超古代の日記



昭和63年9月7日


知らないということについて。なにか良いことがあって人は喜びます。辛いことがあって人は落ち込みます。ひとりでいて淋しいかも知れません。しかしその例えば感情、それを人は何であるか知りません。ほんとうにそれは何でしょう。

そんなことを言ったら人が知っているものはないじゃないかと人は言うかもしれませんが、そうなのです。ビールを飲んで旨いという、そのことさえ何のことかわからないのです。それなのに人はそれに捕らわれたり、人は人を嫌ったり好きになったりします。自分の知らないものに依存しているのです。

あるいは知らないのにそれから逃れようとします。ひとりでいて淋しいから友達と一緒にいようとかします。いったいなんでしょうか。それは淋しさというものが解決されたということではないのに。

人は地位や名誉や金を求めるかも知れません。けれどそれがなんであるか人は知らないのです。ところである人は人に調子を合わせようとする人でした。それは自己保存を基にしていました。ある人は人を計る人でした。それも自己保存を基にしていました。そういうものです。

どっちにせよ、人に調子を合わせるということにせよ、人を計ることにせよ、自己保存にせよ、人は知らないのです。それなのにそれに依存します。そしてその自己保存の自己とはこの世界での生活、身体のことであることがおおいいのです。(あるいは人が自己保存に捕らわれるのは、人が自己保存を実現してないということです)。

しかも人はそれを知らず、それらは人から隠れているのです。人は人の知らないものに過剰に捕らわれるいわれはありません、なのにとらわれるとするなら、そこに意味があります。その人がまだ自己ではないということです。

あるいはまたそのことを無視するなら同じこと、その人が自己ではないということです。人はいいます。あなたを、お前を、愛している、言います。けれど人はそのことを知らないことがおおいいのです。取り敢えず、それは夢ですから。

わたしにしてもこの世界とは何だろう、考えます。これやっぱり自己保存です。人は地位や名誉や金を求めます。これ、やっぱり自己保存です。執着ともいいます。自己に執着するから、そのようなものを求めるのです。

けれど、それは本当の、本当に自己を求めているのではありません。却って逆の方向にあります。まだ人は自己では在りませんから、取り敢えず外に求めるということで自己を求めようとするのですが、実際は、自己を求めようとしているのです。

けれどそのことを忘れがちなのでしょう。人が執着する時には対象にではなく、執着していることに執着するということは正しいのではないでしょうか。さて、人はそのどれも知りません。それなのに過剰に捕らわれるのは、あるいは過少に捕らわれるのは、人がまだ自己ではないということではないでしょうか。


昭和63年9月9日


さて、例えばこの世界のどんなものも人の所有ではありません。だからといって人のものを盗んだら、これやっぱり悪いことです。このことは一体なんでしょう。わたしには理由がなく悪いことは悪いというように見えますが。これはまず前提、どんなものも人の所有ではないということが間違っているのでしょうか。

このまえ話した自由のように。あるいはもっと単純に、人の所有でもないものを盗むということは、自分の所有にするということなので、それが誤りであるということかも知れません。あるいは所有とか権利とか、そんな関係の中にはいることが悪いのかもしれません。盗んではいけないということは、神がモーゼに伝えた十戒、そのなかの一つです。

なにか人のものでも欲しいということは人にあるでしょう。そのことは何故あるのか、悪はなぜあるのか、これは何故なんだろうと人は思うこともあるでしょう。それは、人はこの世界に所有などないということを教えることでしょうか。どうでしょうか。

しかし人が物を所有すること、これも大切というか、どうしょうもない人の本能みたいな感じもします。神は特に所有を否定してはいないと思います。(わたしは聖書の神がイスラエルに約束の地とか子孫とかを与えると約束したことをどうも不思議に思っていました、それって現世利益だからです。しかしそれは多分神が人の自己を大切にするなら、人の生活も大切にするということでしょう)。

それに無所有を教えるためなら、人がこの世界に生きる理由もないのではないかと思えます。(もともと所有というものがなければいいではありませんか)。では所有したいという、その基になるものはなんでしょう。多分、自己保存です。(ただの欲の場合もあるでしょうが、おなじようなことです)。

さて自己保存とは普通は本能とか、倒錯とか、執着のこととして言われます。ここの話では盗むことによって、自己保存が人にあることが現れました。あるいは自己保存が人のものを盗むということによって隠れていながら有る、(実際そこにはなく、ただ隠れてあるという仕方で有るのかも知れません)。

この場合の自己保存とは生活とか身体とか欲とかを満足させることでしょう。このようにしてある種の自我があることが現れます。しかしわたしは言います、本当の自己保存とは人が自己であるということです。

で、なぜ盗んではいけないのかということから教訓が得られます。たとえば、盗んではいけないということは、ただ信じれば良いというわけではない、ただ行えばよいということではない、理解しなければいけないのです。

そうでなければ人にはまだ欲があり、それを抑えるだけでは、それが無いという訳ではなく、人はまだ自己ではないだろうからです。また人の内には、良いこと悪いことの区別は始めは理由もわからないかも知れないけれど確かにそれが有るし、それを大切にすべきなのです。

もし盗むなということが良いことか悪いことか分からずにただ従うだけなら(あるいはただ従わないだけなら)それから何を学べるというのでしょう。もし聖書が総べてであれば人の生きる意味がないではないですか。

ん−と、さて、盗んではいけないということで自己保存を抑えてしまって、それで終わりにしてはいけない。つまり対象物を得ないこととして、その動機である自己保存を抑えてしまうだけではいけない。人は自己であらねばならないということです。

たしかに自己保存は悪魔の領域にあります。けれど人が自己であるということは、そのことさえ人の役に立つように作られているのです。もし悪が必要ないなら始めからなければ良いではないですか。(人が作られた始めにはなかったのでしょうが、今はあるのです。あるのですから、ただそれを避けるだけでは不十分と思います。もしそれが本当に役に立たず無いほうが良いのなら、ないはずです)。

それは自己の夢、例え話なのです。このような見方、つまり盗んではいけないということは、人よ自己であれということであるという見方は、誤っているでしょうか。もし誤っているなら神はなんのためにそう言われたのでしょう。ほんとうに人の知る必要のないこととして言われたのでしょうか。

ところで律法学者から、戒めのなかでどれが一番大切ですかと聞かれた時、イエス・キリストは「あなた自身を愛すように、あなたの隣人を愛せ」「思いをこめ心をこめ精神をこめて神を愛せ」こう言っています。

それはただなんとなく選んだのではないのです。すべての戒めの意味を知って言ったのです。おそらく十誠にはそれを守るというだけよりも、はっきりした意味があるのではないでしょうか。


昭和63年9月17日


自己を知らない宗教は倒錯の宗教です。欲の宗教です。なにかが欲しい、極楽、天国に生きたい、みな欲の宗教です。無知であることも同じです。それらは何かを基準にしているのだと思います。

感情とか、意識とか、感覚とか。そして何か対象物を持っているでしょう。自力であれ他力であれ同じです。仏教であれキリスト教であれ同じことです。この意味ではたしかにどの宗教も同じです、どれでも同じです。

ところで人は日常で思うことがあると思います。金が欲しい、地位が欲しい、自分を人に認めさせたい、なんでもいいのですが、そのことは一体なんであろうか、これを考えることは大切です。それは自己の叫び声です。ふつう人はそういうことが必ず与えられています。必ずなにかあります。必ず人が捕らえられているものがあります。それが役に立つのです。それが、この世界で学ぶことの始めです。


昭和63年9月20日


なぜ、倒錯が欲なのか。それは自己以外の物に依り頼むことを欲というからです。


昭和63年9月25日


神がこの世界に拠り所を持つだろうか。この世界が神に拠り所を持つのです。自己はこの世界の何者にも依り頼んではいけません。

自我が有るということ、欲があるということ、それには意味があり説明できることです。そうでなくてどうしてそれがあると言えるでしょう。

ただ、自我を捨てよう、こんなことだけでは意味がありません。自我がなぜあるのか理由を示せなくては、自我について人に言ってはいけません。


昭和63年9月28日


人はこの世界のなかで生きています。人が自分の廻りを見渡すと、総べてが物です。これは面白いことです。そのどれかに人は欲を持つようになっています。この世界がこぞって人のために自我を提供しています。

そして自我とは自己の例え話です。それは否定するものではなく、いわば成就されねばならないのです。

ところで例えばこの世界の楽しみとかを求めると、人は永遠の命を望むかも知れません。この世界の楽しみを欲すると命に執着するということです。しかし人が命を求めることを目的とすると、どうでしょう、この世界の喜びを求めるでしょうか。

これは不可逆です。でもと言うか何と言うか、この世界の楽しみを求めることから命を求めることが始まるなら、始めの動機はともかくとして目的は、そのことは良いことです。

そして命を人は、この世界のものを得ることで得ることはないでしょう。(しかしイエス・キリストは言っています。わたしは命なり、蘇りなり、と)。

人は生きていて楽しむこと平安であること、そんなことによって、まず命の大切さというか、それを望むことを知ります。そのままではきっとまだ命の例え話しか与えられてはいないのでしょうが。それでもそれを得られるということが期待できるのです。
つまりこの世界の楽しみが原因になって望まれたことでも、それには頼らずに、ん−と、動機と結果は違うけれど、そのことに充分に正当性があるのです。考えてみれば人が自己であろうとすることもおなじです。

人は自己であることを目的とすると、実際この世界のものを求めることによってはそれは無理であろうということを知ります。始めは自己顕示欲でも自己主張でも何でもいいのです。それは欲であり、それは倒錯であり、それは自己以外のものを拠り所とすることであり、それは自己であろうとすることの始まりです。

それは自己の影であり、幻であり、夢であります。悪魔の領域です。ほとんどの場合、対象を求めるということは自己保存を呼びおこしますし、自己保存は悪魔の領域にありますが、自己保存を人が目的にするならば対象を求めることによっては不可能であることは人に知れるのです。

それは不可逆です。ただ愚かな人のみが可逆的なことだと思い違いします。そして多分おおくの人が愚かなままです。物に対する欲、そして自分に対する欲、これらがあります。


昭和63年9月29日


いわば欲によって自己であろうとすることは始まりますが、自己であろうとして欲することはできません。それは確かに欲によって自己は始まろうとしますが、それは同じものではありません。ですから欲の解放も制御も否定も無意味です。欲とは触媒のようなものです。

目的と手段はここでは明らかに違うのです。人はこの世界のものに欲することによって自己であろうとする動機を与えられます。そして人が自己であろうとするなら、この世界のものを欲することによっては得られないのです。欲とは手段というより動機と言ったほうがわかり易いでしょう。


・・・・・


・・・・・知れません。わたしはだれかに「あなたは神を信じていますか」こう聞かれたとします。わたしは「いいえ信じていません。けれど信じているといってもおなじことです。なぜって在るものを信じるなんていうのは変ではありませんか。信じるというのは半信半疑なのではないでしょうか」こう答えるでしょう。「わたしは在ると言われるものである」。神は自身でこう言われています。ね、存在するものを信じるとか信じないとかいうのはまったく変ではないでしょうか。




このあたり、かなり欠落しています。もしも見つかったら掲載します。




昭和63年10月11日


もしかしたら人が陰で自分の噂話をしてはいないだろうか。そんなことが気になることも人にはあります。なんて人は人に拠り所を持ちたいものなのでしょう。そういうわけかどうか知りませんが、人はいつも人とくっついていたりして、ま、たまには一人でいる時間があってそれを大切にします。

あー、自由だ、孤独は大切だ、なんて言ったり思ったりします。「浜辺には誰もいなかった」なんて訳わからないことを言ってみたりします。

そうすると、どんなに人は人を拠り所にしたいのかがわかるし、そのことは良いことなのです。けれどそういう人にとっては、きっと生活の何もかにもが苦痛でしょう。週日は人と働き、休日は家族とも離れて一人でいたいために、一日中クルマを運転する人がいます。彼にとっては社会にいることと孤独であることの意味が分からないでしょう。悪夢のように時は過ぎていくでしょう。

このような(社会と孤独とかの)両極端がある時には、人はその罠に捕らわれてしまっていますが、それはただ理解することによって解くことができるでしょう。けれど多分それを理解するということはできないでしょう。突き詰めてもどうしても理解できないところがあるでしょう。

そしてまた、人が自己になるとき、それはやはり理解できないところがあると思います。でも人が自己になるのは可能です。人が人に拠り所をもっている場合は、心の奥できっと、そのことを嫌っています。そうして自我がでてきているでしょう。

そうです、人が人に拠り所を持つというのは誤りです、そうしてそれを嫌うというのは正しくもあります。けれどそれは誤りです。その自我は社会と孤独を往復するでしょう。

たしかに人は人を拠り所にすることなどできはしません。けれど、ほとんど可能なのではあります。それが実は、それを否定しつつあるという上で可能なのです。

ところで具体的には、人は人を頼りにせずには生きてはいません。そうでないことは不可能なことです。だからといってそれは特に大切なことでもありません。なにもそうだからいってそれを、ありがたがることもありません。嫌がることもありません。


昭和63年10月11日


さて人が人に拠り所を持つと「おまえなんか頼りにするか」こういうことがあります。それはそう、本来的には人は人を拠り所にできないのです。ところがそれはまったく正しいことを言いながら誤っています。

もともと人は人を拠り所にできないのは事実なのです、けれどそういう様に感情的になっていて、その言葉が真実でありながら隠れているのです。これは人が人を拠り所にすると現れるひとつの在り方です。

じつに正しいことを言いながら誤っていられるわけです。これは研究対象としてかなり面白いことのように思われます。まず、なにより生活のなかで人はそのようにしています。

それは処世術です。人の成長過程で誰でもある時期には意識的に身につけようとし、あるいは拒否しながらも、そのことを忘れていながらそうであるものです。研究材料はこの世界に溢れるほどあり、これはこれで人の在り方の課題です。


昭和63年10月12日


どれほど人が人を頼りにしているか聖書にも例を見ることができます。アダムはイブを頼りにして知恵の実をたべました。それが男の罪であり、その罪によって知恵がはいりました。と言うより知恵の代価が罪でした。神よりも人の言葉を信じたのです。

「この女がすすめたので私は食べました」アダムはこんな情ないことを言った最初の人ともなりました。(ところでなぜ知恵の実を食べたことが罪なのでしょう、ただ神の命令に背いたことが罪であるとは思えないところがあります。知恵とは人を頼りにするということでしょうか?)。

ともあれ男は女を頼りにしましたが、女は悪魔を頼りにしました。だからかどうか知りませんが、このようなことは現状とよく一致しています。女の知恵は悪魔を拠り所としています。人を拠り所とすることも悪魔の領域にあります。

ところで人は社会的動物といわれることがあります。人は人に頼って生きているのは実際、現実です。それは極当たり前であって、わたしが人は人を拠り所にすることは誤っていると言いますと、変じゃないかということになるかも知れません。

「じゃ、お前、一人で生きてみろ」こう言う人がいるかも知れません。そういう人は、実際には人は人を拠り所にできませんが不思議にも、それが出来ている人だと思います。できているということを前提にして、実際にはできてないの・・・・・


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・・・・・言いますが、その心は、「あなたが醜と思っているものは(それは単に美と相対することによって認識されるのであって)実に醜ではない」ということを言っているのだと思います。

そのことは物事が、美醜が存在すると言いながらも実に存在するという程のことでもないと言っていることではないでしょうか。このようなことは自分の言っていることと内容が相反することではないかと思います。

(もちろん初めから物事は実際、定まったなにかコレと決まったものではないと言うことを言おうとしているのでもありましょう。その一つの見方として2元論もあるかも知れません。けれど、なにか物事にはっきりとした根拠があるのか、ないのか、根拠なしに物事はあるのかないのか、この間題はまた単なる2元論ではかたずかないでしょうし、別の問題とします)。

(またこのような考えは美醜を意識する人の感覚のあることを論外にしています。美醜を相対的なものだというなら、感覚はなんによってあるのかを言わねばなりません)。

ともあれ、ここでは単純な2元論をたとえにしていますが、それが理論だとして、理論にはその内に矛盾があることを人は見逃してはいけません。というのも理論的であることが正しくあるのは(いい加減な言い方をするなら)人が自己でない限りに於いてです。

またそうでなくても理論は拠り所を必要とし、前提とし、それを度外視しています。人の自己はそのような在り方をすることはできますが、実にそのようなものではないからです。


平成1年3月20日


もしそれが理論だとして2元論はどこまで正しいでしょう。(例えば老子が「世の人は知らず、美ありて醜あり」と書き残しました。今の世の中にも極まれには「健康があるから不健康がある」などという人もいますが)。

AがあるのはBがあるからである。このように言い換えることができると思われます。すると、AであるのはAがAであるというのはではなくてBがあることに依る。ということになるかも知れません。しかしなぜそうなのでしょう。

まずAはそれだけでは存在しないということは示されてはいませんし(AはAだけであるということは、在りえないとは示されていません)ですから、AはBによってあるということは明確ではありません。もちろんAはAだけであるという考えも何も明確なわけではありません。

この場合はどちらかが正しいか、どちらかが誤っているか、どちらとも正しいか、どちらとも誤っているか、条件や前提によって違う、ということなどが考えられると思います。正しいとか誤っているとかが何なのかといえば取り敢えずは、実情にあっているかどうかで決定することが一般的です。おそらく実情にあっていること・・・・・


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・・・・・います。ここではあると、ないが同じ意味なのです。不健康があるから健康があると言っても、不健康がないから健康があると言っても同じなのに、2元論はなかなか気がつきません)。

このような矛盾が依存関係にはあるでしょうか。一般に理論的矛盾は主張の誤りを示します。ただ、正しいことは理論的である必要はあるとは言えないのではあるけれども。ものごとの理論性が主張される時はこのことを考えてみてもいいでしょう。

2元論のように理論的な様を見せ掛けるものは大概矛盾があるでしょう。理論的でないものは正しいということではありません。理論的であるものは正しいということでもありません。

で、依存関係は矛盾するでしょうか。たとえば寒いがあるのは皮膚があるからであり、色があるのは目があるからであり、それは感覚があるからであり、それは意識があるからである、ということはどうでしょう。

(2元論からはどうしても解決がつかない、寒いということがあるということを、依存関係はまったく2元論から見れば信じられない程に深く、また信じられない程単純に示すのです。寒くても熱くてもそれがどんな在り方をしていても、依存関係は成立するのです
)。
余談ですが、例えば視覚は聴覚があるからでも、ないからでもなく、あるのです。

超古代の日記「08」






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