超古代の日記



平成1年3月21日


さて、Aがあるのは反(非)Aがあるからである。このように2元論を言うこともできます。もちろんこの場合でもAがあると言いながら、それは実はあるように見えるだけであって、それだけでは存在しない、無常だよ、ということを言おうとしているのだと思います。

ただそれで言おうとしている無常は多分人を納得させえないことでしょう。じつにこの世界が無常であろうが、恒常であろうか、どう言おうが、人の自己とはこんなものであると人に納得させようとすることなのですが、どうもうまくいかないことがおおいいと思います。

それは理論的に誤っているし、理論には反意見があるし、理論はそれらしく見えるということに価値があるだけのものだし、人がどれだけ訳わからなくなって自己を知るということであっても、なかなか難しいものです。

では因果関係はどうでしょうか。「ものごとは条件によって生じたものであり、それ自体では生起も滅もない」こういうならそれは2元論とあまり変わるところはないと思われます。この世界の無常を強調し、ついでに自己の無常を言おうとしてもいるのでしょうが、人とものとの関係がいまいち不鮮明ではないでしょうか。

では依存関係は何を示すでしょう。それは世界が無常であっても恒常であっても成立しますが、それもまた、人の自己の正しい在り方を示す、倒錯なくある在り方を示すのみであります。


平成1年3月22日


自己とはなにか?どうしてこのようなことが考えることができるのか?これを疑問にできることに、わたしは今日、不思議を感じました。そうしてたまたま、お経のなかに「空即是色・色即是空」というのがあったのを思いだし、それは「そんなことはどうでもよい」と訳すといいと思いました。

一般には「人が存在と思っているものは実は空で、空と思っているものは実は存在だ」と言うようですけど、これが対句であることを忘れています。すべてのことは空でも色でもどうでもよい、こういうことではないか、でなければ同じことを逆に言い直すことなど意味ないと思いました。

で、始めます。依存関係に矛盾があるでしょうか。依存関係とは、世界があるのは、それは感覚器官があるからであり、それは感覚があるからであり、それは感情があるからであり、それは意識があるからであり、それは自己があるからである、こういうことです。

そうしてそれぞれのものは、それ自体で存在しているにしても、条件によって生起するところのそれ自体では存在しないものであるにしても、同じあるということです。わたしには見つかりませんが、これには反対意見があるはずです。

というのも2元論がそれ自身を示すためにあったのではないように、依存関係も示すことがらがあるからです。それは単純。順番です。つまり(1)感覚や感情や意識は自己のためにあるのであって、(2)自己が感覚や感情や意識のためにあるのではないということです。(1)を正しく知ると言い(2)を倒錯と言います。倒錯とは執着の状態を言います。


平成1年3月23日


ここのところは非常に込み入っていて、迷路のようです。人は一生をそこで遊んでしまうこともできるほどなのです。もし人が執着を語ることがあるなら、その仕組みと、その働きを示さねばなりません。じつにそうでなければ人はまだそれが自分をどのように捕らえているか知らないということだからです。

ここで最大の誤りは、「煩悩は解脱のことである」あるいは「自然にしていれば人はそれで良い」ということです。これでは執着のある理由を全く無にしています。それさえ人の自己のために働くのを忘れています。執着とは自己の揺籠であり、別名を自己保存といいます。

自己保存とは面白い名前で、人が自己でないためにそれ自身を守るという、悪くいえば実に欺きの名前で、よく特長を現しています。それは決して自己を守っているのではありません。いわば人が自己になる可能性を守っているのです。

それは仮の自己であり、それ自らがそれを守っています。その場合自己はまだありませんから、それが自己の替わりを努めます。このことが人は身体や感覚や感情や意識を自己と思い込むという原因になっています。(ただ実際にはそのようなことができる人はいません。そうできた人を気違いというのだとわたしは思います)。

このうえで仮の自己は自分自身を守るために働きます、人が自己になるまではそのようです。それでこの自己保存を押さえ込んででしまうこと、あるいは忘れることは、あまり利口な方法ではありません。人が自己になる可能性をも押さえ込み、忘れていることになりやすいからです。

もちろんなりやすいというだけのことで、そうなってしまうことは殆どありません。これが人の人である所以です。この仮の自己が自己保存するやり口を見ること、つまり理解することは困難かもしれないけれど巧妙な迷路を解くような面白さがあります。

もし人がこれを理解しなければ人は自分のなかで迷っているといっても言い過ぎではありません。これは執着ということも一つの方法です。みずからを義とすることも一つの方法です。自由を求めるということも一つの方法です。


平成1年3月29日


人は自分で思ったことを自分で知ることができます。ビールが飲みたいとか、散歩しょうとか、そういうこととしても、そう思ったことをそう思った通りに知ることができます。これは不思議なことなのですが、み−んなはどうかな?

さて、自己保存。これはいろいろ難しいことがあります。と言うのもそれは仮の自己をそれ自身が保存するいろいろな方法があり、仮の自己といってもいろいろな種類があるからです。方法とは、倒錯がそうです。執着がそうです。みずからを義とすることがそうです。自由を求めるということがそうです。意味を知らないということがそうです。

種類とは世界がそうです。感覚がそうです。感情がそうです。思考がそうです。心がそうです。命がそうです。行いがそうです。ほかにもまだあるでしょう。それらは実に迷いの領域にあります。もしそれが迷いでないとしたら、それは自己でしょうし、自己は存在しないでしょう。

ただこれらの生じる基というのがなにかありそうな気がします。それは人が自分自身を知らないということにあるかも知れません。たとえば普通の自己保存と言っても、それが守ろうとしているものは身体とか感覚とか感情とか思考とか、そういったものですが、それだけならけっして迷いでもなんでもなく言わば本能みたいなものです。

それが迷いとなるのは、じつに人が自分自身が存在するかどうか知らないというところにもあります。このことを知らねばいろいろ問題がありそうです。これへの問いが、一応、ものそのものへの問いとしてあります。



平成1年3月30日


ものそのものの問いは「この壷が土であるように、お前は何であるか」という古代インドの親子の会話に例をみることができます。ここでは自己とは何かということがはっきり問われています。

これは生きても死んでも人の自己は存在しますか?という問いでもあります。これを人は知らないのです。この知らないことが自己保存に関わります。人は生きている時は自己(が存在)であるかどうか知らないけれど、死んでも自己でありますように、こんな願いがあるのではないかと思います。ただこの間いは困難で、だれもが考えたことは必ずあるとは思うのだけれど、すぐ諦めるというか忘れるというか、してしまいます。

けれどここでの自己保存の思いといういうのは実に切実で、それはこの問いが人の優先事項であることを示しているのではないでしょうか。それを破棄するというのはなにか理由があるのでしょうか。

ではその困難な面から少し見ていくことにします。人は自分が確かな存在だと思いたいとします。そうするとはっきりした根拠を求めるというのが通例です。なぜそうなのかわたしにはわかりませんが、取り敢えずはそうなっていると言っていいでしょう。

それで自己とかが何かに根拠を持つとします。するとどうでしょう。それはそれ自身では存在しないということになるのではありませんか。(もちろんこの反対の意見もいろいろな理由によってありますが、後述することにして、取り敢えずはこれで行きます)。

たとえば仏教でいう「条件によって生じたものは(それ自身で)生じたものではない」ということになります。その条件がなくなるとまた生じたものもなくなると説明されています。原因と結果、因果関係とも言われています。

それでもこの世では人は自分の拠り所を一生懸命に求め、そうするとが自己の存在を確定することだと思われているフシがあります。たとえば理論とか科学とか金とか地位とか親子関係とか感情とか、そういうものに人は拠り所を求めるわけです。

これは自己保存であり、この意味では自己の存在を知らないということが、自己保存の起原であるといってもよいでしょう。この無知さ加減を自分で認識するまでは、どうしてもそのような働きが人にはあるでしょう。それは言わば自己への問いの代償です。その代償もなくなるとかなり困ったことになるでしょう。

では拠り所がないのが、自己が存在するという確かな証拠になるでしょうか。このこともまた困難な道です。ものごとが、自己が、なにも拠り所がないならば、それはそれ自身で存在すると言えるでしょうか。これは言えません。それは全くの幻であるといってもよいからです。

これも自己保存の現れですが、両者は相容れることが、まずありません。しかしこのようなことがあるというのは必ず統合することがあるはずです。(ここで中道を言ってもいいのですが、中道とは単に真ん中とか両極端に偏らないことではありません)。

ではどうすれば良いのでしょうか。ここで後述を始めます。人がなにかに拠り所をもって、それでいて人の存在が確かなことがあるということがあります。それは人がかくある原因になっていることが、その拠り所であれば、そうでしょう。神がそうです。また、人は条件によって生じたのであるから、実際には生じているわけではないという考えもあります。生じていないのだから滅もまたないというわけです。不生不死とも言われます。

この世界のものを見るに、それらは原因とか結果によって生じている、この世界そのものが幻であるということです。これは龍樹の得意技です。(人の自己はいつも何かを探していますし、その対象物は原因なしで存在するのか、原因があって存在するのか、それはどういうことなのかそれぞれの場合についての理解する必要がありますし、この場合のものそのものとは何かという問題もあります)。

また例の古代インドの親子も彼等なりの依存関係で理解しました。肉体とか心とかを馬車と馬に例え、御者を自己に例えました。(ここでも依存関係とは順番のことであり、この会話を単に例え話としてみるならば誤った考えに見えます)。して見るといろいろな解決があるわけです。なのにこれが困難なのは、神は信じるということ、仏教関係は迷いの道で正しい目的にまで行くという難しさがあるからかも知れません。


平成1年4月3日


ふつう人には、人の上に立って仕事を仕切りたいとかいう気持ちがあるようです。でもそのことは人に、ほかの人を楽しませたい、喜ばせたいということがあるということではないでしょうか。

さて、ものそのものについて。これは自己を求めるということ以外にも考えられます。単にものそのものという問いです。なにかここにあるとか、どこにあるとか漠然としているけども、そういうものがあるのかないのか考えることができます。

ここに林檎があるとします。この林檎そのものとはなにか?だれもそんなことは問いません。それは林檎の理想とか原形とかを問うことはあっても、そんな問いは馬鹿げています。逆に言って、そのものが林檎であるというのは馬鹿げているからでしょう。何かわからないけどものそのものの問いというのはそれでもあります。

なにかものが、ものそのものの様子であることを知りたいということに似ていると思われます。これは世界の仕組みに関することで、そうするとやはり人の自己に関する問いに関係あることでしょう。

またある人が「わたしは自由だ」「わたしは愛している」そういうことを言うのを人は聞きますが、この時、問いが生まれます。わたしは自由と言っても、その自由とは何かを知らねば、自由と言うことは出来ないと思われるからです。

ところが多くの場合、人は自由の意味を知りません。知らないのに自由を言うのは全く変なことなのです。愛も同じです。そこで、自由とは?愛とは?なにか、これを問う時、ものそのものの問いになります。自由そのもの、愛そのものの問いになります。


平成1年4月5日


「みずからを義としてはいけない」。ふつう人は自分の良いところにこだわるというか、それにしがみついて生きています。一人、こころの中に自分の良い所を大事にして生きています。

たとえばあの人は道路にゴミを捨てるるけど自分はしない、あの人はケチだけど自分は太っ腹であるとか。なんでもよいのですが、そのようにして人は自分の良いところにしがみつきます。

これは他人を不義とすることに依って自分を義とする働きです。だからそんなことをしてはいけない、こう言っても簡単には聞かないのが人の世界です。なぜ、みずからを義としてはいけないのか理由が分からないからです。

いくら聖書の神が言ってもそうです。聖書の神を信じる人にとっても、信じない人にとっても恐らくは同じです。これがどういうことなのか理解できないからです。またもし理解できるなら聖書の神を信じる信じないは別として、その誤りを知ることができると思います。

みずからを義としてはいけない、一つにはそのことが、人が自分の思いや行いや物や何やかにやに拠り所を持つ所にあります。人が何にせよ拠り所を持つということは、人が存在しないということでもあります。(これも一種の欲であり、自己保存の一種として働きます)。

人は正直さとか、財産とか、そういうものに拠り所を持たなければ人ではない、そんなつまらない存在ではないと思います。たとえば正直さは人のためにつくられてあるわけで、人が正直さのために作られてあるわけではありません。

ま、これだけではないでしょうが取り敢えず話を進めます。この他人を不義とすることによって自分を義とするという形だけで人は自分を義とするわけではありません。

ただ「あいつは悪い」このことだけで、特にそれに対する自分のなにか良いことがなくても人は自分を義とすることができます。

またさらに、「自分は良い」このことだけで、理由も何もなく人は自分を義とすることができます。このことは普段は意識に上ることはないでしょうが、隠れてあるでしょうが、そうなのです。

この一見不可解なことにもちゃんと意味があります。すこし振り返ってみましょう。他人を不義とすることによって、その上に立って自分を義とすることは、その拠り所が不義ですから、まったく義ではありません。不義の上に成り立つ義はありません。

義と不義の2元論に捕われているのです。それに実に他人を不義とすることは自分を不義とすることです。他人を不義とすることによって自分を義としようとする働きは(ひとりよがりと言うか自分勝手というか)、裏目に出て、自分を不義とすることになってしまっています。

その人が幾ら正直で純潔で熱心であっても、それは恥ずかしいことかも知れません。他人を不義とすることによって自分を義とすることは、実は自分を不義とすることなのですが、そのことに気が付かせないために単に「あいつは悪い」単に「自分は良い」こういう仕方でみずからを義とすることがあるのではないでしょうか。

理論の矛盾もなんのその、ただ言い張ることができるというわけです。それは自分の理論の矛盾に気がつかせなくする働きをもっています。(しかし自分を義とするというようなことを行っている人は非常に理論的であると自分を見なしています。実際、理論的です。理由をちゃんと説明できるものです。そうして理由とは何であるか知りません)。

でも冷静になって考えると、どうも変です。人が正直であること、信心深いこと、熱心なこと、努力すること、勤勉なこと、情け深いこと、これが不義なのです。(このようなことが総べて、みずからを義とすることにおいては同じことであるのは興味深いことがあります。たとえば、清貧なことと、財産を持っていることが同じことなのです)。

こんな筈はありません。けれど時として信仰さえ、正義さえ、不義なのです。これは特に人の世界の歴史が実証しています。単にそれは義ではないものを義とする(なぜなら義は義であろうからです)という理由だけでもないと思います。不信仰、怠惰、嘘、悪、それらが不義であることは確かでしょう。

しかし義さえも不義なのです。これは何を示しているでしょう。(ここでやけくそになって、不義は義である、なんて言ってはいけません。みずからを義として悪になるなら、いっそ悪になれ、そのほうが正直だなんて言ってはいけません)。

よく見ると、人はある面では義であり、ある面では不義であるのが普通です。たとえば熱心であって人はそれを義とすることもできます。そうであって全く極悪非道であることもできます。人は正直であってそれを義とし、嘘つきであることもできます。

人は情に厚くあり、それを義とし、氷のように薄情であることもできます。人は感情で愛しそれを義とし、憎しむことができます。これは決して珍しいことではなく、人は多くそのようなのです。自分の不義から逃げ、義に頼るのです。

あるいは不義に頼るといっても同じです。人が総べて於いて義ではないこと、これも問題です。自称正義の味方は無知で、一人よがりで、威張っているかも知れません。潔白の人は意地悪で、嫉妬ぶかく、二つこころのある者かも知れません。

じつに数を数えることができるとして義の数は少ないでしょう。おおくの不義から逃げ、人は意識もしない仕方で、その多くの不義を後生大事に抱え込んでいるのです。それだけでも悪事ではないでしょうか。

このようなことについて聖書の神は、戒めの一つ二つ守っているからといって何の意味があるか、というようなことを言っています。簡単に言うとそれは愛の欠如ではないでしょうか。

愛は相手の不義は問題にしません。愛は自分を義としません。ならば義、不義の問題は愛の欠如の上に成立しているのではないでしょうか。いや人ははもう愛することに依ってしか不義から逃げることができないのだと思います。

人はみずからの義を捨て、愛さねばならないのかも知れません。いきなり愛がでてきて、わたしもよく分かりません。よく分かりませんが例えば不義なる人を見て、あなたは不義であると言ってあげなければ、それはやはり罪です。

けっしてそれによって自分を義とするこことなく、正しいことを行うためには、愛なくしてはできないのではないでしょうか。

さて「みずからを義としてはならない」このことがなぜ言われるのでしょう。人が自分を義としてなぜいけないのでしょう。全然いけないことはないように思われます。いったい人がみずからを義として愚かしくあるかも知れないけれど、それで生きて死んで、なにがいけないのでしょう。その人の勝手とも言えます。これが問題でした。


平成1年4月6日



自己の存在の無知に対する代償行為が、自己保存です。というより、自己保存は自己の存在の無知の代償です。というのも人は自己が、それ自身で存在するものかどうか知りません。非常に不安なわけです。なぜ不安かと言えば、人が生きているからです。生きているから取り敢えずは、なにか分かりませんが人は自分だと思っていられるからです。取り敢えずはここから始めます。

そんな人は世界、人、自己の構成要素に拠り所を求めます。たとえば自然、家族、財産、感情などです。それは人が自己の存在の根拠を求める働きです。ところが根拠あって存在するものは、それ自体の存在としてあるものではありません。原因があって存在するものは、それ自信で存在の原因ではないと見ることができます。

それなのに人は自分の拠り所を、自分が自分であろうとして求めるわけです。これは不思議に思える、理にかなってないように思えるかも知れませんが、出世したい、金持ちになりたい、有名になりたい、こんなことは人が自己であろうとする働きです。この世界にあって人は自分を頼りにすることもできないのでしょう。

人は自分が無根拠であることを恐れるからかも知れません。無根拠とは、まったく自身で存在するものであるということにはならないからでもありましょう。なんとなしの不安感があるのでしょう。ようするに、ただ無根拠であるだけでは人は自身で存在するものではないことを知っているのかも知れません。

それはまったくその通りです。ところで人が拠り所を求めるその様子をみて見ましょう。人は求め続けます。それは人が拠り所と思っているものが、実に拠り所とならないからです。人の存在の根拠に、原因に、ならないからです。ですから、人は求め続けねば、仮のものとしても、それを拠り所と見なすということはできませんからです。

超古代の日記「09」






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