超古代の日記



平成2年2月6日


人は自分達がつくった仏像、神の像などを拝んだりするけれど、どうして自分達をつくった神を拝まないのだろうか?

さて、恵みについて。もし人が感情と自己を同一視するなら、そこには良い感情も悪い感情もあります。ある人に親切であることもあるし、ある人に意地悪することもある、それが同じ人のうちにある。

一緒にいる時は愛想よく、いないところでは同じ人なのに、あざけっていたりします。たとえ自分では良い感情を追い求めていると思っているとしても、悪感情は必ず潜在してある。その良い感情は悪い感情を拠り所としてあります。

その良いこと悪いことの対立に人は捕らわれる。もし人がそのようでなく在りたいとしたら、それは自己では無いということを知るほかにはない。そうでなければそれには限りがない。ひとつは現れひとつは隠れて、そのようなトリックに人は眼を奪われて我を忘れてしまう。人は感情のなかで迷ってしまう。人を嫌いな気持ち、好きな気持ちは自分ではどうしようもない、などと言ってしまいます。

ある人が恋をした。そうして失恋し、またほかの人に恋をした。ここで見なければならない。人から人へと移っても、この恋はある。と、いうことは恋は対象のいかんに関わらずある。その恋はここに単にある、そういうものではないだろうか。

怒りも、喜びも、嘆きも、哀しみも、それはある。身体に手や足があるように、それはある。それだけだ。それは自己ではない。良い感情も悪い感情もある、それはそのようにできているのです。なんのために?そう、それは自我をつくるために、そうして自我とは自己の留守番、代理人なのだ。自己の到来を待っているのです。

それは恵みです。守りの恵みです。そのことに人が気がつきますように。人はこの世界の中の何かを対象として感情を起こし、その感情があるということは、その主体であるところの自分自身があるのではないかと思い違いをするのです。

そのような自分自身(自我)であるために対象などにしがみつき続けるのです。ところで一般に人は悪い感情、憎しみ、嫌悪、欺瞞などを発達させやすい。誰でも嫌な奴、悪い奴は世に沢山いると言います。

だけれども、それも恵みです。なぜならそれが充分に発達したら、それを捨てやすいではありませんか。何という配慮。何という奇しき技。

また、人が物的対象に自己同一視したい時には、対象は美もある醜もある。熱いもある冷たいもある。高いもある低いもある。人はそれに捕らわれることができる。しかし、そのなかでいくら生きても迷いでしかありません。

そのなかでいくら清く正しく美しく生きたとしても、それは迷いでしかありません。人が自己でありたいなら、それは自己ではないと知ることしかない。それは殆ど無限の迷いなのです。それに人は魅せられてしまいます。

それが恵みです。迷いなら、それを捨てやすいではありませんか。幸福もあり不幸もあります。人はもう不幸を嫌ってそれを捨てることができます。それなのに自分で想像している幸福ばかり追い求めて不幸に捕らわれます。

これも恵みです。それは人の自我を守ってくれています。そのことを人が知ることができますように。また人が思考に自己同一視したいなら、そこには単純なものも複雑なものもある。劣ったものも優れたものもある。人はそれに捕らわれる。そこでいくら学んでも、求めても、それは迷いでしかありません。

もし人が自己でありたいならば、それは自己ではないことを知る他にはない。しかし人は自分の思考のなかで迷ってしまう。それは恵みです。これを人が理解できますように。自己を知ることができますように。感覚についても、行いについても、以下同文。

そのことは総べてが、総べてが迷いであるから。まったく総べてが迷いであるから、どのにようなことも迷いであるから。この世界に一切真実がないから、人は自己に成りやすい。自己とはそのようなどのようなものでもないのだ。これを知るほど人が強くありすように。すぐ眼の前にあるものに飛びついて自己でありたい気持ちを忘れてしまわないように。

ある人が音楽をしたいと思ったとします。まずピアノを学ぷ、指の動き、楽譜の読み方を学びます。そのうちピアノを上手に弾けることが目的となってしまう。あるいは有名になる手段になってしまう。あるいはジャズかあるいはクラシックか、そんなものを弾くことが目的になってしまう。

すると誰より上手に弾けるとか、ロックは音楽ではないとか言い出したりする。コード進行をあれこれ言ったりする。違う。人は音楽をしたかったのだ。それが何であるか分からなくても、その何だか分からない音楽、それがしたかったのだ。

忘れてはならない。強くなくてはならない。人はこの世界の中であれやこれやをしたいのではない。人は自己になりたいのだ。それなのにすぐ近くにあるものに直ぐに飛びついてしまう。あまりの恵みのために、それが目的と勘違いしてしまう。

あるいは手段と目的は違うなどと思ってします。それは同じなのだ、迷いなのだ。そのようなことは自己が留守をしている家に鍵をかけることなのだ。そのようにして守ることなのだ。その留守番が、あれやこれやなのだ。

まったくどのような手段でだって人は守られている。しかしそれでは自己さえ家に入ることができません。世界は広くて私の知らないことで一杯だから旅行しょう。有名になろう。金持になろう。人は眼の前にあるものに飛びついてしまう。

けれど忘れてはいけない、人は自己になりたいのだ。なにが何だかわからないけど自己に人はなりたいのだ。それを忘れてはいけない。そのような、あのようなことを理解しない限り人はけっして自己にはなれない。

いや人が自己を一目見たら、それらは自然に理解できてくる。人が単に生まれつき自己であるということはない。人は何のために生きているのか?これに人は答えることができない。それなのにいつしか、その問いさえ忘れてしまう。

金貨を地面に埋めて、そこから離れて、あれやこれや何やかにやをしてしまう。守ってしまう。鍵をかけてしまう。そんなことすれば主人から、お前は悪い召使だと言われてしまうだろう。

人は自己になるために生きているのだ。自己を発見するためではない、自己になるのだ。そうして良い特質を成長させる必要があります。人は世界に蒔かれた種なのです。

そのためにはまず、自分に正直であることが大切です。それは役に立ちます。ある人が「結婚します。いまはこの娘がとても好きです。でも先になったらわからない」と言うことがあります。それは正直?それは感情に対して正直なのです。けっして自分に、自己にではありません。

だからそれは誤りです。そのようなことが自分で分かるということ。人は他人にも自分にも嘘をつくことができるけれど、嘘をついたということがわかるということ。これを忘れてはいけません。

嘘をつくこと、それも実は役に立つのだ。そのようであれば人が日常でする、どのようなことも学ぶことなのです。どうして自分のことが自分でわかるかと、言う人も確かにいるとは思います。しかし人はそれが分からねば自己にはなれない。

例え悪人でも、他人の悪いことは分かる。善人にも悪がわかる。誰がこのことに説明ができるだろうか。あーだ、こ−だ細かいこと例外なことを言うことはできるけれど、それはこの問いを忘れるためでしかない。それも守ることでしかない。それは土に埋めて守ること、それはいずれ掘り出さねばならない。

人が嘘をついた、それが嘘であるということが、たとえ他人に分からなくても、たとえ神に分からなくても、その人には分かる。(もし神は何でも知っていますよと、育てられた人が、この世界には神はないと思い込むとしたら、どうする?)

それは人が、それを知ることができるということです。それを、それに於いて知ることができるということです。だから人は学ぶことによって人がどんなものであるか、たとえば感情が、感覚が、思考が、対象が、行いが、どんなものであるか知ることができる。

しかし単に良い感情、良い感覚、良い思考などがあればよいのではありません。それではまだ世界の半分しか知りません。風や光はたしかに恵みです。けれど種にとってはウンコも恵みになるのです。人が良くありたいためにそれを拒んでしまうことは何だか辛い。

そうでなく、例えばある人が素直であることを獲得したとします。それは単にその人が生まれつきでそうなるということはありません。それは成長によって得られる特質です。

たとえば商売とは人が正直になるためにあります。それなのに人は、その有用性だとか儲けるとか損したくないとか、そんなものに飛びついてしまう。また、みかけの正直さとか不正直とかに飛びついてしまう。そんなものは常に不正直さを隠し持っています。

人が素直であるためにはそれを止めて、これを理解していなければならない。人は自己であることを知り、率直であろうと決心したのでなくてはなりません。そういう人は、素直さは人の優れた特質であることを知っています。

それは単なる性格ではありません。単に性格とは生まれたもの。育ったものではありません。それは自我を守るものでしかありません。

また、たとえば政治とは奉仕のことです。しかし人は権力とか権威とか、主義とか、それを直ぐ見えるものと思い違いしてしまう。それらはもしまだ人が優れた特質を得ているわけでなくあるのなら、それは言わば迷いの世界のなかでの迷いの強調です。硬い殻の上の硬い殻です。人の執着が世界の欲の強調であるように。それは鍵をかけられた家なのだ。それもまた恵みなのだ。

それがそれ自身に於いて分かる。自我はまず家をつくって主人を迎えるのです。しかし、あれやこれやで家を建てるだけで満足しては人生がもったいない。まだそれを建設中であるとか、建っているのだけれど奇麗なままにしておきたいからというので鍵をかけてしまっていてはいけない。誰も住まない家は傷むと言われています。

それは自己が使わねばならない。けれどそうでないことも恵みではあります。それは守ることなのだから。あれやこれやで守ることができているのだから。あれやこれやが人を守っていてくれるのだから。

しかし人はその恵みから離れても生きていけます。そうして良い特質を成長させることができます。人は強くあらねばなりません。それもこの世界の中でできるのです。

まったく人は恵みのなかで生きています。正直なことも恵み、そうでないことも恵みです。これを知りなさい、これを知りなさい、とそれは人に語りかけています。そのあまりの恵みに人は眼が眩んでしまう。過剰な恵み、それを人は自我と勘違いしてしまいます。

世界がそれを人にしてあげているのに、愚かな人は、それを自我と言う。しかし本当の恵み、世界総べてが人のためにあるのだから、それが何であるか知るほうが良い。強くなくてはならない。また、世界は無常であり、それも無上の恵みなのです。人がこのことを知りますように。

世界が無常でなければ人は自己にはなれない、ということはないかも知れない。けれど、そのことによって人は自己になりやすいのです。万物は無常である、どんなに、それは人の自己ではないと、それが語り続けていることでしょう。

それは常に無常であります。対象も、感覚も、感情も、思考も、行いも、無常です。人はそれを拠り所にすることはできないではありませんか。そのように文字どおり世界は人に滅私奉公しているではありませんか。それが恵みでなくて何だと言えるでしょうか。世界が苦であることも同じです。それは世界が人に滅私奉公しているということなのです。

この世界のなかで人が何を得たか?と聴かれた時、愛を、素直さを、奉仕を、勇気を、と答えることができますように。


平成2年2月24日


世間様は、自分様。このまえ会社の女の子に「多くの母親は世間様、世間様と言うのではないか?」と聴いてみました。すると「どの母親もそう言う」と言います。「世間様が見ている、世間様に恥ずかしい」とか言うのです。

でも世間様って何でしょう。どこにもいません。「もしもし、あなたは世間様ですか?」と世界中の人に聴いて廻っても、「ハイ」とこたえる人は誰もいません。ならば、そう言っている自分が世間様を想像しているだけではないでしょうか。つまり世間様は自分様。それを想像していることに気がつくことは大切です。

人が自分で想像しているものに捕らわれるのは守ることであって、恵みの働きの一部ではありますが、世界の恵みを一杯に受けることではありません。種は柔らかい、あるいは硬い殻で外界から守られています。その守りは恵みですが、種は種として生まれ、それだけでは単にそれだけです。それは世界を想像しているのではないでしょうか。

また、昔の人の街は城壁によって守られていました。互いに外に敵を想像していたのです。自分を閉じ込めていました。狭いと文句を言っても、その壁を作ったのは自分達なのです。また居心地が良いといっても、それは壁の中です。いまではベルリンの壁は打ち壊されて売られています。万里の長城は観光名所になっています。もう守る時ではないと思います。

ここ、あそこに神を信じるという人がいます。また神を信じないという人がいます。どちらも自説を相手に納得させようとして議論するとします。この場合、どちらも想像している神を持っていることが多くあります。どちらの神も単なる想像の神でしかないことは多いのです。もっとはっきり言うと、殆ど総べてがそうです。

ところが、それにどちらも決定的に証明というか、相手を納得させるというか、そういうことはできません。(できないから勝手な自説を立てることができるとも言えます。わたしは神の存在の証明ができないと証明できたら、それは神の存在を証明することだと考えるはどです)。

そうして世間様を想像しているのが自分であるなどとは露とも思いもしないように、それが想像の神であることを露とも思わないことでしょう。(無神論者よ、自分で想像した神を自分で否定して一体どうしようというのだ?)。どちらも自分の立場を守っているだけです。(なにか神が存在するとか、しないとかいうことを言う自分というのは、存在するのだと思っているのだと思います)。

さて、なぜそのようなことが出来るか?ここはあ−だ、こ−だと色々な意見を言い合うよりも、なぜ意見には、反対意見があり、矛盾(どちらとも決定できない)があるのでしょうか、こう考えなくてはいけません。簡単に言うと、それは世界がそのようなことができるようにしているのです。

そうして、そのようにしていることを教えるためであろうと思います。もし世界に自由がまったくないとして、人が自由になるなんてことはないと思われないでしょうか。しかし不自由もあるではないかと問う人があると思います。そう、あるのです。そうでない限り人に不自由はありません。では自由も不自由もある、では一体なんなんだ。これは変ではないか。しかも、自由、不自由と言っても、それはなんのことなのだ?

そうだとすると自由、不自由と言っても人が勝手に言っているだけではないでしょうか。そのように勝手に言えるということは世界が人にそう思わせることができるからではないでしょうか。そうして思うことができるようになってない限り思うことはできないのではないでしょうか。

しかもそれは分からないということがあるからではないでしょうか。もし絶対にこうだと決まったものがあるなら、人はそれを自説として思い込まないでしょう。(もし例えば自由というものが何か規定できるものだとしたら、それが人を迷わせることはできないでしょう。迷うことができるということは取り敢えずは自分が存在すると思うことができるということです)。

人が理論的だという場合、多くはこの勝手な自説でしかありません。世界には理解できない、分からないことがあるということは良いことです。そうであるから、それは人の役に立っています。それは人に自己のものという気持ちをもたせ、しかもそれは自己ではないと人が知ることができます。

なんという奇妙な世界の在り方!ある人が「親鸞という人は偉い、何百年も前に人は平等だということを言った」という誰かの話を聴いて感心して帰ってきたそうです。その人に問いたい、では平等とは何だ?(とりあえずは、ムムムと言うのが正直な答えです)。誰でも何かを知っているつもりでいます。想像の平等を持っているのです。「お前を愛している」といっても想像の愛を持っているのではありませんか。

それに憎しみや不平等をつくっているのは、そんな人ではないか。それはどんなに自分の意見に見えても、それはそのようにあるだけのものでしかありません。その中にいれば誰もそのように反応するだけのものです。(たとえば「人は感情の動物だ」などと、どうして自分でつくったものでもない、自分自身でもない、単なる人の構成要素に人がふりまわされるのを選ぶのはなぜなのか)。

それなのに人は自分は不自由だとか、他人に比べて自由だとか、職業選択の自由だとか、矛盾があるのは理論的ではないとか言って自分を守るのです。それは世界が人に、そうしてあげているのです。そのことはたとえば自由、たとえば不自由、たとえば善、たとえば悪、そのようなものの片方ばかり見ていては理解できません。それは世界が人にしてあげているのです。

それなのに愚かな人は、それを自我と呼びます。それは人の欲は世界の欲の強調であることを知ることが役に立ちます。(この世界は欲の世界です。欲とは物事が、ほかの物事に拠り所を持つということです。人が自己以外のものに拠り所を持つということです。人が対象物、感覚、感情、思考に依って自分の存在を確かめるということです)。

あるいは想像の自由、想像の幸福、想像の神などを追い掛けていることに気がつくことも役に立ちます。また、なぜこのことが守っていることなのか分からない人もいると思います。自分の不自由、自分の不幸、自分の無神に人はこだわって、しかもそれを自分の意見として自己同一視しています。

(自分の感情に自己同一視し、苦しい、悲しい、憎いなどに人は捕らわれますが、それは実際には人は捕らわれると錯覚することができるだけですが)。

それは勝手な自説であって、逆の立場を認めたくない、さらに分からないということがあることにも気がつかない、それほど世界の狭い範囲に自分を閉じ込めていることです。世界の部分的なものに自分を閉じ込めていることは守っていることではありませんか。(なかなか上達しない娘にむかって、ある料理学校の教師は、「いつまでそんな自分の技術を守るのだ」と言うそうです)。

それは自我であって、自我とは守られていることにほかなりません。それは人が自己になるための柔らかい、あるいは硬い殻なのです。(しかも中身は空なのです)。人が守るということができるのは、世界が人が守るということができるように用意しているからです。

人はこの想像上のもの、世間様、神、自由、幸福などに捕らわれやすいのですが、それって人が、そのようにできているように見えます。世界も、感覚も、感情も、思考も、そのような働きをします。これは過剰なほどの守りの恵みです。これがなぜ恵みであるかと言う人もあるかも知れません。人の自分自身ではないものが人を守ってあげているのです。

まだ自己でさえない人を、自己以外のものが守っているのです。しかも過剰になほどに守り、そのことによって、これは自己ではないと語りかけているのです。これを恵みと言わないで他に言う事はできません。しかし多く人はそのことに気がつきません。それほど人は守られていることに慣れているのです。

なんだか世界や感覚や感情や思考があることが当たり前に思われているのではないでしょうか。それはなくても少しも不思議ではないのに。これは意気地無しにとっては居心地の良いことでしょう。

たとえば人や人生や意見や何やかにやを誤解して生きて行きたい人さえいます。人の意見に対して「俺はこんなに曲解しているんだぞ、どうだ」といったような人もいます。

「この俺を助けてくれ」と心で叫びながら悪い行いをしている人がいます。きっと人は守られている、神や世界から助けられる権利があると奥深くでは感じてはいるのでしょう。ほんとうに下らない人、そんな人さえ守られていることは驚くべきことです。「不幸だ」「金だ」「不自由だ」「嫌だ」こんな人さえ、そのこと自身によって守られているとは驚くべきことではあります。

こういうことに人が感謝できないことに、驚嘆します。(余談。どうしようもないほど人から嫌われる人がいます。そういう人を愛すことができる・・・なぜなら好きな人を愛すことができるのなら、嫌いな人を愛すこともできる・・・人に人はなれると思いますが、そうしたら、人は学ぶことができ、その嫌われる人も生きている甲斐があるというものです)。

たとえば「人のために良いことをする人になりなさい」と言う人がいます。なぜそうなのでしょう。なぜ、そうなのでしょう。もし本当に人がそれを正しいこととして理解したなら、その説明ができると思うのですが、それを聴いたことがありません。そうして多くのそんなことを言う人は受け売りですし、自分の行動などには、それと矛盾があります。その矛盾が、その人を守っています。

それは良い自分を想像しているのでしょう。それは良い自分を守っています。そうして色々な理由をつけるでしょう。その理由が、その人を守っています。それは悪い自分を守ることです。そのような迷いが人を捕らえ、人を閉じ込め、人の揺藍として、人を守っています。必ずそうなっています。

だけど人がそのようにして生きるだけでは勿体ない。人はもっと恵まれているはずです。人は自己になれるはずです。少し寄り道します。わたしは人が自己になること、これを大切なことだと思います。人は何のために生きているのだろう?これを考えない人はいないと思います。それなのに「そんなことは随分前に考えた」と、考える人をあざける人がいます。

そんな人に聴きたい、あなたはそれを解決したのか?それは人が自己になるためであって、人が生まれただけでは自己ではないことに気がつかない限りは、そのことが分からないでしょう。まだ人が自己でないなどと思わない限りは、どうしてそれを求める必要があるというのでしょう。まだ人が自己ではないことと思わないこと、それがもう人が自己であるなどと思うのかも知れません。せいぜい自己とは何かと問うのです。

さてもし神がいるとして、ある人が病気だというので、その人を愛さないでしょうか?ある人が不具だからというので、その人を愛さないでしょうか?ある人が貧乏だというので、その人を愛さないでしょうか?これに否と言わない人はまずいないと思います。おなじように神は憎しむ人をも愛しますし、悪魔だって愛すのではないでしょうか。(これは結構、抵抗する人がいるとは思いますが)。

と、いうことは神が愛すのは、そういうこと、健康、健全、金持、感情などに捕われること、ということではないのではなく、自己を愛すのではないかと思います。この世界の中で人よ自己になれと言っているのではないでしょうか。(もし、もうすぐ世界はお終いだ、だから人は正しくならなくてはならないと言うならば、そこに理由があるために、それは守ることであるために、まだ問題を正しく見ることはできません)。

しかし神が存在するかどうか分からないではないかと言う人はいるでしょう。この世界は物理的に必然できたから神はいないと言う人がいます。この世界は偶然できたから神はいないという人がいます。ま、どちらの場合でもいないとします。(すごい、神の不在が証明された?) そうだとしても、この世界は、必然でしょうか、偶然でしょうか。どちらでもあるのでしょうか、どちらでもないのでしょうか。いや、どちらも考えてみることができるのはなぜでしょう。どちらでもないと考えてみることかできるのはなぜでしょう。

また必然的に世界ができたのだから、神も必然できた。あるいは偶然に世界はできたのだから、神が偶然できたと、言ってなにが悪いでしょうか。そう言うときっと神を信じない人でも、そんなの本当の神ではない、神はそんなものではない、などと言うことでしょう。

そう認めないでしょうが、神が世界を偶然(あるいは必然)できるようにつくったという方が認めやすいでしょう。人があれこれ考えるのは勝手です。それは人を守ります。何度も言いますが、それは世界がそのようにしてあげているのです。世界の訳の分からなさが人にそれをしてあげているのです。

私は神が「神はいない」と人に考えることができるようにしているのだと思います。「神はいる」こう考えることができるようにもしています。反対の意見があります。このことは何だと、私は、あれこれ言う人に聴きたい。それはどちらも世界が人を守ってあげていることではありませんか。(くり返しますが愚かな人はそれを自我と呼びます)。

人が狭い立場に自分で捕らわれることを可能にしてあげているのではありませんか。そうして、そのようであるということは、(想像の)神が存在するしないを別としても人が自己になること、これを最優先すべきことではないかと思います。

さて話を戻します。でもなぜ世界が人を恵んでいると言えるのか、いまいち分からないと言う人がいるでしょう。いや世界がまるで人のためにあるように言うではないかと思う人もいるでしょう。人は幸福を求めていると言われます。その場合、求められている幸福は想像上のものです。そうすると今の不幸はリアルなものと感じます。それは自分でそうしているのですが「なぜ幸福は観念的で不幸は現実的なのだろう」などと言ったりします。

人は自我を求め、ある人が信じる神を想像して、この放慢な自分をリアルなものと感じます。ともかく同じように考えて、世界は人が想像することができるようにできていると思います。これも何度でも言いますが、そうでなければ決して人は想像の神、想像の幸福、想像の自由、想像の何とかを持つということはできません。

そうしてそのようなものは普通には神、幸福、自由、何とかと、考えられているものです。そうして不幸、不自由なども想像のものなのです。しかし病気があるではないか貧乏があるではないかと言う人がいるでしょう。人は余りに強力に守られています。想像のものとリアルなものとが、また人を守っているのです。人は強くあらねば、それを知ることはありません。

病気があるではないか、貧乏があるではないか?それだからこそ人は世界から恵まれていると言うことができます。病、老、死、苦、それが人に恵んでいます。どんなに人が世界を頼りにしても、それは無常です。なんという恵みでしょう。

これに頼ってはいけない、と世界は人に徹底的に滅私奉公しています。世界が、感覚が、感情が、思考が存在し、それが無常であることの不思議。それが人に滅私奉公していることの不思議。それらは自己でさえない人のために働いています。

そんな言い方をするなら、幸福も恵み、不幸も恵みではないかと言う人もいるでしょう。その通りです。人は平等に恵まれています。幸福も恵み、不幸も恵みです。もしそれが想像のものであっても、その通りです。

超古代の日記「11」






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