超古代の日記



平成1年4月8日


では、その在り方をみてみましょう。それは対象にするということによって始まります。例えば異性を対象にすると、人は自分の身体や心が、その主体です。財産を対象にすると、自分の才能とか仕事とかが、その主体です。

ところでこの世界では往々にして、対象を求めて得られないことがあります。と、強く求めることがあります。そのようになっています。総べての望みが叶えられるということはないでしょう?

唯一つの苦悩、絶望があるとしても人は、それに捕らえられるでしょう?なに不自由なく生きていてもただ、鼻の形が悪いだけでも、それはどんなに苦痛になるでしょう。金持ちになりたい、有名になりたい、恋人が欲しい、この世界はそのようなことを絶対に用意しています。

すべてを諦めるという方向もありますが、そのことがその人にとっては望みでしょう。この世界は、それぞれの人に無数の、あるいはたった一つ二つかもしれませんが、用意しています。ま、単純に地位とか名誉とか目に見えるものを求めることもあるし、人が死ぬこと、病気になること、老いること、苦しむこと、に対する答えを求めるような難しい求め方もあるでしょう。

そんなわけでどういうものを対象にするかで人の在り方はいろいろ分類されることでしょう。あるいは恋人を求めることのように、求める人、病死を避けたい人のように、避けたい人、このように分類されることもできるでしょう。

でも後者は健康を求める人、命を求める人ともいえますので、前者との違いは強度の違いに見えるかも知れません。さて、求めると主体が立てられます。ここにちょとした仕掛けがあります。人は対象を求めて、それに対応する主体を立てます。この主体は存在するものとして、前提にされてあるものとされます。

一般に前提とされるということは、実体があってもなくても取り敢えず、あることにしょうねということです。たとえば感情、それはあると見なされます。過剰にあると見なされます。それがまた対象と結びつきます。いわば発振状態です。

しかも感情があるのだから、何か自分というものがあるものとされます。こうなるともう立派な執着と言えるでしょう。また、人は対象を求めていると自分でも思っているかもしれませんが、実際にはそれ以上に求めているのは、自分なのです。

もし人が執着するほど求めるならば、人は対象より、その求めている自分に執着するのです。しかしこの自分はやはり対象物であって、自己ではありません。けれどこれは仮の自己として機能しえます。こんなものを否定しても肯定してもいけません。それは人が自己になるための用意ですから。(自己保存は自己を知らないということの補償作用でもあります)これはそれ自身を守ろうと思い悩みます。

これが自己であろうとします。主人が留守の間に自分が主人になろうとする召使のようです。それは過剰に求めます。求めてあること、求め続けること、これが必要です。そうでなければこの仮の自己は維持できないと思われるからです。これを自己保存と呼びます。自己保存とは仮の自己を守る働きを言うからです。(単に保身のことを自己保存と呼ぶ場合もあります)。

これは充分に倒錯状態です。自己のためにある例えば感情に人が奉仕しているからです。感情が人のためにあるのではなく、人が感情のためにあるようになっているから(実際には仮の自己があるから)倒錯と言います。これを欲とも言います。欲とは何回も言いますが、自己以外のものに拠り所を持つことを言うからです。(物とは自己以外の総べてをいいます)。

そうしてその状態では感情も意識も感覚も混乱してあります。この混乱がなければ恐らく執着はないでしょう。(混乱とは人が依存関係を知らないということです)。われ先にと叫びたてているのです。この場合人には理由というものが、求める理由というものが考えられてあります。

ところが理由とは人が勝手に都合のよいように作るだけで、さらには本当にめいっばい求めないでいるために、人が無意識に工夫するものです。なぜなら、理由が変わると求めることも変わるかも知れないではないですか。これが簡単ですが、執着の仕組みです。

では、それは何のためにあるのかが言われねばなりません。執着は人の役に立つのです。なぜならそれは自己のない人を守っているからです。人はただ生まれただけでは自己ではないのです。そしてそれを理解することによって不思議ですが、人は自己を知るのです。

この世界の総べてのもの、それが人を自己にするために働いています。この鍵は、みな人の手の中に握られています。人は自分の手の中にある鍵を探して、世界中を歩き回っているかのようです。

その鍵とは、人が自分の思ったこと行ったことが自分で分かるということです。この野部、貧乏人め、馬と鹿、どう思っても人には思った通り自分でわかるのです。自分でしたことが自分でわかるのです。自分で言ったことが自分で聞こえるのです。それがどういうことなのか自分で考えることさえできます。

さて少し振り返ってみます。人が対象を求める、それだけでは執着ではありません。単に食物を食べる、音楽を聞く、異性を見る、これだけでは執着とは言いません。

これ、何が違うのでしょうか。そして単に求めて得られないことがあっても、執着とは言いません。混乱が現れてない限りはそう言いません。ではこの混乱とはなんでしょう。ある程度は自己であろうとすることからそれは起こると言っていいでしょう。

つまりは自己の存在の無知を意識した時から始まるのでしょう。人が自分の拠り所を求めること、あるいは自分の拠り所を求めないこと、このことは自己の無知によるかも知れません。

ところで自己であろうともしない、ということも人にはできます。こんなにも世界中、人が執着できる対象がばらまかれてあるのに、それにあまり気をつけない人もいます。自己であろうともしない人です。おおくのそういう人は自分を常識ある人と見なしているでしょう。おおくの人がその通りだからです。

ただ、ものを対象にして自己であろうとすることは、けっして自己であろうとすることではないから、そういうこともできるのです。ま、そういうこともあります。ここにピアノがあるとします。弾けるようになりたいと思ったとします。すると弾けない自分を強く意識するのではありませんか。それと同じで、人はまず自己が分からないと意識するのではないでしょうか。ピアノに触ってもみない人もいます。


平成1年4月17日


普通の意味では自己保存とは、人が自分の生活とか身体とか命を守るために、何かをしたりしなかったり、そのことによってあるいは他人に迷惑を掛けることを言います。そうしてそういう自分に捕らわれていることを言います。外見上ではそうなのですが、実際には人が自分であろうとすることです。

それはまったく馬鹿な方法なのですが、地位とか権力とか自分の感情とかに拠り所を持とうとすることは、人が自己であろうとする努力なのです。

なにか、しっかりした基礎が欲しいのでしょう。ただどうしてもそれらは得られないようになっている(もし人が基礎を持ったとしたら、人は人ではなくなります)から、それがそんな幻想を人に与えることもできています。それは人が自己の存在について無知であることの代償作用です。

この世界は、全体としてその代償に供されてあります。そして、この世界では人は自己を見つけることは無理です。無理ですが、人のそうなろうとする欲求は非常に強まります。

ここで二つの方向が先ず始まります。(1)人がこの世界のものに拠り所を持とうとすること(2)人がこの世界のものに拠り所を持とうとしないこと、があります。

先ず(1)は多くの人が選びます。たとえば家族、国、職業、金、人、感情などに自分の根拠を持とうとすることです。これは少し考えればそれ自身が矛盾です。人がなにかに拠り所を持つということは、人が存在ではないことだからです。それにこの世界は人に代償として供されていますので、その努力は現実不可能です。それでも止めず自分がなにをしているのか知らず頑張るのが多くの人です。

というのもそれらは決して手にいれるということは出来ず、したがって手にいれることが出来たら自己も実現するという幻想を与えることができるからです。(まず、手にいれることが出来ないということは人のためにそうなっています。そうして幻想を与えるということも人のためにそうなっています)。

こういう人は多くいますので研究対象にはこと欠きません。また、余りに多く人に供されていますので却って主人公になった気持ちで頑張るのをやめる人にもこと欠きません。こういう人が普通には自己保存の人といわれています。取り敢えずは生計をたてるということくらいしか守るものがないと思い込んでいるかのようです。

もう努力することもしないのですね。いや多くは卑怯な方法でするでしょう。なんでもいいのですが、それさえ人の救いになります。その自分に気がつくからです。でも、まだ気づいてない人は、自分がこの世界に生まれて来たことも忘れているのでしょう。

わたしはどちらかと言えば(2)の人です。これももちろん間違っています。この世界のある意味を拒否しているからです。(1)も同じくこの世界の意味を失念しています。ではどうすればよいか?この世界の意味を知ることによって、とわたしは思います。

単にどちらつかずではいけません。それでは人は生まれないでも同じです。「人は自然でそのままでよい、執着を捨て、そのままであれば人は自己である」なぜそんなことを言う人がいるのでしょう。それでは人が生きる意味もこの世界のある意味もないのです。

ま、人はそれを理解しないで執着を捨てることは絶対にできませんけど。まったく面白い、そうであることは人は余りに甘やかされているということです。まったくそういうことができるとしたら人にとって重大な損失です。それが出来ないように人はできています。

この世界には余りにも多くの救済方法があります。それゆえにそれに気がつかない人も、おおいのです。この世界そのものが救済方法でありますから。この世界は人のためにあるのです。


平成1年4月20日


                                                              あるいは否定のうえに成り立つものについて。それは自由を求めること、幸福を求めること。ふつう人がこれらを求めるというのは実に人が不自由であり、不幸であるからです。この簡単なことが人には、なかなか理解できません。

その求める自由、幸福は、不自由、不幸の上に立っています。ところが不自由の上に立つ自由などなく、不幸の上に立つ幸福などありません。

これは愛もそのようです。欠乏から充足をもとめるその方法で、それらが得ることができたとしても残念なことに、真の自由でも、幸福でもありません。じっさい何か苦痛なことがあって求める自由というのは、ただ条件が変わるということだけであり、それは自由を得たことにはなりません。

ただここで非常な注意が必要です。だからと言って自由や幸福がないと考えてはいけません。けれどそれらは、ふつうの意味での、あれらやこれらとしてあるものではなく、そのようにして人に求められるのであり、そのようにして人にそれがあるということを示すのです。これを知る者に幸いあれ。

それは観念でなくかえって、それが実在であるからです。この否定の上に成り立って求められるものは、それゆえに、それを否定しても肯定しても、なんの意味もありません。自由を求める人に対して、自由など求めても何にもならないと言うにしても、めいっばい求めなさいと言っても、どちらも意味がありません。

自然に生きなさい、あるいは渇望しなさいと言っても、どちらも意味がありません。そのどちらもが否定の上にあるからです。そうしてそれが否定の上に立って呼び掛けないでいて、在ることを知る者は幸いです。

それは、まったくの否定ではないもの、存在です。存在はそのようにして語りかけるのです。それを知る者に幸いあり。この貧しき世界に祝福あり。


平成1年4月22日


このことをもう少しうまく説明できるか試してみます。ある人が真実を求めるなら、その人は自分で微塵も思ってなくても、不真実の上に立っています。そして自分が不真実であることに気がつきません。ある人が愛を求めるなら、その人は愛がありません。いま愛がない状態にあるわけで、それで求めているわけです。ところが自分に愛がないなどとは思いもしないことがおおいいのです。

なにか(異性とか家族とか友人とかの希望される姿)が得られたら愛も得られる、いまはそれが得られてないだけであるようにしか思っていません。いまお金がなくて貧乏、金さえ得られれば金持ちになるといったようなことです。

ところが人は金が欲しいのではなく、幸福が欲しいのです。愛を得たい人は、恋人や友人や仲間が欲しいのではなく、幸福が欲しいのです。(こうであるからこそ却って何か対象を得るというだけで世を過ごすこともできるというものです)。

たんに何かを得ることによって得ると思っているのは、ピアノを前にして自分が弾けないのを強く意識するのですが、手がキーに届きさえすれば、指が動きさえすれば、ピアノが弾けると思っているようなものです。ほんとうは音楽をしたいのであり、自己になりたいのではないでしょうか。

ところがもっと悪いことには、おおくの人がこの否定のうえに立っているものを、初めから認めません。愛を求めることは、自分に愛がないということの上に立っていますので、そのことを意識することさえ嫌うのです。そういう意気地なしは結構います。

ピアノに近づくことさえ嫌うのです。この世界に、それがなければその人はどんなに楽でしょう。けれどあるのです。ま、とにかく例えば愛は、人にないゆえに求められます。それは愛の欠如と言うより、愛が否定の形で現れているのです。

その人の全世界が愛のない状態にあります。その人にはまだ愛がないのです。それがまだないというところから始まるのです。

で、この時、愛を求めることは、愛のないことを強化することでしかないことが、おおいいでしょう。このような時には人は、あれこれ何かのもの(恋人とか子供とか身近な人の理想性)を求めることで愛を求めているでしょう。

ところがこれはもともと愛のないことを基礎にしてあります。それで、それ(対象)を得られても愛を得ることにはなりません。それを得たとして愛を得ることにはなりません。

(それを得て愛を得たわけではない、ということを教えるためにも執着はあるのです )それは必ず満足を人に与えません。またそれを得ないでも愛を得たわけでないことを教えるためにも執着はあるのです。それは必ず苦痛を人にもたらします)。

また、それを得ないでも愛を失うことにはなりません。もともとそれは愛のない上に成り立っているからです。これが愛を求めても、拒否しても同じことだということです。この世界ではどちらもできますが、これがその理由です。

それらを経験することができ、それらを並べてみて、愛のない上に成り立っているということを学ぶことのできるように仕組まれてあるのです。愛のないという上に立って愛を求めることも拒否することもできますが、それは何かを得るということによって愛が得られる、あるいは何かを得られないということによって愛を失うという思い、その思い自身が誤ってあるからです。

全世界が、かかりっきりになってそんなことをやっています。この人生の中で人は愛を求め、あるいは拒否し、あるいは諦めています。しかしそれは愛とはあんまり関係のないことです。いや、人にまだ愛なきゆえに、それはできるのです。

では愛とか自由とかではなく単にこの世界で求められると思われているものについて見てみましょう。権力、自己顕示、地位、名誉、財産、復讐、これらは、それを求めることによって求められます。権力を得ることは、権力を得ることであると思われています。復讐することは、復讐することだと思われています。

その始まりはもちろん、それらの無さに依ります。これらはしかし本当に、それを目的にして、それを求めているのでしょうか。それはやはり自己を求めているのではないでしょうか。だとするとそういう人は酷い思い違いをしています。その人は本当は自己になりたいのに関わらず、あれやこれやを求めてしまうのです。

そうしてそれを得られた暁には自己であり得るだろうと思ってしまうのです。それはそれが得られて無い限りにおいてしか成立しません。

そういうことがなぜ起きるのか?人はこの世界に生まれただけでは自己ではないからです。自己ではないこの人が、まだ自己の否定であるものが、自己を求めているのです。で、あれやこれやを求めることで自己になれるかもしれないという思い違い・・・執着・・・は、やはりそれは人の役に立っているのです。執着とは悪魔の領域、迷いの領域ですが、それは人の役に立っています。

それがなければどうして人は自己になるでしょう。この世界は思い違い、誤りでできていますが、それはそのように作られているからです。総べてが自己のない上に成り立っています。いいですか、自己がまだないゆえにこの世界は成立しているのですよ。まだない自己のためにさえ、この迷いの世界は成立しているのですよ。

それは計り知れない程の恵みなのですが、人に余りに近く殆どそのことに気がつきません。どうして普通、人が生きているだけで自分が自己であると思えるのか、不思議なことですが、それは人が自己でないことを知らないということに依るのだと思います。愛を求める人が自分に愛のないことに気がつかないのとおなじようなものでしょう。

この世界を対象にして人は幸福を感じることがあるでしょう。そのようにして幸福を求めるのです。けれど、幸福を求めると、もうそこ、この世界にはないのです。人があまりに愚かでなければ、その不可逆性に気づくでしょう。

けれど権力、地位、財産、それは求めて得られると、得られるでしょう。それらは可逆的であるとの見せ掛けをします。けれどもうそれは自己を求めていることに気づくべきです。自己であること(おなじことですが自己でないこと)の代償行為はもう止めましょう。(人が自己の存在を知らないために行う代償行為、これが自己保存の定義です)。

たとえばある人が自由を求めたとします。求めるということは本当の自由を求めるということです。けれどこの世界では割と代用品の自由があります。政治からの自由、行動の自由、表現の自由、そんなものがあります。それで自由を求める為といっても、そんなものを求めていることがおおいいのです。

それらは総べて、自由がその人にないから出来ることなのです。それは自由の否定の上になりたっています。たえず自分で自由を否定していると言ってもいいくらいなのです。しかもこの自由とあの自由が同じ言葉で言えるので混乱してしまいます。こんなことに一生かけて償わないように。あれこれ何かとして求める自由が、不自由であるにしても、ほんらいの自由があることまで忘れないように。

人の世の自由、それは否定の上に立っています。それがそうであることは、自由を知らねばどうしてもわかりません。愛を知らねば、人の世の愛は愛の否定の上にあることが、そしてその肯定も否定も同じことであることが分かりません。(ところでわたしは愛と自由とを同じように言っていますが、実際わたしにはその区別がつきません)。これらのこと以上の総べてはあの言葉、「あなた自身を愛すように、あなたの隣人を愛せよ」に示されてあります。それはじつに愛を知る方法でもあるのです。


平成1年4月23日


「神を見なければ信じない」について。それは人に神を見せてくれと頼んでいることではないでしょうか。それならその人は見ることはできません。自分の目を信じていないからです。

このようなことは世間ではよく行われています。自分の目を信じずに他人の目を信じるのです。自分で見ているものより人の噂話を信じるのです。

これがどうして行われるのでしょう。主観は誤る、客観は正しい、なんて思っているのでしょう。でも多分、みんな馬と鹿でいようね、というところでしょう。

このあたり、かなり欠落しています。もしも見つかったら掲載します。



・・・・・


・・・・・を自我と言います。それはそれ自身では存在しないものであるために、探しても見つからない、探すと見つからないのです。それは、それ自身ではないからです。アグ何とかという人が「時間を考えてないときには知っているが、それが何だと考えると私はそれを知らない」というようなことを言ったそうです。

さらに例えば「物は変化する」ということにしても実際には物が変化すると言うよりは、変化するから物があると言ったほうが良いと思われることがあります。

昔のギリシャ人が「おなじ川の流れに二度と足を踏み入れることはできない」と言ったと言われます。そうしてそれは万物は流転するということのように思われています。けれどそうではありません。流転するから万物はある、このように絶対の流転をギリシャ人は見たのではないでしょうか。

たとえば音楽は音の変化ではありません。変化するから音があるのです。音が変化するということなどどうしてありえるでしょうか。ところが変化とは何か?と言えばまた分かりません。しかしこの流転ということをある程度わかりやすく人が勝手に切り取って隠れた反対テーマによって2元論的に見たものが普通に言われる因果関係というものでしょう。

超古代の日記「10」

このあたり、かなり欠落しています。もしも見つかったら掲載します。







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