超古代の日記



平成2年5月4日


親から厳しく育てたられた人が子供を持ったとします。その人は自分の子供を厳しく育てる人であるかも知れません。また、優しい人になるかも知れません。親から優しく育てられた人が子供を持ったとして、同じように厳しく、また優しくあるでしょう。

すると始めの条件には依らないということです。条件の如何に依らず人は自分で成りたいようになることができます。このことは人が進歩しようとすることの現れではあります。

しかし単に優しい、単に厳しいというのでは、あまり意味がありません。と言うのもそれは単に条件の一つであるだけでもあり、まだ人が世界から生じ世界を越えた良い特質を、自分で意識して育てるということを知らないからです。

たとえば優しさと言うこと、厳しさと言うこと。それはその一つだけではあまり正しいこととは思われません。また両方あっても正しいこととは思われません。そこからは矛盾が生じ、苦痛が生じ、想像が生じ、対立が生じ、嘘が生じるでしょう。

ま、そうでなくても人が成長するということ、それがそこにはありません。ここで人の普段の有り方を見てみましょう。ある人が何か他の人とか社会とかが嫌いだとします。するとその人はそのつど、嫌いな自分を作っています。じつに嫌な自分を作っています。

ある人が他の人とかを好きだとします。するとその人はそのつど好きな自分を作っています。そうしてどちらかと言えば良い自分を作ったほうが好ましいのは確かです。このように人は自分の廻りのものによって、それに反応して自分を作っていると言えます。

このなかに優しさとか厳しさとか怠惰とか、色々なものがあります。これはその人が単に反応しているだけと言えないことはありません。まわりの物が人をつくるのです。これを意識しないでいれば人は、まだ混沌とした状態で人は、はっきりとした自覚をもってはいないことが多いのです。

それを理解していなければ厳しく育てられても優しく育てられても、厳しく育てても優しく育てても、あまり意味はありません。人は想像の優しい世界を作って想像の優しい性格を作ったりすることもできます。これでは不充分です。これ以上のものを人は自分の良い特質として育てることができると思います。

それはそうすることが人にはできるということの理解の上にしか成り立ちません。良い意志が必要です。それは世界の有り方を理解し人の有り方を理解していれば必然のように生じます。(自分でつくった好い環境から好い自分が生まれます。自分でつくった悪い環境から悪い自分が生まれます。これらは互いに依存してあります。そうしてこの全体が人の自己ではありません)。

そうしてそれは例えば優しさが厳しさと対立するようには、対立するものはないと思います。たとえば素直さはそうです。そのようで人があろうとしなければ人はそのようであることは出来ませんし、それは条件から生じたとしても条件には帰りません。嘘と正直の対立する世界から、それは生じるのです。

その片方だけでも、両方あってもそれはできません。それがそのようにある意味を良く知ることによってなされます。(もし人がそのようでなけば嘘と正直の矛盾はいつもその人を守ってあげています)。

そうしてその対立にはそれは関わりません。ここに人があって優柔不断であったとします。そうして何十年か生きてきました。決心して決断とかを身につけたいと思ったとします。単に反対のものを求めることでは難しいのです。(身につけるとしたらその両方を越えたものでしょう)。

でもそれが出来たとしたら人生を2度生きることであって、それだけでも得だと思います。世間で「人の迷惑になることをするな」と言います。そのようなことは意味もわからずに、それが理解されるまでは一つの言葉として伝わっていきます。人から迷惑をかけられたらだれでも不快になります。

と言うことは、人が不快な自分をつくる条件になってしまったと、言うことです。少しでもよい自分をつくって上げられるようにしましょう、と言うことです。人に迷惑をかけていれば人は悪い自分作っているのです。

それで「人に良いことをしなさい」とも言われています。人によいことをすること即ち良い自分を作ることなのです。そうして良いとは、たんに良い気持ちとか良い性格とかいうことではないと思います。

イエス・キリストが「自分のして欲しいことを人にしなさい」と言いました。それは単に自分勝手な押しつけでもそうなのか?という矛盾を含んでいるように見えます。しかしこれは、人の良い特質を育てるように、ということではないでしょうか。(そうでなければこれは躓きになります。その言葉に執着することでしょう。また忘れることでしょう)。

それは誰にとっても望ましいことと思います。みんなそれを学ぶために嫌な人になったり苦しい人になったり優しい人になったりしているのではないでしょうか。そのようなことには確かに意味があるのです。そうでなければ人が生きるということはなぜあるのでしょう。良い特質というのは人にとって色々あるかも知れません。

パウロは忍耐を育てるようにと書きました。山上でイエス・キリストは良い特質を育てて得られる利点、たとえば柔和な人は地を受け継ぐであろう、といったことを示しました。人は生活し、職業につき、人づきあいをし、怒り、許す、そのようなことに依って、それを毎日、学んでいるのです。条件とは世界のことです。そうして人はそれから条件に関わらない良い特質を成長させることができると思います。


平成2年5月17日


すごく性格の悪い人がいるとします。しかし現実はなかなか味なことをします。どんなに性格が悪い人でも、良い行いをすることができます。人に優しくすることができます。

どうでしょう。この場合その人が相手のことを考えずにそうするのだとしたら、自分のためを考えてそうするのだとしたら、それは偽善と呼ばれているものではないでしょうか。ところが相手のことを考えてそうするのであれば、それは良いことではないでしょうか。

自分の悪い性格の悪い行いで相手を苦しめたりしたくないと考えて行うのであれば、それはその人にとっても良いことになるのではないでしょうか。その時良い世界をつくりだし、その良い世界が良い自分をつくっているのではないでしょうか。

ほかの人に良いことをすることは、それがそのまま自分に良いことなのです。誰でも人は悪い性格があります。それを役に立てることができます。これを私ができますように。

しかし世にどんなに偽善者が多いことでしょう。少なくても悪い性格の人が悪いままであれば少なくても偽善者ではありません。私は今まで偽善者が世にいるということさえ気がつきませんでした。

たとえ偽善者が良い性格であるように見えても性質は悪いのです。一般的に訳もわからず「人のためにしよう」ということは、それは、また自分のためにしたり他人のためにしたりするでしょう。

よく「情は人の為ならず」などと言われて、その意味が問われたりします。それは偽善であるために偽善の定義を知らないのです。知らないとは言ってもその人は、そのようにしようとしてそのようにあるのです。それは(人に良いことをすることと、自分に良いことをすることの関係に)捕らわれていることです。

それはその関係の中に自分を閉じ込めてしまうことです。それは自己保存です。それは守られていることです。それは真実の中にいないということです。それは決して人の自己がするのではありません。それは物がすることなのです。

理解することは大切です。理解せずに人はそれの他にいるということはまずありません。(欲のない人は生まれつきとか性格ということではありません。欲が何であるか理解していないで、欲の外にいるということはできません)。理解せずに人は偽善的であるか反偽善的であるかではないでしょうか。

理解して人は良いものを成長させる、ということが大切なのです。また、まったくの偽善者が、相手にとって良いことを行うということ、そのことを利用する有り方もあります。人の有り方には関わりなく人は行うことができるのです。

そうしてそこで前提にされている自分の有り方を真実でない、つまり偽善でないと、人も自分も騙そうとすることさえあります。自分の非を認めるということが偽善である場合があります。しかし隠れているもので露にされないものはありません。さて、善も悪もそれだけでは同じ価値です。健康も病気も同じ価値があります。金持も貧乏もおなじ価値があります。


平成2年5月21日


誰でも悪より善、病気より健康、貧乏より金持を望みます。人はどちらからも学ぶことができます。健康で喜びを、病気で忍耐を学ぶでしょう。しかしそういう健康、病気は単なる身体の状態にすぎません。それは何でもないものです。

しかし体力の落ちて来た人とか病気勝ちな人が健康でありたく願うなら、想像の病気の上に想像の健康を立ててしまいます。想像の健康の上に想像の病気を立ててしまいます。そうすると病気と健康は対立するものとなります。たとえば健康は病気に拠り所をもつものとなります。(いわゆる2元論の始まりです)。

こういうものに人は捕らわれてしまいます。想像の基準をつくり想像の関係をつくり、実際にそこにそんな関係があるかのように見なして、それと自分との関係を想像することができるのです。

この関係の前提(条件)になっているものは、身体です。そうして、それが存在するということは丸で余りに当たり前のこととされます。前提(条件)にされることは無条件に存在するものにしょう、という暗黙の思い込みがあるのです。人は身体を自分自身だとは思ってはいません。思わないでもいません。

しかしここでは身体の状態の関係に人は捕らわれているのです。世界の中には色々ありますが、その中の身体という狭い範囲に自分を閉じ込めてしまっているのです。それらに何か自分というものが関わると思ってしまうのです。

人は身体を知らないのです。そうして多分、さらに身体に対するものとして(のこらちがわに)人の自分自身(自己)が前提にされて、存在するものと思わされているのです。

ここに胃が痛い人がいるとします。それは想像の病気だと言えば、そんなことはないと思われるでしょう。けれど想像の病気と身体の状態がたまたま一致しているだけとも考えられます。(時計の音がコチコチ鳴っていると、人は心のなかでコチコチと音を作って聞くのです)。

単なる身体の状態にしか過ぎません。それなのに健康、病気、これらを考えるとどうしても、これらに捕らわれてしまいます。それはそういう働きがあるようです。振り返って見ますと、健康と病気、それらがこのようなことを教えてくれます。

従って、それらは同じ価値があります。片方だけを望むだけでは人として不足です。両方あってもなお不足です。それの仕組みを理解してそれがどのように働くか知ることが必要です。

これは男と女の関係を見ると分かりやすいかも知れません。男が女を見ます。すると身体が見えます。お互いの身体の関係を(想像、あるいは現実に)そこで勝手に作ります。そうして何か自分というものがあるように感じます。その自分はもう身体の関係を前提にしてあります。それは存在するものとして絶対かのように見えます。人はそれに捕らわれているということではないでしょうか。

女の場合は、男が女を欲しがっている、というように見ます。同じことです。ま、そのように理解して人は、それらから離れると言うか、その下にいないと言うか、それは自己ではないと言うか、そんなことを知ります。

そこに自己はいないのですから、そこにこだわる必要はありません。また愚かな人がこだわるのは、そこに自己がないためです。そこに自己がいるに違いないという思い違いを起こさせるからです。

というのもこれは一種の執着であって、いつか完全な健康を手にいれたら、いつか完全な異性を手にしたら、きっと人は自分自身になると思っているのではないでしょうか。それは想像の自己を持っているのです。それはいつかあるかも知れない理想の自分自身を想定して、やっと有りえている自分なのではないでしょうか。

現実がそれを手助けしています。健康や病気、男や女があるということが、それを成り立たせています。(決して自分がそれを成り立たせているのではありません)。理解し人は成長することができます。喜と悪も同じ価値があります。

ふつう人は何となく自分をいい奴だと思っています。こんな場合人は、あんなに悪いことはしない、そんな酷いことはしない、などと考えて自分の例えば努力する所とか、ミスをしない所とかにこだわります。これは自らを義とするということです。

その人が守っている良いところは、ほんとうに世にある良いことの僅か一つ二つに過ぎません。わずかな善にしがみついています。ほかの良いことは無視されているのです。それは、その人が悪を頼りにしている、拠り所を持っている、そういうことです。そのようにして人は自分自身の存在を守ります。

そうしてそれは単に自己保存であることを理解することができます。人はそれらがあるから、それらから離れていることができます。これは善と悪があるから、そういうことができるのです。喜と悪は同じ価値があります。そうでなければどうして同じことが善になったり悪になったりできるでしょう。そこに自己があると思うから人はこだわることができます。

実際には、まだ無いのです。無ではありません。まだ、無いのです。ここで振り返って見ますと、人は一つ二つの善にしがみつきました。同じように人は一つ二つの病気にしがみつくのです。そうすると世界には拠り所があるものが無数にあるような感じがします。花から花に舞い移る蝶のように人も無数の(一つ二つの)ものに拠り所を持ってしまいます。

しかしこのことが逆に言えば物事に飽きるということを起こさせます。一つ二つの物に執着していることに気がつくと、それは一つ二つのものにしか執着していないことが分かります。それは他のものに執着しているのではなく、それに執着していることが分かります。そうすると、それに執着しているということは、ほかの同じようなものには、そうでないのです。物事が、そのように仕組まれてあることが分かります。これはまったく同じことが、そのように働きます。


平成2年6月1日


さて、時計がコチコチ鳴っています。それを聞きます。そうしていてつい考えごとや空想をしてしまったとします。するともう時計の音は鳴っているのでしょうが聞こえません。考えごとや空想を見ているのだとしか思えません。

また気をとりなおして時計の音に注意を向けると、時計は人にコチコチと呼び掛けています。人はコチコチと気持ちのなかで応えます。そして見ると時計は人に2時半だと呼び掛けています。人は2時半と応えます。

これは時計(物)があるということは、物は「わたしはあります」と訴える性質があるものと思われます。人はその物が訴えるままに反応します。人は同じことをイメージの中で繰り返します。物が「わたしはあります」と訴えるので人はそうか「ある」のかと感じるのではないでしょうか。「わたしはあります」と訴えかけられると「そうか、あるのだな」と感じるのではないでしょうか。

もし物と人がそうでなければ人には、その存在が分からないかも知れません。また誰も見聞きしていない時に時計はどうなっているのかといえば、やはり訴え続けているのでしょう。それを壁や床が聞いて見ているのでしょう。

また、コチコチ鳴っている時計の音を人は(ストレートに反応するのではなく)想像して聞いていると見ることもできます。考えごとなどをして聞こえなくなったのは、それは人が時計の音を想像するのを止めたからだと考えることもできます。

ただ、物が「わたしはあります」と訴えたところで人が注意しなければ、それは感じることができません。ということは人も単に受動的であるということにしても、それを注意し選んだのだということです。なにか多少の積極性があるものだと思われます。

これを想像と言えるかどうかは難しいところですが一応、そのように考えることもできます。と言うのも空想している時は、空想しているものを見ているのですから。暗闇で、縄を蛇に見るということはそのようなことが起こっているのだと思われます。

時計がコチコチ鳴っていて、人がコチコチ想像するのではないかということです。暗闇が縄を蛇だと思う時には、まったく蛇に見えているのです。鶏などの鳴き声はテレビなどで聞くとアメリカでも同じですが、アメリカ人は日本人が聞くようには聞きません。

すると現実はそのようにあり、そのように人は想像する場合、間違って想像する場合、あるいは考えごとのように想像のみの場合があります。また現実をあるがままに見るということもあります。

このことをどう考えるか。人が自分というものを自覚するのにはどうしても対象がいります。例えば現実、あると想像したもの、それらが必要なのではないかと思われます。


平成2年6月3日


ここでは自分のことを認識するために、対象が必要であるということとして見てみます。とある出来事があるとします。それによって人は自分の存在を感じるようです。何にしろ何か対象があるということは目撃者がいるということです。その目撃者が自分だと感じます。このことを欲と言います。

そうしてさらにその出来事を、善と見るか悪と見るかという想像が起こったとします。その想像も対象です。そのようにして人は自分の存在を感じます。

物質とは何でしょう。それはたしかに対象になる性質があります。しかし本当に仏陀の言うように互いに依存しているものなのでしょうか。たしかに依存関係はあると思います。しかしそれらは、それ自体として存在していないのでしょうか。

仏陀は「無明によって行あり、行によって識あり、識によって名色あり、名色によって六入あり、六入によって触あり、触によって受あり、受によって愛あり、愛によって取あり、取によって有あり、有によって生あり、生によって老死・憂・悲・苦・悩・絶望がある」と悟りました。

たしかに味は食べることによってあります。そうして味はどのようにしてあるのかといえば分かりません。味そのものがあるとも思えません。しかし今、甘い味を感じているとします。その時たとえば辛いという感覚はどうしているのでしょう。何も味わっていない時に味はどうしているのでしょう。

たとえば善と悪について考えます。その時、好意と憎しみはどうなっているのでしょう。視覚にとって例えば月の裏側はどうなっているのかと思っても、それが有るとか無いとか思うのは馬鹿らしいけれど、宇宙の外はと考えると、それはどうなっているのがという問いは成立します。

するとそれらは有るのでも無いのでもなく、依存関係によって有ると言っていいかも知れません。そうすると世界というのも、味や思考などと同じようなものに見なすことができるかも知れません。感覚によって世界はあるということです。

とは言え、味わっていない味や、思考されていない思考も有るのではないかと思われます。それは感じられてはいないけれど、有るのではないかと考えることはできます。思考や感情なども客観的なものだと思われます。

たとえば北海道に行けば北海道があります。そのように怒るという所に行けば怒りがあり、善と悪の所に行けば善と悪があるというように思うことができます。それらは客観的なものだと考えることができます。

歩いたり電車に乗ったりして人は、例えば富士山を見に行きます。それと同じように感情にも世界があって、怒りの場所に行ったり、悲しみの場所に行ったりしているのかも知れません。

何も味わっていない時の舌、眼を閉じている時の眼もあります。それはその時には働いてはいないでしょうが、あるのではないでしょうか。

ふつう世界というのは確かで客観的な存在と感じられています。感覚などは主観的だとは言われています。客観的だと言うのは、それは人がそれを対象にしているということから起きることかも知れません。


平成2年6月5日


ずいぶん前テレビで、人の眼の中に小さなナイフを入れて、掻き回して治療しているフイルムを流しました。その番組の中で医者?みたいな人が怒りながら「星?を取っている。これじゃ医者なんていらないじゃないか!」と言ったのを覚えています。

どうか分かりませんが、もしなにか世界の仕組みで真理というものがあるとしたら、神なんていらないではありませんか、と考えることもできます。世界の存在の仕組みが人に認識できる形であるとしたら、神なんてどうして人は考えることができることでしょう。

とりあえず一応は理解できないものがあると、人は神秘を感じるのも確かです。幸いなことに宇宙のことなど人には分かってはいません。分からないようにできているとも分かってはいません。とりあえずそれは良いことだと思われます。

(自分に理解できないことがあるのに、神はいないと言える人というのはどういう人なんでしょう。それはもう基本的に倣慢な人だということが分かります。理解できないから神は存在するとは言えないのですが、その辺のことを言っているのならそれは単なる自己保存です)。

でも神は秘密主義だとは思いません。やはり明らかにしてくれると思います。それはともかく人は世界を好きでしょうか、嫌いでしょうか。わたしはあまり好きではないと感じます。これではいけない。神がつくった世界、どのようなことでも好きでありたいと思います。

もし神がいないと思うなら嫌ってもよいでしょう。無神論の人はそのように好き嫌いは自分で決めたいと思っているのだと思います。きっと多くの人は世界を嫌っていると思います。わたしは世界を愛したい。どんなことでも、と思います。だって神が創ったものをどうして愛さないでいられるのでしょう。

しかし、嫌いという気持ちも神が作ったのですから悪いことではないとは思います。そうすると人はここに意味を見つけるのが困難になってしまいます。これで混乱してしまいます。何を信じればよいのでしょう。神の存在まで訳がわからなくなります。これが簡単にそうなります。

世界に善があり、悪があると、金持がいて、貧乏があると、そうするともう人は神を忘れてしまいます。これはそのように創られていると言ってよいでしょう。で、そのようになっている限りは神がそのようにしているとも言えないことはないとは思います。

しかし、もし人が神を嫌っても、だからと言って罰を与えるということはありません。苦難に会わせるというようなこともありません。

アニメの「幻魔大戦」で「信じても信じなくても超能力は存在する」という台詞があります。おなじように誰かが信じるから神は存在するのでもなく存在しないのでもなく、信じないから存在しないわけではなく存在するわけでもないのです。

つまり信じる、信じないには関わりありません。まったく人のこういう考えは関係ありません。そのくらいですから神を信じる人が不幸であり、信じない人が幸福であっても何の不思議もありません。それは関係ないのです。

たとえば不幸な人が「私は神を信じてない、だからこんな不幸な目にあっているのだ」と思う必要はありません。幸福な人が「私は神を信じている、だから幸福になった」などと思う必要はありません。この世界は本当に面白いと思います。

超古代の日記「13」






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