超古代の日記



平成2年3月5日


あちらこちら世界を見て歩く人がいます。その人にとって国々を旅行できないことは苦痛でしょう。けれど、そのような人にとっても、恋人や家族と一緒にいないことはもっと苦痛でしょう。さらに、そのような人にとってさえ実に、自分自身でないことはもっと苦痛でしょう。人にとって、自己でないことは最も苦痛ではないでしょうか。

理由について。ある人がある人の手助けをしていました。理由なくそういうことをしていました。「私はこれをしている。けれどそれに理由があるわけではない。あなたが好きだからというのでしているのではない。嫌いでもまた同じことができるだろう。私は理由なしにしていることを自分で知っています」。

その通り、報酬を求めている人も、相手が好きでも嫌いでもできるでしょう。しかし、その報酬が得られない場合、人は言うかも知れません。「あなたのために苦労して働いた、あなたのために長い間働いた、それは何のためか。わたしには求める権利があるではないか。それは正しく正当なことではないか」。これが理由です。

あーだ、こ−だと理由を言う人はこのように貪りの心を持つ人が多いのです。そんな人はこの世界が在る理由を見逃すことでしょう。この世界が存在する理由を知らないことでしょう。自分勝手な理由を作って生きる人に、世界は自分の存在の理由を隠して「世界は理由なく存在しているではないか」と語りかけるのです。

世界は偶然できたという人は多く、そのような人です。世界に意味を見出すことができないのです。「この世界は無意味ではないか。世界は偶然であって理由なしに在るではないか」と世界はその人に語りかけるのです。(これに対応して世界は必然できたという人も同じです)。

なぜ、人よあなたも無意味に生きることができないのか、なぜ理由なしに生きることができないのか、と。世界は自身の存在の理由を隠して、理由なしに在るかの如く振る舞うのです。それではお前の人生も無意味ではないかと語りかけるのです。


平成2年3月7日


あなたは自分のために仕事をしているだろうか。している?そうだろうか。それはお金のためではないだろうか。生活のためではないだろうか。それは、会社のためではないだろうか。それは社会のためではないだろうか。それは国のためではないだろうか。それは国々のためではないだろうか。

それは自分のためにしていることなのだろうか。「何十年もわたしは会社のために働いてきた。しかし何も得るものはなかった」こう振り返る人もいるそうです。

いや、それは単に自分のために働こうとしなかっただけなのです。もしそれに気がついたら今からでも、人は自分のために働くことができます。ぶつぶつ文句を言わないことからさえ始めることができます。もしそのようでなければ結局、社長が働くのは、部長が働くのは社員のためでしかありません。自分のために働くのでありませんから、自分のために働くと自覚している人のために働いているに過ぎません。

さて、自我は倒錯によって自身を表現します。ある感情的な人がいました。その人は自分の気分を害した人に対し害を加えることができました。それは自分がすることと自分では思っていました。しかしそれは感情の奴隷であったに過ぎません。感情に奉仕していたに過ぎません。それは何ひとつ自分のためにしたのではありません。

このように感情は人のためにあるのですが、まるで人が感情のためにあるごとくするのが倒錯です。それは少しも自分のためにすることではありません。それは自我であって、それは倒錯によって自身を現します。それはそのようにして、それは自己ではないと人に知らせるのです。

それほど感情は人のために滅私奉公しているのです。「わたしを自分自身だと思うのは勝手です。しかし私はそのように作られているものであって、私はあなたのためにあるのです。そのためにわたしは逆様に作られました。人よあなたが自己ではない時には、わたしを充分に使ってください。わたしは驕る気持ち、侮る気持ち、嫌な気持ち、意地悪な気持ちを駆使して、わたしの為に人が働くのは人のためにならないことを知らせましょう」感情はこう言います。

「わたしを正しくしてください。そうするのは人よ、あなたなのです」。感情は自分の働きをめいっばい行います。感情は自分の働きの場が与えられたら喜び勇んで力ー杯に働きます。

それが人を引きつけるように。人はそれに惑わされるほどです。世界も感覚も思考も異口同音に言います。それを知ってください。人は自分自身である時に正しいのです。感覚は人と世界との関係にあります。感情は人と人との関係にあります。思考は人と自己との関係にあります。


平成2年3月15日


この世界が偶然だとしたら、それはなんと素晴らしい偶然ではないだろうか。このことは信じられないほど歓喜すべき偶然ではないだろうか。人よ、世界が偶然だと言う人よ。あなたは、それほどに歓喜しているだろうか。

信仰について。ある人が神を信仰していました。その人は馬鹿正直でしたから「わたしは信じる。けれど神が存在しても、存在しなくても信仰することができるのを知っている」と言いました。もし神が存在しなくても人は信じることができるのです。でも普通に信仰している人はこれを認めないことでしょう。信仰はそんな助きがあります。


平成2年3月17日


たとえば毎日おなじ食物を食べていると多分飽きることでしょう。おなじ音楽を聞いていると多分飽きることでしょう。おなじ絵を見ていると多分飽きるでしょう。このようなことについて人は、もっと、沢山、色々なことを経験したいと思うこともできます。

このことは何故なんだろうと考えることもできます。そうして、このことの意味を知る事もできます。ある人があることに執着して自我を作っていました。ところが人はそれを持ち替えるということもできますし、それが変化するということもあります。そのようにして人は自我なしに生きていくことができるのを知ります。人は極端に世界の一部に捕らわれます。そうであるからまた別のものに捕らわれるということができます。

趣味が代わり、好みが変わり、性格が変わります。ということは特にそれらに捕らわれる必要がないことを示しています。ここに人があって、そのようなことに飽きてしまいました。もう、良いことをして生きていきたくなりました。

どのようにしてそれができるでしょう。人の悪いことを指摘するのも良いことではありますが、良いと言えるほどのことではありません。人の捕らわれを指摘することは良いことですが、積極的に良いということではありません。どのようにすれば良いのでしょうか。

ある悪い人がいて、その人に向かって人があなたは悪いと言うことは悪いことではありません。けれど良いことをするためにはどうしたら良いでしょうか。


平成2年3月19日


たとえば私が誰かに。感情に依存するなら、そこには良い感情もあります。悪い感情もあります。そのようなものに人は振り回されます。けれどそれは自己ではない。もし貴方が人から不快な目に会わされたとします。それで悔しがるのもいい、恨むのもいい、けれど、笑ってすますこともできます。感謝することだってできるかも知れません。そこには何の必然性もありません。と、言ったとします。

なるほど、と人は思います。そこで、人が悔しい目に会った時、笑って過ごすとします。ここに矛盾が生じます。心のなかは真っ黒になります。これが矛盾の守りです。人が自己を知らないならば、どうしてもこうなります。悔しい時に悔しいと思ってさえ、それは不自然なものになります。

こだわりが生じてしまいます。どうしても自己保存が働きます。それで、これはちょっと違うぞ、と感じるのです。(さらに感情の中道とは憎しみと親しみと、そのどちらにも捕らわれないことではない。また、平常心であれば良いというわけではない。それは感情が自己ではないと知ることです、と言ったとします。さあどうでしょう)。

それでよくあることですが、忘れた方がいいとなります。たとえば聖書とか何かの本で良いことが書いてあっても、人は理解できない。その場合はすぐ忘れます。あるいは言葉だけ暗記する。そういうことがあると思います。

さてカメラマンがいます。彼は山や川や沼などを対象にして写真を撮ります。カメラは自己ではありません。あたり前です。対象を映している感情は自己ではありません。だからと言ってシャッターを押す指が自己であるわけではありません。感情は自己ではありませんが、その主体であるところの何か(自分自身)と何か感じられているもの、それも自己ではありません。

それはシャッターを押すのは誰かである、他人ではない、では自分に違いないという思い違いが生じているのです。それは予め前提にされてあり、そうされるのは、それが存在するからだ、という巧妙な仕掛けに迷わされているのです。これは面白いです。自己とはどのようなものでもありません。それは単に自己を知ったものにしか理解できないかも知れません。

太古インドの父と子の会話に、壷が土であると知れるように、お前自身を知りなさい。と言うことがあります。そうして馬車の例えを父が話します。たぶん馬が感性で、たずなが意志で、御者が自己とかいう話であったと思います。これは自己とは何かということであれば誤りです。

これは依存関係の話です。わたしは依存関係の単純な形だと思います。これはとても面白いと思います。人が自己になるというのは至難の技ではあると思うけれど、いろいろな人が一生懸命に、人よ自己になれと言っています。依存関係とは人の仕組みです。

これは人の構成要素を総べて眺めて、(そうでなければまだあるかも知れない、という迷いに捕らわれます)それは自己ではないとはっきり認識できるために役立ちます。対象によって身体があり、それによって感覚があり、それによって感情があり、それによって思考があります。そうして、対象は自己ではない、身体は自己ではない、感覚は自己ではない、感情は自己ではない、思考は自己ではない。そうして人の構成要素はこれだけなら、総べては自己ではないと知れます。

この父と子の依存関係は、自己を問うているのですが、実際には自己以外の総べてのものの仕組みを明らかにし、それは自己ではないと知ることなのです。ところが知識としてこれを知っているだけでは矛盾が生じます。世界は自己かも知れない、以下同文、というわけです。

たとえば例え話のようなもので、それは目的があって話されるのですが、例え話のみに注目すると目的と逆の意味にとれるというようなこともあります。そうすることは自己保存である場合があります。それはそうすることができる世界であるからです。

そうしてそれは、そのような思いつき、反対意見などは自分の意見と人は思うかも知れませんが、世界が人にそうしてあげるのです。まだ、それは自己ではないと知る、あるいは自己を知らない人は世界が守ってあもげているのです。そのようになっているのです。

ともかく、このようなことを理解しない人は、愚かです。単に記憶しているだけでそれを理解しているように感じる人(たぶん他人は自分を理解した人と思ってくれるだろうという迷い・・・自己保存・・・があるでしょう。この意味でも正直なことは役に立ちます)もいます。

ここはどうしても、それを例え人が聞かなかったとしてもその同じことを知った時のようにそれを理解していなければ理解とは言えないことを知るべきです。ここはどうしても自己を知らなくてはならない。知ると言うよりは成らなくてはならない。自然に生まれた者は自己ではないのだから、どうしても成ると言わねばなりません。

そうでなければこの世界に生きる意味がない。この世界の意味がない。そのためにどうすれば良いか?自分の在り方の仕組みを良く知って、求めねばならないと思います。努力ということはこういうことです。たとえば金持ちになること、高い地位を得ること、それらは偶然なるということがあります。それを求めることが努力とどうしていえる?(けれど人が普通言う努力とはこうしたものです。もちろん、それは自己ではないと知るための努力であるとは言うことができます)。

努力しないでも得ることを努力してはならない。努力しないこと、それも努力なのです。なぜなら人が自己になるための努力ですから。なにか人が自己になるマニアルのようなものがあると良いと思います。

まず基本的に人が与えられているのは、人が自分のことが分かるということではあります。なんども何度も言いますが、人は自分が言ったことを聞くことができます。聞いたことを考えることができます。考えたことの正しさを知ることができます。

欲の強い人がいたとします。すると欲とはどういう仕組みのものであるか学ぶことができます。それは与えられています。けれどそれを使う人は少ないのです。ほかの人もそんなものだと思っているのか、他の人には分からないと思っているのか。理由があるのです。理由があるということが(何もなくても人は生きていけます)誤ったことであることに気がつかないのかも知れません。

さて、依存関係について。仏陀は「無明によって行あり、行によって識あり、識によって名色あり、名色によって六入あり、六入によって触あり、触によって受あり、受によって愛あり、愛によって取あり、取によって有あり、有によって生あり、生によって老死・憂・悲・苦・悩・絶望がある」と悟りました。


平成2年3月20日


では無明とは何かといえば「苦についての無知、苦の生起についての無知、苦の滅についての無知、およぴ、苦の滅にいたる道についての無知である。ビク達よ、これを無明と言うのである」と言われています。

それによってある行とは「すなわち身における行と、口における行と、心における行とがそれである」と言われています。とするとこれは苦についての依存関係です。苦とは何かと言えば世界が人に滅私奉公する方法の一つです。たとえば病、老、死などが、これは自己ではないと知らせるということです。

ここで少し依存関係と因果関係について書いておきます。因果関係とはたとえば親があって子があり、子があって孫がある、結果には原因があるということを言います。これも確かに面白い考えです。ですが山田さんの一家は、カーターさん一家があるからあるわけではないのです。ま、国際結婚するということはあります。そうして絶対に関係ないということもありません。これは世界の確かに不思議なところです。

関係なくありますが、まったく関係なくあるわけではありません。このようなことを互いに原因となり結果となり・‥とか言っていることがあるようです。これは因果関係です。依存関係はそのように考えません。山田さん一家はカーターさん一家があるからあるわけではない、ならば、それはなぜか。それは人が生きるということによってあるのではないか。このように考えます。

この生きるということは単に親があるから、ということとは別に求められねばならない、このように考えます。親の親の親の親とは、おやおや変だ、このように考えます。たとえば親が死んでも子供は生きている。原因がなくなったのに結果はある、これは何だと考えます。因果関係はこれで満足するかも知れませんが依存関係は満足しません。

人には目があるから耳があるのではありません。憎しみがあるから愛着があるのではありません。このように考えます。すると世界があるから感覚器官(鼻があるから舌があるわけでなく)があり、それによって感覚(冷たいがあるから辛いがあるわけではなく)があり、それによって感情(辛いがあるから愛情があるわけではなく)があり、思考があるとなります。

では苦があるのはなぜか。それは世界の滅私奉公がある。こうなります。それは人が自己になるためである、となります。しかしこれでは仏陀の言うこととかなり違います。それが無明ということを、自己の存在を知らないことの無知としてみます。すると無明があって自己保存がある、となります。


平成2年4月15日


さてところで。歩いていると人と人が出会って、何回も何回もお辞儀をしている風景を見かけることがあります。それは決して挨拶をしているのではありません。お辞儀をしていることを、相手に見せるためにしているのです。それで互いに確かめながら何回も交互にお辞儀をするということになります。

それなのに人はそうであることに、気がつかないということがあります。何をしているのか、していながら気がつかないのです。例えば人が嫌な人の前では愛想よく、そうして影で悪口ばかり言っているということがあります。会社勤めをしていると、まったく多くの人がこのようなのです。

その場その場では自分が何をしているのか知っていると思うのです。でも自分が何をしているのか理解しているとは思えません。そのような人を第三者から見ますと、その人が人を嫌いなのか好きなのか分かりません。ほんとうの所はどうなのでしょう。

感情的に言いますと、人は愛想をするというのは演技でもできます。しかし嫌いというのは演技では難しいのです。つまり人が自分に幾ら愛想よくても、少しでも悪く言われるようなことがあれば嫌われていると思って間違いありません。

また親が子を怒ったりしますが、それはやはり子が基本的には嫌いなのです。自分が親だとして、そんなことに気がついているでしょうか。しかしこれは感情についてなのです。ほんとうはこれ、どうでもよいことです。しかし、どうでも良いということを知らねば案外、根が深いのです。(自分の感情に拠り所を持つ人は、他人の感情にも拠り所を持つのです)。

例えばあの人が嫌いだね−、と仲良く話あっている人同士で、嘘をついているかも知れないのです。そうでしょ、みんな嘘つきかも知れません。これに多くの人が引っ掛かります。みんな人のことが分からずに、みんな自分が何をしているのか気がつかなくなります。みんなが嘘を言っているのではと自分も嘘をつき、まったく事実が分からなくなります。恐らくそのようにして人は世間を想像してしまうのです。

ここで、そんなことばかりしていると、いろいろな人の有り方を想像していると、ついには自分の存在さえ想像のものになってしまいます。そうして確かにこういう傾向の人はいるのです。人のことが分からないために、やたら元気になってしまったり、愚かになってしまったり、意地悪になったりすることもあるでしょう。

それはその人の引っ掛かりであって、それに気がつくことは人の救いになるものですが、そうでない限り、人を苦しめます。人を縛る縄が、人を救う縄になるのです。苦しめると言うよりは詰まらないものにしてしまいます。

たとえば人にへ−こらする人というのは、たとえば自分に他人がへ−こらしないのを嫌う、そうでないと怒る、そんなことがあるから、そんなことができるのです。自分にヘーこらしてくれる人を想像しているのでしょう。

そうしてなぜ自分がそのようなことを良く見るならば、それは救う命綱にもなるのです。いろいろあるとは思いますが、人は自分の想像に反応しているだけの場合が多いのです。面白いことに現実はそれを助長するように働きます。

いつか白馬の王子様が、と想像していると、それに反応して自分というものをそのつど想像することになりますが、ほんとうにいつか白馬の王子様が現れないとは言えないからです。現実とはなんて面白いのでしょう。

これを誤って人は、娘をロマンテイックと言います。それに他人のことは分かっても、自分のことはなかなか分かりません。いろいろなことを想像して、想像の自分をつくっているということは多いのです。いやな人を想像する、自分の子供を想像する。そこに実際嫌な人がいる、そこに実際自分の子供がいる。それなのに想像ということがあるのです。

日本の裏側にはブラジルがある、それはもう想像ですが、実際にあります。そうしてここにいる自分を感じるわけです。ここに自分があることを想像する。純粋にリアル、あるいは想像ということを取り出して見ることは難しいと思います。でも人が何か想像の中で生きているとしたら嫌だと思います。

これは例え話になるかどうか分かりませんが、男というのは何となく女が自主的ではないと思っています。自主的でないというこのことは男の、他の男に対する嫉妬ではないでしょうか。実際には女はしたいようにするのです。女は男のそういう所を本能的に利用しているととろがあります。娘を持つ親は心配でしょうが、娘はしたいことをしているに過ぎません。したいように想像の中で生きているのです。心配するとしたら、このことをするが良いと思います。

ここにもいろいろな教訓があると思いますが、自分が嫉妬しているなんて気がつかない、なんてこともあるでしょう。さらに感情が何であるか私は全然知らないので、こんなことも面白いと思います。それはなくても不思議はないのにあるし、べつのものがあっても不思議はないのにないのです。

ともかく人は自分のことはなかなか気がつきません。すこし違う話かもしれませんが、例え悪人でも人の悪は分かるということがあります。これについて人は例えば、それなら自分は正しく生きようということもありますし、自らを義として自分の悪を許すということもできます。同じことから全然違う方向が現れます。

ここで決心です。人は選ペるのです。自分のことはなかなか分かりませんが、選べるのです。そうでしょ。どう選びます?そうして自分をそのようにすることができるのです。人はそんな自分を作ることができるのではないでしょうか。人はどうせ死ぬのだから、楽しく遊ばなくてはならない?学ばなくてはならない?どう選びます?

そうして人はそのようにすることができます。この世界は何が何だか分からない。ならば知りたい?知りたくない?神が存在するにしても、しないにしても、正しくありたい?そうでなくありたい?逆に人がすでに何かを選んでいるのなら、やはり自分で選んだのではないでしょうか。

すると条件はどうであれ、人はそうなることができるということです。それは条件から生じたとしても、条件に依りませんから、たとえば人が正しくなるなら、それは証明したり判断したりすることはできません。もしそうすることができるというなら、それは条件によるということになるからです。条件に依らず、しかも正しくある、そういうことはあると思います。また、そうでなければ、そうではありません。

超古代の日記「12」






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