愛なんて要らないですよ、わたしがいますよ、だってもう他のものは入りませんよ」こう言うわけです。「わたしが愛の代わりをして充分ですよ、大丈夫、まっかせなさい」こう言うわけです。

「親分、わたしがいるから親分があるのですよ」こう言います。人はぶつぶつ言います。拠り所を求めているのですが、誤ったものに求めているのです。そのためにぶつぶついう人は人を拠り所にしていることを気づかなくされています。そういう形式でぶつぶつ言うことが成立するのです。

なぜそんなことをするのか、その根拠はあれでもないのだけれど、それでもない、いつも動いてなければ人に気づかれてしまいます。しかし人は自分のぶつぶつを聞くことができるのです。わたしには、この世界が成り立っている意味があると思います。この世界では人は人に親切でもなく無関係に生きていくことができます。それはそのようであってもよい理由があるのですが、良いことではありません。


昭和63年8月18日


では実際、人は何に拠り所を持てばいいのでしょうか。この世界のどのようなものに持ってももいけません。ただ神に持つペきです。ぶつぶつ言うとは神を知らないことの証です。ぶつぶつ言うとは仮の拠り所です。そうして実際に人は神を知らない限りそのような仮のものしか知りません。

そしてその限り人はぶつぶつ言うことを仮のものとしてしか見ることができません。その人は仮の根り拠しか持たないからです。実際その人には拠り所がないのです。

この世界のどのようなもの(自然、あるいは人、あるいは地位、名誉、金など)を拠り所にしようとすることは、本当の拠り所を知らないということであって、それはその人に明らかです。その拠り所をいくら否定しても肯定しても同じことです。その人にまだ拠り所がないのです。

ぶつぶつ言うとは信仰の代償行為ですが、その代償行為があるのも当たり前のこと、人に信仰がないのです。信仰がないからこそ代償行為があるのです。(たとえば愛と呼ばれている欲も、人に愛がないから、それがあるのです)。そうして人にそれがないことを知らせるために代償行為があるのです。

さて、人はなんによって生きているでしょう。自然の恵みに依っているのではありません。なぜならそれが人の生きる原因ではないからです。他の人がいるからではありません。人は自分一人で生きていけないといわれますが、ですから人は人のなかで生きていくということでしょうが、人が一人で生きていくとはどういうことでいわれるのでしょうか。

これは拠り所をすり替えています。うーむ、たしかに人は一人では生きていけない、人はなぜか納得してしまいますが、その時にはその前提となっている経済を黙認してしまっています。また両親でさえ人の生きる原因ではありません。地位、名誉、金も人の拠り所ではありません。それは拠り所と思わせるために、それが無限のものであるかの真似をしますが、それは人の生きる原因ではありません。(原因は拠り所ではありませんが、原因に拠り所を置かないで何に置くといえるのでしょうか)。

人が拠り所をこの世界の何かに持つことができるでしょうか。もし神がいなくてもいても、人が拠り所をもつなら、それは神にしかありません。

もし誰かがわたしに、神を信じているかと聞いたとします。それが存在するものを、どうして信じるのかと答えるでしょう。この言い方では、神を信じるとか信じないとか言うことは、その人が神を知らないということしか示さないということです。

ところでわたしがこのところ何をいおうとしているのか、かなり自分でも難しいのです。この世界の在り方の特長として「覆水盆に帰らず」ということがあります。なにかが起こるとそれは決定されたものとなります。これはこの物の世界で決定されるということが行われるのです。

けれど、実際この世界は幻のように変化します。なに一つ止まることはないと言われます。するとこういう言い方ができます。この世界は決定するために変化すると、言えます。もちろんこの世界のなかにあってのことですが、人がなにかをすることはそれを決まったこととします。

たとえば人が結婚するということは結婚するということです。頭のなかでいろいろ妄思することがあるかもしれませんが、結婚したとしたらもう、間違いなく、結婚したということです。これ、意味があります。それを事実とするということです。で、そうしたということはもう自分でしたことですから(妄想とは違いますから)そうすることには離婚しないとか浮気しないとか仲良く暮らすとかいうことが含まれてあると思います。

それでなければこの世界の決めるということ決定するということ現実にするということが意味ないと思います。この世界にはこのような、何かを決めるということがあります。それなのにこの世界は幻のように変化します。この世界は全く止めるものもないからこそ現実のものにする、決まったものにするということができるのかもしれません。

また、人は生まれたままでは愛を知りません、自由を知りません、神を知りません。この世界でそれを学ぶのです。それを学ばないなら、多分生まれたままで在るところの感情や意識が代償をします。そうしてそのような仕方で、まだ無いということを知るのです。そうして得るのです。

この世界は人のためにあるのです。たとえば仏陀が世界は苦痛であると、この世界を避けたとするのは誤りです。もし世界が人をして仏陀にならしめる用意がなければ絶対に人は仏陀になれないのです。この世界は人のためにあるのです。

たしかに人が自分の感情や意識に倒錯し代償行為をするとしても、人が誤るとしても、その誤りも人のためにあるのです。誤りがあるということさえ無意味ではないのです。たとえば人が愛について誤るのは人が愛を知らないということです。人に愛がないということです。

それはその人にないだけです。ないからといって愛を否定してはいけません。誤っていることはすでに否定していることです。しかもそれはないからです。それはあたりまえで人は生まれたままでは愛を知らないからです。


昭和63年8月24日


さて、人がこの世界に生まれて、どのようなものが彼にあるだろうか。物心(これは面白い言葉です)が付いた場合、意識とか感覚とか感情とかは、改めて考えてみることもなく、人には普通に備わっていると思います。

このことに普通は疑問を持ったりもしないのですが。ですが愛や信仰や自由が人として生まれただけで備わっていると思うとしたら、とんでもない思いちがいです。人はこの世界でそれを学ばねば得ることはありません。(もし人に最初からそれがあるとしたら何のための命でしょう)。

しかもその学ぶ方法は非常に奇妙な仕組みによっています。人はそれが自分にないのに関わらず、あると思い、それゆえに苦痛があります。それを解決するまでは人はそれを知りません。

たとえば愛は、ない場合、感情とか意識とかが代理をします。そうしてそれ、愛が人にあるかのように振る舞います。しかしないのです。それは蜃気楼かも知れません。でもそれは人を取り敢えずは一歩でも前に進ませるのです。

けれどこの仮のものに人は捕らわれやすいのです。これを執着といいます。これもまた人の自己、これがまだない(からな)のです。人は自己を探しても見つからないかも知れません。それはまだ彼にないのです。これも人がこの世界で学ぶものなのです。そうしてこれもない場合、やはり感情とか意識とかが代理をします。(このような状態にあることを自我と呼ぶようです)。

この自我を否定することは困難です。それは実際にまだ無いものを核としてあるのです。ほんとうにそこには自己がないために自我があるのです。これを本当に否定できるのは自己がある場合だけです。(この世界に苦痛がなければシックルタは仏陀になり得ませんでした、そして苦痛であったのは彼がまだ仏陀で無かったからです)。

ところでこのようなことに関係していると思われることをわたしは観察します。ある人がいて彼は随分自分勝手な人です。それはいろいろな行動に現れます。そして彼がそのようで在り続けるということに観察があります。ある見方からすると彼は他人が自分のそのようなことをわからないと見なしているのです。

そうしてそう見なすということはその部分が自分にとっても麻痺しているのです。そのような麻痺があるために彼は自分勝手な人であり続けます。しかし彼がもっとも自分であろうとして深く根差しているものはこの麻痺です。(この麻痺を無知とも呼ぶようです)。

ある人は他人を物差しで計る人です。おなじことが起こっています。かれは自分の家族に欲を持って(まだ愛のない状態では、たとえば感情がその代理をします、それを欲とよびます)「家族は無条件に愛す」こういうことを公言して恥ずかしく感じません。

またある人は他人に併せようとしていました。他人はそれ自身で何かについて確かにそう思っているのだから、自分がその意見に合わせても、なんの悪いことはないという併せかたです。彼は賢くあろうとして愚かでした。それが彼を悩ませていました。

これらは偶然であるかもしれません。けれどある種のバターンがあるようです。人は自分の麻痺しているところに捕らわれますが、その現れでそれが何であるか、自分で判断できる何だかのパターンがあるようです。ここには人の在り方の依存関係のようなものがありそうです。

ところでこのようなこと、だれしもあるものだと思われるでしょう。その通りです。それは人がまだ自己でないために起こることではないでしょうか。そこには自己の代理である自我があるのです。

ところで信仰について人は「人は神が必要だ、何か人は頼りにしたいのだ」こんなことを言うことがあります。まったく、そう、人はこの世界のものを頼りにすることはできません。しかし神がなにか物のようなものなら、それも意味がありません。信仰のない人はそのようなものです。まだ本当に信仰がないために代理の信仰がそこにあるのです。

そこにそれがないのに、それを否定しているのです。そこにそれがないから否定するというのは当たり前なのですが、これは逆説的です。代理が主人を否定するのです。代理は主人でありませんから当たり前なのです。これは秘密です。否定することによって、代理は在りえているのですが、それは主人がまだいないからです。

これは全く理論的に誤りではありませんが、けれど実際そこに信仰がないことが誤りなのです。そうしてなぜ誤りであるかといえば代理だからです。そうしてこのような仕方で人はそれを得るのです。神に祈るかも知れません、良い行いをするかも知れません。けれど、まず代理の信仰が人にあります。代理の自己があるからです。

この世界は仮の世界とも言われます。この世界は幻ともいわれます。そう、人が自己ではなく代理であればその通りです。人は生まれたままではまだ自己ではありません。ですから無知であって当たり前です。代理がいて(これは余りにも過剰な恵みです、人は甘やかされています、ですから執着に止まることもできるのです)あたり前です。

ふつう代理という場合はなにかがあってその代理があるのであるが、人の場合はまず代理が与えられているのです。しかもそれがどのような意味でも主人ではないことを知って、それを得るのです。与えられるのです。この言い方は変かも知れません。でもね、意識とか感情とか感覚とかだって自分で作ったものではないでしょう。それに自我があるということ、それは自己があることなくては意味がないではないですか。


昭和63年8月25日


ところで人は、この世界に生まれます。ここでわたしは例え話をしようと思います。その人は生まれたばかりでまだ特になにも知りません。しかし成長していく過程で、この世界にはお金持ちとか有名人とか英雄とか権力者とか芸術家とかがあるのに気づきます。

しかしその人にはまだ力がなく夢見ることしかできません。どうでしょう、この場合は人にまず夢が与えられるのです。そうして努力とか運とかが始まるのです。面白いとは思いませんか。まず現実ではなく、夢なのです。

さてこれは例え話です。つまり現実は例え話なのです。だって誰でも具休的に言わねば例え話にはならないではありませんか。ということは別にして。このことは人の自己の例え話です。このことは人はあまり認めたくないでしょうし、だれも聞いたことはないでしょうが、人は生まれたままでは自己ではありません。

で、まず夢が与えられます。これが自我とか執着とか言われるものです。それはもっと多くを強さを求め続けるという特性をもっています。夢とはそういうもののようです。

ところでこの自我とか執着とかは夢ですが、具体的なので、これはかなり人を迷わします。人が生まれるということは人よ自己であれということなのですが、人は代わりにこの世界のものを求めるのです。感情の愛とか、物質信仰とか自由の感覚とか、いわば欲と呼ばれているものです。

それは世界に対象を持ち理由を持ちます。ふつうには前者は物と後者は心と呼ばれますが、どちらも自己の対象になる物にすぎません。

さて、この夢を人が現実に実現することに非常な困難をともなうし、いくら頑張っても満足しないのも、それが夢であるからです。もしそれが本当に実現されてしまって満足してしまったとしたら、それは夢であることはできなくなるではありませんか。夢であることの役割をそれでは果たせないではありませんか。

あるいはまた飽きてしまうようにできています。で、人はどんな人でもそれを夢であることを密かには知っています。これこそ人たるゆえんであります。というよりも人のなんだかの欲望は成就されたとしても人を満足させることはできないようにできていると思います。

また人が何かを欲望していても苦痛であり、無限に求め続けなければいけないような感じがするのは、それが夢として作られているということではないでしょうか。人はこの世界に決して満足するということはないでしょう。世界は人に対して、そのような役目を持って作られているのではないでしょうか。

ところで問題があります。ここで自我とか執着を否定しようとすることもあるでしょう。これは問題です。それらは幾ら具体的に見えても仮のものですから、否定しようとすることもあるでしょう。しかしただそれを否定するだけでは本来の自己が現れる保証はなにもありません。

というのも夢見ているうちはまだ自己はそこにも、どこにもないからです。ただこの否定しようとすることさえ人が行うことは希です。この恐れがあるからでしょう。そういう人、自分のタラントを銀行に預けることさえ出来ないでいる人が、おおいいのです。

ところでこの否定は困難です。もちろんそのことにも意味があります。否定し続けると自己はまだ現れない状態であるからです。つまり自己が現れたいために自我の否定は困難になるのです。

これは否定してはいけないから否定することが困難でもあるのです。これは苦行であり人がまだ悪魔の領域にあるということです。自己をさえ否定しようとすることだからです。


昭和63年9月1日


さて、イエス・キリストは例え話によらずには人に語りませんでした。例え話とは人にあっては、この世界です。それは人生の物語であり、そこから意味を汲み取るものです。もし誰かがわたしに、現実とはなんですか?聞いたとします。やっぱりそれは例え話だと応えるでしょう。

けれどその人はわたしのことを、とんでもない馬鹿と思うでしょう。ま、わたしはまだ現実とは何かなんて問う人に会ったことはないですが。さてこの、例え話は夢であるとこの前いいました。なぜそうなのか例をあげることができるかも知れません。主観と客観です。手段と目的です。

このことに人は確かな規定をすることができるでしょうか。定義をすることができるでしょうか。あるいは何でもいいのですが、何かを定義したりすることができるでしょうか。たとえばワープロとは?それは文書作成機であります。では文書とは?作成とは?こうなるともうわからなくなります。

ところが面白いことに、ふつう人が定義できないと思っているものが、はっきりと書かれてあります。神とはなんでしょう。それは「わたしは在るといわれるもので在る」自身でこう言われています。どうですか。

さて、わたしが言います。現実とは、例え話です。言います。するとこれは定義ではありませんか。ところで定義とはなにかと、言うとまたわけわからないですが。なにか定義するといえば、なんとなく定義ということの意味はわかっているように思えるのです。
で、現実とは例え話であると言います。と、これなんとなくわかるのです。しかしはっきり意味がわかっていわれているわけではないことが多いのです。人はこのなかで生きています。それは主観だ、これは客観だ、こう言っても、ただなんとなくそう言うことが変でない、自然に聞こえるといことで言っているだけなのです。

このことにも意味があります。このことが実はわけわからないことだと知ることは人はあまりないのではないでしようか。すくなくとも人は人とこのようなことを話あったりはあまりしません。天気や景気の話は毎日でもわけも分からずするのですが。

ところで、初対面の人とでも話あえることとは、どんなことでしょう。学歴、職業、経歴、経験、遊び?どうでしょう、それって人と人とのほんとのコミニケーションではないのではないでしょうか。でも、人ってそれを喜びます。人というもの、なんとなくわかるという気がしているのです。そうではありませんか。これ、ほんとに何となくなのです。あるいはまったくわけわからずといってもおなじです。


昭和63年9月2日


さて、このわけのわからなさは、ある意味ではただの無知ではありません。あるいはこのなんでもなさのなかに人がいるということは結構難しいことかも知れません。人はこのなんでもなさにもしかしたら不安を持つのでしょうか。

超古代の日記「07」






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