超古代の日記



平成2年8月6日


おまえに世界の半分を与えよう。たとえば自分の心を、しっかりと定め善を求めるがよい。おまえは何か理想を求めて努力するがよい。人に親切にするがよい。親孝行するがよい。神を信じるがよい。そうすれば、おまえに世界の半分を与えよう・・・。

それも良い方の半分を与えよう。悪い半分はお前に必要がない、捨てるのだ・・・。悪魔の契約とはこのようなものです。人はみな喜んで血の署名をしてしまいます。

ところがこれは多く見積っても全然半分でもありません。半分の半分の無限の半分でも得ることができたら儲け物です。しかもそういうことは起きた試しがないでしょう。

どれほど人は自分が狭い領域に閉じ込められているか理解できません。それは居心地が良く、あるいは苦痛に満ちて守られているからです。また逆の半分を得ようとする人がいます。これも同じことで同じように意味がありません。これを知ることは難しいのです。

もしこれから学ぶことなければ、単なる処世術にしか過ぎないものになるでしょう。人はそこに自分自身がいるなどとさえ思ってしまいます。そうしてそこから抜け出すことは本当に難しいのです。これはその仕組みを良く知ることが大切です。世界の半分は残りの半分がなくては有り得ません。互いに互いを支えあっているのです。

しかしそれだけではいけません。罠に捕らえられた動物が知ることができるのは罠です。動物は罠に捕らえられなくては罠を知ることはできません。ただ近くを通り過ぎただけではそれを見ることさえありません。しかし半分と半分の鉄の歯に挟まれたと知ったところで、それから逃れられるという補償はありません。実際の問題は、それから逃れることです。

ところで広島に原爆が落ちて45年になります。この時期になると広島で原水爆禁止、世界平和を訴える人々が風物詩のようにテレビのニースになります。もう戦争は嫌だから止めようね、ということだと普通の日本人は思っています。

それを被害者意識が強いと、見る外国人もいるとのことです。なるほど単に平和運動をするのであれば何も広島でなくてもよいのです。単なる平和運動をすればいいのです。いや全然しなくても良いのです。

それでかどうか知りませんが今年、ある日本人が広島に原爆の落ちたことを謝ったのだそうです。それを見て感動した、これで世界が一つになれる可能性がでてきた、と言う外国人がいたという新聞記事がありました。なるほど、でも同じなのです。おなじ所をぐるぐる回転しているに過ぎません。

バスケットボールで軸足を中心に身体を回転させるのは歩いたことにならないというルールがあります。同じ位置にいながら前の味方コートを向けば平和、後ろの敵コートを向けば戦争、そんな具合です。同じ位置にいるのです。それが罠に捕らえられた人がすることです。

ま、でも全然動かないというわけでもありません。たとえば某国人は日本に対して非常に被害者意識が強いようです。それで何か威張っています。そういうのは加害者である日本を拠り所にして自分の被害者である立場を築いています。自分の意見の根り拠を相手に持っているのです。回転することもできていません。

さあ、どうする?バスケットのたとえで言うと、もうボールを投げてしまえばいいのです。戦争も平和も投げてしまえば良いのです。そうすれば本当の平和が実現するでしょう。しかしこれは難しいのです。

そうしろと言っても、そうできない百万の理由が考えられるでしょう。理由とは、それを投げ捨てることのないように考えつくものです。何か人が反論できない意見や理由を考えついた方が勝、などという馬鹿なことになったりします。

もともとそういうことがおかしなことであるのに気がつかないのでしょうか。頭の体操です。人は平和よりも、その概念を好むと言うことができるかも知れません。それは学ぶこと、そのようなものを発達させることの準備として役に立っているのでしょう。

そうして人がボールを手放したとします。そのためには人が学びきること、そうして成長することが必要条件です。解放感を味わいます。けれどすぐまた誰かがボールを投げて寄越すのです。人は執着を手放すことができます。戦争と平和を手放すことができます。愛と憎しみを手放すことができます。しかし、自分の状態、これを手放すことは難しいのです。


平成2年8月12日


これをもう少し詳しく見てみます。人が戦争と平和の概念を投げ捨てると、平和が訪れます。あたり前ですが、平和でない国でそんなことをすると、戦争に巻き込まれます。たとえば人が貧乏と裕福を投げ捨てたとしてみましょう。

しかしその人が裕福であれば裕福でしょうし、貧乏であれば貧乏でしょう。すると、これは平和がない国の人が平和でないことを現実だと思っているように、経済を現実だと思っているのです。幸運とか不運を投げ捨てた人にとってもやはり運はあるでしょう。

それに人は全く捕らえられる必要はないのだけれど、どうしても、捕らわれてしまいます。「清く正しい人が貧乏なのはなぜなんでしょう」。こんな問題があります。ソロモンは清く正しい人でしたが、裕福であり、このようなことを見て、後の人に問いかけを残しました。


平成2年8月24日


もし人が身体に捕らえられるなら健康と病気があるでしょう。もし人が経済に捕われるなら裕福と貧乏があるでしょう。もし人が身の上に捕われるなら幸運と不運があるでしょう。

これをたとえば健康と病気、裕福と貧乏、幸運と不幸のほうから眺めていると、(多くの人の日常はこのようなものですが)なかなか実体がわかりません。人はなぜか良いものばかりを求めて、悪いものにしがみついているからです。

しかし学ぶならば、その良いものと悪いものがあるということには何か意味がありそうだ、と考えることができます。とはいえこれはかなり複雑であって、それがまた人を虜にするように働きます。それは、このまっただなかで研究すべきことです。

たとえば戦争と平和はともに投げ捨てることによって平和が実現できます。しかしとりあえず平和な日本でこう言っているから理解できるわけで、争いの絶えない国では理解できません。武装解除したら、どこかか攻めてくるというわけです。

しかし全世界の人がそれらを投げ捨てることは可能です。そうすれば平和が訪れます。あまりに単純です。これが実現できないのはなぜなんでしょう。それは投げ捨てることに対する恐怖にすぎないのではないでしょうか。

人は充分に学び進歩しなくてはなりません。(おそらく単に「自然に帰る」などということは学ぶことではありません。ある意味では戦争と平和は、それを乗り越えることによって人の役に立つのです)。

善と悪はどうでしょう。人がそのどちらかに捕らわれているかぎりは、反対のものが常にあります。これらも単に拠り所を求めているだけです。そういうものですが、それはやはり働きとして人の役に立ちます。

たとえば人が自分の悪を許すことができるのは、この仕組みを良く知ることによってなされます。善も悪も人の役に立っていること、そうしてその仕組みを知っているということ、それが人をして自分自身を許すことを可能にします。

悪は人を反省させることだけでも役に立っています。ただ本当は善も悪も、同じく人のためにあるのだと知ることが大切です。そうでなくただ一人で暮らすとか、人に迷惑をかけないことをモットーにするというのでは、折角ある善悪を活用することにはなりません。親孝行と親不幸は同じものです。親孝行で親が喜びます。親不幸で親が泣き叫びます。どちらも同じことです。

裕福と貧乏はどうでしょう。これは人が経済に捕らわれているということです。ふつうは自分が貧乏なのはどうしてだろう?もっとお金が欲しい、といったことで、これを、経済を見ていません。見ていないながらそれに捕らわれているのです。経済というものがあると思う限り、それらはあるのです。

では、それを投げ捨てることができるか?こんな問題があります。たとえばお金持ちが(心の中で)経済を投げ捨てるとします。でもやっぱり裕福です。貧乏な人が(心の中で)経済を投げ捨てるとします。でもやっぱり貧乏な人です。これは現実であって投げ捨てることはできない、こう多くの人は思っています。しかし自分だけよければという経済を全世界の人が投げ捨てたら、どうでしょう。それを何と呼んでもよいのですが、そういうことは可能ではないでしょうか。

そこに自分がいると思う、そういうことを捨てることが人にはできると思います。人はこのようなことを学ぶために毎日うめき苦しみ生活しているのではないでしょうか。

では病気と健康はどうでしょう。人が身体を頼りにしているなら、それらは必ずあります。病気の人が健康と病気を投げ捨てたら、やはり病気です。健康な人が病気と健康を投げ捨てたら、やはり健康です。

とはいえ多くの宗教ではそれも自分の思った通りになると言います。いままで悪いほうの半分にいたのなら良い方の半分に転がってもかまいはしません。ふつうは健康を求めていながらも人は病気にしがみついているものなのですから。

人は思って健康になれるのか金持になれるのか幸運になれるのか善になれるのか平和になれるのか私は知りません。知りませんが、問題はここにあります。なれると思っているからお題目をとなえたり祈ったりしたりする人がいるのではないかとも思います。そうして、結果的にそのようになる人もそうならない人もいるでしょう。

ここで思うのではないでしょうか。これを理解しなければいけない。そうでなければ良くなったといっても意味がないと思うから、思ったようにはならないのかも知れません。

それはそれとして。では経済と運はどう関係があるでしょう。道徳と経済はどう関係があるでしょう。これはこういうことです。人が経済にとらわれるなら裕福も貧乏もある、人が身体に捕らわれるなら健康も病気もある。では、この経済と身体はどう関係があるのでしょう、ということです。

人は道徳に捕らわれるなら善と悪があります。経済と道徳はどう関係があるのでしょう、ということです。これは何も関係がないのだと思います。けれど健康とか貧乏とかのことばかり見ていると、関係がありそうに見えるのです。これがまた人をそれに捕らえるように働きます。「なぜ清く正しい人が不運なことがあるのだろう」というわけです。

これを関係ないと言ったらミもフタもないかも知れません。でもまあ、そういうことにします。そうしておけば、いずれ理解が進むでしょう。

そうして関係がないということは実際にはどういうことかは、まだ知れてはいないのです。すくなくても何か関係があると思うから捕らわれていることができると言えるかも知れません。何か関係かあると思うから、人は貧乏や裕福に捕らわれるのではないでしょうか。

つまり人が貧乏や裕福に捕らわれるというのは、その2つのものの関係だけではなく、それを統合するもの(経済)に拠り所を持ち、さらに別のもの(例えば道徳)の関係もあるのではないかと考えるからかも知れないということです。

ところでこの辺りのことで人はどう思うのだろう。たとえば人は自分がその辺りにいると感じているだろうか。私は自分がそこにはいないと感じます。それが私の苦痛です。そこに自分がいない、これが私を平安にしません。

このようなあれやこれやは、そういった働きがありそうです。健康と病気に捕らわれる自分、裕福と貧乏に捕らわれる自分、善と悪に捕らわれる自分。そういうものが私にはないと感じられるのです。それが私の不幸です。

それに自分が捕らわれることができない、そこに自分がいない。それを知っていることが私の不幸です。あるいは捕らわれているのだけれども、それに価値を認めにくいということです。

そのようにこの辺りは感じるのではないでしょうか。そのようになっているのではないでしょうか。これを理解したいと思います。この世界はこのようなあのようなことでしかできていない、そこに自分はいない。それをどうすればよいだろうか。

私は人から自我の強い人であると見られることがあります。それはかまいません。いくら自我が強くてもかまいません。また弱くてもかまいません。人はそのどちらにもなれるのですし、どうというものでもありません。それにどんなに自我が強くても自分はそこにいないと私は知っているのです。これが私の不満です。

もう少し違う例えをしてみます。偽善と嫉妬は鏡像の関係にあります。偽善とは心の黒い人が形だけ(実は自分の構成要素のために)人のためになることをするということです。嫉妬はその裏返しです。それで偽善者は嫉妬する者なのです。それは不可分です。

これを人は知っておきましょう。ある人が嫉妬することがあるなら、その強さに応じて偽善者なのです。ある人が偽善者なら必ず、どんなに隠していても嫉妬する者なのです。私にはそれを理解したせいか、そういう気持ちがありません。

ともにないのです。もしあってもそれはそこにあるだけで、私に影響をあたえません。私が、自分がいないのを、そこにいないのを知っているのです。これは単に私が消極的な性格だからというわけだろうか、少しは嫉妬するくらいの根性があった方がいいのだろうかとか考えてみました。

しかし、そういうことであってもなくても、私はそこに自分がいないのを知っているのです。それが私の不幸です。ま、ことさらそう感じる必要はないのですが。そういう状態に私がいるということは確かなのです。

ともあれ、このような考えは世界が存在するのかどうかを問うことにもなっています。ところでちょっと思いつき。「神を見たことがないから信じられない」ということについて。そうは言っても見ているものを信じられるとどうして言えるのだろうか。夢を見ることもある幻覚を見ることもある錯覚をもたらす図形もある。見たのにそれは信じることはないであろう。見て信じられないものがあるのに、どうして「見たら信じる」ということが成り立つだろうか。

よ−するに、そう言う人はそれを知らないということしか示していないのです。自分で知りもしない考えを自分の拠り所にしてはいけません。それに信じることと存在することは何も関係ないのです。私は神を信じない、けれど神が存在することを知っています。

また思いつき。この前沖縄の霊能力者とか東北の超能力少女が「東京に地震がある」と予言してテレビなどで話題になりました。みんな楽しみに待っていたのですが、何も起きませんでした。予言できるということは未来が定まっているということです。そうして予言すると未来が変わってしまいます。ここに予言の矛盾があると思います。このようなことを能力者はどう思っているのでしょう。


平成2年8月27日


餌と釣針。ふつう人は人生の一時期にしても、有名になりたいとか思うことがあるでしょう。それは実のところ人に対する信用を得たいと思うことに他なりません。新しいことをするにせよ、直ぐに初対面の人からも手助けを得ることを望むということです。

ところが有名になりたい人は余りこのことに気がつこうとしません。ただ夢のように有名になりたいのです。それは信用という魚を釣る道具なのです。しかも自分で握りしめたその道具を絶対条件だと思っているに過ぎません。

ことさら信用ということは、その反対のものの排除です。この反対のものを人がそのようにして作り上げていると言えないではありません。もし初めから疑うことなければ事態は随分ちがっているでしょう。それでもなお有名になりたいと人が思うのでしょうか。私は知りません。

また、たとえば人は恋をすることがあるでしょう。それは異性を得るための釣り道具であるかも知れません。というのも恋なしにそれを得ることもできるからです。財産の場合も、家柄の場合も、能力の場合も、ま、いろいろあるでしょう。

それは徹底して美しくありません。しかし何かが美しくて何かが美しくないということは変といえば変です。ここでは人がそのような道具を持っているということ、その理解で充分です。その道具を握りしめて使うことも勝手ですし磨きあげるのも勝手ですし手放すことも勝手です。

ただ魚を得ることは決して目的ではないということ、これが大切だと思います。道具を握りしめているからそのように見えるだけではないでしょうか。

それが見掛けの必然性を与えています。手段と目的はこのようなものであって、目的と手段を取り違える、というのが人にとって誤っているのではありません。ここで言う目的とは、ほんとの目的ではないから誤っているのです。

そういうものは例えば金持になる、権力者になる、自己顕示を満足させる、教育するなど、色々なことがあります。そういう形あるものを求めることは原因が結果になり結果が原因になり、そこには迷いしかありません。では目的とは、人が学ぶこと、成長すること、自己になることだと思います。それはあれやこれやの条件によって生じますが、それには関わらないのです。さて、物の存在について。


平成2年8月28日


たとえば感情、喜びと怒りにはどういう関係があるでしょうか。何の関係もないと私は思います。ある出来事に応じて、それを想像し、喜怒哀楽などの感情を引き起こします。けれど喜びと怒りとの間には何の関係もないと思います。

これは一見、奇妙なことです。この関係ないということが何を示しているかと言えば、これが依存関係にあるということではないでしょうか。つまり喜びは怒りによってあるのではなく、思いによってあるということです。

ところで、これがどこからでた考えかというと、経済と身体、身体と道徳、それらが何の関係もないという例えとして思いついたわけです。初めから依存関係について考えたわけではないのです。

それはそれとして。争いと和解によって平和があります。これは確かに人の心が作りだすものです。平和を作りたいという人の心が平和をつくるでしょう。良い思いが善をつくり悪い思いが悪をつくり、善悪が道徳を作っています。

これを見れば人が思ったことが直ちに現実になると言えます。しかし、裕福と貧乏が経済を作りだしています。病気と健康が身体を作りだしています。と言えばなかなか納得できません。それはそれらが現実だと思われているからです。

それは人が貧乏になろうとして貧乏なのではない、裕福になろうとして貧乏になったということがあるからです。しかし思いには両面あることもまた確かなのです。人が裕福を思う時、貧乏もまた思いにあるのです。人が善を思う時、悪も心に思っているのです。

それらによって経済があるのなら、特定のことを望むことは難しい、と言わねばなりません。思いによって実現するといっても実現もまた両面あるのです。

それはそれとして、思いによってなされるということは事実であろうと思われます。あることを願っていた、それが実現されなかった。しかし思いによって実現したのである。なぜなら思いには願いが実現するということと、しないということがあるからである。どちらも思いに違いない。それが現れたのである。こういってはしかし何も言っていることにならないかも知れません。何も言っていることにならないかもしれませんが、そうでもないと思います。


平成2年8月31日


これは現実が依存関係にあるということを分かり難くしている、そのことの理解であると言えると思います。人は自分の思ったことが実現できません。それだから思いによって現実があるのだということを理解できません。

しかし思いには肯定的なものと否定的なものがある、ということは思いによって現実があるということを否めません。思いというものを人の好むものではなく、好まないものを一緒にまとめて考えるなら、それによって現実があると言って言えないことはないということです。

そうして良いもの、あるいは悪いものだけ世界の半分を捕らえている人には、このことが分かり難くなっているということです。

たとえば自分の思いどうりにならず不遇に暮らす人は、思いによって現実があるということを理解し難いということです。(そうして自分の思い通りになり運命から優遇されて暮らす人は、それなりにこの関係を理解しがたいでしょう)。自分の思う通りというのも思いですし、思いの通りでないというのも、思いであると言えるということです。

そうして現実にも肯定的なことと否定的なことがあるのですから、そのことも思いによって現実があるということを示していないとは言えません。

たとえばある人が何か行うとして、良い動機によって良い行いがある場合、良い動機によって悪い行いがある場合、悪い動機によって良い行いがある場合、悪い動機によって悪い行いがある場合がある、このようなことを説明できます。

それは動機(思い)によって現実(行い)があるということです。(良い思い悪い)思いに応じて(良い現実・悪い)現実があるということです。

けれどこのことは冷静に考えなければなりません。まず善と悪について。それは何を、とりあえずは善とか悪とかと思うのでしょうか。

ふつうは善悪の理念があって、それに照らして物事を善、悪と判断するのではありません。あるものごとが有る時、なんとなく、これは善ではないか、悪ではないかと思い、それが人を縛って、その人の思いや行いを決めるというようになっているでしょう。

あるものごとそのものが善、あるいは悪と言うほどに感じられています。思いによって生じたのか、物事によって思いが生じたのかあまり判然とはしません。凄く大雑把にいって、これは物事によって思いがあり、思いによって物事があると言ってよいのではないかと思います。(これは繰り返し検討する必要があります)。

そうしてもう一方には善悪があるとして人がそこから学ぶこと、それを何と呼ぶにしても道徳を身につけるということが人にはできます。これはたとえば善悪が条件に依ってあるのに、道徳はそれに関わらずに成長していくものだという違いがあります。

自由と不自由についても、憎しみと渇愛についても同じことが言えます。(これはたとえば諸行無常などということより大切なことを人は学ぶことができるということでもあります)。

では最も人の思いによってはどうしょうもないと思われることがらについてはどうでしょう。たとえば運命はどうでしょう。それが、まさに思いどおりにならないということは今日、始めに考えたように依存関係にあることを示しています。

では生死はどうでしょうか。これは多分、思いによって現実があり、現実によって生死があるという順番ではないでしょうか。

では思いによって現実があるとしても、それは仏陀の依存関係のどこに相当するのでしょうか。ここは全然わからないので、ここまま進めます。生死があって現実がある。現実があって思いがある。思いがあって成長がある。ずいぶん仏陀の言うものと違います。困った。生死があって現実がある。現実があって感覚がある。感覚があって感情がある。感情があって意識がある。意識があって学ぶことがある。学ぶことがあって成長がある。


平成2年8月31日


さて、自分はどこに?ある時、あることに怒ったとします。しかし、ここで感情は自分ではないと思ったとします。そのようにして対象になるものはみな自分ではないと思ったとします。すると自分はどこにある?ということになります。

しかし、ま、そう思ったのも自分ではないとします。と、自然で良いということになります。なりますが、これは自分でもあり自分でもなく、自分でないわけでもなく自分であるわけでもない、とするとなんでしょう。とは言えまた、自分とは何であるかわからないのに、そう言うことはできないということです。

黄金律「人の望むことを行いなさい」。これは自分のために、自分の望むことを行うということの否定のようです。つまり偽善の否定です。


平成2年11月8日


たとえば「ああ人生は虚しい」と感じて落ち込んだとします。けれど人は虚しいということが何なのかは知らないのです。「ビールは旨い」にしても、「散歩は楽しい」にしても、人はそれが一体どういうことかは知らないのです。

このようなこと全体はどういうことなのでしょう。そう思いますが、思うということも何なのかは知りません。これはとりあえずは、人がそのようなこと、総べてのことに自己同一する必要のないということであるかも知れません。人がそれに頼らずに生きることができるということかも知れません。

自分の知らないものにどうして人は拠り所を持つ必要があるでしょう。しかし、それは理解ということがどういうことか分からないにしても、良く理解していなければ、そのようなことは正当ではありません。

たとえば悪い感情に拠り所を持っている人は、自分を認識するならばそれが捨てやすくあるために悪い感情があることを知ります。そうすると良い感情にも拠り所を持たずにあることができることを理解します。

それははっきりとそれらの仕組みを理解しないでは得ることは有りませんし、そのように仕組まれています。2元論は正しく使用すると役に立ちます。良い感情と悪い感情は互いに依存してあるのです。それは人がそうしているのではなく、それが人にそうしてあげているのです。

このようにして人はとりあえずは自分が何事にも拠り所を持ってないことを知ります。ところが、これが意外かも知れませんが自我の露になった姿です。自分と物事に溝を置くのが自我の助きです。自己同一視しないということは、必ず自己同一視を隠し持っているのです。

それははっきり表れていても正にそうであって中々人は気がつきません。同一視と非同一視は同じことなのですが、表れることによって隠れるのです。

(まだ普通の段階では人は自我を成長させようとする途上にあり、その姿にまでは気が付いていないと言うことはできます。たとえば自我が強い人を嫌うというのは、明らかに自我です。世間に迷惑を掛けずに暮らすというのは、明らかに溝を作ることであって自我の成長段階です。ただ本当に徹底的に全面的にそうすることが必要になります。たとえば有名になりたい、お金持ちになりたいといったことが目的と手段の取り違えと言われるのは、結局、自我をある程度まで成長させることで満足しているからに他なりません)。

ところが何事にも依存しないとするならば、それはその思い自身にも適応すべきことです。このこと、それを自分にも適応しないこと、それが自我の抵抗です。人は、いずれ自我から離れます。

(そうして人は自然な生き方ができます。けれどここで言う自然は生まれたままの自然ということではありません。たしかに何が何だか分からないで生きていくことが人にできるのも、たしかに世界の訳の分からなさに依っています。それは不自然な自然です。自我さえ成長させることができていないと言うことができます。とは言え、これらが違うものであるとは言うことはできません。迷いがそのまま涅槃であると言われます。)

しかし、このようなことは理解なしには起こりません。(なにか苦労をしたからといって、修行をしたからといって、この意味では無駄です)。

さて、そうは言っても良く見て理解するということは至難の技です。良く観察する人ほど、それが理解しがたいことを知っています。どうしても最後の関係が見えないのです。

たとえば簡単に善、悪と言っても、その始原の対立、始まりが見えないのです。たった2人でも真剣にそれについて話し合うとすれば果てしない討論会になることでしょう。

ここで難しい問題の一つとしてソロモン王の問いをあげることができます。彼は「善人で貧しく短命なのを、悪人で裕福で長寿なのを見た」と書きました。

たしかに人は思います。なぜ自分はこんなに神を信じているのに貧しいのか?と思います。こんなに正直なのに運がないのか?と不思議がります。

テレビを見ていて、そんなに可愛くないのに、この娘がタレントなのはどうしてかしら?と娘達は考えます。このことは自分を義とするということです。わずかな良いところにしがみついていることは、多くの悪いことに拠所を持っているということです。

ですが、これではまだ解決ではありません。その思いがあるからです。これが大切です。理解しろ理解しろと、それは人に語りかけます。人は理解したい理解したいと願います。しかし、これは理解できない問いなのではないでしょうか。

これは、はっきり言って、単なる妬みなのです。この妬みが有り得るためにこそ、この理解できない問いは必要なのです。どんなに人は自分が妬んでいるということに気がつかないことでしょう。正しくそれがそこに有るのに気がつかないのです。(たとえば恋の嫉妬は強調されたものですが、それには人は気が付くと思います)。

理解できない問いが妬みのあることを許している(それが自我を育てていた)この理解によって、その間いを解くことができます。理解というものが自分自身に溝をつくりだしていたと言うこともできます。

ソロモン王の問いは妬みです。(ソロモン王自身がそうであったと言っているわけではありません。彼は智恵と富の王でした)。では妬みがない場合、現実は実際はどうなのか。単なる事実があるだけです。事実はクリアーです。

たしかに人は妬みが何であるかは知りません。知りませんが理解することができます。(人が学ぶということは何かを得るということと思われていますが、この妬みのように、理解することによって失うことが多くあります)。

たしかに人は何が何だかわからない世界に生きています。生きるということさえ何であるか知りません。しかしそれがこのような働きをします。知りもしないのに、それを知っていると思っていることが自我を形づくります。そうして、それが解放をもたらします。どうせなら、その行く末を見てみようではありませんか。

もちろん総べてが妬みであるとは言えないでしょう。人には人の問題があります。なぜなんだろう、こう考えることで、その正当性を持っていると思っていながら実は誤っていることがあります。そういう自分の思考からも解放されたいものです。

さて、たとえば人に怨みがあるとします。ある程度の会社のある程度の地位にある人が、いつか見返してやるといった怨みを抱いているとします。しかしその内に定年退職してしまって、怨みを晴らすことができない立場になってしまいました。その怨みは忘れられてしまいました。 しかし燻っています。潜在してあるのです。

それとは逆にある人は怨みそのものを解決することができました。怨みを本当になくしてしまいました。そうすることができたというのは、物事に依っているとはいえません。物事によって、無くすことができたのですが、もう、それには関わりません。物事によらず、その清い有り方があるのです。それが成長したのです。その清さからみれば怨みは、汚さと等価であるように見えるのです。


平成2年11月21日


たとえば「風が気持ち良い」といっても気持ちよいということは何なのかは知らないのです。「神を信じる」と言っても「信じない」と言っても、それが何であるかは知らないのです。「そんな馬鹿な」ということも、それが何であるか知らないのです。

このこと全体はどういうことなのでしょうか。それは全く知らないからこそ人はそれに対して素直になることもできます。まったく放慢になることもできます。無知であることもできます。それが人には何であるか知れません。ですからこそ、それに対して人は勝手な判断をもって、素直な自分、放慢な自分、無知な自分を作ることができます。

けれど、更に人はそれが何であるか知らないのです。このことは端的にいえば「絶対ということは絶対にない」ということです。そうであるから人が勝手に何だかを思うことができて自分の意見とすることができるのです。

しかし少なくても単に人がどうにでも取れるからということで勝手な生き方をするだけではつまりません。訳のわからない世界が人にそうしているに過ぎないからです。この訳の分からないで生きていることを、自我と呼びます。人と意見が異なり衝突してばかりいる人も、おとなしく人に迷惑をかけない人も、ですから自我です。

それでは、まだ人として不足です。しかしここでは選ぶということができます。より正しく生きたい、美しくなりたい、成長したいということを人は選ぶことができます。むろん汚く生きること、退化したいとも選べます。選べますし、同じ価値であるとさえ言えます。

けれど人は自分の声に従います。良い声が聞こえているはずです。たとえば人は死んでしまえば何もない、ならば好き勝手に生きてやろう、こんな意見があります。でも、それだからと言ってそんな結論になる必然はありません。何もない、でも自分は正しく生きよう、成長しよう、このように決意することもできます。選ぶことができます。良い声が聞こえているはずです。

世界は何が何だかわからない、だからこのように言うことができます。何が何だかわからない、だから好きに思うことができるようにプログラムされている、と言うことができます。

無知を選ぶ人には無限の理由があるでしょう。理解を選ぶ人には理由はありません。ただ声を聞くのみです。理解が大切なのもここにあります。ただ選ぶのであれば、どれでも一緒です。そうではなく、良いものを選んだら、もっと、もっと充実したいのです。

そのためには、このことがどうなっているか知りたいのです。その理解がそれを進めてくれます。このわけのわからないということ、その仕組みを知ることが人を進めてくれます。そのようになっているようです。さて、わけの分からないものから人のわけの分からない思い、行いが生じます。それは選んであるのですから、強調されたものです。強調されて人に自覚を促しています。その強調を人は迷いと呼びます。

超古代の日記「14」

・・・とりあえず超古代の日記・完です・・・







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